2002年4月アーカイブ

 



 李さんの遭難騒ぎも一段落し、ご本人も元気を取り戻し、いよいよ清掃活動を開始しようと、昨夜の食事の席では久しぶりには皆がしゃいでいた。久しぶりのアイスフォール越えに備え早く寝袋に潜り込んだが、寒くてなかなか寝られない。遅れたスケジュールの建て直しを頭の中で組み立てていたら、逆に目が冴えてしまい、結局、夜中まで起きていた。

 ふと目を覚ましたのが午前5時過ぎ。もうそろそろ起きなきゃな~と思いつつも、寒さのあまり、寝袋から出られないでいたら、バタバタ、バタバタ、とテントが風に叩かれだした。
「あれ、風が吹いてきたな~」
と思いきや、いきなり、テントの真横からボン風に吹っ飛ばされ、組み立て式のベッドから落ちてしまった。それから、休む暇もなく強風がベースキャンプを襲い、必死の思いでテントから出てみれば、風に巻き上げられた雪が視界を悪くし、風の勢いで立ってもいられない状況! ふと自分のテントを振り返れば、今にも飛んでいきそうなほどに傾き、慌ててテントを支えようとつかんだものの、僕の力では飛んでしまいそうな勢い!! それを見たシェルパが飛んできてくれたが、このままではポールが折れると、まずテントのポールを抜き、テントを潰してから、その上から何個も石を起き、飛ばされないようにした。寒さのあまり手はかじかみ、暖かいテントに逃げ込みたいが、しかし、飛ばされそうなテントはほかにもある。それから、約3時間、強風からテントを守るべくシェルパを総動員し、駆けずり回った。機材テントの入り口は見事に破壊され、パソコンや衛星電話に雪が被ってしまい、急いで機材を他のテントに移し乾かした。

 突然の強風という来客に面食らったが、被害は最小限に食い止めた。自然の猛威はいつでも突然だ。キャンプ2が心配になり、なんど無線連絡しても応答がない。ベースキャンプでこれほどの強風であれば、キャンプ2は一体全体どうなってしまったのか。しばらくしたら、キャンプ2にいるカメラマンの村口さんから連絡が入り、
「こっちは強風でテント壊された。ここはひどいよ~ここ何日間もテントの中でうずくまっている。今年のエベレストはひどい。寝むれもしない。クワ~大変だ」
と悲鳴とも受け取れるほどに、上部の厳しい状況が伝わってきた。

 その頃、キャンプ3周辺では大変なことが起きていた。前日にキャンプ3に泊まっていた公募隊の英国人が、キャンプ2へ向け下山中に強風に吹かれ、足を滑らし、滑落。そして、クレパスにすべり落ち、死亡。遺体は回収できていないとのこと。あの強風の中、なぜキャンプ2へ下山しようとしたのか・・・。その公募隊のシェルパの大半がベースキャンプにいる。素人ばかりを集めた公募隊の隊員の死。公募隊に参加したことのある僕には、公募隊への複雑な思いがある。莫大な参加費用を支払ったお客さんらは、登頂できることを疑わないでいたりする。
「だって、お金払ったんだから」
と、それはまるで海外旅行の団体ツアーに参加したかのような感覚のお客さんもいるそうだ。「エベレスト登頂ツアー」である公募隊。96年に大量遭難したエベレスト登頂ツアーのロブホール隊を思い起こす。詳しくは「空へ」という本で公募隊の遭難の様子が書かれているが・・・。

 久しぶりのアイスフォール超えのはずが、再び振り出しに戻された。午後には風が止み、荒れたベースキャンプを直した。犠牲者が絶えないエベレスト。ここで、ぐっと気持ちを引き締め、明日こそキャンプ2を目指したいと思う。冒険で死んではいけない。生きて帰ってこそ、冒険。明日(5月1日)、天候がよければ約1週間ぶりに、ベースキャンプを離れ、上部キャンプを目指す。

 



 今年のヒマラヤはどうもおかしい。李さんの遭難騒ぎから、雪が振りやまない。日増しに雪崩の音が雪の重みのせいか、日に日に「ズシリ」と重くなっていく。湿りけのある重たい雪がその重さに勝てず、ベースキャンプ周辺の壁を流れ落ちる。雪崩の音にすっかり慣れっこになっていた我々も最近の雪崩の音には驚かされることもしばしば。我々が作った行動スケジュールがどんどん後にずれ込み、3日間の休養日のはずが、もうベースキャンプ滞在し、今日で一週間目になる。なかなか、進まない上部での活動にイライラするが、こればっかりはどうしようもない。

 李さんを救助したシェルパ達にいたってはそのままキャンプ2で悪天候に捕まった。いくつかのテントは風や雪で破壊されてしまい、かろうじて残ったテントはポール(テントを支える支柱)を抜き、テントを潰し、その上から石を載せ、飛ばされないようにしたそうだ。そして、彼ら6人は1張の2-3人用テントに身を寄せ合い、一睡もできない永い夜を過ごした。食事も満足にとれないなか、必死の思いでキャンプ2を守ってくれた。

 さらに翌日(4月27日)も、ベースキャンプに避難しようとしたが、大雪の影響で雪崩が多発し、下山も許されずにキャンプ2に閉じ込められてしまった。昨日(4月28日)、なんとか無事にベースキャンプまで下りてきた。さすがのシェルパといえども、その表情からは疲労感が充分に伝わってきた。ゆっくり、休んでください。

 キャンプ2に上がったカメラマンの村口さんからも無線連絡が入らず、大雪の影響でなかなか下山できないでいるのかもしれない。26日にキャンプ2に向かう予定であった僕も、未だにベースキャンプから動けず、天候の回復をひたすら待ちつづけるだけの日々・・・。大幅に遅れているゴミ回収。シェルパの報告ではカトマンズでは、毎日のように雨が降っているとのこと。確か、我々がカトマンズ入りした3月下旬もカトマンズは毎日のように雨が降っていた。乾季であるはずの3~4月にかけて振りつづける雨に雪。どうもおかしい。ルクラからキャラバンを始めた頃に目にしたシャクナゲの花。咲くのがはやすぎやしないか・・・。

  ある情報からは、インド洋の海水が急激に蒸発し、その湿度がたっぷりと含まれた大気がヒマラヤ地方に流されてきた影響でこのような大雪が発生したとか。はやくも、モンスーン現象の現われなのかもしれない。通常、モンスーン(雨季)は5月下旬からはじまる。温暖化の影響が、四季のサイクルを崩しているのだろうか・・・。

  いずれにせよ、季節はずれの大雪に我々はおおいに戸惑っている。といっても、なにもできるわけじゃないし、相変わらずボケーと口の半開き状態が続いている。朝から雪雪雪。鬱になりそう。3月中旬に屋久島を縦走した際に一度も雨に降られなかった晴れ男が、ここで雪に捕まった。今思えば、あの屋久島は僕が、晴れ男ではなく、ご一緒した大坪千夏さんが晴れ女だったのかも・・・。

 あの楽しかった屋久島の旅もいまでは、ないものねだり。現実に目を向けなければならない。現実はいつでも厳しいね~。 救助された李さんもしばらく元気がなかったものの、最近ではようやくその勢いが回復。食堂テントに李さんの声がコダマするようになった。隊の建て直しのため、隊員の皆さんが集まり、今後のスケジュールの打ち合わせを行ったが、その後も天候が回復せず、予定通りに進まない。まあ~これが山。人の都合に自然が合わせてくれるわけがない。あくまでも、我々が自然の移り変わりに合わせなきゃ!焦ってもなにも始まらない。ビスターリ、ビスターリ(ネパール語でゆっくり)です。

 エベレストのチベット側で挑戦している山田君はどうしているのだろうか? また、今井通子さんや、チョオユに挑戦中の三浦雄一郎さん、そしてマナスルに挑戦している小西博文さん。この大雪の影響がどこまで広がっているのか。人のことを心配している余裕などないが、やはり気になるものです。

 ベースキャンプから身動きとれず、寒さにいじめられているときの、心の支えはなんといっても、「カキコミひろば」の存在。毎朝、そして就寝前は必ず「カキコミひろば」に目を通しています。驚くほど、たくさんの方々からのメッセージが寄せられ、その1つ1つをじっくりと時間をかけて読むのが僕の日課です。初めての方もどうぞ、「カキコミひろば」にご意見お寄せください。

 そして、今日は、新しい仲間がベースキャンプにやってきました。谷口けいさんです。高畑隊員のアドベンチャレースの仲間で、立派な登山家です。八ヶ岳に登山中に氷の塊が頭に落ちてきてしまい、頭をバッサリと割ってしまう大けがをしたにも関わらず、翌週には、また八ヶ岳に登ってしまうほどのタフな女性。僕の常識を超えていますが、そんな強力な助っ人が今日、ベースキャンプに合流しました。男だけの窒息しそうな我が隊にやっと華が加わりました。男だけの世界はもううんざり。男女そろって、はじめて健全な社会が生まれるんだと、改めて発見しました!

 明日、天候が回復することを祈りながら、冷え切った寝袋に入ります。

李隊員の暴走

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無線連絡を待つ面々
シェルパらに救援物資を持たせ、救助に向かうよう連絡をした
無事、ベースキャンプに降りてきて、久しぶりに、隊員の皆との夕食
夕食の間中 李さんの表情は暗かった
いつもなら一番大きな声で笑っているはずなのだが・・・

 5月25日、我々がベースキャンプで清掃活動を行っている時に、李、ギーアの両隊員はキャンプ3へと目指していた。前夜に
「キャンプ3で宿泊していいか?」
と李隊員から僕の元へ無線連絡が入り、了解していた。まだ高度順化の段階だ。各自の調整方法がある。僕のようにキャンプ地のアップダウンを繰り返し、少しずつ高所に慣らす方法をとる登山家もいれば、上部キャンプに宿泊することで、高度順化をする登山家もいる。李さんとギーアは後者のほうで、リスクの高いアイスフォールを通過する回数を出来るだけ減らし、上部にいる時間を増やし、一気に順化する戦法をとった。李さんもギーアもヒマラヤ登山のベテランだ。僕がとやかく言うことじゃない。

 ギーアと同じくグルジアからの参加した医師のズーラは一時間おきに無線連絡をとっていた。17時ごろにも通信している。2人のグルジア語の会話をすぐそばで聞いていたが、その様子から緊張感も感じられず、キャンプ2からキャンプ3まで通常、4時間前後であるから、午前8時にキャンプ2を出発した2人はもうとっくに到着しているものと思っていた。しかし、その直後、2人は未だにキャンプ3に到着していないことが判明。キャンプ2を出発して9時間がたっているのに・・・。 ギーアとの無線連絡も途絶え途絶えで、よく彼らの状況がつかめない。

 午後7時過ぎ、再びギーアから無線連絡が入る。
「キャンプ3の200メートルぐらい手前。あと30分で着くと思う」
「李は動きが悪い」
僕は、
「李にキャンプ2へ下りることを考えてほしい」
と伝えたが、
「大丈夫だ」
との返事のあと、再び連絡が途絶えた。彼らと連絡が取れなくなり、慌ててキャンプ2にいるシェルパに連絡し「キャンプ2から見て、2人はどう辺りにいるのか、見えたら報告してほしい」
とお願いしたら、その返事に皆驚きを隠せなかった。
「李とギーアがキャンプ3に到着するまで、あのスピードじゃ、まだ4時間はかかる」
時計は7時半を回っていた。なんとかギーアに引き返すようにと、連絡を繰り返すが、無線のスイッチを切っているのか返事がない。辺りは暗くなり、いたずらに時間が経過していく。キャンプ2のシェルパの話では次第に風が強くなり、寒さが厳しいとのこと。そして、今日、キャンプ2からキャンプ3を経て、ベースキャンプに降りてきた韓国隊員の金さんの一言に皆が凍りついた。
「李はダウンジャケットを持っていってない!」
「手袋も薄いものでいった」
「・・・。」
しばらく沈黙が続いた。ダウンジャケットがない!

 8時過ぎ、突然、ギーアの声がベースキャンプの我々のテントに響いた。
「シェルパのレスキュー頼む。李は動かない。非常に寒い。李のダウンジャケットとお湯とロープを持ってきてくれ!早く 早く!」
シェルパが
「なぜ、ロープが必要なんだ」
との問いには、答えずに
「とにかく急いでくれ!」
とギーアの声が怒鳴り声に変わる。
「早く来てくれ!」
そして再び、連絡が途絶えた。何度、ギーアを呼んでも反応がない。キャンプ2のシェルパ5人を救助のため、暗闇の現場に向かわせた。再び、永い沈黙が続く。

  なにが起きたのか!そしてなぜ、ギーアとの無線連絡が途絶えてしまうのか!胃が痛くなる沈黙。救助隊の報告が入るまで、皆、もんもんとした気持ちで待ちつづける。9時過ぎ、救助活動にあたっていたシェルパから連絡が入り、李とギーアを発見したとのこと。しかし、李は意識がもうろうとしたまま、
「助けてくれ!」
とつぶやいているという。歩くこともできず、シェルパに抱えられながら、酸素を吸入し、夜10時半、無事にキャンプ2に収容された。ギーアは歩けなくなった李に付き添っていたようで、キャンプ3にたどり着けばなんとかなると考えていたようだが、そのキャンプ3は弱り果てた李には不可能な距離だった。シェルパに救助されなければ、その命すら守れない過ちを李隊員は冒してしまった。

 ヒマラヤに限らず、登山を行う場合、絶えず引き返せるだけの余力を残しながら、先に進まなければならない。引き返せない状態で先に進むのは自滅行為だ。素人ならまだしも、ベテランの李隊員が犯す過ちではないはず! ギーアは何度も李に
「下りろ」
とアドバイスを繰り返したが、その意見に耳を貸さず彼は瀕死の状態で登り続けた。
 僕はこの李さんの自分勝手な行動が残念でならない。李さんは翌26日にベースキャンプにシェルパに付き添われながら下りてきた。開口一番、
「申し訳ない。ごめんなさい」
と謝ってくれたが、自身の冒した過ちをじっくりと考えていただきたい。いかなる状況においても、絶えず生きて帰る努力を惜しまないのが冒険だ。むやみに突っ込むのは邪道だ。ご自分の命の重さを充分にかみ締めてほしい。

 

 4月25日、ベースキャンプ周辺をシェルパ15人と共に清掃した。一見、綺麗に見えるベースキャンプも氷河の中をくまなく探せば、出てくる出てくる。我々のベースキャンプから歩いて10分ほど、氷河の内側に向かって歩いているときに、シェルパのニマ・オンチュウが
「日本人ゴミ 日本人ゴミ」
と騒ぐ。近づいてふとその辺りを覗けば、一面日本語で書かれたゴミの山。ラーメンの袋を拾い、賞味期限を確認すると昭和59年とある。常識的に考えると、その前年辺りの登山隊か・・・。

 その広範囲に広がる日本隊のゴミに、シェルパ共々、唖然としてしまった。エベレストの清掃活動を初めて3年目になるが、これほど、大量に捨てられている日本隊のゴミは初めてだ。おそらく、その登山隊は、自分らのベースキャンプ付近にゴミ捨て場を作り、我々が発見したのは、そのゴミ捨て場の跡地だろう。貝塚のようなものだ。ゴミの中には漫画本があり、めくると濡れていてすぐにページがちぎれるが、20年前の漫画がそのまま腐らずに残されていた。

  自分らが登頂さえすれば、エベレストの環境などおかまいなしとされて来た時代の産物。環境に対する意識が少なかった時代に行われた環境破壊。しかし、環境が注目されだした今の感覚で、当時の行いをとやかく批判はできない。我々が出来るのは、過去の過ちから何を学ぶかだ。

 他のゴミを探しにいったシェルパらは韓国隊の物と思われるハングル語で書かれたゴミの山を回収してきた。ベースキャンプの周辺だけで約300キロのゴミを回収したが、そのほとんどは、日本語とハングル語で書かれたゴミであった。やはり、アジア人の環境に対する意識の度合いなのか。日本人はマナーが悪いと海外の山岳関係者から指摘されるのも無理もない。韓国隊員の金さんらも、ハングル語のゴミを前に頭を抱えていた。これから、上部キャンプの清掃が始まるが、最初に回収したゴミは我々日本人には辛い結果だった。今後の展開はどうなるのだろうか・・・。

 

 

ベースキャンプのテントで読む本の一部
ベースキャンプに持ってきた音楽CD
ラジオを聞いている時の再現写真(!?)

 この3日間はノンビリ過ごした。朝から氷河を眺めながら、日本から持ち込んだお菓子をぼりぼり食べ、食べ過ぎたと思ったら、しっかりと胃薬も同時に飲み込み、暇になれば本でも読み、テントの中でごろごろと寝転がり、一人の世界を満喫した。歩かないですむ幸せ。

怠惰な生活がたまらなく贅沢に感じられ、
「いつまでもこんな生活が続けばいいな~」
と本気で思ったりした。夜になればいつものように、アイスフォールが崩壊する爆音に目を覚ますが、
「俺には関係ないもんね~」
とたかだか3日間の休養なのに、強気になってしまう。26日からまたビビリながらアイスフォールを超えるくせに・・・。

  でもそんなノンビリムードはなかなか続かなかった。ラジオから聞こえてくるNHKの「ラジオにっほん」の国際放送が伝える日本のニュースの情けなさ。政治家の不祥事ばかり・・・。加藤幸一氏や、鈴木宗雄氏、辻本さん、そして元参議院委員長のなんとかさん等々、くだらない不祥事に世間が振り回され、国民の目は、小泉さんが必死にやろうとしている改革に目が向かわなくなっている。

 遠く離れたこのエベレストから見えてくる日本丸は実に頼りなさげで心配だ。
辻本さんと同様の疑惑をもたれている元外務大臣のおば様は、その疑惑を追及されれば、
「小泉さんや、山崎さんの疑惑追求が先でしょう」
と開き直り、居座るつもりなのか、僕には彼女の精神構造がよく分からない。あれだけ、外務官僚の疑惑追求に燃え、次官の首を切り、疑惑追求に張り切っていた元外務大臣が今度はご自身の疑惑に対しては、他人の疑惑を持ち出し、そのまま自身の疑惑を明らかにしないまま逃げてしまうつもりなのか・・・。彼女に哲学はないのだろうか・・・。

 昨年、チョモランマのベースキャンプで小泉政権の誕生を知り、その直後の晴天の霹靂が、あのおば様外務大臣の誕生であった。ラジオから流れる彼女の声に耳を疑った。すぐに、ホームページで「小泉氏の失敗」などとチョモランマ清掃には関係ないと知りつつも、じっとしていられず、書いてしまった。帰国後に、
「お前はエベレストにいて田中真紀子ブームを知らないからそのような事を書けるんだ!」
と方々で叱られた。しかし、僕は、あのヒステリックなおば様は外務大臣じゃないだろうと、どちらかといえば、批判専門の野党の党首であり、それこそ土井さんと一緒にがんばれば!と思っていたから、帰国後もテレビでコメンテータを頼まれたときにも、同様のコメントをしたら、またまた、あちらこちらから叱られた。

  ブームは怖い。そして、彼女が外務大臣を更迭されれば、あれだけ人気のあった小泉氏の支持率はいきなり低空飛行。あれだけ、小泉さんを熱狂的に指示しながら、ちょっとしたことで、こうも簡単に応援している人を裏切ってしまっていいのだろうか。人を応援するということは、その人がつまずき、傷ついた時にパッと散ることではないだろう。

 僕はある方の影響で、自分の進むべき道が見つかった。心底、その方を尊敬している。だから、僕はその方が仮にいかなる状況にあろうとも、応援したいし、最後までお供したい。共にリスクを背負ってこそ、応援じゃないだろうか。

せっかくの、ベースキャンプオフであるのに、僕の血圧は一気に上がり、一人じゃ我慢ならないので、スタッフに
「日本の政治は一体、どうなっているんだ!」
と意見すれば、
「また~!?」
とばかりに呆れられた。確かに、ここはエベレスト。しかし、このエベレストの地で僕は日本丸のことが気になってしかたがない。あ~あ~ラジオなんか聞かなければ良かった。

 

 4月19日、2度目のアイスフォール越え。午前、7時30分、ベースキャンプ出発。アイスフォール通過中、付近の岸壁から落石が発生し、その爆音に身がすくむ。2度目のアイスフォールとあり、先が読めるので前回以上に精神的に楽だ。高度的にもいくぶんか順応できたのか、前回ほど息がきれない。しかし、いつ崩れてもおかしくない氷柱群の下を通過しなければならないときは、疲れていようが足が自然と速くなる。そして、クレパスの多さ。ハシゴを渡っている時に、思わず、
「ここは160メートルの深さ」
「ここは200メートルはあるな!」
と声をだしてしまう。そんな時、一緒に登っている高畑隊員から嫌な顔をされる。高畑隊員は初のヒマラヤ登山であり、まして、その初ヒマラヤがエベレストのアイスフォール越えとあれば、精神的にきついのも当たり前だ。そりゃ~嫌な顔するわな~。

 

 

 5時間弱でキャンプ1に到着。今日はこのキャンプ1にテント泊し、翌日にキャンプ2(6400メートル)を目指す。高所での生活で欠かせないのが水分補給だ。テント周辺の雪を袋に詰め、テント内でコッヘルに移し変えガスコンロの火力で水に溶かす。この作業は疲れた身にこたえる。しかし、息を切らせながら5時間弱も登りつづけてきた。体は脱水症状気味になり、また、酸欠の影響で血のめぐりが悪くなり、血がドロつく。水分をしっかりと補給し、体内の血液をサラサラにしてあげなければならない。高畑隊員は高山病の初期症状で頭痛と吐き気に苦しみだしたので、利尿剤を飲ませ、水分を多く取らせた。高所の夜はとにかく永い。寒さや酸欠気味から寝つきも悪く、寝袋の中でもんもんと過ごす。

  耳元で氷河に亀裂が入る音が響いてくる。かと思いきや、付近で発生する雪崩や落石の爆音。この氷河は、夜中になると決まってにぎやかになる。テントの周辺もクレパスだらけ。夜中にトイレで目を覚まし、テントから出て移動するスリル感はなんともいえない。クレパスの表面だけに雪がかぶるヒドゥンクレパスが無数あるだけに、一歩一歩に緊張感がはしる。

何年か前、このキャンプ1周辺で一人のシェルパが皆の見ている前ですっとその姿を消した。彼は氷河に飲み込まれるかのように、静かにこの雪原に消えたそうだ。

 翌20日、午前8時キャンプ2へ向けキャンプ1を出発。歩き始めて30分ほどしたら、それまで手前の岩壁に隠されてきたエベレストがいきなりドーンとその姿を現した。真っ黒な南西壁の大岩壁に圧倒され、また、その堂々たる姿に世界最高峰の威厳を充分に感じた。

 11時、キャンプ2に到着。キャンプ地は氷河の脇にあるモレーン上に設営された。さすがに6400メートルのキャンプ2は、いるだけで息がきれる。頭も重くなり、しまいに脱力感に襲われる。テントの周辺を少しぐらい歩き回ったほうが、体が楽になるのは百も承知だが、わが身はテント内から一向に動こうとしない。夕方になり、日が暮れれば、辺りは凍りつく。食欲もなく、スープを無理やり飲み込み、後は寝袋に潜り込むだけ。そして再び、永い夜。息苦しくなり、横になっていられないため、半身を起こし、深呼吸をする。酸欠の影響は明らかだった。その後も、寝返りを永遠と繰り返すが、寝つけない。

 次第に目がらんらんとし、寝ることをあきらめてしまった。そんな時、いつも寝袋の中でもの思いにふけてしまう。きまって過去の出来事が頭の中を駆け巡る。特によく思い出されるのがイギリスにある寄宿舎で過ごした高校時代のこと。そこでの出会いや別れ。そして、停学処分、落ちこぼれていく僕と本気で戦ってくれた先生達。立教英国学院は僕の原点であり、故郷でもある。あの時のお姫様も、もうお嫁さんになってしまったんだな~。それは寒い寒い夜だった・・・。

 21日、朝からだるく、なにもする気が起きない。高畑隊員とキャンプ2の周辺を歩くが、ちょっとした坂道に息がきれ、100メートル歩くのにも精一杯。気分は怠け者。相変わらず食欲もなく、ダイエットには最適な場だ。弱点の喉からも咳が止まらなくなり、腹筋が痛む。

  ベースキャンプからこちらに向かっているわが隊のシェルパがアイスフォールのハシゴを渡っている最中に、バランスを崩し、ハシゴから落ちてしまったそうだ。命綱で宙ぶらりんにぶら下がってしまったが、幸い他のシェルパに無事救助されたとの情報が入る。無事で良かった。全身の力がスーと抜けた。

 韓国隊はキャンプ3(7300メートル)へのルート工作に出かけた。ここから、見えるキャンプ3はとてつもなく遠い世界のように感じられ、自分があの切り立った氷壁のど真ん中にあるキャンプ3に行くはずもなかろうと、他人事になって眺めている自分に気がつく。高所順化が出来ていない身はなにもかもが不可能に感じてしまうほどに怠惰感に埋め尽くされてしまう。キャンプ2での、2日目もまるで眠られず・・・。

 22日、早朝、ベースキャンプへ向けて下山開始。標高が下がるしたがって、体が生き返ってくるのがわかる。午前11時、ベースキャンプに戻る。雪にふられ悪天候であったが、それでも、ベースキャンプに戻ってきたという安堵感からか、寒さなど気にならなかった。

 この緊張感と安堵感が入り混じるエベレストの世界は実にメリハリがきいている。普段、なにもないときは一日中、ダラ~と口も半開き状態で過ごしている僕にはこれぐらいのスパイスが効いた世界が時には必要なのかもしれない・・・。ベースキャンプに下りてからは、食欲が回復し腹にたらふく食べ物を詰め込んだ。そして、夜は久々に熟睡。ベースキャンプは天国だ!これから三日間のお休みで~す。

 

 



 午前4時30分、起床する。テントの内張りは凍りついたまま。緊張していたのか、ほとんど寝られなかった。時おり、腕時計に目をやり、
「出発まであと5時間か」
「あと、3時間か~」
と、迫ってくる出発時間に対して、寝袋の中に潜り込んだまま、
「俺はテントから出ないぞ!」
などと心の中でアイスフォール越えを強く拒否していた。

  そうはいっても、現実には行かなければならない。出発までの残された貴重な時間を寝袋のなかで息を殺しながら物思いにふけっていた。うとうとしていたら、日本を発つ直前に高田馬場にあるイタリアレストラン「イルキャステロ」に行ったときの夢を見ていた。「イルキャステロ」は僕にとって大切な場所だ。ヒマラヤ行きの前には必ず行く店。どうしてかよく分からないが、きっと心の整理ができる場なのかもしれない。決まって二階の一番奥の角。もちろん今回も・・・。

 夢の中で美味しい赤ワインを飲みながら、楽しそうに話していた。いい夢だった。夢は実に都合がいいようにできていて、実際は「イルキャステロ」の前に車を違法駐車し、警察に駐車違反で切符を切られた所までは夢に出てこなかった。

 5時30分、シェルパ達とベースキャンプを出発。前日に行われた安全祈願の石塔に火がつけられ、シェルパ達と神に祈りを捧げ、出発。出発直前に「うさぎ」と握手し、ついでにチュっとキスした。
「あいつの唇はめちゃくちゃ冷たかったな~」
アイスフォールの取り付きまで約30分。あれだけ寝袋から出たくなかったのに、いざ出発してしまえば、スイッチが入る。いやな緊張感から戦闘的な気持ちに変わり、徐々にテンションが上がっていき、実に気持ちの良い緊張感へと変わっていくのを感じることができる。

 アイスフォールに突入してから、一時間しないうちにクレパスに架けられたハシゴが出てきた。通常、ハシゴとは下から上に登るもの。しかし、ここではタテに口をあけたクレバス横断するためにヨコに渡されている。

  金属のハシゴと登山靴の底につけているアイゼンが同じ金属のため相当神経を使わないと滑ってしまう。1本のハシゴで届かない場合は、3~4本のハシゴをロープで連結して使用する。連結されたハシゴの数が多ければ多いほど、歩いている最中にハシゴがフワフワと揺れる。眼下には100メートル以上も深い真っ暗な世界が、まるで口を大きく広げて「おいで おいで」と待っているかのようだ。シェルパ達はハシゴを渡るときによく
「オンマニペメフム」
と口ずさむ。ラマ教の祈りだ。

 このハシゴだけではなく、ちょっとしたビルほどある氷柱群も危険だ。その傾いた氷柱はいつ崩れるか分からない。傾いた氷柱の下を通過しながら、
「今、この氷柱が崩れれば俺なんかミンチだな~」
と思わずスーパの肉売り場に並ぶラップされたミンチ肉がいつも頭をよぎる。

 実際にこの氷柱はよく崩れる。ベースキャンプでよく夜中に爆音に起こされるが、大抵はこの氷柱が崩壊する音。氷柱の崩壊により、登山ルート自体が変更されることも珍しくない。

 気をつけようにも、ここで頼りになるのは運だけ。あまり考えすぎてもノイローゼになってしまうだけ。だから、僕は
「なるようにしかならない!」
と諦めてしまう。自身の努力で切り開ける道もあれば、運命がかってに決めてしまう道もあると思っている。

 エベレストの自然の前での選択の多くは後者のほうだ。人間の無力さを感じずにはいられない・・・。

 アイスフォールは日々その姿を変える。2ヶ月間の遠征期間中でもハシゴの位置が変わったり、クレパスがさらに開くためにハシゴごとクレパスの底に落ちていったりする。したがって、予備のハシゴを準備しておかなければならない。氷河も生きているんですね。

 ベースキャンプを出発して6時間弱。やっとキャンプ1に到着。今年はクレパスが多発し、ルートが例年よりもジグザグし、99年の時よりも2時間以上も遠かった。キャンプ地でぐったりと疲れ果ててしまった。しかし、まだ緊張感から開放されたわけじゃない。今から、再びアイスフォールを下ってベースキャンプまで降りなければならない。一時間休み、再びアイスフォールの世界に戻っていった。3時半、ベースキャンプに還って来た。やばいぐらい疲れました。とりあえず二日間休み、19日に再びアイスフォールを超える。今度はキャンプ2(6400メートル)を目指す。それまでの二日間はとても大切。ゆっくりと休養に専念します。

ベースキャンプにて 野口(犬)健

 

 前回の「みんなにヤッホー」にも書いたが、エベレストのような厳しい環境で長期間に渡って生活を行うためには、食事の充実が欠かせない。今回も日本から大量の日本食を持ち込んだ。ベースキャンプ用の食料と上部キャンプ用の食料とを整理しなければならない。

  日本を発つ直前に慌てて食料調達したため、ギュウギュウ詰に積み込まれた食料の仕分けは困難だ。最初は
「これはベースキャンプ用」
とか言いながら丁寧に袋やドラム缶に詰めていたが、途中から、かなりアバウトになってしまい、結局どこになにがあるのかわからなくなってしまった。

我々は日本食を用意し、韓国隊員はキムチを、そしてグルジア隊員はいつもなにも持ってこず、好きなときに好きな方をつまんでいる。

 グルジア隊員のギーアはネパール側からのエベレスト登山は初めてであり、アイスフォールの状況がイメージできないのか、ノンキに同じくグルジア隊員でドクターのズーラと昼寝なんかしている。
「うらやましいな~」
 ギーアは毎シーズン決まってヒマラヤの山々に挑戦し続けていて、僕とは96年のチョーオユ(8201メートル)で出会った。山の縁とは不思議なもので、実は、ギーアは僕がロシアのエルブルースに挑戦した際にサポートしてくれたロシア人ガイド、ギーナの大親友でもあった。

 僕らが打ち解けあうのにほとんど時間は必要なかった。

97年、ギーナと一緒にエベレストに挑戦する事になっていたが、96年の暮れになってもギーナと連絡が取れなくなっていた。連絡が取れないまま、僕はエベレスト挑戦のためにネパールに向かった。その先のカトマンズでギーアと偶然会い、
「ギーナと連絡が取れないんだ」
と尋ねたら、
「お前、あいつのこと聞いてないの?」
と悲しそうな顔をされた。僕はその瞬間にギーナの言葉を聞かなくてもギーアの身になにが起きたのかわかった。

  冒険の世界に身を置けば、繰り返されていく仲間の死。ギーアの投げかけた
「あいつのこと、聞いてないの?」
は彼の死を意味していた。ギーナは96年秋にヒマラヤで雪崩に巻き込まれ行方不明のままになっていたのだった。

  その場で、僕は思わず涙が出てしまった。その横でギーナも目を真っ赤にさせ、
「お互い、ギーアの分もがんばろう」
と親友の死を無駄にさせまいと互いに心に誓った。僕にとってギーアとパートナを組む事で、どこかでギーナとつながっているような気持ちになれた。

  今年もそのギーアと共に清掃登山を行う。 登山家の絆は強い。ギーアや李さんは僕の本当の仲間なんだな~。

 

 登山活動を始める前に必ず行われる儀式がある。シェルパ達が信仰するラマ教による安全祈願だ。ラマ教のカレンダーにより儀式の日時が決められる。我々の安全祈願は4月15日、午前7時からとなった。日の出直前とあって、ダウンジャケットで身を包んでも寒さがこたえる。石で作られた石塔の前に皆で座り込み、パンボチェ村からやって来た坊さんのお経が始まった。石塔の横でお香を焚き、その煙が実に苦しい。ただでさえ、酸欠で頭が重いのに煙はこたえる。

 昨年に続きチョモランマから回収した酸素ボンベで作った「うさぎ」が石塔の上に置かれた。さらに、ラマ教で神聖とされているバターを頭やお腹に塗られ、祈りの対象となっり、「うさぎ」が再び神になっちゃた・・・。前回は怪しい新興宗教の集団と勘違いされたが、
「今回は大丈夫だっただろうか?心配だな~」
 安全祈願の最中にアイスフォール付近で雪崩が発生した。エベレストに初めて来た頃は爆音のような雪崩の音にいちいち驚いていたが、ここにいれば毎日繰り返される雪崩に、いつしか慣れっこになってしまう。昨夜もアイスフォール付近から氷柱が崩壊する音が派手に聞こえていた。

 いよいよ明日、そのアイスフォールを登る。チベット側の安全祈願よりも力がこもっていたのは僕だけじゃないだろう。ラマ教のしきたりで短刀を山に向け、闘志を燃やした。明日はキャンプ1(6100メートル)を目指し、宿泊して翌日にキャンプ2にタッチしてベースキャンプまで戻る予定。ここでも高度順化のために上部へ行ったり来たりする。アイスフォールのような極めて危険な場所を何度も往復しなければならない。

 午後は、アイゼンやハーネス(安全ベルト)などの登山道具の点検を行った。普段、あまり物事に集中できない僕でも、ここでは別だ。気がついたら真剣になっている。いよいよ、サガルマータ清掃活動開始だ。

 

ベースキャンプまでの道中でひとやすみ
隊員と記念写真。ベースキャンプまで、後もう少し
ベースキャンプまでの険しい道を大量の荷物を運ぶ ヤク
一歩、一歩ゆっくり進む
シェルパの手を借りて、テントを設営する。慣れたものでわずか数分で設営完了
野口ホテルでうっとり の図

 3年ぶりのサガルマータ(エベレストのネパール語名)。ベースキャンプに到着すれば、目の前に展開するアイスフォールの迫力に圧倒される。と、言うよりも、これからあのズタズタに裂けた氷河にいくつもの梯子をかけながら登らなければならないのかと思うと、泣きたくなる。アイスフォールとは氷河が急激に落ちている為に、氷に無数の亀裂が入り、クレパス地帯となっている部分のことを指す。数十メートルはある氷柱が傾き、いつ倒れるか分からないが、その下を通らなければ上部にたどり着けない。よく、
「アイスフォールはロシアンルーレットだ」
と言われるが、一度アイスフォールを登ってみればその意味がよ~く分かる。

 15日にベースキャンプ開きをラマ教の式典により行われる。そして16日から清掃活動開始。まずは、キャンプ1(6100メートル)を目指す。いよいよ、16日からアイスフォール突入となるわけだ。帰国したら、きっといいことが待っているはずだ!

 14日は一日かけてベースキャンプ作り。ベースキャンプは基地だ。ベースキャンプから上部へ向かい、数日間の清掃活動を行ったら、再びベースキャンプに戻って体を休める。そして再び上に向かう。つまり、ベースキャンプは休息の場。ベースキャンプで疲れが取れなければ、上部での活動に支障をきたす。毎年ヒマラヤにやってくる僕はベースキャンプの設営に気を使う。ベースキャンプの僕のテントは、よく
「野口ホテルだ!」
とシェルパから冷やかさせるぐらい、快適にしている。コールマンの大型テントに組み立て式ベッドを入れ、まるで室内のような空間を作り出している。テントの中にいても、自由に歩き回れ、着替える時も、立ったまま。CDプレヤーにスピーカをつけ、いつでも音楽を聞ける。危険なアイスフォールから戻ってきてもこのテントに入れば緊張感から開放される。1998年のエベレスト挑戦以来、僕はこの大型テントを使っている。基地は快適でなきゃダメ。これが僕の鉄則だ。

  また、食事も大切だ。酸欠により胃腸の働きが弱くなる。そんな時は、やはり日本食が食べたくなる。遠征期間中の楽しみは食事ぐらいしかない。毎年ヒマラヤ行きの直前に、三和というスーパから日本食をいただいている。今年も500キロほどいただいた。その中に、うなぎの真空パックがあるんだな~これが楽しみ!

 そして、今年なによりも楽しみにしているのが、このホームページ上の「カキコミひろば」を開くこと。 厳しい日々、寄せられてくる意見に励まされているんですよ!

トゥクラの墓場

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 ディンボチェからベースキャンプを目指すと必ず通らなければならない坂がある。「トゥクラの坂」を登りきると無数のチュルン(墓)が並ぶ。エベレストから還らなかった登山家やシェルパ達の墓場だ。その中でも、目立つのがシェルパ達の名が刻まれた墓石の多さ。

  この坂を越えてエベレストのベースキャンプに向かうが、シェルパ達の名が刻まれたチュルンを眺めるたびに、自分のシェルパを死なせてはならないと、肝に銘じることにしている。シェルパ達の協力があってこそ僕のエベレスト登頂、清掃登山がある。自分の夢の為に彼らを犠牲にしてはならない。トゥクラの坂は僕に人の命を預かる事の重さ、そして責任をひしひしと伝えてくれる。

 数並ぶチュルンの中に真新しい墓石を見つけた。刻まれた名を見つけ、はっと驚かされた。マトュウさん、22歳の若きイギリスの登山家の墓だった。遭難日は1999年5月13日。まさしく僕がエベレストに登ったその日だ。エベレストの山頂付近で僕は彼と一緒に歩いていた。登頂後、最大の難所である、ヒラリーステップで彼は発狂してしまい、チベット側へジャンプしてしまった。おそらく、恐怖心や、ストレス、また酸欠が彼を死に追いやってしまったのだろう。我々の目の前でおきてしまった悲劇。僕はマチュウさんの墓を前にしばらく立ちつくしてしまった。厳しい環境の中で同じく戦っていたのだ。まるで戦友のようだ。仲間の戦死。山では死んではならない。僕はあらためて自分に言い聞かせていた。死ぬな、そして死なせるなと・・・。

 

ベースキャンプまで、人(ヤク?)と出会いながら道を進む

 4月8日、クムジュン村を後に一路ベースキャンプへとキャラバンを開始した。相変わらず、午後になると雪がふる。登山道が雪でどろどろになってしまい、歩きにくいが、しかし、喉を痛めた僕にとっては恵みの雪でもある。雪のおかげでいつも苦しめられている砂埃がすくないからだ。乾燥しきっているはずの空気も湿度をたっぷり含み喉にやさしい。

 4月9日、ディンボチェ村に到着。ディンボチェ村に来る時には必ず寄っていく家がある。

僕がディンボチェ村に始めて訪れたのは19歳。その時に泊めてもらった村の人の家だ。高山病に苦しんでいた僕に小屋のママが
「頭痛にはガーリック入りのスープがいいのよ」
と作ってくれた。その頃のエベレスト街道は今のような豪華なロッジなどほとんどなかった。

 泊まるところといえば、村人の民家にお客用の寝室を付け加えただけの質素な「民宿」だった。それだけに、彼らの生活習慣にどっぷりとつかれた。決して衛生的ではないが、しかし、僕らの社会が失ってしまった他人に対する温かさがあった。1992年以来、僕はディンボチェに寄るときにはママの小屋に泊まる。1999年のエベレスト登頂直前もベースキャンプからママの小屋に降りてきた。精神的にも追い詰められていた3度目のエベレスト挑戦。アタック目前にママの小屋で数日過ごした。なにか、守られているようで、ほっと安心したのか久しぶりに熟睡できた。

  このディンボチェ村にも今では立派なロッジがいくつかできた。どうしてもトレッカーの足はその清潔感あふれるヨーロッパ風のロッジに向いてしまうが、ママの小屋のような温かさは感じられない。エベレスト目前に僕はママの温かさを充分に感じ取っていた。

 高度順化の為に、ディンボチェ村の裏にあるナガゾンピーク(5100メートル)に登った。5000メートル付近から息が切れだした。少しずつ足を前へ前へと出すが、なかなか続かない。頭もなんとなく、重たく感じる。来た来た来た!高所の世界に踏み入れた証だ。ここが、自分の世界なのか、妙にうれしい。
「低所よりも高所のほうが体質にあっているのかな~」
残念ながら、ナガゾンピークの頂についた時には雲に覆われ景色は楽しめなかったが、体調とは裏腹に気持ちは「わくわく」と興奮気味だった。

 

ベースキャンプに着くまでの間は、体に無理をしないように、ゆっくりゆっくり進む

 今日はシェルパ族のメッカとされているナムチェバザールに向かう。ナムチェバザールでは毎週土曜日に市場が開かれ、エベレスト街道に面している村人達が買い物にやってきて賑わう村だ。時には、チベット人が国境を越えてこのナムチェバザールにやってくる。彼らは、中国製のじゅうたんや、靴や衣服を持ってくる。ナムチェバザールではカトマンズで買うよりもいくぶんか安く手に入れることができる。

  我々は標高に体を慣らすためにこのナムチェバザールで二泊する。プンキテンガからナムチェバザールまでの道のりはいくつものつり橋を渡り、川沿いをつめていく。

  トレッキングの道中には、モンジョという村があって、その近くに以前日本人が植えたという桜の木が見事に桜を咲かせていた。今年はラッキーだ。日本でも桜を見られたから、二度美味しい思いをした。海外で桜を眺めると、つくづく
「自分は日本人だな~」
と思う。桜を眺めているだけで、胸がジーンと熱くなる。シェルパ達に
「どうだ、あれが桜だよ。日本の花だ」
と言っても、
「フ~ン、だからどうしたの」
って感じなんだな~。調子狂っちゃうよ。

 最後のつり橋を渡ってからは、標高差600メートルの坂を一気に登る。毎度のことながらこれはこたえる。ヤクになった気分でひたすら登るしかない。途中、ヘロヘロになったトレッカーらが何人も座り込んでいた。山登りは楽じゃない。プンキテンガから5時間ほどでナムチェバザールに無事到着。ギリシャにある円形劇場のような形をしたナムチェバザールの村。活気あるこの村は僕の好きな場所だ。しかし、このヒマラヤの村もマオイストの影響を受けている。

  村の高台にはマオイストの襲撃に備え、兵士が立てこもっている。こんなところに、マオイストがやってくるのかと、疑いたくなるが、夜7時以降の外出は禁じられている。外出した者はその高台から狙撃される。冗談かと思ったが、これが本当の話なのだ。7時以降に外出すれば問答無用に射殺されてしまう。ここは、ヒマラヤだぞ。信じがたいね~まったく・・・。

 そして次にがっかりしたのが、ナムチェバザールも年々ゴミが増え続けている。村のいたる所にゴミが散らかっている。ナムチェバザールもいずれカトマンズのようになってしまったら・・・と思うと悲しくなる。ゴミの大半は現地の人がだしたもの。 女優の若村麻由美さんが98年にテレビの撮影でナムチェバザールに来たときもゴミが酷かったらしく、ショックを受けた彼女は、
「思わずゴミ袋広げて掃除してしまった」
と言っていた。その頃よりもさらに事態は悪化している。やはり、現地の人々への環境教育が必要なんだな~

 ナムチェバザールの村にはいくつものお土産やさんが並ぶ。フラッと入ったら、明らかに古い数本のピッケルが目に入った。アンティーク好きの僕はその黒光りした木製のピッケルがどうしても気になった。店のマスターに聞けば、
「30~50年前のものだ」
と言う。マスターが
「お前、日本人か、それならば、これどうだ」
と短めのピッケルを手渡された。そのピッケルのヘッドに薄らと「JAPAN」と書かれてあった。仮に30年前としたら、1970年に日本山岳会から派遣された日本隊のものかもしれない・・・。その日本隊は植村直己さんが日本人としてエベレストに初登頂した隊だ。そういえば、いつだったか、板橋区の植村記念館に展示してあった、植村さんがエベレストで使用したピッケルと、長さも形もそっくりだ。もうすっかり気分が盛り上がってしまい、マスターに値段を聞けば
「150ドル」
という。決して安くはない。しかし、それ以上にもう、欲しくて欲しくて、どうしていいか分からないぐらい欲しくなってしまった。お店の人が僕の表情を見て悟ってしまったのか、なんとか値切ってみたものの「140ドル」までだった。しかし、これを買わずしてエベレスト清掃登山に集中できなかったら、それこそ損失が大きいじゃないかと、自身を正当化し購入!

  ロッジについてからも、そのピッケルを見つめながら、
「アルピニストにとってピッケルとは武士にとっての刀と同じだ!」
と男のロマンにひたっていた。今日ばっかりはピッケルと一緒に寝たい気分です。

 

多くの記者さんらが、カトマンズで開いた僕の記者会見に集まってくれた

 カトマンズ市内で記者会見、開きました。昨年以上に盛り上がりました。3回目の清掃登山で、我々の活動もようやく認知されてきたのと、清掃活動がネパール側に移った事で、ここネパールでの取り上げられ方が昨年とはまったく違う。ネパールの地元のメディアをはじめ、AP通信やロイター通信、共同通信などたくさんのメディアの関係者の方々が駆けつけてくれた。

 英語はともかく、ネパール語では思っていることをうまく伝えることができないので、登山家でネパール人と国際結婚した ウプレティ 美樹さんに通訳をお願いした。彼女の作っているホームページ(http://japanepal.com/)では、ネパールのニュースを日本語にして公開しているので、こちらの最新情報をチェックする際にも非常に役立つ。

 さて、記者会見では、清掃登山のいきさつや、スケジュールなどの説明の後に、話題が橋本龍太郎氏に移るとこれまたヒートアップ。エベレスト清掃登山や始まったばかりのシェルパ基金でも橋本氏に助けられていると伝えたところ、
「これはトップニュース!」
とばかりに質問が集中した。また、シェルパ基金に関しても、
「つい先日、日本でシェルパ基金を設立した。シェルパ基金はデリケートな問題を抱えているだけに、山岳関係者からの反発も予想されるし、実際に起きている。僕が基金を立ち上げたが、でもネパール側の問題でもある。
「僕を後押ししてくださいよ。シェルパ基金の必要性はネパール側からも世界に発信してください。あなた方の力を貸してください。僕を助けてくださいよ」
とお願いしたら、
「ネパールはケンの味方だ!」
とうれしい声が飛んできた。

  僕は記者会見、好きなんですよね。いつでもそうですが、会見した後に、記者の方々と仲間意識が芽生えるんですね。韓国でもネパールでも時に日本でも、会場の空気が1つになるんですね。

 僕の活動を振り返ってみても、マスコミの方々にどれだけ助けていただいたか分からない。特にエベレスト清掃活動は、世界中に発信して初めて意味を持つ。

 記者会見の後に、ネパールテレビが清掃活動の後半から現地にきて、特集を組みたいと言ってきた。ネパールのテレビでは過去に「ゴミ」をテーマにした番組を創ったことがないと言っていただけに、新たな分野がお茶の間に伝われば、そこから新たなマインドが生まれてくるかもしれない。ネパール人の環境に対する意識の変化が生まれれば、苦しい清掃活動も救われる。本当に僕は多くの人に支えられている。通訳をしていただいた美樹さんにも
「健さんがネパールにも種をまいてくれた。ここからはネパールの人たちが大きく育てる番。みんな健さんに感謝してますよ」
と、涙の出るようなうれしいお言葉も頂戴した。

  日本でも僕の話を聞いてくれた子供たちが実際にゴミの掃除を始めてくれた。こんな、嬉しいことはない! 明日からヒマラヤだ。ネパールの人々にも支えられながら、カトマンズを発てる自分はやはり恵まれている。よっしゃ!

  明日からがんばるぞ!

グルジア隊員のギーアとドクターのズーラがカトマンズに到着。昨年のチョモランマぶりの再開だ。ギーアはグルジア山岳会の会長でありながら、毎シーズン、ヒマラヤに挑む現役の登山家だ。どこかの国のように会長職が単なる名誉職ではなく、若手以上に活発的な活動を行い、そして後輩に刺激を与えている。
「理想だな~」
ベテランといえば登山家であり医師の今井通子さんが数日後にカトマンズ入りする。エベレストをチベット側からアタックされるそうだ。久しぶりに今井通子さんがヒマラヤに戻ってきた。今井さんとは、何度か座談会で席をご一緒させていただいたが、頭のキレ、回転の速さ、そして豊富な知識、彼女独自の哲学、どれをとってもずば抜けていたと感じた。そしてなによりも感心させられたのが懐の大きさ。何度か今井さんとお話をしているうちに僕はすっかり彼女のファンになってしまった。その今井さんがカトマンズにやってくる。是非、お会いしたい。会ってくれるかな~ 楽しみです。

 韓国隊員の李さん他3名の韓国隊員は明日カトマンズ入りする。清掃隊員が着々と現地いりしている。今のうちにノンビリしておかないと・・・。エベレスト清掃活動の記者会見は4月4日にカトマンズのホテルにて行われる予定。昨年、同じくカトマンズで記者会見を開いたのだが、記者の中からこんな質問が飛び交った
「5000万円もかけてエベレスト掃除して、持ち帰ったゴミはいったいいくらで売るのか」
「エベレストを清掃したらなにかご褒美があるのか」
おもわず閉口してしまったが、お金をかけてまでゴミを拾う行動がどう考えても理解できなかったのだろう。この活動を続けているうちに彼らにもエベレスト清掃活動の本質的なものが分かっていただけるだろう。

シェルパ達は年々清掃活動に対してテンションがあがっている。特に今年からは自分達の国を清掃するので、気合が入っている。清掃登山を始めた2年前とは、清掃活動に対する受け取り方がまったく違っていきている。死に物狂いで世界最高地点の清掃活動を実際に行えば、ゴミに対する嫌悪感をいやというほど感じるだろう。

 「100万回のコンチクショウ」じゃないが、時に怒りも大切。でも怒ってばかりいたのでは自分自身も回りの人も疲れてしまうので要注意。要はバランス感覚が求められるんでしょうね~。

 日本では巨人が阪神に2連敗したとか・・・。なんでこのカトマンズの地でそんなことにショックを受けるのか分からない。でも勝負はどちらもまだ始まったばかり。まだまだ、これから、これから・・・です!

3度目のエベレストを控えながらも、なんとなく準備に集中できずにいた。その理由は忘れもしない、2月27日、スポンサーの方々との会食中に携帯電話に連絡が入ったことが発端。僕の事務所から、
「橋本さん、倒れたよ!」
「今、マスコミの人から連絡がきて橋本さんが倒れたことについてのコメントがほしいんだって」
「24時間、いつでも健ちゃんと連絡がとれるようにしたいそうです」
24時間いつでも僕と連絡を取りたがっている新聞記者。その理由を考えれば、深刻な状況だと容易に想像できた。ヒヤーと心が凍りついていくのを感じた。

 そういえば、カトマンズでご一緒したときも顔色が悪かった。頬が少し痩せていた。橋本さんのスケジュールを秘書の方に聞いて驚いた。休みという休みがまったくない。多忙なだけではなく、世間やマスコミからの風当たりも日増しに強くなっている。派閥内からも不祥事がとびだしていた。長としてのストレスは想像を絶するはずだ。
「大丈夫かな~」
と心配していた矢先に「橋本氏倒れる」との一報だった。会食中も、頻繁に時計に目がいってしまい、じっと座っているのがつらい。こんな時に橋本事務所に連絡しては逆に失礼だろう。なにを食べていたのか思い出せないほど、僕は動揺していた。

 タイミング悪く、その翌日から仕事で八ヶ岳に入らなければならず、山のなかでも落ち着かなかった。その後、手術は成功したとの報道に一安心したが、心臓というデリケートな部分、それに日頃のハードなスケジュールで体がボロボロなんじゃないかと、免疫力も弱まっているんじゃないかと、自分の事以上に心配でどうしようもなかった。結局、エベレスト出発前にお見舞いもできず、なんとなく胸に何かが突っかかっているかのような、息苦しさを感じたままネパールに来てしまっていた。

 そして、ひまをみつけて入った、カトマンズのインターネットカフェで「カキコミひろば」を開いたら「橋本さん政治活動復帰」との知らせが目に飛び込んだ。
今度は胸がスッキリしていくのを感じた。

  しかし、油断は禁物だ。実は以前から橋本さんにお願いしていたことがある。それは禁煙。四六時中、吹かすあのタバコはどうにかならないのか。タバコを吸わない橋本さんを見かけるほうが少ないくらいだ。そして決まって飲むウイスキー。インド料理だろうと、日本料理だろうと、洋食であろうと、いつもウイスキー片手! 
その味覚を疑うと同時に橋本さんの健康管理は一体どうなっているのかと、政治家にとって自己管理は最低限の義務だろうと、僕が彼の秘書になりたいぐらいだった。僕が橋本さんの秘書だったら、殴られようが、蹴られようが、健康管理を徹底させる。酒はともかく、タバコはやめていただきたい。
「お前はいやな奴だな~」
とまた言われちゃうと思うけれど、一度エベレストのベースキャンプから橋本さんに連絡したい。
「橋本さん、もう禁煙ですよ!」
と、どれだけ人を心配させたのか、反省していただきたい。

 それにしても、これでやっとスッキリしました。気持ちを入れ替えてエベレストに行けます。またまた「カキコミひろば」に助けられました。ありがとう。そして、橋本さん、復帰おめでとうございます。これからは、お体を大切にしてください!本当に・・・。

カトマンズ到着

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成田空港にて、大量にあるに荷物をX線検査機に通す
飛行機の中ではひたすら寝る…
カトマンズの空港に到着。写真に写っている荷物は、ほんの一部です
カトマンズに到着後おそってきた下痢にぐったり
街中いたるところに兵士の姿が…

 3月29日、三度目のエベレスト清掃登山の為にネパールへと向かった。今回は全日空さんのご協力もあり、バンコク経由でカトマンズに向かうこととなった。前日までの忙しさも手伝って、バンコクに向かう機内の中では死んだように眠りこけた。時たまふと目覚めると頭が痛む。熟睡しすぎて頭が酸欠になったんだろう。

  しかし、そんなノンビリもバンコクについて吹っ飛んでしまった。翌日のタイ航空に乗り換え、カトマンズ入りする為に、600キロある荷を預けなければならない。しかも、税関を通せばいくら請求されるか分からないので、空港内でなければならない。30個ほどダンボール大の荷物をカートで何往復もしながら運び出しだけでも一苦労なのに、それらを預ける手続きは数時間にも及んだ。無事に預けて飛行場を出たのはバンコクに到着してから3時間以上も後のことだった。汗だく、クタクタだった。

  その夜、仲間達とタイ料理を食べに行った。適当に注文したら生のエビをニンニクで包む料理が出てきて、
「なんとなくやばそうだな~」
と思いつつも食べてしまった。そして毎年お決まりの腹痛に下痢に襲われた。

  まず、スタッフのひとりがカトマンズ行きの飛行機のなかでトイレから離れられなくなり、
「腹が痛む」
と青白い顔しながらスチュワードさんから薬を頂いていた。その頃、僕自身はなんともなく、笑ってみていたが、カトマンズに到着してから、ほっとしたのか、突然腹痛に襲われ、トイレに駆け込んだらパンツを下ろすと同時に
「ジャー」
とトイレに液体に姿を変えた「大」が勢いよく吹いた。危機一髪だった・・・。

  ベットに倒れ込んだが、つぎはひどい腹痛に苦しめられた。額を冷や汗でびっしょりにして
「もう当分、エビは食べないぞ!」
と肝に銘じた。

 カトマンズはマオイスト(毛沢東支持者)の政府関係者へのテロ活動が激しさを増したのか、いたる所で兵隊が機関銃を肩にかけながら検問している。町のあちらこちらに鉄縄文のバリケードが敷かれ、緊迫している状態だ。ネパールも物騒になってきた。

  以前、「みんなにヤッホー」で「ネパールの明治維新」というタイトルでマオイストについて書いたが、カースト社会に対する民衆の反発が共産主義化へ拍車をかけている。国民の多くが低カーストの出身だ。一部のハイカーストに牛耳られてしまっているネパール社会。差別社会を合法化しているカースト制度。共産主義化していく不安を感じる反面、僕自身もネパールのカースト社会には疑問を感じる。

  もし、僕がネパールの低カースト出身であれば、マオイストの活動に参加しているかもしれない。言論の自由や人権などがない低カースト層の人たちが、カースト制を崩すためにはテロ活動しかないのかもしれない。国を混乱させ、内戦へと拡大し、カースト社会の象徴ともされる王制を追放し、新たな民主主義社会の誕生へ戦っていく方法が成功する確率も実行できる確立も高いと考えられるからだ。

  ネパールの貧しい庶民から支持されているマオイストの目指す方向性に一定の理解を示しながらも、軍との殺し合いが絶えない現状に胸が痛む。

  犠牲なくして正義は勝ち取れないのだろうか。

  最近ではパレスチナ問題が危機的な状況だ。また、先月だったか、インドでイスラム教徒とヒンズー教徒の双方が大量殺戮を繰り返した。イスラム教徒の大人がヒンズー教徒の子供の頭からガソリンをかけ火を付け殺害したとのニュースにショックを受けた。復習合戦では多くの命が奪われ、結局は憎しみしか残されなかった。日本にいると平和なのが当たり前だと錯覚してしまうが、人が人として生きていけることの重要性を改めて、ここネパールでかみ締めていた。

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