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26日、ハイアットホテルにて記者会見を行なった。清掃登山を始めてからカトマンズでの記者会見は7回目。記者達も顔見知りとなり、いつもアットホームな雰囲気で会見が行なわれるが、これで最後かと思うと感慨深いものがあった。2000年はじめてカトマンズで記者会見を行なった際は記者達から
「エベレストのゴミを拾ったらいくら儲かるのか?」
「エベレストのゴミを日本に持ち帰って展示するというがエベレストのゴミが日本では高額で売れるのか?」
など利益を生まない清掃活動にはなかなか理解を得なかった。しかし、この4年間 清掃登山の度に会見を開き 清掃登山の本意を伝え続けてきた。気がつけば外国の山岳関係者からの嫌がらせが行なわれれば「ネパールはケンの見方だ 頑張れ!」との声援が記者団の間からも寄せられた。そして「ケンのやっていることは、ネパールを変える ありがとう」と感謝されたりもした。
最後の記者会見では7・7トンのゴミ回収を行なったが大切なのは今後のネパール政府の対応だと、ネパール政府のエベレストを含めたヒマラヤでの環境保護政策の必要性を訴えた。なかには入山規制が必要だと指摘する山岳関係者もいるが、一隊7万ドルの入山料金がネパール経済を支えているのも事実。マオイスト(毛沢東主義者)らによるテロ活動、アフガニスタンやイラクでの戦争、ネパール王族の暗殺事件、そして新型肺炎とここ数年間ネパールでは暗いニュースが続き観光客も大幅に減った。観光収入の激減がさらに貧困に拍車をかけ、このままいけば環境問題どころではなくなってしまう。「観光開発と環境保護」の両者のバランスを考えればエベレストなどでの入山規制は慎重に検討するべき。入山規制よりも登山隊などの受け入れ態勢の強化を図るほうが現実的である。例えば自分たちの排泄物の持ち帰りの義務(現在はBCのみ義務)、レインジャーによる上部キャンプの徹底したパトロール、違反者対する厳しいペナルティー、そしてゴミの持ち帰りへの理解を深めるために登山者へのレクチャーを徹底して行なうなど、世界遺産でもあるエベレストの環境保護の制度化の必要性などを伝えた。この4年間のエベレスト清掃活動が問題提議となり、ネパール政府が独自にエベレストを守る土台を築き上げれば 苦しかった活動が報われる。
記者会見に同席されたネパール山岳協会会長のアンツェリン氏も私の意見同様にネパールが自分たちで世界に誇るエベレストを守っていくべきだと語った。一時間にも及ぶ記者会見では咳が止まらず大変だったが、語るべきことは全て語った。後はネパール政府にバトンタッチ。記者会見を終え、部屋に戻ったらこれで自分の責任は果たせたと一気に力が抜けてしまった。その後、ネパール山岳協会から感謝状を頂いたが、ネパール政府が大胆なエベレスト立法でも立ち上げエベレストの環境保護を世界に訴えれば、そのことがなによりもの僕への感謝状となる。今後のネパール政府の対応を見守りたい。
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23日、シャンボチェからチャーターヘリに乗り込みカトマンズへ飛んだ。ヘリコプターの事故が相次いでいるだけに機内では緊張。昨年もエベレスト遠征後に迎えに来たヘリコプターがその二日後に墜落。未だに行方不明。中古のさらに中古のロシア製のオンボロヘリ、そして信用できないメンテナンス。カトマンズに到着するまではなんとも落ち着かなかった。午前7時30分発、9時過ぎにカトマンズ着。カトマンズはすっかり夏の気候となっていた。そして世界で最も大気汚染の被害に喘ぐカトマンズの空気の悪さはヘリから降りた瞬間にはっきりと分かる。
飛行場ではネパールの報道陣に囲まれ「来年からはどうする?」「ネパールでの活動は続けるのか?」「日本人が初登頂したマナスルでもゴミの被害があるという。次はマナスルでの清掃活動か?」などとすでに顔見知りの記者からの質問攻撃を浴びせられた。マナスルに関しては以前からネパールの山岳関係者から「マナスルでの清掃活動をやってほしい」との意見を寄せられていたが、エベレストの清掃活動が終了していない段階でそう間単に判断できないでいた。飛行場で報道陣に「マナスルに関してはこれから検討します。もしかしたら次の目標になるかもしれません」と返事したが、これがいけなかった。翌日の新聞に「来年の目標はマナスル!」と僕のコメントが紹介されてしまったのだ。4年間にも及ぶエベレストでの清掃活動が終了した直後に同じ8000m峰の清掃活動は考えられる余裕などあるわけもなく、閉口させられた。僕はエベレストで精一杯 清掃活動してきたわけで、だからといって全て同じように取り組めるわけではない。しかし、毎年カトマンズでの記者会見で顔を合わせる記者達からネパールでの活動を続けてはほしいとの意思表示には素直に嬉しかった。2000年 初めてエベレストの清掃活動への記者会見では清掃活動の意義がなかなか理解されなかっただけに4年間という年月の間に彼らと理解し合えたことは7.7トンのゴミ回収量よりはるかに大きな意味があった。
マナスルでの清掃活動は今の段階では分からないが、いずれにせよネパールでの活動はシェルパ基金もあり続けていくことになる。この10年間で27回もネパールに訪れた。二十代の青春の大半をネパールで過ごしてきた。それだけにネパールに対する愛着も大きい。
さて、その前にゆっくり一休みします。
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いよいよ明日BCを下りる。とっ なれば毎年、活動の最終日に行なわれるシェルパダンス。シェルパ達が無事に活動を終えた喜びをシェルパダンスで表現するのだが、これが
永遠と続く。控えていたアルコールをたらふく飲みながらのダンスは疲れきった体と高所での低酸素が手伝って最後はベロベロに酔っ払って歩けなくなるほどだ。この日も午後7時に始まったシェルパダンスが12時を回っても止むことはなかった。記憶もさだかじゃないが、僕の踊りは、足をそろえて足踏みするシェルパダンスとは程遠く、気がつけば手も合いもバラバラ。BCに駆けつけたニマ・オンチュウの奥さんと踊っていた。やはり、女性とのダンス?はいいねぇ~ それにしても飲みすぎました・・・。
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昨年、エベレストの麓の村、ペリチェにエベレストで遭難された方々の名前が刻まれた遭難碑が建てられた。そのネームリストの中にキャンプ2で発見した遺体の名前を発見。
ネパールの山岳関係者の証言からも1973年10月に日本隊(RCC隊)で遭難したジャンブー・シェルパであると判明。カトマンズでは彼の奥さんとお会いする予定。遺品のピッケルを届けたい。
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明日から山を下ります。ゴミの回収量は2・4トン。酸素ボンベは51本。不思議なことにBCに積まれたゴミの山を眺めていると、そのゴミが宝の山に見えてくる。シェルパ達と共に命を賭けながら回収したのだから当然か・・・。この4年間 辛くなかったといえば嘘になるけれど、でもこうして続けてこられたのは辛さの中にもちゃんと楽しさがあったからだと思う。命を賭けながら自分の大切なものを守るっていうことは本当に素敵だった。ゴミ相手に仲間達と命を賭けたこの4年間は生涯忘れないだろう。強烈なこの4年間の活動がこうして終わってしまうと何故か寂しい。20代の青春の大半をエベレストで過ごした。これまでのように毎年のようにヒマラヤには来られなくなるかもしれない。兄弟のように付き合ってきたニマ・オンチュウ・シェルパや他のシェルパ達ともなかなか会えなくなるかもしれない。そう思うと、とても寂しい。しかし、これからは「エベレストへの挑戦」から「エベレストからの挑戦」としてエベレストでの経験を生かして我が国 日本が環境先進国として責任を果たせる国になれるように取り組んでいきたい。それが、僕にとってのエベレストからの挑戦なのだ。さて、そろそろ富士山が恋しくなってきたぞ!
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野口エベレスト清掃隊 隊長 野口健
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三浦雄一郎さんと次男の豪太さんが日本発 親子でエベレスト登頂を目指す。また雄一郎さんが登頂されれば70歳での世界最高齢登頂記録を樹立されることになる。
2年前に雄一郎さんとカトマンズで初めてお会いした。その頃からエベレスト登頂を目標にヒマラヤでトレーニングされ、昨年の5月には8000m峰のチョーオユに登頂し、8000m峰の世界最高齢登頂記録を樹立。次男の豪太さんは長野オリンピックではスキーの日本代表選手。三浦隊のサポート役件カメラマンの村口さんが同行し5月20日にエベレストの頂を目指す。強風が続きキャンプ2では5日間ほど待機を余儀なくされたが、それでも3人ともお元気であった。特に雄一郎さんの登頂に賭ける気迫は貫禄として十分に伝わってきた。豪太さんはいつでもマイペースでニコニコ笑顔。そして長男の雄太さんがBCマネージャとして天気予報や通信など基地を守っている。長男、次男でお父さんの冒険を支えている。お父さんを中心とした素敵な親子関係に驚いた。よく父親不在といわれている今日の日本社会において三浦ファミリーは理想的な家族だと感じた。我が隊も三浦隊にはさんざんお世話になった。雄太さんが集めてくる天気予報は見事に的中したし、三浦隊の豪華な鍋料理も頂いた。そしてなによりも雄一郎さんの登頂に賭ける意気込みにこちらまで勇気づけられた。今日は(5月18日)は強風の中でサウスコルに向かわれた。20日が登頂予定。強風が止むことを祈るのみ。三浦ファミリーのエベレスト登頂は世界が注目しているし、また、自信を失いつつある、日本社会に活を入れてくれるだろう。しかし、なんといっても無事に登頂されること、そして、またカトマンズで再開したい。素敵な親子とこのエベレストで共に過ごせたことを誇りに感じています。
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ウンコの回収はアメリカ製の便器及び袋を使っている。便器はもちろん洋式。これがまた冷たい。当たり前だがプラスティック製の便座はマイナス15度を越えるC1やC2では座るのにも覚悟がいる。また、吹雪の中では上半身はダウンに包まれているが下半身はなんとも無様な姿で肌がむき出し、寒々しい格好で用をたさなければならない。
トイレのとき、気になるのは人目。ベースキャンプではトイレ用のテントがあり人目は気にならない。むしろ臭いがこもるということでわざわざ青空トイレをシェルパに作ってもらった隊員もいる。しかし、C1やC2においてトイレ用目隠しテントはない。以前は自由にそれぞれの隊がそれぞれの場所を決め用をたしていたようだが、大便を持ち帰るというのはあまり例のないことであり、便器の設置場所からこちらから提案しなければならなかった。
C1において、はじめはテントとテントの間においてしていたがどうも人目が気になる。大便をしながら誰かと目が合うと、「ナマステ」下半身を出しながらの挨拶をしてしまう。やはり恥ずかしい。欧米人は女性も結構平気でそこらで便をするが、僕たちは同じようにはやはりいかない。行動中など仕方ないときはあるが人目を気にするのが日本人だろう。結局C1では雪の塊を積み上げ下半身を隠すような壁をシェルパと協力して作り上げた。顔だけ見えるのがまたいい。
C2のトイレも目隠しにはだいぶ考慮した。テント場の裏に目線が来ないような平らな場所にトイレを設置した。しかし行くまでには足元が悪すぎた。右手にクレパス左にモレーンの山。夜はとってもじゃないが行けない。仕方なく足場を作るためモレーンの山を削り、トイレまで行きやすいようにした。トイレの場所は一段下がった場所にあるためそれほど目線は気にならないが女性もいるということもあって石積みの壁をこれもシェルパと作った。何気にこの石積みの壁が壊れる。平らな石で作ればいいがそうはいかないそこにある石で作らなければならないため不安定な箇所もある。強風で倒れたこともあった。しかしながらエベレスト、ローツェ、ヌプツェというヒマラヤの代表格の山々を眺めながらのトイレは格別なものである。
トイレにはルールがある。袋の交換時期についてである。大便を3回したら新しい袋に変えるというルールを作った。袋の交換は慣れれば簡単であり、習慣になってしまえばそれほど手間ではない、しかし夜中に便をもよおしたり、悪天候のときにトイレにいきたくなったりするとルールを守らなくなる人が出てくるようだ。4回以上便をした場合起こりうるのが、防水の運搬用袋に便が入った袋を入れられなくなることだ。そうすると大変で水分が昼間融けると出てきて臭うのである。通常は黒いその防水用袋に入れた上で最悪、ザックに漏れないように市販の大きな防水袋に入れるのだが黒の防水袋に入らない場合は普通のビニールにまた包まなければ不安で運ぶ気にならない。普通のビニールに入れるとベースキャンプでまとめてたるに入れる場合融けて液体が出てきているそのビニールを外すのがまた面倒で嫌な作業なのだ。基本的に用意したアメリカ製の袋は見た目、ただのビニールなのだが実はこれが「トウモロコシからとれた炭水化物からできており年月が経つと分解され土に戻る」と説明を受けている。便器にかける最初の緑色の袋の中にも何やら粉の薬が入っていて「便を土に帰りやすくする成分が含まれている」と聞いた。実際アメリカの国立公園などでも使われている優れものだ。しかし水分が溢れてしまったといってただのビニールを使っては土に戻らなくなってしまう。その点を考慮して「汚いなぁ」と思いながらもベースでしっかりとただのビニールをはずし分解する袋を独立させた。横でシェルパがニコニコ笑っていた…。お前らのも運んでいるのに…。ここまでやった僕を褒めたいくらいだ。一回目5キロ、二回目20キロ、三回目12キロ4回目もなんと20キロ。ちなみに谷口隊員も一回、高畑隊員も一回下ろしている。
隊員が下ろすのには理由がある。ネパールはカースト制度が布かれており、シェルパ達もそのカーストの下で生活している。シェルパはトイレに関する仕事を自分達の家においても、チベット人や、自分達よりもとても下のカーストの人に任せる。つまり、ウンコには自分達のも含め、彼らは携わらないのだ。おかげで隊員以外のシェルパのウンコまで僕達隊員で下ろすということになったのだ。カーストは本当に細かく分かれているらしいがウンコを運ぶカーストもあるという。実際ベースキャンプのウンコを下の村に下ろしている人たちがいるがその人達はやはりチベット人であったりウンコを運ぶカーストの人だったりするらしい。ちなみに僕達外国人はカーストではど真ん中に位置するらしい。
C2やC1から便を下ろすときは絶対に早朝スタート。融けるのをできるだけ避けるためだ。上がって来る他の隊に迷惑をかけないためと、自分も嫌だからだ。防水に防水を重ねても入っている中身が中身だけあって、ザックの中身はウンコだけにする。ザックの上蓋に最小限の水分と行動食、カメラなどを入れるが、もしものことを考えると臭いが移らないためにもウンコ以外はザックに入れたくなかった。結局もれることはなかったが気持ちはいいものではない。また、ウンコ以外はザックに入れないということは重心が極端に下になる。荷物を背負うとき、重心は上過ぎても下過ぎても疲れるのである。ウンコを下ろすに当たっては、自分で言うのもなんだが、結構な苦労があった。自分なりに良くやったと思う。
今回便に携わって、この「大便できるだけ持ち帰り」という事がエベレストいや、ヒマラヤ登山のスタンダードになり、ヒマラヤの水を守っていける、そんなことに少しでもつながったらいいなと独り言のように思った。登山中心で命が大事である。しかしそこに余裕があってこそ格好良さみたいなものが生まれてくるのではないだろうか。東京農業大学はサミットしながら便の回収をしている。格好いいと思った。登って「すごい」と、持って帰って「カッコいい!」2つを掛け合わせた隊ではなかろうか。
97年に見たノースコルでのウンコの思いを今回運びおろすことによってしっかりと果たすことができたような気がする。
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2003年5月17日
ウンコ隊長 田附秀起
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夜は寝られなかったのか、それとも寝るのが勿体なかったのか朝までエベレストと格闘したこの7年間のことを思い出していた。99年のエベレスト登頂直前のキャンプ2の夜に登頂に成功したら来年から清掃登山を始めようと、その時の気持ちを忘れないように一生懸命、日記にメモしていたことを思い出しながら、あの時も今日と同じように寝られないキャンプ2を過ごしていたんだと、なんだかおかしかった。あ~終わった。永かった清掃登山。特にこの2年間は不調が続き、途中で投げ出したいと思ったことも度々あった。登山家としての自分と、環境保護を伝えるというもう一つの役目とのバランスが難しかった。
7大陸最高峰挑戦の時には自分の体を最優先にトレーニングを行い、また体を休めることに集中できた。しかし、エベレスト清掃活動が始まってからはそうはいかなかった。8000mまで登り清掃活動を行なうのに必要なトレーニングや体を休める時間を確保できないまま全国をエベレスト清掃活動の意味を伝えながら回った。そのつけがエベレストやシシャパンマで確実にやってきていた。自分を見失っていた時期でもあった。そんなこともあったなぁ~と、今では懐かしい思い出だ。あのシシャパンマでの自滅から生活のリズムを変えた。体を壊してからエベレストまでは限られた時間の中でどこまで回復するかが最大の課題だった。回復させながらのトレーニングは困難だった。山でのトレーニングができる状況ではなく、仕方がないので慣れないジムにも通った。最初はマシーンの上で走ったり、立ち漕ぎしている時に「俺はハムスターじゃないぞ!」とイライラしたが、それでもどこかですがるように黙々と続けていたら少しずつ体が回復していくのが分かり、今度はジムでトレーニングしないと不安になったりもした。ジムで体調が悪くなりその場でひっくり返ったことも一度や二度ではない。それでも続けられたのだから、やっぱり必死だった。
スポーツ栄養アドバイザーの石川三知さんのアドバイスも受けた。どれもこれも新しい試みだった。今までアスリートしての基礎がすっかり抜けていたことにも気がついた。勢いだけで突っ走ってきたが、もう限界だったのかもしれない。気持ちのもちようも同じで、どこかで自分を許すことも必要だとわかった。「まあ~なんとかなるさ!」で自分を追いこまないようにノンビリする時間を作った。
特にあのタンザニアの旅が良かった。野生動物や大草原の中にいたら、いかに自分が余裕のない生活をしていたものだと、自分でも呆れてしまった。色々と悩んでいたことも、なんだかちっぽけに感じ「そんなこと、どうでもいいや!」と、それよりももっと大切な事があるだろうと、心が自由になっていくのが分かった。女優の市毛良枝さんから入院中に「ポレポレ」と書かれた色紙を頂いた。スワヒリ語(アフリカの言葉)で「ゆっくり ゆっくり」という意味なのだが、アフリカでその意味がよく分かった。
そんな環境のなかで始まった最後のエベレスト清掃登山。最終キャンプのサウスコルでの清掃活動が今まで自分の最大のテーマだったけれど、今回は途中で頭を切り替えキャンプ3が僕の最大の目標となった。自力でBCに戻れるだけの力を残し、あとは全てのエネルギーを出そうと決めたら気が楽になった。強風や安定しない体調の中で、なにが出来るのかそれだけを考えた一ヶ月間だった。それだけに、キャンプ3に到着した瞬間には今までになく力が入った。BCに戻った今、このエベレスト清掃活動を振り返ってみて悔いはない。やれるだけのことはやった。スーと肩の荷が下りていくのを感じながら、途中で諦めなくて良かったと、ここまで頑張れたのも周りの仲間に助けらたからだと、多くの仲間達に感謝していた。ゴミ回収も2.4トンを超えた。悪条件の中では堂々とした回収量だ。4年間共に闘ったシェルパ達にも今はゆっくり休んでほしい。一休みして、早く先の目標に向かって走り始めたい。僕には次の目標がはっきり見えている。そう前へ前へ、次の舞台は日本だ!
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体調を整えるのに時間がかかり、また自身の不注意からアイゼンの故障も重なりキャンプ3行きが遅れていた。夜中にはテントが吹き飛んでしまうほど強風が吹くものの朝にはすっかりとやんでいた。午前6時30分、キャンプ3を出発。しかし、キャンプ3への取り付きであるローツェフェース(氷壁)に登り始めた頃から急に風が吹き出し、あまりの寒さに指の感覚がなくなるほどだった。氷壁から見えるサウスコル(最終キャンプ)は雪煙が上がりとて人が近づける領域ではなかった。キャンプ3への氷壁を登りながら、口からは胃液を吐いていた。痛みを越えて頭がフラフラし、目をつぶると睡魔に襲われた。途中、もう戻るしかないのかと引き返すという嫌な予感が頭をよぎったが、しかし、隊長として最低限の責任を果たさなければならない。それがキャンプ3での清掃活動。最後のほうは谷口隊員や平賀カメラマンの背中を追うので精一杯だった。1時30分、キャンプ3(7300m)着。時間的にはけっして遅いペースではなかったが、これほどまでにキャンプ3を遠いと感じたのは初めてだった。98年や99年の頃と比較してはいけないんだろうけれど、思うように動かない体に戸惑いもした。しかし、焦ったところでなにも始まらない。
キャンプ3についた頃には強風でまっすぐ歩けず、固定ロープに体を結びながら清掃活動を開始した。ガリンガリンに凍りついた氷壁のなかでの清掃活動は危険を伴いシェルパ達も表情を緊張させながら埋まっているテントの掘り出し作業を行なった。途中で何度か交代しながらの作業だが、息が切れるのと寒さで指の感覚がなくなり、本当に辛かった。テント1張り回収した段階でキャンプ3から下りることを決断。あまりの寒さにこれ以上活動を続けることが困難であった。テント1張りのためにここまで上がってきたのか・・・。もう少し続けたいと思ったが、無理ができないのがエベレスト清掃活動。判断を間違えて自分らがゴミになるわけにはいかない。
キャンプ2に戻ってからは力が抜けたのかガクッとなった。それでも一睡もできないまま朝を迎えた。
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キャンプ2にて
シェルパ16名と共にキャンプ2の清掃活動行なう。遺体を埋葬した際に発見したキャンプ地の裏側に散乱する日本隊のゴミ。強風により雪が吹き飛び隠れていたはずのゴミが露出していた。ラーメンなどやそれ以外の袋に記載された賞味期限や製造年月日からおおよそどの時代の登山隊のものか判明する。その散乱する辺りの雪を掘れば、掘るだけ出てくるゴミの山。そして潰れたテントの中から以前にチベット側で回収したある日本隊と同じスポンサーのワッペンがでてきた。年代もその隊とピタリと一致した。88年の日本・中国・ネパール三国合同登山隊だ。つくづく、橋本龍太郎氏とは縁があるものです。しかし、回収していても嫌な気持ちにはならない。80年代の環境に対する意識の程度を象徴しており、もし自分がその登山隊のメンバーであれば間違いなくゴミを捨ててきただろう。今の感覚で過去の登山隊の行為を受け取ってはならない。大切なのは過去の経緯から学び次につなげることだ。よく「野口健は過去の日本隊にけちをつけるために清掃登山をやっている」「我々を脅すつもりか」などといった山岳関係者からのクレームや意見が寄せられたが、それは違う。橋本龍太郎氏も「我々の頃はそれらがゴミになるとは思いもしなかった。しかし、我々が捨てたゴミが環境破壊になったことは事実。その事を素直に受け止めながらこれからの活動に反映させなければいけない」と僕に語ったがその言葉が全てを物語っている。なにも日本隊の批判のためにこの世界一過酷な清掃活動を行なっているわけではない。ただし、2000年のチョモランマのように近年の登山隊によるゴミの放置には疑問を抱く。その辺りがなかなか理解されず、時に容赦ない批判にさらされるが、これは僕の伝え方が足りないのだろうし、僕自身 つい感情的な発言を繰り返したことも事実。反省しなければならない。そしてこの活動を続けていればいつか理解されることだろうと、信じながらの4年間でもあった。清掃登山は多くのことを僕に教えてくれた。
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夜中から胃の痛みに一睡もできず。田附隊員は20キロのうんこをザックに背負いBCへと下りていった。誰もやりたがらないトイレの運搬を積極的にこなす田附隊員には頭が下がる。そして少しも嫌な顔もせず、これが自分の担当だと胸を張るその姿がかっこ良かった。キャンプ3の清掃活動のために少しでも高度順応したかったのだが、情けないことに胃の痛みに動けず、一人キャンプ2で静養。谷口隊員と平賀カメラマンは順化トレーニングのために2時間ほど歩き回っていた。東京農大隊は強風の止んだ瞬間にローツェに登頂。谷川太郎氏をリーダとした隊だけあってさすがだ。凄いのがBCで休養したのちに今度はエベレストの登頂を目指すとのこと。8000m峰の連続登頂への挑戦。
そして東京農大が目指すクリーンな登山。登頂、そして環境保護の関係がまさにこれからの新しい冒険のあるべき姿なのだろうと、同じ日本人として東京農大の活躍が嬉しかった。
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やはりあまり寝られなかった。しょうがないのでテントの中で正座しながらボケーと時間をつぶしていたら、田附隊員のテントからうめき声が聞こえてきた。あいつも寝られないのかと、少し安心した。7時30分、起床するもあまりの寒さに寝袋から出られないでいた。8時30分、太陽の光と共に冬眠から起きた熊のようにノソノソとテントから出た。平賀カメラマンも「寝られなかったです~」と目を擦っていたが、やはり谷口隊員だけが「あ~よく寝たぁ~!」と元気。
午後から前回に発見した遺体の掘り出し、そしてクレパスへの埋葬を行なった。体の大半が氷に埋まり、体の周辺から掘り出すのだが、硬い氷にピッケルがなかなか入らず、2時間以上かけながら少しずつ掘り続けた。その遺体はキャンプ3辺りから雪崩で流されたと思われ、損傷も激しかった。頭部がなく、雪崩に流された際に切断されたと思っていたのだが、周りの雪が掘られていくうちに体の様子が分かってきた。驚いたことに頭部は首から折れ、胴体部分に埋め込まれていたのだ。雪崩の威力に皆で唖然としながら、途中から会話もなくなり、黙々とピッケルで氷を削っていた。そして 遺体の匂いにむせながらの2時間に及ぶ掘り起こし。遺体の周辺から発見された酸素ボンベが1973年製造。そして首についていたラマ教のお守りやその衣服からシェルパの遺体だろうと想像された。そして彼の荷の近くから日本食品が発見された。調べてみたら1973年の秋に日本隊のシェルパが一名遭難死していた。名前はザンブーシェルパ。彼の遺体をクレパスに埋葬し、キャンプ2に戻ったら、ガクッと疲れがで、食欲も無くなっていた。清掃登山を始めてから毎年のように遺体と対面し、埋葬しているが、辛い行いだ。
この夜もやはり寝られなかった。そして田附隊員のうめき声が再びキャンプ2に響いたのだった。
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強風の影響で予定より長期間のBCステイになり、早く上部での清掃活動を行ないたいとイライラしていた。それにしてもはっきりしない天候に皆が戸惑っていた。悪いなら明らかに悪いほうが諦めがつくのだが、今年はそこがはっきりしない。エベレストのチベット側は被害が大きい。テント135張りが強風により破壊され、また吹き飛ばされたそうだ。登山隊にとっても深刻な問題だが、僕にはその破壊されたテントの大半がゴミと化すことのほうがはるかに恐ろしい。何故ならばもっとも回収しづらいゴミがテントだからだ。昨年も多くの登山隊がテントを放置したまま帰っていった。残されたテントは強風や雪に押しつぶされ雪に埋まり凍りつく。高所で氷付けになってしまったテントを発見し掘り起こす作業がどれほどに困難なことか・・・。一張り掘り出すのにゆうに一時間以上かかる。6000mを越える高所ならばすぐに息が上がり、7000m以上ならば口から心臓が飛び出しそうになる。強風によって吹き飛ばされたならばまだ仕方がないものの、もって下りる負担からか、そのまま放置して帰っていく多くの登山家達に疑問を感じてしまう。そもそもテントは使い捨てではなく、我々登山家にとっての家のはず。そう粗末に扱っていいのだろうか。回収可能な場所で雪に埋まったテントを発見し掘り起こし作業を行なっているときにいつも悲しくなり、また、怒りを感じてしまうのも理解してほしい。
5月10日、午前4時過ぎに起床するものの雪が降っている。シェルパのニマ・オンチュウと相談しながら5時30分まで様子を見ることにした。幸い、雪は降っているものの、空は明るかった。6時45分、BCを出発しキャンプ2を目指した。恐らく最後となるアイスフォール越え。その一歩一歩に深い意味があり、このエベレストと格闘した7年間を振り返りながら登った。12時ごろ、キャンプ1に到着。驚いたのがあれだけテントで賑わっていたキャンプ1が廃墟のごとく破壊されたテントが寂しげに風にたなびいていた。そして吹き飛ばされたのかそれとも回収されたのか、ペグだけが残されたテント場の跡。それから、キャンプ2を目指すものの 風が止み猛烈に暑く、皆で悲鳴をあげながらただひたすら歩く。感心したのが今回、ヒマラヤ初挑戦の平賀カメラマン。ヘロヘロになりながらも、一生懸命にカメラをまわす。もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないと思うこともあるが、一切の妥協を許さないその姿に僕も少しは見習わなきゃいけないなぁ~と感じていた。
3時、キャンプ3着。予定より時間がかかった。疲れたものの久々の上部キャンプにうきうきしていた。
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今朝、起床するなり、サーダーのダワタシがチョモランマ(エベレストのチベット側)と無線連絡が通じたと報告してくれた。驚いたことにチョモランマに挑戦している登山隊のテント135張りが破壊され、ネパールからテントを買い寄せているとの事。ネパールサイドでも80張り前後が破壊されたことを考えれば、その被害の大きさに唖然とする。絶えずネパール側よりも風の強いチベット側。僕もチョモランマには苦い思い出が沢山あるが、その大半が強風と乾いた空気に気管を痛めつけられたりと、散々と「風」にいじめられてきたものだ。我々も大変だけれど反対側はさらに困難なのだ。
午後からは上部位キャンプ行きの準備を行なう。前回、強風の為にキャンプ3まで行けなかったのがどこまで影響するのか。遅れた高度順化。日程的に8000mのサウスコル(最終キャンプ)がワンチャンスとなった今、どのようにタクティクスを組むべきか・・・。天候と体と相談しながら、最後の上部での清掃活動に賭けたい。
この間、キャンプ2付近で発見した遺体は1973年秋に遭難した日本隊のシェルパだとの情報が入る。ペリチェ(シェルパの村)にエベレスト(ネパール側)で遭難した全ての人々の遭難碑があるが、そこに刻まれているネームリストや年代が一致したのと、当時を知るシェルパの老人の話から、おそらくそうだろうとなった。彼の埋葬も我々の役目だ。
清掃活動の報告として既に我々が回収したゴミは約900キロ。酸素ボンベ34本。昨年と比較すれば まだまだ遅れているもののサウスコルには酸素ボンベはないとのこと。しかし、変わりに昨年の登山隊が放置していったテントの残骸、そして今年大量に破壊されたテントの山。アタック隊が破壊された自らのテントの回収に余裕がないのは分かる。放置したくなる気持ちもよく理解できる。しかし、本当にそれでいいのだろうか・・・。昔の登山隊のゴミの回収には疑問を感じないものの、今現在の登山隊のゴミには悲しくなる。
環境に対する意識がなかった時代のゴミと近年の登山隊がだすゴミは意味が異なる。さて、我々の活動がどこまで浸透するのか。嬉しいことに同じ日本からの東京農業大学の登山隊は上部キャンプからトイレを回収したり、太陽光を使用しお湯を沸かしたり、BCで流す排水口にまでフィルターを付けたりとさすが専門家集団だとその徹底振りと意識の高さに頭が下がった。チョモランマで「日本は文化・マナー三流」と指摘された97年。しかし、サガルマータの上部キャンプでトイレ回収を行なっているのは我々日本隊だけだ。
明日からの上部での活動はこの4年間に及ぶ清掃活動の集大成として頑張ってきたい。
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風がピタッと止んだBC。午前中はBC周辺のゴミ回収を行い、また、休養を終えBCに戻ってこられた三浦雄一郎さんのテントへ遊びに行った。三浦隊で入手している天気予報では まだまだしばらくは7000m以上で強風が続くとの事。
午後、機材テントでHPの原稿を書いていたら突然、衛星電話が鳴った。「ハイ、こちらエベレストです」とでたら、「あ~野口君! 白石です!康次郎です!」と
ヨットで世界一周レースに参加中の白石幸次郎さんからの電話だった。「あと2時間でニューヨーク。今は真夜中で霧の中。もうすぐゴール。緊張するよ!」一年間もの間 続いたレースのゴール目前に連絡をくれたのだ。それにしても、エベレストから太平洋上の白石さんと会話できるのだから驚いた。白石さんは世界一周単独無寄航最年少記録を樹立されたヨットマンだ。その次なる目標が世界一周レース。昨年の6月ごろに日本を出航し、約一年間の永いレースに出場していたのだ。その様子は彼のホームページで時たまチェックしていたがその過酷さにこちらも負けちゃいられないぞ!と活を入れられていた。その白石さんからの連絡、嬉しかった。僕らもこれから後半戦。今度はこっちが頑張る番だ!
おめでとう 白石康次郎さん そして お疲れ様でした。
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BCに下りてきても風の勢いはまったく止む気配もなく、夜は耳栓をしないと寝られないほどテントがバタバタと大騒ぎ。食欲はあるものの食べると胃が痛み、それでも食べないとスタミナが切れるので詰め込むのだが、その後に決まってガスター10にお世話になる。
他の隊も上部での活動を停止しBCに降りてきているようだった。高畑隊員と谷口隊員は休養の為にBCから降りていき、通信担当の吉村隊員は次の計画である野外学校の準備の為に帰国していった。ガラ―ンとしたBCに追い討ちをかけるかのように地吹雪が容赦なく襲い、ついにBCのテントからも被害がでた。また疲労で口数が少なくなっていた李隊員が「今度、健がキャンプ2に上がる日に私は山を下りたい」と申し訳なさそうに伝えてきた。やはり李隊員も疲れ果てていたのだ。残念だけれど仕方がない。
いよいよ後半戦だ。今、しっかりと休養しなければならない。
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エベレストBCにて
午前7時 谷口・李・田附らがBCへ向けて下山開始。続いて8時30分に野口・高畑・ニマ・オンチュウが下り始める。夜中からエベレストの山頂付近からゴーという爆音が響き渡り、ほぼ一睡もできない永く辛い夜だった。途中、後ろを振り返るたびに雪煙を上げる山肌に「やばいぞ!」と急ごうとするのだが、4日間の高所での活動に気がつかないうちに疲れてしまっていたのか、なかなかスピードがでない。キャンプ1とキャンプ2の中間あたりから歩行が困難になるほど強風が吹き荒れ、ついには地吹雪となった。なかなか目も開けられずに風が通り過ぎるのをじっと待った。風が止んだその瞬間に一気に歩きまた爆音と共にやってくる風に耐えながら、次のチャンスを待った。手の感覚がなくなるほどに寒く、下山日を一日に間違えたかなと反省するも後の祭り。11時、キャンプ1に到着した時には、真っ先に我々のテントを探した。破壊されていないか不安であった。しかし、この時点では壊れていなかった。それから。休む暇もなくアイスフォール地帯へと逃げ込んだ。巨大氷柱がいくつも立ち並ぶアイスフォール地帯は風が直接ぶつかってくることはない。しかし、下から吹き上げられる風にはしごが浮き、これまた怖かった。午後3時過ぎBCに到着するが ヘロヘロに疲れ果て なかなか口も利けなかった。度重なるBCからの悪天候の知らせを聞きながら ギリギリまで上部で活動を続けてしまったことに反省。
もう少しゆとりある計画を組まなければならない。遅れてエベレスト入りした焦りだったのかな。夜になると強風はさらにその勢いをまし BCのテントも吹き飛ばされてしまうのでないかと再び不安な夜を迎えた。翌朝、キャンプ1のテントが全て破壊されたとの情報が入った。自然の脅威の前に我々、人間の存在などまったく無力なものだ。
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キャンプ2の夜は永い。酸欠の影響だろう、寝たかなと思えばすぐに目が覚める。近くの李隊員のテントからはうめき声が聞こえてくる。皆 なかなか寝られないのだ。寝袋の中でじっと朝を待つのは辛いもので、鼓動が早いのに動けないストレス。そんな時は決まって帰国したらまずは何をしようかなぁ~と想像してみる。毎回そうなのだが、あれだけ寝られない夜に頭の中で帰国後のシュミレーションを繰り返すのだが 実際にそれらを実現したためしがない。今度こそ!と思いながら羊を数えるのだが やっぱりダメ。だいたい、羊を数えるのに必死になってしまい 逆に寝られないんだなぁ~。
8時過ぎに朝食。太陽が上がれば 凍り付いていたテントもポカポカ。肝心の食欲も衰えず朝食もしっかりと頂いた。驚いたのが谷口隊員の「あ~よく寝られた」と言ってテントから出てきたことだ。まったく高所の影響を感じていないようだ。そして 彼女の食欲もこれまた凄い。やはり男は女性よりも遥かにナイーブなのだろうか・・・。
この日はテントの周りを軽く散歩。写真撮影や、トイレの壁を作ったりとノンビリすごした。しかし、午後には再び雪。そしてBCからは「大型低気圧 接近中」との情報が入る。明日にでもBCに降りるのか もう少し粘るのか 迷いながら またあの冷たく冷え切った寝袋に潜り込んだ。
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