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7大陸最高峰

七大陸最高峰~マッキンリー~(北アメリカ)

7大陸最高峰

1993/06/17

七大陸最高峰~マッキンリー~(北アメリカ)

 

「野口、お前が単独でマッキンリーに行ったら、死ぬよ。止めとけ」。私が入っていた某山岳会の先輩に言われた言葉である。私は、この瞬間に迷いが吹っ切れた。どこかでマッキンリー単独行は、まだ自分には無理じゃないかという思いがあったし、正直怖かった。植村さんが遭難した山だ。ただ、だからこそ植村さんが単独で登ったあのマッキンリーに私も同じ様に単独で行きたい。迷っていた。

そして山岳会の先輩に相談した。「僕が単独でマッキンリーに行ったらどうなると思います?」。その返事がいとも簡単に「死ぬよ」であった。根拠もなく「死ぬよ」と言われて「ハイ、分かりました。止めます」とはならない。その言葉で私の気持ちは「ならば登頂して生きて帰ってくるぞ」となった。

マッキンリーに毎年のように出かけていく登山家が日本にいる。日本山岳会の理事も務めている大蔵喜福さんである。大蔵さんはマッキンリーの山頂付近に気象観測機を設置し、一年を通して、温度、風速、風向の記録をとっている。ただ、厳冬期に入ると、あまりにも気象条件が悪く、器材が壊れる事がよくあるそうだ。



アタック開始直前。後方にアイスフォールが見える

例えば、風速を調べるプロペラが吹き飛んでしまったり、器材を固定しているワイヤーが切れてしまい、器材が傾いてしまったりする。我々の想像を越える苦労をしながら、マッキンリーの山頂付近にある観測機を訪れ、壊れた部分の修理やデータの回収を行っている。あらゆる条件のマッキンリーの姿を知る登山家である。私は大蔵さんの事務所を訪れ、マッキンリーの資料を沢山借り、マッキンリ一の情報を頭にたたき込んだ。

1993年5月中旬、私は大蔵さんの日本山岳会・マッキンリー気象観測機設置登山隊と共にアラスカ、アンカレッジを目指して日本を離れた。初めてのアラスカ、アラスカと聞くだけで私はロマンを感じる。アンカレッジの空気はカラっとしていて気持ちがいい。夜になっても日が暮れず、とても不思議な感じがした。

数日間、アンカレッジで食料等の買い出しを行い、マッキンリーの玄関口であるタルキートナに車で向かった。途中、車内からマッキンリーの姿が見えた。私の持つ6000メートルクラスの感覚よりも遥かに大きく見え、また堂々としていた。雄大なマッキンリーの姿を眺めながら「やはり俺には、厳しいかな」とつぶやいていた。

タルキートナからはセスナ機に乗り、マッキンリーのBCに続くカヒルトナ氷河まで行く。そのカヒルトナ氷河を約20キロ程行くと、マッキンリーのBCに到着する。そこから1000メートル標高を上げた場所に最終キャンプを張り、山頂へとアタックを行う。この山の特徴は、氷河が巨大であること、北極圏に入るため気象状況が極めて悪い事などがあげられる。毎年のように遭難者を出す。その大半が天候の急変によるものである。そして猛烈な寒さ。私の経験してきたどの山よりも、全ての条件において厳しい環境にある事は百も承知であったが、いざ目前にすると恐怖を感じた。

3日間、タルキートナで足留め状態が続いたが、夕方になってから突然宿に連絡が入り、飛行場に集められた。これから、カヒルトナ氷河に飛びますと説明を受けた。アラスカの夏は大腸が沈まないから時間は関係ないのだ。暑いタルキートナで完全装備に着替え、セスナ機に乗り込んだ。

セスナ機が到着する場所はマイナス1O度前後の世界だ。上空に飛び立ったセスナ機の前方にはマッキンリーが待ち構えていた。緊張感で落ち着かなかったが、もうここまできてしまったら、もうやるしかない。くよくよ考えてもなにも始まらない。

 
 


マッキンリーの山頂直下で。単独行だったが、別の隊に撮ってもらった。

巨大なカヒルトナ氷河を1人黙々と歩くが、あまりにも広すぎるため距離感がつかめない。そして、ヒマラヤと違ってシェルパがいない。60キロ近い装備を1人で運ばなければならない。リュクサックとそりに分けるが、このそりというやつが体にこたえる。腰につけているハーネス(安全ベルト)からロープでそりを引っ張るのだが、普段、腰で荷物を引っ張るという行為を行わないため、すぐに腰痛になった。

また、平らな場所や、登り坂はまだいいが、これが下り坂になると、もう大変だ。後ろからそりが私目掛けて突っ込んでくる。クレバス落下防止のため、スキーを履いているから、踏ん張れずに横転してしまう。スキー板を履きながら転ぶと、立ち上がるのにどれだけエネルギーを浪費することか。私は、この慣れない歩き方に必死だった。なにしろ私はスキーを履いたことすらほとんどなかったのだ。

そして、このマッキンリーではクレバス落下防止のためにもう1つ工夫をしている。単独で氷河を移動する時は、常にクレバス落下の危険性にさらされる。ただ、幅2メートル以上の大きなクレバスに関しては、発見しやすいのでさほど危険ではないが、問題なのは1~2メートルの小さなクレパスである。

風が強いこの山ではいとも簡単に雪がクレバスを覆ってしまう。つまり、目に見えない落とし穴が出来てしまうのだ。このような雪に覆われて隠されたクレバスの事を「ヒドンクレバス」と呼ぶ。そのヒドンクレバスがこのカヒルトナ氷河には無数にある。単独ではザイルを結び会うパートナーがいない。そこで腰のハーネスに2メートル程の竹竿をくくり付け、ヒドンクレバスに落下するのを防ぐのである。竹竿がクレバスの縁にひっかかり、落下を阻止するという原理である。植村さんが単独登頂した際、考えた方法である。この植村流を、私も使うことした。

慣れないスキーにそり、そして2メートルの竹竿、60キロの重たい荷物、そして単独という孤独感、どれもこれも私には必死であった。大蔵隊のスピードにはついて行けずマイペースで行動していた。カヒルトナ氷河は谷底にあるため、1度霧が沸くとしばらく視界がなくなる。ひどくなると、自分の足すら見えなくなる。

歩き始めて3日目、私は1人黙々と霧に覆われた氷河の中を歩いていた。大蔵隊に遅れをとったという焦りもあった。単独登山といいながら、心のどこかで大蔵隊をあてにしていた。近くにいれば安心する。その日は足先や手を伸ばすと、もう見えなくなるぐらい濃い霧だった。方向もコンパス以外に頼るものがない。風もなく何一つ音も聞こえない。聞こえるのは自分の荒い呼吸音と、引っ張られるそりの音ぐらいだ。

どれだけ歩いたのだろうか。突然「ストン」と体が軽くなった。しかし、なにがおきたのか良く分からなかった。あれっと思ったら、両足が空中にプランプランしていた。その次の瞬間、腰の竹竿がギシギシと音をたてて軋みだした。ああ神様、なんてことだ!私はクレバスに落ちたのだ。

それから先の事は記憶にない。恐らくピッケルを反対側に引っ掛けて這い上がったのだろう。気が付いたらヒドンクレバスの横であ然としてしゃがみ込んでいた。なんで助かったんだ。いや、なんで落ちたんだ。頭の中がパニックになっていた。前日、そりが後ろから突っ込んできて、転んだ際にストックを折ってしまい、スキーを諦め途中で置いてきてしまったのだ。それがヒドンクレバス落下の原因だった。

30分程、私はそのヒドンクレバスの横でしゃがみ込んだままだった。山で初めて死の恐怖に襲われた。死の世界があまりにも近く感じられ、恐怖に震えた。しかし、同時に今自分が生きていられることの幸運を感じられずにはいられなかった。

自分には運がある!よし、必ず登頂して生きて日本に帰ってやる。出発前に山岳会の先輩が言った「お前が単独でマッキンリーに行ったら死ぬぞ」という言葉を思い出した。冗談じゃない。「俺はやるぞ」と、ヒドンクレバス落下が逆に私の心にムチを入れた。

 
 


マッキンリー頂上にて。「単独では技術的には無理」と周囲から言われたが、植村直己さんが単独で登っただけに、こだわって登った

2日後、4300メートルのBCにいる大蔵隊と合流した。この2日間は、ドカ雪や地吹雪に襲われた。北極圏とあって地吹雪になると、たちまち体が凍り付くほど寒い。慌ててなんとかテントを張り、しばらく吹雪が収まるのを待つ。収まるとテントを畳み出発、しばらくするとまた、地吹雪が前触れもなく始まる。慌ててテントを張る。それの繰り返しである。

地吹雪の中、テントで1人サラミをかじりながら、弱気になったらいけないと大声で歌った。音痴だが、誰かが聞いているわけじゃないし、この際、そんな悠長な事も言ってられない。歌はいつも決まって「上を向いて歩こう」だ。この坂本九の歌は元気が出る。辛い挑戦だが、真剣勝負をしているなと、どこかでワクワクしている自分を感じていた。

大蔵さんは遅れていた私を心配してくれていた。大蔵さんが「ケン、遅かったな」と話し掛けてくれた時は、思わず涙が出そうになった。BCからは大蔵隊と共に行動することにした。

1日休み、それから最終キャンプに向かった。もう、うっとうしいそりはない。大蔵隊にも十分に付いて行ける。BCからはウェストバットレスヘの高度差600メートルの急な雪面をひたすら登る。4時間でこのウェストバットレスという岩と雪のヤセ尾根に出た。ここからは慎重に一歩一歩進み、BCから6時間で5200メートルの最終キャンプに到着した。

テントが20張り程、既に張ってあった。私はテントを張ろうとして、すぐ横のテントに「横にテント張っていいですか」と、英語で声をかけた。するとテントの中から東洋系の顔をした人が出てきて「いいよ」と、日本語で返事が返ってきた。あれっ、と思ってよく顔を見ると、なんと小西政継さんであった。

 
 


マッキンリー山頂で、同じく単独登頂だった小西政継さん(右)と

山に登る人で、小西政継さんの名を知らない人はいないだろう。ユーロッパの3大北壁(グランドジョラス・アイガー・マッターホルン)の、日本人冬季初登頂者である。山岳同志会という戦闘的集団を作り上げ、日本の山岳関係者の頂点に君臨していた人だ。また、世界的にも無敵の記録を作り上げていた。その小西さんが目の前にいる。私はカチンコチンに緊張し、とにかく「申し訳ないです。あの、横にテントを張ってもよろしいでしょうか。あの、本当に申し訳ないです」と、謝る事ではないのに、なぜかしきりに頭を下げていた。テントに入ってからもなぜか落ち着かない。

小西さんは植村直己さんとパートナーを組み、冬のグランドジョラス北壁に登った人だ。そして岩登りの苦手な植村さんに岩登りの特訓をした人だ。植村さんの本の中にも沢山登場してくるからよく知っていた。

最終キャンプはまた地吹雪に包まれた。気が付くと、テントの半分が雪に埋もれてしまい、押しつぷされそうになっている。スコップを持ってテントの外に出て、地吹雪のなか極寒で体が硬直しながらの雪かきは地獄であった。テントに戻り、全身が凍り付きプルプル震えていると、小西さんが口笛を吹きながら私のテントに来た。手にはコーヒを持っている。

「野口君、コーヒー飲む?」と、まるで日本のキャンプ場にでもいるかのように、快適そうな顔をしている。吹雪の中だから髪の毛は凍っているが、なんとも感じないのだろうか。私はここにいるだけで精一杯なのに...。コーヒーが大嫌いな私も、この時ばかりは一滴残らず頂いた。コーヒーを飲みながら小西さんが「植村はこういう極地の山が好きだったな」とつぶやいた。植村さんが眠るこの山に、何を感じているのだろうか。「野口君、一人なら一緒に頂上に行こうよ」「はい、よろしくお願いします」。こう返事をするのが精一杯だった。

翌朝4時、山頂アタックを開始した。ただ、風が強く決して天候は良くない。小西さんが先行し、私は大蔵隊のメンバーの後に続いた。北峰と南峰の鞍部デナリーパス(5560メートル)を越えたあたりから、地吹雪が始まり、途端に視界がなくなる。しかも猛烈な寒さで思考回路までが鈍くなる。

この日の登頂を諦め最終キャンプヘと下り始めたが、あまりにも風が強く歩く事さえなかなかできない。ガリンガリンに凍った斜面を、斜めにトラバースしながら下りるのだが、ふと下を見たら大きなクレバスが口を開いている。ここでスリップしたら、ハイさよならだ。植村さんもこのあたりで遭難したといわれている。

いつしか、大蔵隊のメンバーが視界から消えていた。先に下りてしまったのだ。私は1人、この凍りついた斜面にしがみついていた。怖くて動けない。寒さで手の感覚が無くなっていく。やばい、これはかなりやぱい。と、その時、霧の中から1つ影が現れた。先行していた小西さんが下りてきたのだ。

「いやー野口君、今日はダメダメ、また明日だね」と、またまた余裕たっぷりである。私が動けないのを知ると「野口君、こういう時はね、ピッケルの角度をもっとこうするといいよ」といって、ピッケルをさらに傾け、そして目の前をいとも簡単に通過していった。そのとたんに私の体のカも抜け、そのままスタスタと下りることができてしまった。自分でも驚いた。あれだけ恐怖で固くなっていたのに、小西さんの一声で楽に歩けてしまったのだ。やはり小西さんはただ者ではなかった。

最終キャンプに戻った時には強風も収まっていたが、寒さでほとんど寝れずに翌日を迎えた。6月17日、天候は久々に良い。よし!今度こそ登頂するぞ、と午前5時、最終キャンプを後にした。そして6時間後、私は小西さん、そして大蔵隊と共に憧れのマッキンリーの頂きに立った。辛い挑戦であったが、自分は常に生き生きしていた。生きていること全身で感じた。「お前は死ぬ」と言われながらも、無事に登頂し、生きて帰ってきた。下山後、私の頭の中は既に南極の事でいっぱいであつた。

マッキンリーをやれたんだ。南極もやれる。信念さえあれば、不可能な事はない。本気でそう思った。1つの夢の終りが、新たな夢を生み出す。私は幸せの絶頂の中にいた。

 

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