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野口健との出逢いからヒマラヤまで

「野口健との出逢い」

 野口健と出逢ってから約1年が過ぎた。そもそものきっかけは、最後のエベレスト清掃登山に参加した私の幼馴染であるムービーカメラマン・平賀淳氏の紹介による。
 麹町にある中華料理屋の一室に野口健はいた。交わした握手がとても力強かったことを今でも鮮明に覚えている。ずんぐりむっくりした体型で、目をくりくりさせ、早口でまくしたててきた。
 
 それまで私は彼の著作もウェブサイトも見たことがなかった。私にとっての彼のイメージは、ネスカフェのCMから得られるものだけだった。人参を片手に小学生に環境保護を説く姿と、エベレストでゴミを拾う姿から私は「まるで文部省認定のお兄さんだな」というイメージを抱いていた。
正直、私とは気が合わない人種だと思っていた。私は夜遊びが大好きな人間だし、環境保護ということに関してどこか胡散臭いものを感じていたのだ。
 そして何よりユーモアのセンスが合わないと思っていた。私は男性でも女性でもユーモアのセンスが合わない限り、親密な関係になれないと思っていた。互いに笑い会えるほど幸せなことはそんなにない。

 しかし野口健は私のイメージとは180度異なるタイプだった。仮に同学年で同じクラスにいたらずっとつるんでいたと思う。野口は理念・観念に走りがちな環境保護団体への警鐘を鳴らし、行動することの意義、必要性を説いてきた。センチメンタリズムに酔い、理想を声高に叫ぶことだけで満足しがちな人間を否定し、所詮、行動によってでしか現実は変わらないと痛切に訴えてきた。野口健は徹底的なリアリストであった。

 私がその迫力に気おされて黙ってうなずいていると、それを察してか、彼は若かりし頃、シェルパ族の女性と結婚した話や、高校時代の謹慎処分などの話などを持ち出して、ユーモア交じりにその空気をやわらげてくれた。細やかな気遣いの出来る人だなと感じたものだ。そしてユーモアが実に面白かったのが意外であった。私達はよく笑った。

 その頃の私は大学を卒業し、主に東京都知事の石原慎太郎氏のサイト運営を中心に、フリーランスでウェブサイト制作や編集・執筆を仕事としていた。その中で東京都が国に先駆けて始めた小笠原諸島におけるエコツーリズムを現地取材していた。
 野口は小笠原におけるエコツーリズムのあり方を検討する東京都の委員をつとめており、更に話に花が咲いた。しかし野口は当時、まだ小笠原に行った事がなかったのである。


野口は委員会で世界各地の事例を参考に意見したが、どこかうしろめたいものを感じていたという。「小笠原を見なきゃ駄目だ」と高い声でしきりに繰り返した彼が、強く印象に残っている。
 
 最初の出会いから数日後、野口から電話がきた。小笠原取材の案内の依頼だった。
 それから今日まで約一年間、私は野口とともに様々な場所に赴き、様々な仕事をした。

この一年は野口にとって大変なものだったと思う。所属事務所からの独立、参議院選挙出馬報道、結婚などなど。野口を取り巻く状況は公私共に激しく渦を巻き、彼を翻弄し、心身ともに疲れさせたと思う。毎晩のように酒を飲み交わし、これからどうするかということを議論した。

「ヒマラヤ同行の誘い」

 記録的な猛暑が続いていたある日、野口から「ヒマラヤに一緒に行こう」という誘いがあった。突然の誘いに私は驚いた。私はウェブサイトの制作や行政関係の委員会のレポート執筆などが中心で、登山の部分には一切関わらないようにしていたし、野口のアルピニストの部分に入り込むことは失礼に当たると思っていた。
 私はどこかで「野口もそこには入り込ませたくないだろう」と勘ぐっていたのだ。だからこそ彼の誘いに驚き、そして喜びを感じていた。

 今回のヒマラヤ遠征は野口にとって1年半ぶりとのこと。特にこの1年の野口の生活をよく知っていたからこそ、私は彼の身体のことを心配していた。しかしそれは杞憂に終わった。ヒマラヤの玄関口であるルクラからキャラバンを開始し、徐々に標高を上げていく。標高が上がるにつれ、野口の表情が開放されていく。
 それと反比例するように私の顔はむくみ、足取りが遅くなっていく。毎日、夜までコンピューターをいじり、それから酒を飲みに行き、煙草を1日2箱吸い、昼頃に起きるという生活。私は登山の経験は皆無であった。人の心配より自分の心配をするべきだったのだ。

「ヒマラヤという自然が織り成す造形美」

 ヒマラヤはモンスーンがずれ込み、曇天が続いた。
 しかし、左に目をやれば、赤、青、黄、色とりどりの高山植物が咲き乱れ、まるで万華鏡のような多様な色彩が横たわっている。右に目をやれば、柔らかい黄金色の日光が雲の隙間から大地に注ぎ込み、蒸発した水分が霧となり、ゆっくりと天空へとかけあがり、雲となっていく。鳥が悠々と空の中に踊り、前方にはラマ教のお経が書かれた5色の旗が雲の流れと同じ方向にはためいている。人為的に作ったのではないかと思えるほど、花々は等間隔にそれぞれの色をちりばめ、自然の織り成す造形美にただただ目を奪われる。

 ステッキが大地を突き刺す音と呼吸の音だけがリズミカルに身体を伝い、高度があがるほど、思考がストップしていく。何も考えなくてすむ。
 私はフリーランスで仕事をしている。一見、自由に思われるが、それは違う。日本社会は契約書を交わすことはあまりない。特に私のように個人で仕事をしている場合はまったくないと言っても過言ではない。
 つまり個人と個人の信頼関係、もっと言ってしまえば、「こいつのことを気に入ったから仕事をやろう」というケースが多い。故に好き嫌いの感情が要所にあり、こちらも常に気を遣う。
 「あの仕事は終わったか。あの人は大丈夫か。失礼はないか。電話はしたよな。請求書はいつ出すのがベストか」四六時中、こういったことが頭から離れない。
 ステッキの音と高度が上がるほどに深くなっていく自らの呼吸の中で、私は久しぶりに開放されていた。

「高山病の痛み」

 私の目的地はエベレストのベースキャンプの近くにある「カラパタール山」。7泊してアタックをかける山小屋にたどり着く。4日目、高山病でとても頭が痛い。野口がしばしば講演で「高山病は痛いですよ。脳の真ん中で爆発が起こって、両耳から脳味噌がピュっと飛び出る感じです」と言っていたのを思い出す。
 野口にとって高山病はある種、日常でもあったわけで、その表現は痛みの本質を表すためではなく、聴衆に笑いを誘うもので全くリアルではない。それに彼は高山病で苦しいことを理由に自らの活動をセンチメントに見せたくないのだろう。

 高山病の頭痛は、これまで人生で感じたどの頭痛よりも痛い。頭の血管を血液が流れるだけで痛みが襲う。ドクドクという血液の流れがそのまま痛みになる。じっとしているとそのドクドクという音だけをそのままに、しめつけられるような痛みだけが膨張していく。虫歯の治療を頭の中でされている感覚。ウィーン、ウィーンとドリルで脳味噌を掘られているような痛み。

懐中電灯しかない山小屋の狭い一室で眠れない夜を4日過ごした。最初はこの種の痛みの概念がないため、強烈な不安感を感じた。徐々に痛みに慣れていく中で、一人寝袋の中で、8千メートルで何十日もこれ以上の痛みと吐き気に耐えながら、エベレストのゴミを拾ってきた野口のことを考えてみた。
 野口健は只者ではない、ということが実感として少しだけわかった。いやむしろエベレストでゴミを拾うということがクレイジーとさえ感じてしまった。

「最終アタック ヒマラヤの魅力」

 カラパタール山へのアタックのチャンスは日程的に2回しかない。これまでの工程は全て曇天。まだ1回もじっくりと雪山を見ていなかった。明け方が晴れる可能性があるというシェルパのアドバイスにより、夜中の3時にアタックを開始した。


 私は高山病で一睡も出来なかった。頭痛もあるが、寝ようとしても呼吸が浅くなり、すぐに苦しくなり、意識的に深呼吸を繰り返すため、寝付けないのだ。
 
 オリオン座がうっすらと闇の中に浮かび上がっている。星々と私達の間に雲があることが、その輝きの鈍さからはっきりとわかる。懐中電灯を片手に足場の悪い瓦礫の上を延々と歩く。呼吸が乱れ、手がかじかみ、血液の流れが激しくなるほど、ドクドクという音とともに強烈な頭痛が襲う。トイレをしても、寒さで全てが出ない。歩いているうちに、残尿がズボンを伝わっていく。

 途中、私の懐中電灯が壊れた。プルパというシェルパが私の手を引きながら、瓦礫の山を導いてくれる。視界が狭まり、横殴りの風が吹きすさぶ。ごうごうとうなりをたてる。今の私にはシェルパの手だけが頼り。手袋もしていないその手は冷たく、とても硬い。
 しかし力強く私の手を握っており、瓦礫に躓くと、ぐいっと引き揚げてくれる。その繰り返しが何時間続いただろうか。野口は先に行ってしまい、暗闇の中には私とシェルパだけ。うっすらと山々の稜線が見え始め、月がその姿を現した。知らぬ間に雲がなくなっている。闇の中から、遠くから、野口が「今日は見えるぞ」と叫んでいる。シェルパは何一つ言わずにただただ私の手を引き、私の足元を懐中電灯で照らしている。

 その時、不思議なことが起こった。私の顔を熱いものが流れていた。滂沱として涙が流れている。別に悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。思考は完全にストップしており、意識も朦朧としている。わけのわからない初めての状態。恥ずかしいという気持ちだけがちょっとだけあり、なんとか頭を回転させ、何かを考えようと思う。

 その時、頭に浮かんだのが「ああ、俺は誰かや何かに助けられて、生かされているんだ」という強烈な実感だった。別にそろそろ登頂だから感動したというものでもなく、シェルパが手をひいてくれて嬉しかったから涙が出たわけでもない。
シェルパの手引きがないと前にも進めない状態の私がいて、その手から、私の日本での日常、これまで生きてきた日常の中でも私は何かや誰かに手をひかれて、足元を照らされて、なんとか生きているんだなという部分が触発されたのだ。そして縷々と滂沱と涙が流れてやまなかった。
 またもう一つ思うことがあった。一歩、一歩、少しずつだが、事実として確実に前に進んでいる。これを繰り返すことによってしか、目的は果たせないという厳然たる事実。ステッキが瓦礫をカチカチと打つ音の中で、私は最近の自分を思った。
 
 仕事には徐々に慣れてきた。どうすればいくら入るか。どうすれば仕事が取れるか。これまでの経験で十分に生活できるほどにはなった。だけど私は今、こういう努力をしているだろうか。一歩、一歩、少しずつだが、本当に自分がしたいことに向かって努力をしているのだろうか。いや、もう随分とこういうことをしていない。
 石原慎太郎氏の自宅に公式ウェブサイトの企画書を持ち込み、交渉し、なんとか仕事を成立させた頃を思い出す。あの頃はめちゃくちゃだった。何故なら私はウェブサイトをそれまで作ったことがなかったのだから。
 今度は次の目標に向かってあの頃のような努力を再度しなければならない。野口が七大陸登頂の後に、エベレスト清掃登山をぶちあげ、文字通り命をかけて取り組んできたように、私も自分の世界を、まだ私だけの思考の中にしか存在しない、混沌とした感情を何とか形にしたい。それはものを書くということだ。

 そのようなことを回転の鈍い頭で何とか考えていると、そこは5545メートルという私にとって未知の世界があり、眼前には巨大な雪山のパノラマが列を成してただただそこに存在していた。エベレストが少しだけ見え、野口が最後の一歩の手をとってくれた。

 下山をし、4900メートル付近で野口と別れた。彼は一人、彼の原風景へ、彼の世界へ向かった。別れ際の握手は出逢った頃と変わらず、情熱があふれ、力強かった。
 野口の帰国後、また日本での仕事が始まる。
 無事の帰国を心より祈っている。

2004年 9月19日 東京にて 文責:小林元喜