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「2005年、私の進む道」

2005年 元日 靖国神社にて   

 新年明けましておめでとうございます。
小笠原諸島から始まり屋久島で終わった2004年もあっという間に過ぎていきました。
「野口健プロジェクト」を立ち上げ新体制で臨んだこの一年間。新たなスタッフも加わり多くの仲間たちに支えられながら進んできました。思いつきでポンポンと意見して、その場で即決してしまう僕を相手にするのはさぞかし大変だったと思います。よく逃げ出さないでついてきてくれたと心から感謝しています。

 北から南まで全国行脚を行ってきて改めてまだまだ日本を知らないと痛感した。そして新たな出会い。西表島や屋久島、佐渡島、小笠原、御蔵島、そして富士山や尾瀬、白神山地などにも、その地を守ろうと必死に活動を続けている人たちがいた。初めて出会った方ばかりであったが、心が通じ合うのに時間を必要としなかった。実際に現場で活動している方は会った瞬間にピン!とくるものです。環境問題は人と人の輪が広がってこそ意味がある。山、海、川、それぞれ現場は違っていても全てどこかでつながっているものです。
 そして全国6ヶ所(小笠原諸島・富士山・白神山地・佐渡島・尾瀬・屋久島)で行ってきた環境学校での若い仲間との出会いも素晴らしかった。環境学校によって小学生から大学生まで幅広く、共に現場で学んできたことは僕の活動の源であり、原動力になっています。「環境メッセンジャー」となった彼らが環境学校終了後に全国で様々な活動を行っているとの報告を受ける度に「俺もやるぞ!」と気合が入る。人数の問題で参加を希望する生徒の一部しか受け入れられないのがとても残念。なんとかならないものか、悩んでみたものの、大人数での環境教育にはどうしても限界がある。今後は環境学校に参加した生徒達がその後の活動などを連絡しあえるコミュニケーションの場を作っていきたい。

 一年を通して日本各地に足を運んでみた感想はますます日本が好きになったこと。日本には世界に誇れる素晴らしい自然や文化が沢山ある。僕もそうであったけれど、どうしても遠くばかりに目がいってしまう。身近な場所の美しさに気がつかなかったりする。だから多くの日本人は海外に出かけ日本を見ようとしない。その結果、日本各地はさびれ、繁華街でもシャッター通りが目立つ。小泉総理はビジットジャパンとテレビコマーシャルなど様々なキャンペーンで外国人旅行者を日本に呼ぼうとしているが、ただ、その前に日本人が日本国内に目を向ける環境を作らなければならないはず。日本人が国内を旅行しなくなってきているのに、なぜ外国人を呼び込めるのか。順序が逆だと思う。


霧の中の屈斜路湖


中標津の雪原


 確かにヨーロッパなどの観光地は美しい。しかし、それは地元の人々の努力があってこそ。目先の利益ばかりに執着してむやみに国土をコンクリート漬けにするのはもうやめよう。せっかくある素晴らしい素材をそのまま生かし、壊すことなく訪れる人々を魅了させる方法をひねり出してほしい。壊すだけなら誰でも瞬時にできる。しかし、一度失った自然は誰にも治せない。世の中、「環境」と叫ばれているにも関わらず、日本各地の現場を歩いてみれば、間逆に向かって突き進んでいる様子が見えてくる。口を開けば「趣旨は分かるが環境保護じゃ稼げない。どうやって食っていくんだ!」と最初から決め付けられてしまう。「金・金・金」の発想だ。確かに人は生活していかなければならないのだから、収入は気になるものだ。僕だって美味しいものを食べたいし、そりゃ贅沢もしたい。「贅沢は敵」などといった時代遅れな発想もない。ただ、本当の贅沢ってなんだろうかとふと考えれば、目先の物理的な誘惑にハイエナのようにがっつくよりも素敵な環境の中でシンプルに過ごすことのほうが、実は優雅であり、心身とも健康に生きていけるだろうと思う。そして後先を考えず湯水のごとく資源を食い尽くせば、最終的には全てを失う。それこそ本当の貧しさだ。もう安易に余計なもの(ハード)ばかりを作らないでソフト面に力を注ぐべきだ。アイディア1つ1つの積み重ねだと思う。

 日本人はもっと自分たちの国を大事にするべき。その為にも日本人が日本を知らなければならない。僕は今年も日本各地に出かけて日本の美しさを発見し、伝えていきたい。そしてエコツーリズムの普及のためのソフトを地元の人々と一緒になって作り上げていきたい。
 
 最近になって分かったことがあります。環境問題への取り組みを始めて5年目。最初は自然が相手だと思っていたが、実は環境問題は自然が相手というよりも人間社会が相手であった。人間社会と直結しているのが環境問題。僕は「地球のための環境問題」ではなく、「人間のための環境問題」だと感じている。極論を言ってしまえば「地球のための環境問題」ならば人間はいないほうがいい。しかし、そうではなく、人間が健康に生きていくために地球の資源を守っていかなければならない。そのために、人間は自然とどのように関わっていくのか、まさしくその部分が問われているのだと思う。
 
 環境問題に限ったことではないが、僕がもっとも大切にしているのがリアリティーや実感だ。私たちの頭の上を日々膨大な情報が飛び交うが、我々の感覚はどこかで完全に麻痺していないだろうか。例えば昨年、イラクのファルージャで米軍が武装勢力への掃討作戦を展開し「1200名を殺害」といった見出しが新聞の一面を飾ったが、正直、その文字や言葉だけでは1200名もの尊い命がたかだか数日間で殺されたという実感がまったく伝わってこない。日本にいてはあまりにも非現実的であり、そこには残虐性などなく、どこかで他人事のように平然と受け止めている自分がいたけれど、もし、この死んでいった1200名の人生を彼らが生まれた時から死ぬ瞬間までを一人ずつドキュメンタリィーで振り返ってみれば、その事実はとてつもなく重たいものになるはずです。同時に戦争に対する怒りや恐怖、危機感を覚えるでしょう。余談ですが、津波などの自然災害で10万人以上が犠牲になっている状況下で戦争なんかしている場合じゃないだろうと本気で思う。そんなことにエネルギーと時間を消費する前に人が生き延びるために真っ先に取り組まなければならないことが山積みになっているだろうに・・・。

 また人が人を殺すのは戦争や争いごとだけじゃない。環境破壊によっても毎年多くの人命が失われている。環境を破壊する加害者がいるわけで、その結果人が死ねば、言葉は乱暴かもしれないけれどその加害者は間接的な殺人行為に等しい。そして私もその一員だ。環境問題は誰しもが加害者であり被害者の要素がある。特に先進国が経済発展を目指して闇雲に開発に明け暮れたわけだから、その恩恵に預かっている私なんかはその典型です。


 人は誰しも困難であればあるほど、見なかったことにしたくなる。学者や専門家の中には、シンポジウムなどで、データーなどを分析した結果、「環境破壊は止められない」「もう手遅れです」といったような白旗宣言とも受け止れるような言葉をよくする。それなりの根拠もあるのでしょう。しかし、その発想はあまりにも安易だ。人も動物。命を繋いでいくことが本能であり、使命だ。命を繋ぐために生きているといっても過言ではない。命を繋ぐために、自分になにが出来るのか、いや何をしなければならないのか、自身が加害者という自覚の中でしっかりと受け止め行動に移したい。そのためにも様々な現場で環境破壊の脅威を体で実感しなければならない。
 
 そして今年は、アルピニストとしての自分も大切にしたい。わがままを承知の上、ヒマラヤへのリベンジを家族とスタッフに告げた。ヒマラヤは僕にとって原点。原点を失ってしまえば、私が私でなくなる。そして私が心底安らげる場所はヒマラヤ以外にはないこともわかった。
娘がこの世に誕生して正直、リスクを伴う冒険活動に臆病になった。ただ、この臆病こそが、いままでの自分になかった最大の武器になるような気がする。「生きて帰ることへの責任。山で死ぬ自由を失った。それだけにどのような状況に追い込まれようとも最後の最後まで諦めずに生き延びる努力をしなければならない」と思えるだけの土台が完成した。
 この姿勢は環境問題にもつながるわけで、環境問題への取り組みと自身の冒険活動が重なるということでヒマラヤ行きを理解してほしいと伝えたものの、う〜ん、やっぱりちょっと屁理屈だったかな・・・。
 2年前に死にかけた山へのリベンジは当然、怖い。周りからは「もう8000mはやめたほうがいい。また失敗したらどうする。過去の実績に傷がつくよ」との声も聞こえてくるが、今は純粋にヒマラヤにチャレンジしたい。「また来るよってシシャパンマ」と呟きながら別れて2年半。あのぎりぎりの世界で自身と思う存分に向き合い会話してきたい。再び挑戦できることに感謝。過去は過去。今、この瞬間のほうが遥かに大切だ。

 今年も富士山清掃活動、環境学校、エコツーリズムへの取り組み、シェルパ基金、地方レンジャーの普及、そして冒険活動とテーマが沢山ある。時に息切れすることもあるでしょう。思考が迷子になることもあるでしょう。ただ、せっかく熾烈な生存競争に勝ち抜いてこの世に産まれ命を頂いたのだから、一日一日を必死に生きたい。
 今年もどうかよろしくお願いします。そして一緒にアクションを起こしましょう!


2005年1月1日 野口健