富士山から日本を変える
野口健からのメッセージ
野口健ニュース
野口健からのビデオメッセージ
野口健ブログ
掲示板
プロフィール
フォトギャラリー
七大陸制覇まで
講演会の依頼について
雑誌・テレビ出演情報
書籍・ビデオ
サイトマップ
七大陸制覇まで
マッキンリー


南極大陸の犬ぞり旅行で、ペンギンと一緒に過ごす植村さん
1982年11月撮影

 大木さんと一緒に宣伝部部長の河野さんを尋ねた。大木さんは一所懸命、私の事を説明し、最後に「野口君をよろしく」とお願いまでしてくれた。その間、私はジっとしているだけであった。そして河野さんが「分かりました。こちらでやらせて頂きます」と私におっしゃった。実績のない私に協力をしてくれる!まるで夢のような信じられない出来事に嬉しさを飛び越えて、驚きを隠せなかった。

 帰り際、大木さんは「君にはスター性を感じる。私は君が必ずやり遂げると信じている」と励ましてくれた。また「けっして無理はしてはいけない。結果は最終的にでればいいんであって、焦っては、成功するものもしなくなる。スポンサ一がついたからといってカんじゃダメだ。南極に行っても、必ず生きて帰ってきなさい」とアドバイスしてくれた。あまりにも暖かい言葉に涙が出そうになった。私はいつでも沢山の人々に支えられている。本当に幸せ者だ。

 南極遠征隊には亜細亜大学山岳部の先輩の吉田純二さん、同級生の秋山慎太郎が加わる事になった。吉田さんは。英語力を評価され一芸一能人試で亜大に入学、秋山は私同様に山登りで亜大入りした。南極遠征隊のメンバーは全て一芸一能組となった。それだけでもどこかで仲間意識が芽生える。遠征準備が着々と整う中、私は植村直己さんの奥さんの公子さんを訪れた。マッキンリー登頂後、お付き合いのあった植村冒険記念館の方から紹介して頂いたのである。植村さんの最後の夢であった南極大陸にこれから行ってきますと報告に上がった。公子さんは私に「あの人は一体何だったんだろうね。あれだけ南極に行きたくて苦労したのに、結局行けなくて。あの人は一体何だったんだろうね」と言った。

 植村さんは南極のアルゼンチン基地を南極大陸横断のスタートラインとして訪れているが、1982年にぼっ発したフォークランド戦争が影響し、結局基地内から出られないまま帰国している。南極にいながら、何一つ成し得なかった植村さんの無念を公子さんは見届けている。公子さんの言葉を聞きながら、時代の移り変わりで南極に行ける自分の幸運を思い、また、植村さんに申し訳ないと感じた。植村さんの分も頑張らなければ…。

 南極大陸へは、南米大陸最南端の町、チリのプンタアレナスからC130という軍用機で飛ぶ。しかし、南極の天候が悪く、田舎町のプンタアレナスに約1週間程足留めを食った。する事もなく、毎日チリのワインを飲んで気持ち良くなっていた。アルゼンチンでもワインをたくさん飲んだが、南米のワインは肉料理に抜群に合う。私は南米のワインがすっかり好きになってしまった。

 そんな気の抜けた毎日を送り、「どうせ今日も飛ばないよ」とのんぴりしていたら、突然飛行場から連絡が入った。南極の天候が回復したので、急いで来てほしいと告げられ慌ててパッキングをした。そして慌ただしく我々を乗せたC130が南極へ向けて飛んだ。5時間程飛んだだろうか。ふと小さな窓から下をのぞき込むと、黒々とした海に真っ白い南極大陸が浮かびあがっていた。初めて見た白い大陸、南極はまるでショートケーキのようだった。

 内陸に入るにつれ海が遠ざかり、眼下が一面真っ白になると、大陸というよりも雲海の上にいるかのようだった。高度を徐々に下げ著陸態勢に入るが、もちろん滑走路なんかない。エンジン音が変わったと思ったら、突然ドシンと榔体にショックがかかり、そのままガガガガーと跳ねながら着陸した。私は思わず祈ってしまった。何故ならば、プンタアレナスで南極で着陸に失敗してひっくり返った飛行機の写真を見ていたからである。また、1週間程前には小形飛行機が南極半島で墜落し、乗組員全員死亡がした事故が起きたばかりであった。