2009年1月アーカイブ

オーサー・ビジット

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1月21日、ヒマラヤ遠征を無事に終え帰国。これで無事に22日からの
講演会(朝日新聞主催:オーサー・ビジット)に間に合った。
オーサー・ビジットは朝日新聞が全国の学校から応募を募り、
その中から選ばれた学校のクラスに授業に行くという企画です。
私は3年目の参加となります。


講演後の質問タイム
授業後の質問タイム

講演中の様子
授業中の様子

22日は山口県立光丘高等学校、
23日は鹿児島県市立紫原小学校6年生
厳冬期のヒマラヤから戻り子供たちと
触れ合っていますと癒されますねぇ~。 また子供たちの質問がピュアー故に
返答に困ってしまうことがある。

山口県立光丘高等学校での講義中(2)
山口県立光丘高等学校での講義中
鹿児島私立紫原小学校6年生のみんなと
鹿児島私立紫原小学校6年生のみんなと

ある子供からの質問で「世の中の為、人の為になにかをやるということは素晴らしいことだと思いますが、私はもっと自分を幸せにしたい。そのように考えてしまう事は間違えていますか」と。私はそのどちらも大切だと思います。つまり「やりたいことと」と「やらなければならないこと」のバランスの事なんだろうと思いますけれど、こうしたズバッとくる質問が好きなんですね~。

子供からの質問に耳を傾ける
子供からの質問に耳を傾ける
講義後にデレデレ写真?
講義後にデレデレ写真?

さすがにヒマラヤ帰り翌日とあって二日目はいささか疲れていましたが、
子供たちのエネルギーを頂いて東京に戻ってまいりました。それにしても
約束通り講演会までに帰国できて本当によかった。

シェルパ基金

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シェルパl基金の生徒達とのお食事会
シェルパl基金の生徒達とのお食事会

アイランドピーク登頂が無事に終わり、カトマンズに1月16日に戻った。19日、私がやっているシェルパ基金の子供達とカトマンズ市内にて交流会を行いました!
学校が冬休みに入っているため、地方に里帰りしている子供もいるが、大半は、交流会に出席してくれた。久しぶりに元気な子供たちと再会できて嬉しかった。

金色に輝く絹
金色に輝く絹はカターと呼ばれラマ教では感謝や別れの際にシェルパより頂く

みんなからネパールの国歌斉唱が行われた
みんなからネパールの国歌斉唱が行われた

カタと呼ばれている絹は、チベット仏教の習慣で、尊敬の念を示す際や、別れの際などに相手の肩にかけてその意を示すものとして知られている。
そのカタを子ども達にかけてもらえたことが嬉しく光栄でした。
わたしには15人の子供がネパールにいる。わたしが彼らの父親役です。勉強だけではなく、これからの将来について、様々なことに対し相談に乗ってあげたい。一人の女の子はまるでおたふく風邪のように頬っぺたが腫れてしまっている。もう2~3年にも及び原因不明とのこと。心配ですが、再度検査する予定となっています。

頬っぺたが固く腫れあがっている。原因不明ですが、2年ほど前から。
シェルパぱ基金の子供たちですが、頬っぺたが固く腫れあがっている。原因不明ですが、2年ほど前から・・・・。

関係者に子供たちの健康状態について訪ねる
関係者に子供たちの健康状態について訪ねる

次に繋がったアイランドピーク

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1月14日、午前4時、アイランドピーク最終キャンプを出発!ダワタシ・シェルパ、ニマ・タシ・シェルパ、平賀淳カメラマン、そして私と合計4人。アイランドピークは私にとっても思いで深いピークで、私が初めてヒマラヤの頂に登ったのはこのアイランドピーク。1993年の4月で、同年6月にマッキンリーに挑戦し登ったのだが、その直前にアイランドピークで高所順応をかねてトレーニングを行っていたのだ。あの時は若干19歳。若かったなぁ~ いつの間にか35歳になってしまいました。

アイランドピーク・ベースキャンプを目指して
アイランドピーク・ベースキャンプを目指して

アイランドピークに向かって一歩一歩進む
アイランドピークに向かって一歩一歩進む

あの時はアイランドピークの最終キャンプで高山病に苦しめられ一睡も出来ず、頭痛と吐き気で、バファリンとパンシロンを同時に飲んでいた記憶がある。そして山頂直下の両サイドがスパッと切れ落ちているナイフブリッジにビビり、歯がカタカタと音を立てて震えていた。経験と共に高度感には慣れてくるものだが、あの頃はまだ高所恐怖症だったのかもしれない。

極寒のアイランドピーク
極寒のアイランドピーク

そして極めて印象的であったのが、極度に緊張すると、男性のあの部分、つまり「息子殿」でありますが、稜線上でおしっこをしたくなり、引っ張り出そうと探してみるものの、いつもの定位置にいない。寒さでポトリと落ちてしまった?と思いきや、後ろの方に回り込んでいてチョコンと、まるでドングリのように縮こまっていた。よく犬が怯えると、腰が引けシッポを丸める、いかにも貧弱で気弱なポーズをとりますが、吾輩の息子殿もまさしく「それ」であった。「なんだ!その情けない姿は!それでもお前は俺の息子か!」と怒鳴っていたものの、こちらもこちらで緊張のため歯をカタカタといわせていたので、まったくもって説得力がなかった。結局、カエルの子はカエルってことなのでしょうねぇ~。


 とにかく最初のアイランドピーク登頂は大変でした。登頂後、フラフラになりながら最終キャンプにたどり着いたら、テントが撤収されていてない。ゴロンと横になりたかったのに・・・。ベースキャンプまで下ればポーターがお茶を沸かして待っていてくれているのだろうと、それだけを楽しみにベースキャンプまで下ったら、なんとベースキャンプまで撤収されていた。「なんたるポーター連中だ!」と一人ブチ切れているのだが、どんなにブチ切れたところでタクシーが迎に来るわけでもない。歩いて登った分、自身で歩いて降りるしかないのだ。これが山登り。喉もカラカラに、フラフラになりながらチュクン村のロッジに到着。我々を置き去りにして、とっとと下っていたポーター達の姿を探してもいない。おかしいなぁ~とキッチンを覗いたら、なんとチャン(ドブログ)を飲んでベロベロに。そして僕の顔を見つめるなり、「ボラサーブ(だんな様)、サミット(登頂)おめでとう!ボラサーブのサミット、とてもハッピーさ。こうしてチャンで祝っているところ」とよくもまあ~シャーシャーと・・・。だいいち、登ったかどうか確認する前に下って行ったのに、登頂祝いなど出来るはずもないじゃないか!とムッとしたが、しまいにはシェルパダンスまで披露し全身でハッピーさを表現してくれるのには参った。嬉しそうな彼らの表情を眺めていたら「まっ いいかぁ~」と気がついたら一緒にチャン飲んで踊っていた。いやはや、そんなものです。


アタック前夜、テント内にて読書
アタック前夜、テント内にて読書


午前4時山頂アタック開始
午前4時山頂アタック開始

あれから16年、あの時の出来事を1つ1つ思いだしながら、こうして再びアイランドピークの頂を目指している。シェルパのダワタシは98年のエベレスト挑戦時からずっと一緒。エベレストに6度登頂しているベテランシェルパだ。ニマ・タシは勢いある若手シェルパ。それにしても、厳冬期のヒマラヤは寒い。またこの日は風が強く頬っぺたがチクチクと痛い。指先も感覚がなくなり、手を擦り温めた。「早く太陽よ!出てくれ!」と祈る気持ちで日の出を待ち望んでいた。午前6時30分、ようやく待ちに待った太陽が。氷壁を一手一手確実に登り、最後の稜線に出たが、今度はローツェ南壁方面からの冷たい風が容赦なかった。強風でロープが中に浮いてしまうほどで、顔面が寒さで引きつってしまい言葉が発しづらい。アイランドピークの最後の稜線は両サイド、スパンと切れ落ちているので平賀カメラマンに「転ぶなよ。アイゼンひっかけるなよ。落ちたら落ちるぞ!」とアドバイスにならないアドバイスをしていた。なにしろ登るだけで大変なのに撮影が加わればなおのこと。しかも平賀カメラマンが凄いのは写真撮影にビデオ撮影のダブル。これを両方確実にこなすカメラマンはめったにいない。

山頂直下の稜線をつめる
山頂直下の稜線をつめる

平賀カメラマンとダワタシ・シェルパが氷壁を登り終え稜線に到着した
平賀カメラマンとダワタシ・シェルパが氷壁を登り終え稜線に到着した

アタック中に眼下にイムジャ氷河湖が見えた。この2年間、急激に拡大してきたイムジャ氷河湖の存在を世界に訴えてきた。時に一昨年の「第1回・アジア・太平洋水サミット」に向けてネパール・ブータン・バングラディシュに出かけ直接、首相や担当大臣にサミットへの参加を呼びかけた日々を思い出していた。考えてみれば清掃活動も温暖化による氷河融解問題、それからシェルパ基金にマナスルでの学校建設と、僕の活動はヒマラヤから始まっている。ヒマラヤを中心に事が回っている。

アイランドピーク上部から見えるイムジャ氷河湖
アイランドピーク上部から見えるイムジャ氷河湖

午前9時過ぎ、アイランドピークに登頂!登頂を知らせようと衛星電話から事務所に連絡を入れたが、寒さで口の動きが鈍く声を出すので精一杯でした。アイランドピーク自体はけっして難しいピークではないけれど、こうした小さな挑戦でも1つ1つを大切にすることが大切。大きな山であろうが小さな山であろうが、同じようにしっかりと山と向き合うこと。それがなによりも大切な事です。

アイランドピーク山頂でダワタシシェルパとニマタシシェルパ(前列)
アイランドピーク山頂でダワタシシェルパとニマタシシェルパ

山頂から魚眼レンズで撮影・後ろはロンツェ峰
山頂から魚眼レンズで撮影・後ろはロンツェ峰


こちらも山頂から魚眼レンズ撮影。バッグにアマダブラム峰がみえる
こちらも山頂から魚眼レンズ撮影。バッグにアマダブラム峰がみえる


アイランドピークの頂で私は次の目標をしっかりととらえていた。この春、再びヒマラヤで大きな挑戦が控えている。今度こそ、「頂きに」という気持ちがある。30代半ばにもなれば、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」とのバランスを求められるもの。前回は「やらなければならない」であったので、今回は「やりたいこと」に専念したい。

疲労した体にこの塩分補給が実に効く。私もいつからか虜に・・・
疲労した体にこの塩分補給が実に効く。私もいつからか虜に・・・

ヒマラヤ登山のような高所での活動に必ず必要なのが高所順応。一気に標高を上げればどんなベテラン登山家でも高山病にやられてしまう。いわゆる低酸素障害です。エベレストでもよく慌てて山頂を狙って急激に登りポクッといく人を見かけたりする。急いで登れば命取りとなる。少しずつ登り、時に何往復もしながら、登ったり、下ったりと、この繰り返しで低酸素に体を慣らせていく。だからエベレストに登るのにザット2ヶ月間は必要となるのです。

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さて、今回のアイランドピーク挑戦はその順応する時間が極めて限られていた。これは完全に僕の初歩的なミスでしたが、日本出発が遅れた分、予備日がほとんど無くなってしまった。そして追い討ちをかけるかのように悪天候でエベレスト街道の玄関口ルクラ村行きの飛行機が一日遅れで飛んだこと。自然は人間に合わせてくれないのだから、時間的に余裕をもって挑戦しなければならないのに、40回ほどヒマラヤに通ってきた奢りなのか、気の緩みなのか、「まあ~なんとかなるよな」的な気持ちであったのも確か。この大いなる勘違いによって仲間の何人かが命を失い、また僕自身もギリギリのところでなんとか九死に一生を得て生還したことがあった。一概に言えないけれど、山の事故の大半は人災だと思っている。えてして判断ミスによって事故が起こるからだ。つまりは究極の自己責任が求められる世界です。

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おい!平賀!寒いから早く撮影してよ!

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おっ!この渋さ、高倉健さんに近づいてきた!

アイランドピークを目指すキャラバン中にこれらの事を1つ1つ思いだし、「あ~俺も勘違いヤローだ」とちゃんと自覚できた事が唯一の救いだった。時間の余裕がないなか、通常、順応の為に二泊するナムチェバザール村を一泊にし、変わりにクムジュン村で一泊。そこからパンボチェ村へ。4300メートルのディンボチェ村には連泊し、二日目は裏山のナガゾンピーク(5100メートル)に登るつもりであったが、便秘がひどく下剤を飲んだら今度は効きすぎて止まらなくなり、脱水症状となったのか、立ちくらみなど具合が悪くなり、一日一人寝袋の中でお腹を摩りながら横になってはトイレに駆けつけていた。

これで貴重な高所順応の機会を1つ潰してしまった。この便秘ですが、かれこれ3年ほど前から始まり、徐々に重症となり、ついに自力で排便するのが困難となった。そこでコーラックさんと出会いここまでなんとか生き延びてきましたが、便秘というものは実にシンドイです。

「腹の中に居るのは分かっている。観念して出てきなさい」とトイレの中で踏ん張りながらお腹に向かって声を上げるのだが「シーン」と立てこもっている。「無駄な抵抗はやめなさい。あなた方は完全に包囲されている!」ともう一度忠告する。それでも進展がない場合、最終手段としての実力行使。コーラック部隊を投入させるのだ。半日後には腸がグルグルと音を立て、立てこもり犯をギュギュとねじりながら粉砕する。この腸のギュルギュル攻撃の震動は凄まじく、時に唸り声を上げてしまう。立てこもり犯との交戦が続き、そこでついに壊滅された立てこもり犯がいてもたってもいられずついに投降するわけだが、この攻防の繰り返しは大変です。特に高所では体力の消耗が激しい。限られた高所順応日が一日潰れてしまった。

そしてアイランドピークまでのキャラバン最後となるチュクン村へ。朝一、ディンボチェ村を出発し11時過ぎチュクン村到着。昼食をとり、すぐにチュクンリー(5500メートル)という裏山に登る。最初で最後の高所順応登山である。ここで最低限の高所順応を済ませたい。一歩一歩登りながら後頭部が重たくなっていく。ただ、山頂付近に到達した時の、あの目の前にドカンと現れるローツェ南壁の威圧感にしばし圧倒され頭痛を忘れていた。平賀カメラマンが張り切って「野口さん、撮影しますよ!」と、「その岩の上に立ってください」と一人元気。風が強く寒くて仕方ない。「おい、淳、もう寒いから下ろう」と。それでも「余裕のあるうちに抑えておいた方がいいですから。ハイ、あっちの方を眺めてください。あっ!いいですねぇ」といつもの調子である。ついつい乗せられてモデル気分である。豚もおだてられれば木に登る。まぁ~そんなものなのかもしれない。

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チュクンリー山頂で撮影するふりをする平賀カメラマン

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やはり、足は長かった

チュクンリー登山を終え、チュクン村の山小屋に戻ったら韓国人の団体客がダイニングを占領していた。30~40人はいたであろうか。驚いたのが中学・高校生の修学旅行とのこと。修学旅行でエベレスト街道までやってくる。日本ではあり得ないだろう。大韓航空が週2回カトマンズまで飛んでくるようになったのが影響しているのだろうが、エベレスト街道は韓国人トレッカーだらけ。韓国人トレッカーは黒い衣服を好み皆が皆、全身黒ずくめで、その集団を見たシェルパ達は「カラスの群」と表現していた。

韓国人トレッカーには若い人が多い。日本人トレッカーといえばオーバー60。中高年を越えたいわゆる高齢者が目立つ。75歳でもエベレストに登る時代だから、また特に日本の高齢者は足腰が強い。さすが戦後の日本を立て直しただけあって精神的にもタフです。

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渋めに演出してみましたが、似合いますか

それはそれで大変結構なことですが、問題は日本の若者たちです。男だか女だか分からない男が増えた。ナヨっとしていて、ピンタの一発でも食らわせようものなら泣き出しそうな男が多い。そして実に内向的。世界を見ようとしなくなっている。最近では世界を旅するよりも国内の温泉宿に泊まり一日中温泉に浸かってポケーとしている学生諸君が増えたとか。温泉旅館の女将さんが「私たちはそのような学生をポケー族と呼んでいますが、学生さんのお客さんが増えました。本当に一日中、温泉でポケーとしているんですよ」と話していた。

まあ~どうでもいいような話ですが、ただ1つ懸念すべきは学生含め若者たちから、エネルギー、独自性なるものを感じなくなっていました。それでいて口だけはペラペラと達者。小学生に「将来何になりたいの?」って聞けば「公務員がいい。だって倒産しないもん」と即答される時代だから無理もないのかもしれないが・・・。ヒマラヤにやってくる韓国の子どもたちが私にはとても逞しく見えたと同時に、うかうかしているうちに日本はあらゆる面で周辺諸国に追い越されてしまう、いや、もうすでにそうなりつつあることに危機感をひしひしと感じていた。
日本の子供たちにもヒマラヤを経験させたい。人生観が変わるだろうなぁ~と韓国の子供たちを眺めながら感じていた。

次回はアイランドピーク登頂についてレポートします。

アイランドピーク(6160M)登頂記録

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アイランドピーク山頂にて1
アイランドピーク山頂にて 平賀カメラマンと

1月10日、クムジュン村(3790m)~パンボチェ村(3958m)
1月11日、パンボチェ村~ディンボチェ村(4350m)
1月11~12日、ディンボチェ村ステイ
1月13日、チュクン村(4743m)~アイランドピーク最終キャンプ(5500m)
1月14日、最終キャンプ午前4時出発~アイランドピーク午前9時登頂~チュクン村13時30分着~ディンボチェ村16時30分着

1月15日、ディンボチェ村・午前9時20分~ナムチェバザール村17時20分着
明日はルクラ村に下る。

アタック前夜 夕食風景
アタック前夜 夕食風景

アイランドピークアタック中
アイランドピーク アタック中

アイランドピーク稜線上にて
アイランドピーク稜線上にて

IWC1


登頂コメント

「さすがに厳冬期のヒマラヤは寒かった。今回の遠征は日数的に余裕がなく、限られた時間内に高所順応をなんとか間に合わせ登頂できた事が良かった。アイランドピークは決して難しいピークではないが、それでもこうして1つ1つ着実に結果を残せた事に意味があると思います。このアイランドピーク登頂が次の冒険に繋げたい。野口健」

アタック 

「今回の登山遠征の撮影では、気象条件に恵まれ、これまでにないロケーションを記録することができた。特に、眼下に迫る8000M峰のローツェは圧巻で、遠方には、マカルー、昨年の春、登頂を果たしたメラピークが眺められるなど、ヒマラヤのまさにパノラマの景色に、ここまで辿りつけたことの喜びを噛みしめることができた。と同時にアルピニスト、野口健さんの凄まじいまでの登頂記録をぜひ、ホームページで堪能してほしい。平賀淳」

アイランドピーク山頂直下1
アイランドピーク山頂直下

アイランドピーク(6168m)に登頂!

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 いつも野口健の応援をありがとうございます。

 1月14日の現地時間(ネパール)午前9時に野口健と平賀淳カメラマンがアイランドピーク(6168m)に無事登頂しました。
 登頂時の音声メッセージを公開しました。
 是非お聞きください。音声メッセージはこちらから。

アイランドピーク

アイランドピーク(6168m)

 なお先ほど、無事に下山し、本日中にディンボチェまでおりる予定との報告が入りました。

 野口健事務所

ヒマラヤとベビースターラーメン

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冬のエベレスト街道はシーズンオフでトレッカーや登山隊も少なくとても静かです。ちょっと風が強く寒いですが、人間っていう生き物はちゃんと環境に適応するようになっているんですねぇ。ヒマラヤではよく仲間たちに「けんさん、寒さに強いですね」と驚かれる。確かに7000mぐらいまでは薄いダウンジャケットで登ってしまうことがある。別にやせ我慢しているわけじゃないですよ。しかし、これが日本に帰ってくるとストーブの前から離れられなくなる。特にコタツが大好きで一日中マン丸になって入っていたい。そしてこれがまたよく東京で風邪をひくんです。

左奥のピークがエベレスト
左奥のピークがエベレスト

なかなか決まってますねぇ
なかなか決まってますねぇ


「ヒマラヤで大丈夫だった人がどうして東京でそんなにしょっちゅう風邪をひくの」と言われたりしますが、そんなこと聞かれたって意識的に、または意図的に風邪をひいているわけじゃないので分かりません。ただ1つ言える事は日常生活にはいくらでも避難場所がある。寒ければ室内に逃げ込んでしまえばいいのだ。故に寒さに対して腹をくくれない。覚悟を決められない。だからすぐに風邪をひくんじゃないかなぁ~と。気持の問題でしょうか。


ヒマラヤ遠征が始まってしまえば暖かいところが少ない。特にテントの中は火器を使用して時は暖かいもののすぐに酸欠になるので火を止める。火を消した瞬間にキーンと冷える。標高にもよりますが、テント内でもマイナス10~20度まで下がったりします。朝起きたら寝袋の口の周辺が吐く息によってバリバリに凍っていたりする。寝袋の中でマン丸になっていても寒いものは寒い。時に体を擦り、またモジモジと寝返りをうっては体を温めるものの限界がある。ヒマラヤ遠征がスタートし前半はその寒さに堪えますが、一月もするとどうあがいても暖かいところがないわけで、つまり寒さに対して諦めてしまうんでしょうね。寒さを受け入れるしかないわけです。自然の中で生きていくということは受け入れるということです。

冬のヒマラヤは大気が不安定
冬のヒマラヤは大気が不安定

シェルパ族最大の村・ナムチェバザール
シェルパ族最大の村・ナムチェバザール


日ごろ、私たちは人間の都合に合わせて生活している。時に自分の都合であったり、相手の都合であったり。その調整の日々が日常生活です。しかし、相手が自然となると決してこちらに合わせてくれない。いかなる状況下に於いても人間が自然に合わせなければならないだ。登山に於いては自然と戦うという気持ちは落とし穴となる。

よく欧米人の中には自然に対して「制覇」だとか「征服」だといったような表現をされる方を見受けしますが、自然は制覇するものでも征服するものでもないし、そもそもそんな大それた事などできません。ヒマラヤの大自然の中にいると人間の存在がいかに小さいかが分かるものです。それだけに人間同士がチビチビと争い、戦争を繰り返している姿が滑稽にさえ感じるものです。

撮影しながらテクテクとゆっくり歩く
撮影しながらテクテクとゆっくり歩く

けっこう足が長い?
けっこう足が長い?


今日はナムチェバザール村からクムジュン村へ移動。明日はパンボチェ村を目指します。平賀カメラマンは「ケンさん、エベレストがよく見えますよ!今日は撮影日和ですね」とハイテンション。撮影しながらゆっくりと登るのでこれが高所順応にいい。一気に登ればどんなにヒマラヤ登山のベテランであろうがポクっと逝ってしまう。慎重に標高を稼がないと危ない。

久しぶりにエベレストと再会した瞬間に「あ~俺は帰って来たぞ!」と思わず大きな声を出していました。やっぱり僕にとってエベレストは特別な聖地。昨年はこの聖地を踏みにじられた。だから本気で怒っていた。
最低でも一年に一度は里帰りしないと落ち着かない。このエベレスト街道にももう40回弱訪れています。よく美人は三日で飽きると言われますが、エベレストは何十回見ようが一切飽きない。飽きないどころかその度に新たな発見があります。これは凄いことです。

余談ですが、僕には「美人は三日で飽きる」と言われている意味が全く分かりません。許されるのならばいつまでも眺めていたいものです。たまに街中で眺めすぎて不審者扱いされスタッフに「野口さん、もっとさりげなく見てくださいよ」と注意されたので仕方がなく、指の間から眺めていたらもっと怪しかったそうだ。かといってサングラスかけて見るのは潔くないし。見たいものは堂々と見たいわけで、見るなといわれたらもっと見たくなってしまう。あ~困ったものです。

エベレスト


ヒマラヤ

そして今日の記事のタイトルであります「ベビースターラーメン」ですが、平賀カメラマンは「ベビースターラーメン」命でいつ何時においてもベビースターラーメンを持ち歩いている。カメラよりもベビースターラーメンを手に持っている時間のほうが長かったりして。どれだけ好きかと言うと、わざわざエベレストの山頂にまでもってきて、山頂でポケットから取り出しているので、「こんな所で食べるつもりか!」と驚いてみていたら、なんと自分で自分にカメラを向けてベビースターラーメンと一緒に記念写真を撮っているではないか。一緒に登った相方の僕よりも先にベビースターラーメンと記念写真を撮る彼の精神構造を分かりかねたが、ただ1つだけ分かったのは彼がベビースターラーメンを心から愛しているということである。確かに平賀カメラマンからよく分けて貰って頂くが、あの昔から一切変わらない味は飽きなくていいですね。いつの間にか僕までベビースターラーメンが好きになり気がつけば自身で買うようになっていました。

ベビースターラーマンと平賀カメラマン
ベビースターラーマンと平賀カメラマン

今日はそんな平賀さんとベビースターラーメンをヒマラヤバックに愛のツーショットを撮影してやりました。なかなかの腕前でしょ。これでも中学・高校生時代は写真部です。卓球部に写真部に、そして大学からは山岳部、これ完全に裏街道まっしぐら? 

2009年1月8日 クムジュン村にて 野口健
1月6日、天候が回復しルクラ便が飛んだ。一日の待機で済んでラッキー。中には一週間ほど待機するケースもある。次の問題は帰りの1月18日、ルクラからカトマンズに降りるフライトだ。ここで足止めを食っちゃうと1月21日の帰国予定日が危うくなる。なにしろ1月22日には九州で講演会が待っているのだ。何が何でも帰らなければならない。1月18日に晴れる事を祈る。
この写真を一番上に

いよいよルクラ村へ
いよいよルクラ村へ

 今回は日本出発が遅れたので時間的な余裕がまったくない。6日からキャラバンを初めて15日までにはアイランドピークに登頂し、17日までにルクラ村まで下ってこなければならない。これもヒマラヤ行きを躊躇し出発を遅らせた私の責任。せめて平賀淳くんを巻き込まないように気をつけたい。
ルクラ村到着
ルクラ村到着

エベレスト街道にはいくつもの吊り橋がある
エベレスト街道にはいくつもの吊り橋がある

 6日はパクディン村泊。7日はシェルパ最大の村、ナムチェバザールに到着。やはり運動不足なのかな、体が重たい。アイランドピークにアタックするまで体を軽くしておきたい。このような時に痛感するのは日々のトレーニングの重要性だなぁ~。もう若くないんだし、もっとまめに体を動かさないと。分かっちゃいるんだけれど、この繰り返し。「反省だけなら猿にでもできる」なる言葉はよく耳にしますし、その通りなのだろうと思います。ただ、ここで1つ疑問が発生。そもそも論として猿は本当に反省するのだろうか・・・?

例えば、「触ったら痛かったからもう触らない」というのは果たして反省という概念なのだろうか?反省というよりももっと感覚的なものじゃないかなぁ~と。反省というのは思考的な要素が絡んで発生するような気がしてならない。だとするならば猿は本当に反省するの?
なにもヒマラヤで考える事でもあるまいか。
ナムチェバザール村に到着
ナムチェバザール村に到着

 ナムチェバザール村では相棒のアン・ドルジ・シェルパと再会。彼の山小屋にお世話になる。昨年は彼と一緒に合計4ヶ月間ほど氷河湖の調査を行った。

「日本人はエベレストの氷河が急激に溶けている事に対して無関心ですが、ヒマラヤは世界で最も高い場所です。人間の体に例えれば頭になります。もし頭が高熱に侵されたら体全体の調子が悪くなるでしょう。それと同じでエベレストが温暖化によって熱くなっているのは地球全体の異変です。日本人にもけっして他人事ではないはずです」
とはアンドルジの言葉である。私は「第1回アジア太平洋水サミット」「環境大臣会合特別シンポジウム」の場で、またIPCCのパチャウリ議長や福田総理(当時)にこのアンドルジの言葉をそのまま伝えた。

また彼は毎年、夏には日本の山小屋で研修を行いネパールの山小屋においても日本同様に環境配慮型山小屋運営を目指している。

アンドルジさんとの再会
アン・ドルジさんとの再会

若かった頃の石原慎太郎氏に目元が似ていて、我々の間では「ヒマラヤの慎太郎」と呼ばれている。そういえば、ルクラ村に住んでいるナワン・ユンデン・シェルパの奥さんが小沢一郎氏に似ていて、こちらは「ヒマラヤの一郎」と呼ばれている。「奥さん」というのがいかにも悲劇的?ではありますが、いずれにせよこちらの慎太郎、一郎は本家と違って?仲が良い。

街道沿いの親子
街道沿いの親子


ネパール入りしてからとにかく良く寝ています。おかげでだいぶ復活してきました。三十路を過ぎると一にも二にも睡眠。睡眠さえ取れていればなんとかなるもの。昨年の秋ごろからの寝不足がきつかった。日々のスケジュールをこなしながらその隙間で原稿書きに追われた。1つは文藝春秋に掲載された「僕のレイテ遺骨収集記」。内容が内容なだけに100%本気をだしました。一方的な感情論になってしまっては逆に読者が引いてしまう。かといってデータだけでは現場で感じたあの世界が伝わらない。そのバランスが実に難しかった。私なりに精いっぱい書かせて頂きました。ただし、あの現場を文章によって100%そのまま再現できたかといえばNOであり、現場に勝るものはないと痛感させられました。

そして次に追われたのが今年の2月7日に日経新聞から出版する新書の原稿だ。日経新聞で2年間連載させて頂いた記事をまとめ、さらに原稿用紙で200枚近くを書き加えた。これがなかなか大変で、講演会場までの移動中(新幹線や飛行機の中)、出張先にホテル、打ち合わせと打ち合わせの間、とにかく使える時間を全て使って書ききった。最終的な締め切りが12月27日でなんとかギリギリ間に合わせる事ができた。

原稿を収めたら心底ホッとしたのか、解放されたのか、その日はポケーと一日脱力感に襲われた。忙しさを言い訳にしたくなかった。また、「ヒマラヤ氷河の融解による氷河湖決壊問題」や「戦地に取り残された御遺骨の実情」から「ツバルの海面上昇問題」「難民問題」「漂着ゴミ問題」などこの数年間、世界各地で感じてきたことが自身の中で過去の出来事になる前に、また書き残せるうちに、現場で見てきた事を形に残して伝えるのが義務であろうと、使命感に燃えていたのも事実。故に大変でしたが、充実していた日々でもあった。ただ、仕事以外の限られた時間の全てを次ぎこんだためブログ更新まで手が回らなかった事をお詫びします。

原稿を収めてから慌ててヒマラヤ遠征の準備を開始。せっかく久々に日本で正月を迎えたのに初詣も叶わず、また紅白歌合戦も見られなかった。赤、白のどちらが勝ったのかな?

マニ車を回す 回すとお経を読んだことになる
マニ車を回す 回すとお経を読んだことになる

ラマ教のお経が彫ってある岩
ラマ教のお経が彫ってある岩


エベレスト街道に入って二日目になりますが、昨年の北京オリンピック直前と比較すればだいぶ穏やかになりました。あの北京オリンピックはやはり異常事態であった。なにしろ、中国は形振り構わずネパール側に圧力をかけ、公安などをネパール側に越境させこのエベレスト街道に配置させたとシェルパ達が怯えていた様子を我々はその現場で目にしていた。エベレスト(ネパール側)のベースキャンプにまで中国大使館の館員が監視を目的に張りつき連日のようにエベレスト上空には軍用機が音を立てて旋回していた。すべては中国の聖火隊がエベレスト山頂に聖火を上げるためにだ。

ベースキャンプではフリーチベットと書かれた旗を持っていただけで強制的にエベレストから追放されたアメリカ人登山家。そして中国隊がチベット側から登頂に成功するまでは反対側ネパーからですら6000m以上を超えてはならないとお達しがあり、もし6000m以上に登れば射殺すると6400mにあるキャンプ2には武装した軍隊までが派遣されていた。たかがオリンピックの聖火隊如きでありながら、エベレストで起こっていた全ての事が異常事態であった。

ここまでやるのかと、中国の覇権主義には心底驚き、危機感と同時に怒りが沸々と煮えたぎるのを明確に自覚していたが、あれから少し時間がたってみて、振り返ってみれば、受け取り方が少し膨らんだ。中国による対外強硬路線は「対国外政策」というよりも、「対国内政策」であったのだろうと。

特にチベット問題が盛り上がればチベットに限らずウイグル、また内モンゴルなどに飛び火していくだろう。中国が最も恐れたのはそこではないか。したがってあれだけ国際社会から非難されようが中国は一切緩むことなくチベットを弾圧し多くのチベット人を殺し投獄した。中国に逆らって独立運動などしようものならばこうなるぞ!と見せしめ的な要素がなかったか。

また究極な格差社会が招いている人民の不満をどのように抑えていくのか。岡本行夫氏は「中国では農民として生まれたら最後、社会保障も医療保障も失業保険もない。都市への移住の自由もない。9億人の農民の犠牲の上に、4億人の都市住民の繁栄がある」と中国の格差社会について語っておられたように、中国は外から見れば覇権主義が象徴するような巨大な国力、強さを抱かせるが、実は蓋を開けてみれば極めて不安定な内政事情を数多く抱えている。

北鮮やロシアも度々使う手法ですが、強い中国を示すことで中国共産党の正当性を人民に伝え維持していこうとの狙いではないだろうか。つまり以前のように中国共産党が人民をコントロール出来なくなっている証かもしれない。中国はルーマニアのチャウシェスク政権
の如く内側からのエネルギーによって変わっていくのかもしれない。あのエベレストでの中国の行いが中国の行き詰まり、焦りを現しているとするのならば、中国は時間の問題で変わるかも。そう思えば怒りに燃えた昨年のエベレストの出来事にも微かな希望、可能性が見え隠れしてくる。

ナムチェ

ブログ執筆中
ブログ執筆中

ちょっとプラス思考すぎたでしょうか。ヒマラヤの夜は永い。ついつい様々な事をグダグダと考えてしまう。考える時間がたっぷりとあるから、このブログの原稿もその分だけやたらと長く、またくどくなる。


明日からクムジュン村、もしくはパンボチェ村まで上がりますが、今回は衛星通信機材を持ってこなかったので、ブログのアップはナムチェバザール村まで(ナムチェバザール村にはインターネットカフェがあるので)。ただし衛星携帯電話はあるのでアイランドピークに登頂しましたら事務所に連絡しますのでブログ・HPにてお知らせ致します。

それでは、明日からは思考を切り替え、最大限、気をつけながらアイランドピークの頂を目指してきます。アイランドピークの登頂を次の冒険に繋げるためにも。

2009年1月7日ナムチェバザール村にて 野口健

カトマンズ・卓球の日々

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1月5日、今日はカトマンズからエベレスト街道の玄関口ルクラ村に向けて飛ぶ予定であったが、ルクラ村が霧に覆われていてキャンセルとなった。6時間も飛行場で粘ったけれどダメだったぁ~。昨年の秋ごろ、ルクラ村に着陸しようとしたイエティー航空が着陸に失敗。パイロット一名を除いた全員が死亡するといった事故が起きたばかり。山岳地帯の飛行とあって無理は出来ない。素直に諦めてホテルに戻る。

卓球1


我らが定宿にはトレーニングルームと卓球台がある。カトマンズ入りしてから卓球の日々。平賀淳くんも昨年ここで卓球をした時は実に下手っぴであったが、いつの間にか上達。実は私、人生で初めて新聞に紹介されたのは登山ではなく卓球でした。小学生の頃から卓球を始め高校時代は卓球部の部長。高校時代に対外試合(2年間)で全勝し地域新聞に紹介されていました。それだけ卓球大好き人間でしたから、カトマンズまでやってきても卓球台を見つけると血が騒ぐんですねぇ。きっと山登りよりも卓球の方が得意ですよ。しかし、トレーニングルームのトレーナーと試合をしたら全然勝てない。左右に振られ玉についていけない。高校時代ならあんなへなちょこカーブなどスパンと一気にスマッシュし決めていたのに・・・。
卓球2

卓球3

気がついたらかなり本格的にむきになり、後から淳君が撮影した写真を見たら吾輩の目がまるでピンポン玉のようにマン丸なっていた。俺はむきになるとあんなお目目になるんですねぇ~。知らなかった。高校を卒業してから15年? そのブランクは大きかった。こうなったら卓球台買って修業しなければ。
ジム1

ジム2

そして卓球が終わってからは筋トレ。今日は半日、たっぷりと汗をかいて遊びました。明日早朝に再び飛行場に向かいますが、無事に飛んでくれるといいのだが。明日また飛ばなければ卓球日になります。それにしても、あのコロコロとしたトレーナに一勝も出来なかったのがなんとも実に悔しい。クソー
ジム3



2009年1月5日   野口健 (写真はアップしたら大きくなります)
1月4日、カトマンズ市内にてマナスル基金についての記者会見を行った。マナスル基金とはマナスル峰の麓にあるマナ村に学校建設を行うプロジェクトだ。2006年にマナスル峰に清掃活動で出かけ村人に学校建設を約束してから2年目。ようやくヒマラヤでの学校建設プロジェクトがスタートした。
マナスル記者会見

記者会見には校長先生のビルバートル氏も加わり「50年前に初めて日本隊が私たちの村に来た時には、私たちの神様であるマナスル峰に登ってほしくなかったので村人と登山隊との間にトラブルがあったと祖父から聞いている。あれから時間がたって今度は日本人が私たちの神様(マナスル)をきれいにしにやってきた。最初は村人たちは日本人が何をしに来たのか意味を分かっていなかったが、マナスルの清掃活動だと知って大歓迎になった。村人は日本の国旗を作っては村中に掲げた。それだけ嬉しかった。それからケンと一緒にサマ村の清掃をおこなった。ケンがサマ村に学校を建ててくれることになり、日本とマナスルの関係の懸け橋となることと思う」と話していました。
完成予想図を手にするビルバードル校長
完成予想図を手にするビルバードル校長


嬉しかったのは日本でマナスル基金を発表してから多くの問い合わせがあったこと。中には「マナスル峰に日本隊が初登頂したことで私たちは勇気をもらった。当時、日本は貧しかった。でも日本人がマナスル峰に初登頂したことで国中が盛り上がった。マナスルは私たちにとっての青春でした」と退職金の一部からご寄付くださった方もいらした。また企業からは渡辺解体興業株式会社の渡邊龍一社長からも「ヒマラヤでの学校建設には夢があります。私たちも支援します。学校が建ちましたら私たちも一度サマ村に訪れてみたいです」と、本当に多くの方々に支えられて、この「ヒマラヤに学校を作ろうプロジェクト」がスタートしました。本当にありがとうございました。
記者会見の様子
記者会見の様子

ヒマラヤでは「シェルパ基金」「エベレストを中心とした清掃活動」「氷河湖決壊対策」等々、様々な活動を行ってきましたが、その中でもこの学校建設には夢があります。教育を受ける事によって世界が広がる。ネパールに限らず発展途上国の人々は援助慣れしていて誰かが助けてくれると指をくわえて待っている傾向が強いですが、教育を受ける事によって視野が広がり、自分たちに何が出来るのか自らアイディアを打ち出してほしい。

3月中旬には私もサマ村に入って村人と一緒に建設作業を行いたい。明日からエベレスト街道の玄関口であるルクラ村に飛び、アイランドピーク(6160メートル)の頂を目指してキャラバン開始です。日本を離れて第二の故郷であるネパールに帰ってきてホッとしたのかなぁ~ 肩の力がスーと抜けてリラックスしています。毎年、この時期にヒマラヤで過ごしますが、一年間頑張ってきた事への自身に対するご褒美です。やっぱりネパールに帰ってきてよかった。


2009年 1月4日 カトマンズにて 野口健

マナスル基金~ヒマラヤに学校を作ろうプロジェクト~に関して詳しくはこちらより御覧下さい。
また
朝日新聞 asahi.com毎日新聞 ・毎日jp にマナスル基金に関して掲載されました。
こちらも合わせて是非御覧下さい。

バンコクの夜

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 バンコクは半袖一枚でちょうど快適な気候です。カメラマンの平賀淳君とタイスキを食べて、タイマッサージで全身をほぐいてもらってから夜の町をちょっと散策しましたが、なんとも開放的で人々も実にカラッとしていて、今の日本の閉塞感とのギャップを心底感じていました。なんせ日本国内のニュースは暗すぎる。マスコミによってあれだけ不景気をあおられてしまっては、逆に不景気に拍車がかかってしまうのではと思いますね。そして派遣切りに関して「弱者の立場」「弱者を守る」といったような言葉が日々テレビのコメンテータから聞かされますが、この「弱者」といった表現こそが上から目線でしょうに、この言葉の乱用こそが彼らが言う弱者を生み出す要因になるような気がしてならない。

 インドやネパールなどカーストが低い人たちはどんなに努力しようが、優秀であろうが、天才であろうが、生涯にわたって差別され続けていますが、それに比べ日本社会は生まれもって強制的に強いられる弱者が果たしてどれだけ存在しているのだろうか。日本では職業の選択の自由がしっかりと保障されているではないか。ネパールでは階級によっては一緒に食事することすら許されていないのだから。

 先日、建築家の安藤忠雄さんと対談しましたが、今では世界的な建築家として世界に評価されていますが、高校生時代は経済的な問題で大学に進学できなかった。そこで安藤さんはケンカしてお金が稼げるとボクサーになるものの、ボクサーの世界で頂点に立つことに限界を感じ引退。それから独学で建築学を学ばれたそうです。安藤さんの言葉で印象的だったのが

「建築の世界ははっきりいって学歴社会なんですよ。どこどこ大学の建築学部卒業というのが力を持っていて学閥が幅を利かせる世界なんですよ。僕の場合は完全にアウトローですから、ただ、僕の場合は逆に高卒の安藤忠雄というのが注目されて、面白い奴だからあいつにやらせてみようとなった。ただ、そこが勝負で他の人には書けないような斬新な作品にしないとやっぱり高卒だからな、で終わってしまう。だから寝ないで書き続けた。必死にくらいつきましたよ」

 高卒というのを逆に戦力に変えた。ただその為にも人の何倍も努力を積み重ねたわけですね。一概に決めつける事はできないかもしれませんが、結果を出せば評価されるのが僕は日本社会だと思います。

 考えてみたら登山家だって一般的はもっとも食えない職業の1つです。学生の頃に山岳会の先輩方と飲んでいたら「山登りじゃどうせ食えないよ。社会的にも認められない。俺は京大を出たけれど山に登るために8年間大学にいたら、今じゃ二流の商社勤めだ。所詮、登山は評価されないんだよ」と愚痴っていたので、むきになって「いや、そんな事はないはず。俺は登山家でやっていく。必ず世に出てみせる」と反論したら「君はまだ若いね~そのうち現実が分かるよ」と相手にされなかったが、僕が最も嫌だったのが彼らの負け犬根性だ。気持で負けていてはそれはどこにいっても通用するわけがないだろうにと、小池百合子さんの口癖には「オンリーワンでありたい」と言った言葉をよく耳にするけれど、どんな世界にいても独自性をしっかりもっていれば、またそこに確かな戦略、ビジョンがあれば、可能性があるんじゃないかと、まあ~そんな事を感じていました。

 
 話は突然変わりますが、バンコクの夜はちょっと性に対して解放過ぎるなぁ~。目のやり場に困り、そしてなんといっても歩いていると声をかけられまくるわけで、この誘惑と戦わなければならないのがなんとも酷です。淳君と散策しながら二人して「僕たちは誘惑に対して弱いので早く帰ろう」とさっさとホテルに戻り男二人で一杯やりました。明日は半年ぶりのネパールです。それではおやすみなさい。

2009年1月2日 バンコクにて 野口健

2009年 私の進む道

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 新年明けましておめでとうございます。今年は久しぶりに日本で新年を迎えました。この世に誕生して35年。山に登り始めて20年。清掃活動を始めて10年。本当に色々な事がありました。

 さて、今年は青木ガ原樹海ゴミゼロ作戦5カ年計画の最後の年。昨年は富士山クラブに約7000人の参加者が集まり一緒に清掃活動を行った。おかげ様で富士山もだいぶ綺麗になってきました。10年前から始めた富士山清掃活動。もう五合目から上部のゴミはほとんど残っていない。上部に関しては完治宣言を出してもいいんじゃないかな。樹海も以前は不法投棄された粗大ゴミが至る所に溢れていましたが、最近ではゴミ拾いではなくゴミ堀。パッと見まわしてもゴミが見つからない。そこで埋められていそうな場所を捜し出し掘ってみるとやはり出てくる。悪質な不法投棄との闘いです。捨てる人がいるのならば拾い続けるしかない。私たち富士山クラブはゴミに負けない。今年は五ヵ年計画最後の年として、約束を守るためにも樹海のゴミと闘いたい。富士山で一緒にゴミを拾った参加者はみな私たちの仲間です。今年も多くの同志とまた一緒に富士山で汗を流したい。参加者の皆様には心の底から感謝しています。

 ヒマラヤの氷河湖決壊問題ですが、第1回アジア太平洋水サミットから環境大臣会合、洞爺湖サミットへと向け訴え続けてまいりましたが、残念ながら大きな進展はありません。特に水サミット後に具体的なアクションが起こらなかった事に落ち込んでいた私に対し父は

「たかだか一回のサミットで全てが解決するわけがないだろう!お前はシェルパの仲間たちを助けたいと思って訴えているんだろう。たかだか一回のサミットで動かなかったからと諦めるのならば最初からやらなければいいんだ。お前の気持はそんなものだったのか。富士山やエベレストでコツコツと積み重ねた結果、動いたじゃないか。氷河湖問題も同じだよ。同じようにコツコツと積み重ねなさい」

 と怒鳴られ目が覚めた。父の言葉は正しかった。私に次どのようなカードがきれるのか、またなにが出来るのか、新たな戦略を練りたい。

 そして遺骨調査ですが、こちらは大きな進展がありました。厚生省が我々、空援隊に対して御遺骨の事実上の持ち帰りを認めてくださったのだ。前回レイテ島で発見されながら日本に連れて帰れなかった御遺骨を3月中旬、再びレイテ島向かいお迎えにあがりたい。昨年から始めた御遺骨の調査。空援隊の倉田宇山(くらたうさん)氏との出会いは私の人生に大きな影響と衝撃を与えた。倉田さんから諦めなければ道は開けるということを学んだ。そして倉田さんの情熱、使命感、忍耐力、どれをとってもみても頭が下がる。灼熱地獄の洞窟の中、御遺骨を手にしながら、「野口さん、これが現実なんですよ。俺は彼らを日本に帰したい。それだけなんですよ」と涙ながら訴えていた倉田さんの姿は生涯忘れることはない。これからも倉田さんについて行きたい。


 マナスル基金ですが、マナスル峰山麓のサマ村の村人に学校を作ろうと約束をしてから約3年間。通信施設のないサマ村とのコンタクトは極めて困難であり、時に意思疎通にすれ違いが生じ、学校建設にたどり着くまでは長い道のりであった。しかし、村人に約束したことは果たさなければならないと、思うように進まないことが時に歯がゆくて、また悔しかったが、ようやくプロジェクトをスタートさせることが出来ました。ご寄付いただきました多くの皆様にも感謝しています。完成予定は2010年。まだまだホッとできる状況にはありませんが、それでもやっぱりホッとした。

 何事も口で言うのは簡単。しかし、言ったことを実現させる事はとても大変。自らが発言した課題に取り組む日々。そんなことの繰り返しでここまでやってきました。今年は年男。だから何?とっ言ってしまえば別になんてことはありませんが、ただよくここまで生き延びてこられたものだと幸運に感謝。人生生きていれば得るものもあります。また永く生きていればその分だけ失うものもあります。そのバランスがトントンならいいんですが。

 今年もいつも通り目の前の事を1つづつコツコツと確実に積み上げていきたい。そのコツコツの先に大きな変化がある。そう信じて今日のコツ、明日のコツです。それでは、ヒマラヤに行ってまいります。

2009年1月2日 野口健

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