トレーニング・体調管理 , 私の進む道

2004/09/25

夢、つながった

 

 9月14日、午前8時20分にロブチェピークに登頂。アイランドピークは雪のコンディションが不安定な為、アタックキャンプまでで撤退。今年のネパールは日本同様になかなか秋がやってこなく、モンスーン(雨季)が9月中旬になっても続いた。
 シェルパ達も「これは特別な年。なにかがおかしい」と首を傾げていた。ロブチェピークも高温の影響で雪が緩むだろうと午前3時にはアタック開始。出来るだけ陽が上がる前に高度を稼ぎ、早く登頂し、温度が上がる前にはアタックキャンプに戻ろうと、とにかく急いで山頂を目指した。シェルパ2人のスピードに合わせて登るのは口から心臓が飛び出しそうになるほど苦しく、鼻水もよだれもそのままふき取る余裕もなく、ただひたすら上へ上へとがむしゃらに進むだけで精一杯だった。

 下山中には打ち込んでいたスノーバーが雪が緩んでしまった為にスポンと簡単に抜けてしまい、また方々で雪崩の音が響き渡りシェルパが持っていたラマ教の坊さんに祈願してもらった神聖な一握りの米を山に撒いた。シェルパ達のおまじないだが、この時ばかりは本気で祈っていた。ただ不思議なもので雪崩の恐怖感が心地よく、久しぶりに生命の危機を感じるあの一種独特のピーンと張り詰めた緊張感に「これだ!」と興奮すらしていたものです。
 
 全身の細胞がグッと団結して心と体がまるで連携してこの危機を乗り越えようとしているかのように、生き生きしている自分の姿を楽しんでいた。登頂した瞬間に目の前に聳え立つエベレストの雄姿が目に飛び込んできた。山頂には10分間もいなかっただろうが、そのわずかな時間にこの7年間に及んだエベレストでの活動がまるでスライドショのように頭の中を駆け巡った。「俺は帰ってきたぞ!」と声にだしていたように思う。シェルパ達からすればたかだか6000M級の山でしかなく、なぜ僕がそこまでハッスルしていたのか理解出来なかっただろう。ふと気がつけばキョトンとした顔で僕のことを眺めていた。涙こそでなかったものの、いつ以来だろうか、こんなに無条件に純粋にヒマラヤの頂で無上の喜びを感じたのは・・・。


 最後にヒマラヤの頂に立ったのは4年前(2000年1月)で、やはりこのロブチェピークだった。99年の1月にもこのロブチェピークでエベレスト挑戦を目前に最終トレーニングの為に登頂し、その後に3度目の正直で念願のエベレストに登頂した。僕にとってロブチェピークは縁起のいい山なのかもしれない。しかし、大切なのはこの先。ロブチェピークに登頂できたからと喜んでばかりはいられない。まだまだ課題は多い。体力、精神力、そして技術力、どれをとっても8000M峰を狙うには程遠い。今現在の自身の力量を冷静に分析して足りていない部分を1つずつ補っていかなければならない。今思えば2年前のシシャパンマはそんな最も基本的な肝心な部分も見えずに気持ちだけが空回りして突っ込んでしまったように感じる。自身を見ないで8000Mの頂だけを眺めていたのだ。

 ロブチェピークはけっして大きな山でもないが、こうした小さな挑戦でも、着実に1つずつ積み重ねることのほうが闇雲に大きな冒険へと突っ走っていくよりも大切な気がする。

 ロブチェピーク登頂後、ナムチェバザール(シェルパの村)まで降りてきてロッジに泊まったのだが、何年か前にそのロッジの主に贈った一冊の本を発見。一志治夫氏が書いた「僕の名前は」だ。自分の幼年時代から少年時代、そしてエベレスト登頂までのノンフィクションだが、久しぶりにじっくりと読み返してみた。エベレストになかなか登れず悶々としていた日々、その頃ふらりと出かけた英国の母校での思い出、自信がないのに記者会見でエベレスト再挑戦の発表をしたり、エベレスト清掃活動やシェルパ基金設立では方々からの圧力を受けながらもどこかでその逆風を楽しんでいたりと、まさしく自分の原点の部分がズバリと書かれてあり、読みながら俺はやっぱりまだ俺なんだなぁ~と変わらない、いや変われない自分の姿がおかしく、また嬉しかった。
 これでいい。これでいいんだと、自分と会話しながら寝袋に潜り込んだ。なにかから開放されたのか、肩の力がスーと抜けて久しぶりに朝まで一度も目を覚ますこともなく眠ることができた。ヒマラヤはやはり自分の故郷であり、原点であった。

 さて、もうまもなく帰国するが、これから夢のリベンジまでどのように過ごすのか、いつまでもダラダラと夢ばかりを見ているわけにはいかない。ただ漠然と夢を見るのと、実際に夢を実現させるのではまったく違う。実現させてこそ意味がある。それが僕にとっての「夢」なのです。

 

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