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「人間魚雷「回天」と共に散った特攻隊員たちがいた」
(写真はクリックしたら大きくなります)

  知覧(「知覧を訪れて」をご覧ください。なお知覧を訪れるにいたった遺骨調査については「遺骨調査団に参加して」をご覧ください)を後にし、次に山口県、大津島に向かった。特攻隊というと、一般的に知られているのは航空特攻だが、その他に陸上特攻、水上特攻、水中特攻が行われた。大津島には水中特攻として知られる、潜水艦から発射される人間魚雷「回天」の訓練基地があった。ミッドウェー海戦敗北からまるで階段を転げ落ちてゆくように戦局が悪化した戦争末期に、「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いを込められて命名された「回天」

人間魚雷「回天」の模型の前にて
 
 人間魚雷「回天」の母体は九三式魚雷で、酸素魚雷と呼ばれ、動力として純酸素を使用することで、排気ガスの大半が水蒸気である為に海水に吸収されて無航跡となり発見されにくいとのこと。それまでの魚雷は発射されてから敵艦隊に向かっていく道程で後ろのスクリューから気泡がでて水面に白いラインが見えてしまい、敵艦に避けられたり、また機銃掃射され爆破されることがあった。しかし、この九三式魚雷は魚跡が水面に現れないことで最も恐れられた魚雷であった。またその射程距離であるが、例えば米軍のMk−44魚雷が大よそ約5キロに対して九三式魚雷は40キロ以上、また爆薬量も0・3 トンに対して0・5トン積載された。

 回天はその九三式魚雷を改造して製造された。完成した回天は直径1メートルで乗員一名、搭乗員は潜望鏡で敵艦の位置を確認し突入する。水中でのスピードも時速30ノット(56キロ)、このスピードで、通常の魚雷の三倍(1・5トン)もの爆薬を積み、的中すれば巨大戦艦も一撃で轟沈させられるまさしく特殊兵器となった。

 事実、この特殊兵器は米軍を恐れさせた。ある資料に記されていたのだが、終戦後、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長が日本の軍使に「回天を積んだ潜水艦は太平洋にあと何隻残っているか?」と真っ先に尋ねたそうだ。「10隻はいる」と聞き、「それは大変だ。一刻も早く戦闘を停止してもらわなければ」と顔色を変えたそうな。ある米海軍の士官が「日本軍で怖かったのは回天だけだった」と語ったほど見えない脅威に怯えていたのだろう。



 私が驚いたのは、この「回天」の発案者(海軍の青年将校)自らがその回天に乗り込み殉職されていることだ。黒木博司大尉と仁科関夫中尉。戦局が悪化する中、何か画期的な新兵器、新戦法はないかと二人で発案し、兵器に採用してもらうために軍務局に図面などを届けたが「死」を大前提とする兵器は認められないと却下。しかし、二人は諦めずに海軍大臣に直訴し、1944年2月、極秘に人間魚雷の試作が命じられた。黒木大尉は訓練二日目に悪天候のため上官に訓練の中止を告げられても「天候が悪いからといって、敵は待ってくれない」と訓練を決行し行方不明となる。翌朝に海底に突き刺さっている回天が発見され、引き揚げられたが、時すでに遅く艦内の酸素がなくなっており絶滅して発見された。しかし、亡くなるまでの約12時間、黒木大尉は艦内で酸欠事故直後の処置や経過、後の訓練や実戦に生かすための対策などその詳細を後に続く仲間たちのためにびっしりとノートに書き遺していた。「呼吸苦シク思考ヤヤ不明瞭」と薄れる意識の中で死を目前にしながらも取り乱す事もなく、淡々と記録を残すその精神力に私は言葉が見つからなかった。

 そして仁科関夫中尉は昭和19年11月8日にウルシー環礁に停泊中の米艦隊に突入し戦死。自らが発案した回天で海に散った黒木大尉は22歳、仁科中尉は21歳の若さであった。上官から押し付けられ断れない状況下での特攻ならまだしも、この若さでどうしてそこまで・・・。

 そのヒントを19年9月に回天基地に配属され20年には第二回天隊隊長に就き八丈島で終戦を迎えた小灘利春さんの「特攻最後の証言」の中に見つけた。

「日本はもう防波堤のない状態になっていました。アメリカはいつでも日本本土に上陸できる。もし本土で陸上戦闘になれば、日本の国民も国土も文化も全てが失われると思いました。人間魚雷の一言で、これこそアメリカの上陸を阻止しなければと思いました。我々は命を失わなければならないが、その代わりに千倍、何千倍の日本人が生き残る。それができるなら命は惜しくないと、その瞬間に悟りました。」

「戦後の世の中は本当に便利になりました。しかし同時に昔の日本の良さがどんどん消えてしまったように思います。多くの人に尽くすのが尊いと考えず、自分さえよければと思っている。そういう国は滅ぶと私は思っています。私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器と思っています。一人の身を捨て、その代わりにたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、その為に自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか」と当時を振り返りながら語っておられたが、私はこの言葉に一切の偽りを感じない。

回天発射基地跡

 受け取り方によっては、特攻を、また戦争を美化しているとのご意見もあるのかもしれない。しかし、1つしかない命を捧げてまで国をそして家族や恋人たちを守ろうと散っていった彼らの究極な自己犠牲の精神は、今の我々が最も失ってしまった部分ではないだろうか。知覧、そして大津島と特攻の基地に足を運び、彼らが眺めたであろう大空、そして海をその同じ現場の空気を吸いながら、彼らが命を投げうってでも守ろうとしたものはなんであったのか、そしてどのような思いであったのか少しでも感じ取りたかった。大津島から海を眺めながら改めて小灘利春さんの「我々は命を失わなければならないが、何千倍もの日本人が生き残る。それができるのならば命は惜しくない」という言葉の重たさ、そして自己犠牲の精神の尊さをズシリと感じ取っていた。

回天を運んだトンネルの中にて

追記

(回天は終戦までに151基出撃し搭乗員の戦没者は106名・敵艦への命中率は夜間の出撃が多く成果が確認できないことが多かったため明らかになっていないが、記録されているのは命中3基、出撃総数の2%に過ぎなかった。ちなみに航空特攻は出撃総数3300機に対して敵艦命中率は11・6%、至近突入は5・7%。したがって敵艦隊に損害を与えたのは17・3%。航空特攻と比べると水中特攻「回天」の運命がいかに過酷であったかが分かる)  

回天記念館の前にて

回天の発射基地を望む

 

2008年6月25日 野口健