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7大陸最高峰

七大陸最高峰~エベレスト~(アジア)

7大陸最高峰

1999/05/09

七大陸最高峰~エベレスト~(アジア)

 

◇アタック開始(BCからC1)

ついにこの日がきた。9日、午前5時半に目が覚めると、昨日から続いていた雪がやんでいた。BC(ベースキャンプ)を離れて山頂アタック開始の時がやってきた。

いつもそうだがアタックのためBCを離れる時は、実に落ち着かないものだ。一回目の97年、二回目の98年の時もそうだった。今回も、なんとも言えない緊張感に襲われた。またここに帰ってくることができるのかと、ついつい余計な事を考えてしまう。しかも、今回は以前より緊張の度合いが違っていた。緊張のため、思わず吐きそうになった。



C1に向かう途中のアイスフォールで突然ルート上の氷柱が倒れ、雪煙が上がった

午前7時、ネパール人スタッフと共にBCを後にした。吐きそうになったせいか、アイスフォールのルート上で突然腹痛に襲われ、冷や汗が出た。

さらに悪いことに、再び雪が降り始めた。アタック開始初日から悪条件が重なってしまい、これまで3時間半で到着していたC1(第一キャンプ)へも5時間もかかってしまった。BCにとりあえずC1入りした事を無線機で報告したが、電波の状態は良くない。

私の体調はやはり良くない。このまま予定通り今日の目的地、C2(第二キャンプ)に向かうか、予定を変更してC1で泊まるか迷ったが、とりあえず調子をみながらC2へと向うことにした。しかし、体調は回復しない。30分後にこの日のC2入りをあきらめ、C1に引き返した。



C1から見たアイスフォール。まさに氷河が流れ落ちる風景だ。

「ここで無理はしたくない」。私はそう思った。だが、「登頂予定日がずれる」とサーダー(シェルパ頭)は引き返すのに反対した。登頂予定日の12日は、天気予報によれば無風、晴天という。総勢約40人のクライマー、シェルパが山頂を目指す予定だ。サーダーはその日に合わせて山頂アタックをかけたいと訴えた。「そのほうが安全だ」と。

だが、私は彼の訴えが集団心理としか思えなかった。大勢の人が山頂に目指すからと言って、それが安全に繋がるとは思えない。実際、96年5月10日は多くの人が山頂を目指し、登頂に成功した。しかし、下山中に天候が悪化し著名なクライマーを含む十数人が命を落とした。

加えて、私は山岳地域の天気予報を必ずしも信じていない。二度目のエベレスト挑戦となった98年10月15日、天気予報によればあと5日間は晴天が続くはずだった。だが、天候は人間の予測通りにはならなかった。私は8350メートル付近で悪天候のためなす術もなく、撤退するしかなかった。それ以来、天気予報は信じないことにしている。

サーダーには多くを説明せず、「私が納得した時点で山頂を目指す」とだけ伝え、C1へと下りた。途中、C2から下りて来た、登山家の小西浩文さんに出会った。C2の天候も決して良くないという。

「やれやれ」

ため息しか出なかった。

 
◇自然の脅威(C1からC2)



C2直前で撮影。顔に塗った日焼け止めがムラになった。


C2から見上げたローツェフェイス。約1300メートルの氷の壁だ。

翌10日、午前5時に目を覚ますと、パラパラとテントをうつ雪の音が聞こえた。テントのジッパーを開けると、キャンプ周辺はすっかり雪が積もっていた。だが、体調はいい。昨日、悩まされた腹痛がすっかりなくなっていた。「よし!」。午前6時半にC1を出発した。

6000メートルという高度を越えると、空気が薄くなり、人間の体は実にもろい。「何かの拍子で体調が崩れることは当たり前だ」。うそのように回復した自分を、そう納得させながら雪と氷を踏みしめて進んだ。

だが、そんな思いは突然吹き飛ばされた。右手にそびえるヌプツェ山の方面から雪崩れが発生したのだ。流れはこちらに向かい、みるみるうちに押し寄せてきた。

空気を震わせて流れ落ちてくる雪。自然の前に人間はなすすべはない。だが、その流れは我々の50メートルほど手前で止まった。雪煙で一瞬、視界が全くきかなくなった。幸運にも、乾燥した、さらさらとした雪だった。もし、べちょべちょの湿った雪だったら、その重さで我々の所まできていたかもしれなかった。

雪崩以外に、大きな問題もなく、2時間半後の午前9時にはC2に到着してしまった。前日の遅れを取り戻すため、そのままC3(第三キャンプ)へ向かう事も考えたが、ここは我慢することに決めた。疲れてしまっては、アタックに差し支える。12日に山頂アタックしなければチャンスがない訳ではない。「私には私のタイミングがある」。自分に言い聞かせた。

 
 
◇灼熱の氷河(C2からC3)



C3まであと一息。氷壁でロープにつかまりながら撮影した。


BC方向を振り返る。遠くにチョー・オユー(左)が見えた。

11日午前6時30分に起床。8時半にC2を出発した。テントから出ると、雲1つなく、無風で、ドッピーカン。ここ何日も雪の音で目を覚ましていたような気がする。こういう天気を待っていたのだ。いくら天候が良くても、風が強かったらだめなのだ。

ところが、出発して1時間もすると、猛烈に暑くなってきた。氷河の中といっても、無風快晴となると、日光の照り返しが皮膚をじりじりと焼き尽くす。唇もがさがさになる。雪と氷の壁は、隠れるところがない。呼吸するのも辛くなる。

しばらくすると、今度は、ガスが湧いてきた。無風のため、もんもんと立ち込めたままのガスの中で、灼熱地獄が我々を待っていた。風さえ吹けば一気に涼しくなるのに空気は全く動かない。私と、サーダーのニマ・オンチュウはヒイヒイ言いながら歩いた。

前回高度順化のためにC3に来た時は、約3時間半で到着した。体力的にも非常に楽で「もう着いたの?」という感じだったが、今日は冗談ではない。4時間で到着したが、まるで5時間以上歩いたような精神的、肉体的な疲労だった。C3に到着したとたん、そのままぶっ倒れる様にテントに入った。


BC方向を振り返る。遠くにチョー・オユー(左)が見えた。
BCマネージャーの西尾まりさんに、今日一日の事を愚痴っぽく話した。すると、BCにいた登山家の小西浩文さんに「みんなも暑いんだ」とたしなめられた。確かにその通りだ。思い通りに事が運ばないと、私はすぐ愚痴っぽくなる。高度7300メートルでの反省。

昨夜も無線の交信で、天候についてあれこれ悩みをぶつけたら、小西さんに「オーバーシンキングするな(考えすぎるな)」とアドバイスをもらった。小西さんは、無酸素で世界の8000メートル峰すべてに登るというスケールの大きい挑戦をしている。豊富な経験に基づくアドバイスを聞いたら、気持ちがすっと楽になった。

どんなに力んだ所で、昨年のようにアタック時に突然天気が荒れてしまえば、人間なんてカスみたいなものだ。何も出来ない無力な存在に過ぎない。山の機嫌の良いときに、辛うじて登らせてもらっているに過ぎないのだ。今私は自然の中に身を任せていればそれでいいのだと思った。

 
 
◇「死の匂い」サウスコル(C3~C4)



C3とC4の中間から見たエベレスト南峰。強風で雪煙を上げている。この日、頂上にアタックした多くの隊が登頂に失敗した。


C4手前からローツェフェイス最後の上りを振り返る


C4に散乱するごみ。風の通り道のため、小さなごみは吹き飛ばされ、残っているのは酸素ボンベが多い。

昨晩から酸素ボンベを使って寝た。

このC3は氷の斜面を削り、テントを強引にくくりつけている。したがって、トイレをする時は実に厄介である。テントの前に固定ロープを張り、そのロープに体を固定し、ぶら下がるようにして用を足す。特に大便は命懸けである。下痢だけはなにがなんでも避けたい状況だ。

12日7時半、C3を出発した。出発直後、まず数百メートルの氷壁を真っ直ぐ登る。アイゼンの爪をきかせながら一歩一歩慎重に進んだ。筋肉が悲鳴を上げ、ふくらはぎがパンパンにはる。この氷壁はローツェフェースと呼ばれ、雪崩による事故が多い。96年秋に、親しいシェルパをここで失った。私はそのニュースを、他の8000メートル峰に挑戦している最中にラジオで聞いた。ショックは大きかった。

昨年秋、私がサガルマータ挑戦中にもやはり雪崩が発生し、私のC3のテントがつぶされた。その現場に居合わせなかったのが、唯一の救いだった。積雪量が多かった昨年は、ナイフを手に巻き付けたまま寝た。睡眠中、雪崩に襲われたときテントから脱出するためである。恐怖でほとんど寝ることができなかった。

この恐怖の氷壁を約6時間で横断し終わり、サウスコルの最終キャンプ(C4)に午後2時ごろ到着した。エドモンド・ヒラリー卿が「死の匂いがする」と表現した場所である。ガランとして広い。昨年秋は、一面雪に覆われ銀世界だったが、今年は雪はほとんど無く、地面が露出していた。そこで見たものは......ゴミ、ゴミ、ゴミ。いたる所に酸素ボンベや、テントの残骸、ガスボンベ、ロープなどが散乱していた。

話では聞いていたが、ここまで汚いとは。我々のテント裏には、いつの時代のものか分からない遺体まで横たわっている。「死」と「生」が入り混じっているサウスコル。酸素ボンベを吸っていてもどことなく息苦しい。7時間後にはここからさらに上部を目指す。頂上、世界最高地点へと向かうのだ。



日没の風景は非常に美しかった

テントの中で仮眠をとろうと必死に努力したが、緊張のためか、まったく眠ることができなかった。午後3時になって、頂上にアタックした隊が続々と降りてきた。大半が強風のため、登頂を諦めた。「散々な結果だった」と彼らは話した。腹痛のため、アタックの予定が一日遅れたのが幸いしたのだろうか。

荘厳な夕暮れを見ながら午後6時、夕食を作るがほとんどのどを通らなかった。水分だけをこまめに摂る。ついつい余計なことを考えてしまう。

昨年の10月15日、私はここにいたのだ。天候は素晴らしく良かった。登頂できると信じていたし、自分自身の体力にも自信を持っていた。山頂に立った自分をイメージしながらアタックを開始したが、突然前触れもなく、無情な猛吹雪に襲われた。私の体調は完壁だった。だが、自然には逆らえない。冒険をする我々が破ってはならない最低限の掟である。

しかし、そうは分かっていても、山頂を目前に背を向け、下るのは辛かった。今でも、あの時の自分の姿が脳裏に焼き付いている。テントの中で目をつぶると、その光景が鮮明に浮かびあがってくる。

BCに無線連絡を入れて、気を紛らわそうとした。小西さんに「天候はどうなりますか?」としきりに聞く自分がそこにいた。小西さんの返事は決まっていて「オーバシンキングをするな」「大丈夫だから、自分を信じろ」であった。返事の内容は予測できたが、それでも同じ質問を繰り返した。小西さんの声を聞いていると、安心できだからだろう。偉大な登山家のアドバイスだからである。

 
 
◇世界最高点へ(C4から頂上)



エベレスト南峰から、見た山頂。最後の難関、ヒラリーステップが目前に迫る。

頂上に向けてスタートする午後10時になった。真っ暗で月はない。ただ、空一面の星空が、晴天でること教えてくれた。しかも無風だ。

「これからアタック開始します」。BCに連絡を入れ、出発した。真っ暗な死の世界にヘッドランプの光のみで飛び込んでいかなければならない。野口隊、英国隊、ノルウェー隊の合計約20人が、ほぼ同時にアタックを開始した。暗闇のなかで動き回るヘッドランプの光が蛍を思わせた。酸素ボンベを毎分3リットルにセットし、ゆっくりと歩く。

視界はヘッドランプのごくわずかな光の輪のみ。馬の鼻のようなマスクを口に付けているため足元が見えない。また、ゴーグルを着用しているので両サイドも視界が限られる。風がないといえども8000メートルとなれば、寒さで肌が刺すように痛む。皆、酸素マスクを付けているので会話もない。ザクッ、ザクッとアイゼンが氷の斜面を踏み付ける音のみが響く。

なんともいえない孤独感。氷山が浮かぶ闇の北極海に1人沈んでいくような気持ちになった。ふと、映画でみた「タイタニック」が頭をよぎった。ばたばたと、凍り付く闇の海に放り出された人々の気持ちが、少し分かったような気がした。太陽がでるまでは我慢するしかない。黙々と歩くだけだ。なにも考えないように努力することにした。

出発して3時間以上たっただろうか。ヘッドランプの薄暗い光の中に、アイゼンを付けた人の足が浮かび上がった。誰か倒れてしまったのだろうか。目を凝らしてみると、胴体は雪に埋まっていた。足のみが露出している。遭難した人の遺体だった。

午前6時ごろ、待ちに待った太陽の光が出てきた。8時間暗闇の中を歩いてきたのだ。目の前にエベレストの南峰(8763メートル)がドーン、と現れた。ところが、雲の流れが早い。風も強くなってきた。慌てた。ここまできて撤退はしたくない。もう撤退する事など考えず、頂上を目指そう。

南峰直前からは、膝下まで雪に潜るラッセルが始まった。間欠的に睡魔に襲われ、意識が途切れそうになる。恐らく酸欠の影響だろう。また、一睡もせず、アタックを開始したから疲れが出てきたのかもしれない。私の前を歩いているシェルパの姿がダブって見える。目をつぶるとそのまま倒れ込みそうだ。

雪を手にとり顔面に擦りつける。そして、唇や舌を噛む。それでもダメならピッケルで額を叩いた。これはさすがに痛かった。その繰り返しで登り続ける。休むとそのまま寝てしまいそうだから、疲れていても休めない。やっとの思いで南峰にたどり着いた。ここで倒れ込むように、初めて座り込んだ。

前を見ると世界最高地点が飛び込んできた。時間を確認する為、時計を見る。針は午前7時15分を指している。もうとっくに午前10時を回っていると思い込んでいたのでビックリした。暗闇の中を永遠と歩いてきたからか、実際にかかっている時間よりも永く感じていたのだ。シェルパたちにも時間を告げると、彼等も驚いた表情を見せた。



ヒラリーステップを越える


ヒラリーステップを抜け頂上直下に迫る。登頂を確信した。

ここから世界最高地点まで、ヒラリーステップと呼ばれる急峻な岩稜を歩かなければならない。頂上を目指すこのルート上で、最も危険な場所である。固定ロープは張ってあるが、風雪にさらされ、今にも切れそうなものばかり。滑る事は許されない。落ちれば、そのまま2000メートル下まで一直線。木っ端みじんになる。慎重に、細心の注意をして歩いた。

目の前の頂を登り詰めた。「登頂した!」と思ったら、その向こうにさらに高いピークが顔を見せた。いわゆる「ニセピーク」だった。こんなことを3回ほど繰り返した。

しかし、ついに頂上の直下にたどり着いた。今度こそ間違いない。登頂を確信した。

1999年5月13日9時30分、世界最高峰に登頂した。山頂では約10人のクライマーが万歳をしていた。3畳ほどしかない狭い山頂になんとかスペースを確保して体をもぐり込ませ、ザックを下ろした。

無線機を取り出し、BCに連絡を入れた。交信できるか心配だったが、BCマネージャの西尾さんの声がすぐに飛び込んできた。彼女の声の後ろからは、皆の喜びの声が聞こえてきた。



頂上での記念撮影。3回目の挑戦は快晴に恵まれた。

「自分がやったんだ。これでやっと堂々と日本に帰れる」

もうろうとした意識の中で、この時初めて実感がわいてきた。登山を始めて10年。エベレストには、このうち2年を費やした。「あー、長かった」と、しみじみと思った。

私を頂上へと導いてくれたシェルパ違と喜びを分かち合い、30分後の午前10時、下山を開始した。ガスが発生し、天候が刻々と悪化していくのが分かった。BCからもしきりに「はやく降りて下さい」と連絡が入った。

サウスコルから頂上まで11時間30分かかった。その事が頭を横切った時、とてつもなく遠くまで来てしまったというにようやく気が付いた。ここで天候が悪化すれば、私は帰れない。もう気持ちの迷いもない。黙々と足を動かし下り続けた。

午前11時、振り返ると山頂はもう雲に包まれ、見えなかった。天候が悪化しているのは、誰が見ても間違えようがなかった。

しかし、肉体の疲労は極限に達していた。最終アタックを開始してから、ほとんど何も食べていない。風と雪が吹き付ける中、へとへとになりながら午後2時半、ようやくサウスコルに到着した。

下山中に遭難した例はエベレストでは数多くある。無事であることをBCに伝えなければ、と思っていたが、テントに入ると同時に寝てしまった。BCではいつまでたっても私からの無線が入らないため、心配していたらしい。午後4時過ぎになって、連絡を入れていないことに気がついたシェルパが、BCに無事である事を伝えてくれた。

 
 
◇「終わったんだ」(C4からBC)



BCに無事戻り、日本に成功を知らせた。

翌14日朝も、テントは狂ったような強風にさらされバタバタ音をたてていた。午前5時に起きたが、全身疲れている。なんとかテントからでて午前7時半、C2に向かった。登りの時とは打って変わって寒い。ガスに覆われ、山頂どころか南峰すら見えない。

もし今日が山頂アタックの日だったら、間違いなく登頂は失敗に終わったに違いない。猛吹雪の中、疲労でフラフラになりながら、氷の斜面を固定ロープにぶらさがるようにして下った。途中、強風に押されてバランスを崩し、スリップした。あっという間に20メートルほど滑落したが、下にいたシェルパが飛びついて辛うじて止めてくれた。彼がいなければ、人生に終止符を打っていたかもしれなかった。

昼過ぎ、C2にたどり着き、そのまま、テントでぶったおれた。

15日も、朝から狂ったような風が吹いた。サガルマータは、何をそこまで怒っているのだろうか。

午前7時に下り始め、午後2時、BCに到着した。

終わった。死なずにすんだ。

皆に歓迎され、初めて「ああ終わったんだ」と、ホッとした。

 

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