2000年1月アーカイブ

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そしてもう1つ、私には大きな目標があります。シェルパ基金設立ですが、95年11月10日にネパール・クーンブ地方にて大雪崩による事故が発生しました。日本人13名、ネパール人12名の計25名が亡くなりました。その中に私が弟のように接していたナティー・シェルパー(当時18歳)が含まれていました。日本人の遭難者が多数含まれていたため、日本でも連日報道されました。しかし、テレビやどの新聞を探してもシェルパ族の遭難に関してはほとんど触れられていませんでした。私がナティーの遭難を知ったはナティーの兄デェンディーから「ナティーが日本隊にポーターとして参加し雪崩に巻き込まれ死にました」との連絡を頂いたからです。慌てて事故発生から数日後、ネパールヘと向かった機内では日本人遺族と報道陣で一杯でした。

 しかし、日本の報道陣は日本人遺族を取材してさっさと帰国してしましました。日本人トレッカーに雇われ、そして死んでいった地元の人々のことはNHKの取材班が辛うじて取り上げていました。しかし、私は納得いくはずもなく、自分が持っていたビデオカメラでナティーの遺体発見から葬儀にいたるまで一部始終を記録しました。親友の亡骸や、泣き叫ぶ遺族にカメラを向けるのはなんとも苦痛でした。中には私がカメラを向けることに違和感を感じていたシェルパの方もいましたが、それでも兄のデェンディーに「日本ではシェルパ族の死は誰も知らない。僕が記録して事実を多くの人に知ってほしい。デェンディーがどうしても嫌なら撮らないけれど、どうかな」「いや、ケンがそうしたいならいいよ。信用しているから」というデェンディーの理解があったからこそカメラを回し続けられたのです。

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7大陸最高峰登頂後、私の次なる目標は世界最高峰の清掃活動とシェルパ基金設立です。まずは何故、清掃活動へと目標が定まったかと申しますと、97年、98年、99年とチベット側、ネパール側と世界最高峰に挑戦しましたが、過去の登山隊が残した残留物が至る所に散乱していました。ゴミが多いという情報は把握していましたが、予想以上のゴミの多さにあ然としました。そして、そのゴミの中には日本隊のゴミが多分に含まれていました。(日本製の食料品の残飯、医薬品、登山装備など)。国際隊に参加していた私には、他国の登山家から日本隊のマナーの悪さを指摘されました。98年には反対側のネパールから世界最高峰に挑戦しましたが、やはり日本隊の残留物を発見し、その一部を回収しました。日本隊以外にもゴミが目立ったのは韓国隊、中国隊、インドネシア隊、ロシア隊等ですが、これらを見てみてもアジアの国々の登山隊のモラルの低さを感じます。欧米諸国の登山家から日本隊について「日本の経済は一流だが、文化、マナーは二流だ」と厳しくお叱りを受けました。これにはショックを受けました。恥ずかしいやら、情けないやら、日本隊のゴミの前には反論さえ出来ないのです。

 この情けない体験からチョモランマ清掃登山隊を組織し、2000年3月~5月下旬にBC(5200m)~最終キャンプ(8300m)間の清掃活動を行うこととなりました。以前から日本の山岳関係者の中からチョモランマ・サガルマータのゴミ問題を指摘する声はありましたが、実際に清掃登山隊として直接的な行動を行うのは初めてです。私が思うに、ゴミの量からして1回の清掃活動では到底清掃しきれる規摸ではありません。計画では2000年から2005年の間に毎年清掃隊を現地に派遣し、世界最高峰をチベット側、そしてネパール側からゴミの回収を行います。そしていずれはチョモランマ清掃活動も日本国内グループの活動のみに収まらず、チョモランマを汚してきた他のアジア諸国からも、チョモランマ清掃活動に参加して頂けるよう我々がその環境作りを行いたいと思います。今年2月上旬に韓国を訪れますが、私は日本、韓国、中国の合同チョモランマ清掃登山隊結成に意欲をもっております。

 まずは韓国でチョモランマの環境破壊の現状を声を大にして訴えます。チョモランマは世界最高峰であると同時にアジア大陸最高峰でもあるのです。アジア人の手によって元の美しいチョモランマの姿に戻したいと願います。


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サガルマータ登頂後、日本の至る地域で小中学校、高校、大学等で講演を行ってきました。また、不登校をテーマに教育関係者達と講演も行いました。私がまずビックリしたのは子供達の表情の乏しさです。嬉しいのか、つまらないのか、嫌なのか、悲しいのか、楽しいのか、表情になかなか現れない。私は世界じゅうの子供達を見てきましたが、これほどに自身の感情を表現できない子供達を感じたことがありません。例外としては、共産国家の中国(チベット)でも同様な感情を持ちましたが、しかし、それ以上でした。

 そしてもう1つ驚いたのが、教師を尊敬せずバカにしている生徒が多いという事です。例えば、私の講演の最中に私語を止めない生徒に教師が注意しても、フンとばかり無視する生徒があちらこちらの学校にいました。ある地方の教師が私に「今の親は子供の前で先生の悪口を言うんですよ。子供はもう先生なんかバカにしていますよ。厳しく叱るとすぐに親が学校に来て大騒ぎするんです。PTAというのもなかなか厄介なものです。我々は生徒の親と問題をおこさいように気ばっかり使うんですよ。過保護なんでしょうね。今の日本の教育は先が暗いですよ」と語りました。この教師の言う事が全て正しいとは限りませんが、ただ私はなにか、今の日本の教育問題を象徴しているような気がします。親にも先生にも厳しく叱られたことのない子供達、けんかすらしなくなった子供達、その代わりに管理化された受験社会、夜遅くまで塾に通い、帰りの電車の中では小学生にしてまるで疲れ果てたサラリーマンのような顔している子供達、夢を見ることもせずに、大人同様のストレスを感じてしまった子供達...。

 私がネパールや中近東で出会った多くの子供達は貧しさのあまり学校にも通えない子が多かったです。しかし、経済的に貧しくとも、子供達の表情は豊かでした。ネパールの山の中に住むシェルパ族の子供達の多くは鼻水を垂らし、服も汚れ果てお世辞にも「こっちにおいで!」と抱き上げられるものではありませんが、しかし、私は自由に野山を駆けるシェルパ族の子供のほうが子供として、日本の子供よりも幸せなんじゃないかと、彼らの表情を見ていると思う事があります。昨年暮れには、お受験などを巡る殺人というあまりにもお粗末な、大人の犠牲になった事件がありましたが、私達はあの事件からそろそろ日本の行き詰まった教育の現状を感じとらなければいけないと切に感じます。

 残念な事に「落ちこぼれてエベレスト」を読まれた読者の中から、立教英国学院の教育方針への批判的なご意見も私の元へ届いています。その大半は子供を持つ母親からでした。私のつたない文章力が誤解を生じているものと思いますが、私は立教英国学院の教育方針には感謝しています。時には突き放すのも教育の一環であると私は考えています。大切なのは、厳しさの中の暖かさだと私は思います。突き放されながら、どうすれば自分の学内での環境が変わるか、変化させられるかと本気になりました。立教英国学院を卒業する際、担任の先生でした信岡先生が私にこんな言葉をくれました。「迷った時は挑戦しろ。挑戦せずに後悔するよりも、挑戦して失敗してもかまわないじゃないか」。私はこの言葉通りに生きてきました。

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サガルマータ登頂後、「7大陸最高峰最年少制覇」と大々的に報道するマスコミにしばし戸惑いました。7大陸最高峰、また最年少といったあくまでも表面的な記録ばかりが一人歩きしてしまい、私が何を7大陸最高峰登頂から感じたかは、あまり関係なかったように感じます。勉強も出来ず目標もなくフラフラしていた私が、偶然にも植村直己さんの著書「青春を山に賭けて」と出会い、人生で初めて”7大陸に登ろう”という目標を持ちました。そもそもなんでもよかったんです。植村さんが5大陸なら私は7大陸に登ろうと単純に考えただけです。登山経験がないまま7大陸の挑戦が始まり、当然のごとく失敗も繰り返しました。97年のチョモランマ(エベレスト)敗北もなるべくしてなった結果です。帰国後、「力もないのに金だけ集めて」とご批判も頂きました。悔しい思いもしましたが、事実でしたから反論すら出来ませんでした。

 98年の2度目の失敗の際はべースキャンプで待ち構える報道陣に「登頂はなりませんでしたが、でも今回は楽しかったです。だからそれでいいんです」と精一杯の強がりを言いました。もちろん、全てが本音ではありません。ただ、失敗を繰り返しながらも、どうすれば登れるのかと頭も使いましたし、自分なりに冒険に対する哲学が出来ました。苦しい時期でもありましたが、ただ最も本気で物事を受け止め、前向きに試行錯誤できた時期でもありました。生き生きしている自分がそこにはありました。これこそが私にとっての7大陸最高峰でありサガルマータ登頂であったと思います。

 昨年10月、自伝「落ちこぼれてエベレスト」(集英社インターナショナル)を出しましたが、その中で高校生時代のエピソードを書きました。立教英国学院という英国にある全寮制の学校ですが、ここでの英国風の教育も私の人生に大きな影響を与えました。勉強もしないでフラフラしている私に、学校側は徹底的に厳しく接しました。高校入学の際には仮進級処分を言い渡され、放課後のクラブ活動の禁止、文化祭等の学内活動の制限、生徒会の立候補等の選挙権はく奪といった学内での行事には絶えず参加できない方針がとられました。また、優等生の彼女との交際には「兵隊がお姫様を好きになるようなものだ」と猛反対されました。私も彼女も謹慎処分を命じられた事もありました。学期期間中は1度たりとも自由に学外への外出は認められないだけに、学内の世界が全てです。学校を恨む事もありましたが、ただ、落ちこぼれであった私相手に先生も本気で接してくださったのも事実です。逃げ場を与えず、厳しく接して頂いたからこそ、その中で自分自身を見つめ、自らが自身の歩むべき方向性を見つけだせたと思います。学校が私に対して過保護に接していたならば、恐らく弱い自分へと逃げていたに違いないでしょう。
 

03.jpg新年あけましておめでとうございます。2000年が始まりました。昨年は1O年越しの目標でありました7大陸最高峰の最終目標でありますサガルマータ(エベレスト)に無事登頂できました。多くの方々のご理解、ご支援があればこその3度目の世界最高峰チャレンジでした。97年、98年と2年連続して失敗しておきながら、よく3度目があったとつくづく自分の幸運さを痛感せずにはいられません。特に、私の遠征費用の大半をご負担されたソニー株式会社の大木充常務は以前に「結果 のみをを急いではいけない。たとえ、途上の段階でなかなか結果が出せなくても、最終的に結果 がでればいい。失敗の中から次に繋げる努力が1番大切だよ。君は生きて帰ってきたんだ。まだまだ、チャンスはある」と失敗を繰り返しガックリしていた私におっしゃいました。「生きてさえいればチャンスはある」。この大木さんの言葉にどれだけ励まされたか、また、日本全国から応援のメッセージのお手紙が沢山私の元へ屈きました。人の暖かさ、そして社会の恩恵に恵まれ7大陸最高峰の挑戦を終えることが出来ました事、心から感謝しております。

 昨年のサガルマータ(エベレスト)登頂後、帰国してからの国内での大きな反響の渦の中で色々と感じる事がありました。今一度、振り返り、そしてこれから2000年の私の進むべき方向性をここで示したいと思います。

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帰国後、お付き合いのあった毎日放送にテープを持ち込み約1時間の番組を作ってもらいましたが、その番組の反響は大きかったです。「ヒマラヤ登山の裏ではシェルパ族の犠牲があったとは知らなかった」「他の報道機関で報道されていなかったので、シェルパの死そのものを知りませんでした。どうしてほかでは報道されないんでしょうか」。そして中には「お金をもらっているんだから、事故があっても文句は言えんでしょう」「君だってヒマラヤに行けばシェルパを使うでしょう。シェルパを死なせる可能性もあるじゃない!」と厳しいご指摘もありました。また、「あれは売名行為だ!」とか、私の撮影テープを報道した局内からは「野口健の演技が含まれてんじゃないの」と、心ない疑いの声まで出ました。


 人それぞれ多様な受け取り方がありますから、その中で悩むこともありました。そして私の出した結論は、シェルパ族と登山隊の共存です。シェルパにも生活があります。我々、登山隊との関係は必要不可欠ですし、登山隊も彼らの協力が必要です。シェルパ基金を設立し、シェルパ族を始め現地スタッフが遭難した際の保証問題、またシェルパ族の事故を減らすため登山隊側の彼らの扱い方、位置づけ方をもっともっと追及しなければなりません。今年の夏頃から「シェルパ基金」を設立します。清掃隊もシェルパ基金設立も私にとっては初めての試みです。予想もつかない困難が待ち構えているでしょう。しかし私は植村さんから最後まで諦めないと言う事を教えてもらいました。


 新たな目標でありますチョモランマ清掃活動、シェルパ基金設立へ向け、自らの足跡を顧みて、現在に踏み出すべき足元を見つめ、未来への確かなる道程を描き、私が課した課題への実現を目指すことをここで示すと共に、今後とも声援、ご指導を頂けましたら幸甚であります。


 ※使用した写真はいずれも1999年12月から2000年1月に、ヒマラヤで訓練した際に撮影したものです。

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