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「台湾・高砂義勇隊を巡る旅 中編」


 台北入りした日の夜、私たちは蕭錦文さん(しょうきんぶん・台湾総統府と台北二二八記念館解説員 84歳)とお会いすることができました。

蕭錦文さんと 

 蕭錦文さんは1942年台湾義勇志願兵(ウィキペディア)に志願し同年7月にシンガポールにて3ヶ月間の軍事教育を受けたのち、ビルマへ派遣されインパール作戦では15師団に加わる。この作戦は「白骨街道」と呼ばれたほど多くの犠牲者を出した。蕭錦文さんはそのインパール作戦から奇跡の生還を果たしたわけですが、実は私の祖父・野口省己(のぐちせいき)もビルマ作戦(第33軍)に参加しており同じく奇跡の生還を果たしたが晩年「あの作戦は生き地獄であった。私の兵士も大半が戦死した。戦死といっても多くが餓死やマラリアといった病死。食料も医薬品も弾薬もなく、バタバタと目の前で兵士が死んでいった。いまだに彼らの骨はそのまま放置されている」とよく話していた。

 それだけに同じビルマ作戦に参加した蕭錦文さんに当時の話をお聞きしたかったし、親近感を覚えていました。蕭錦文さんは私達に面会に応じてくださり、自宅から2時間以上かけて訪ねてくださった。申し訳なくこちらからご挨拶に伺いたいとお伝えしたところ、「わざわざ日本からいらっしゃるのにとんでもないことです。2時間なんてなんでもないことです。よく台湾までいらしてくださいました」と。

「野口さん、私はとても嬉しいのです。あなたのような若い日本の方が私たちの話を聞いてくださる事がなによりも嬉しいのです。そうですか、あなたは野口参謀のお孫さんでしたか。あの戦いはとても悲惨でした。敵機の空襲を避けるために夜中しか行動ができなかったのですが、水がなくてね。何日も水を飲まないまま駆けずり回っていましたが、喉が渇き首を締め付けられて死ぬ想いでした」

蕭錦文さんは私たちの為に3時間も話してくださった

 蕭錦文さんと約3時間お話しましたが、台湾義勇志願兵に志願した経緯について、

「私たちは自らが志願したのです。合格した時は泣いて喜びました。名誉な事だと嬉しかったのです。日本の軍人たちも私たちを大切に扱ってくれました。苦しい戦でしたが、私は今でも誇りに感じています。

 確かに戦後、日本政府は日本人ではない私たちには保証してくれませんでした。とても残念に思います。でも私たちはお金がほしいわけではありません。私ももう年です。お金なんかじゃないんです。ただ、日本の総理大臣から『よく日本のために戦ってくれました。御苦労さまでした』の労いの一言がほしいのです。私たちは自分たちの意志で参加し日本のために立派に戦ったのですから。

 私たちは傭兵とは思っていません。正規の軍隊、軍属だと思っています。ですから、他の日本人と同じように扱ってほしかった。それだけなのですよ。でも、戦争で負けて、日本ではあの戦争は全ていけなかったと教育されてきました。ですから私たちの事は忘れられてしまったのかもしれません。日本政府の対応に納得はしていませんが、私は今でも日本が大好きです。残念ながら今の日本は私たちの時代(日本統治時代)の日本とは変わってしまいました。

 戦争はするべきではないけれど、実際に戦った者として言わせてもらうならば日本が好きこのんで始めた戦争ではないですよ。そして台湾は日本の植民地時代にとっても大切にしてもらった。教育もインフラも日本と同じように日本人は一生懸命、台湾を良くしようとしてくれました。イギリスはシンガポールを200年も統治していたのに、汚いみずぼらしい街でした。当時のシンガポールは90パーセントの人たちが文盲でした。教育を受けていないから字が読めない。日本人は私達に教育の機会を与えてくれました。同じ植民地でもこんなに違うのかと思いましたね。

 戦後の方が大変でした。中国から蒋介石がやってきて多くの台湾人を拷問し殺しました。中国国民党は40年間もの間、戒厳令を布いたのです。私も二二八事件で拷問を受けました。処刑される直前までいきました。

 野口さん、私はね、今の日本がとても心配です。もっと自信をもってほしいのです。素晴らしい国だと胸を張ってほしいのです。私たちが命を賭けてまで志願し日本を守ろうとしたのは、日本が好きだったからです。それなのに今では日本人が日本の悪口を言う。とても悲しいことです。私たちにはまだ大和魂が残っています。日本人にも大和魂を取り戻してほしいのです。

 でも、あなたが遺骨収集を始めたと聞いてとても嬉しかったです。みんな国の為に戦ったのですから。一体でも多くの兵隊さんを日本に帰してあげてください。日本のためにありがとう。ありがとうございます。」

 
  私は、蕭錦文さんの言葉に涙を流してしまった。台湾人である蕭錦文さんの「日本のためにありがとう」の言葉。台湾は2度、日本に裏切られた。1度目は敗戦時。次に田中内閣で一方的に台湾との国交を断絶し中国と国交を結んだとき。

 第二次大戦中、日本人として戦地に送られた台湾人は20万7000人あまり。うち戦死したのは3万3000人余り。特に高砂義勇隊の戦死、戦傷者の割合は高かった。それにも関わらず戦後、日本政府は日本人ではないとして彼らに補償してこなかった。

 それにも関わらず蕭錦文さんの言葉から日本に対する恨みは聞こえてこない。これは蕭錦文さんだけではない。

 その翌日にお会いした馬莎振輝さん(マサ・トフイ 台湾タイヤル族民族会議長)も

「私たちは日本人を恨んでいませんよ。日本が戦争に負けて私たちの町からも日本兵が引き揚げていきましたが、みんなで港まで見送りにいきましたよ。泣きながら別れました。日本人は基金を募って高砂義勇隊英霊記念碑を守ってくれましたが、嬉しかったです。日本のために戦った高砂義勇隊に感謝をしてくれたのだと思います。日本政府は冷たいですが日本人は温かいです。野口さん、この近くに日本兵のお墓があります。あなた達はそこには行かないのですか。日本のために戦った兵隊さんたちですよ」と。

馬莎振輝さんと

 私たちは馬莎振輝さんの案内で日本軍人の慰霊碑に伺いました。

 日本人よりも日本を愛している台湾の方々。蕭錦文さん、馬莎振輝さんの言葉1つ1つがとっても温かった。それだけに日本政府が彼らに対し行ってきた数々の冷酷な仕打ちがなんとも申し訳なく、日本国民としてただただ恥ずかしかった。そしてつい先日まで高砂義勇隊の存在すら知らなかった自身の無知さがまた情けなかった。

 

馬莎振輝さんの案内で日本兵の慰霊碑に

 今からでもいい。日本政府は、また日本社会が、日本のために戦った彼らに対ししっかりとお礼の言葉と、そして日本人同様の補償を行うべき。それが人としての道であり、国家の在り方ではないだろうか。どうしてそんな当たり前の事を蔑しにしてきたのか、自身の国でありながら私には到底理解できない。友愛精神なるものが本当にあるのならば、もう遅すぎるかもしれないが今からでもいい。国家として当たり前の責任を果たしてほしい。