2008年5月アーカイブ

 5月24日から神戸でG8環境大臣会合が始まるが、その前日に「G8環境大臣会合記念特別シンポジウム~気候変動と水~」(主催・地球環境国際議員連盟・環境省・地球環境戦略研究機関・日本水フォーラム)が行われた。このシンポジウムは、G8環境大臣会合が神戸で開催される機会をとらえ、「気候変動と水」をテーマに、ラジェンドラ・K・パチャウリさん(IPCC(気候変動に関する政府間パネル)議長)、マーガレット・キャトレイ・カールソンさん(世界水パートナーシップ顧問)、西岡秀三さん(地球環境戦略研究機関研究顧問)、佐藤廣士さん(神戸製鉄所代表取締役副社長)、パネルコーディネーターの浜中裕徳さん(地球環境戦略研究機関理事長)そして私(野口健・アルピニスト)の6人で行われた。

ヒマラヤ地域の氷河問題について訴える野口

ヒマラヤ地域の氷河問題について訴える野口
シンポジウムの模様


詳しい資料は以下よりご覧になれます。
~北海道洞爺湖サミットへむけて~氷河湖の湖水を抜く日まで

 この一月半(4月上旬~5月中旬)ヒマラヤからバングイラデシュまで旅をしたのもこのG8環境大臣会合の議長総括の中に「ヒマラヤの氷河の融解による氷河湖の決壊対策」を組み入れて頂きたかったからである。その為にも現場で起きていることを会場で訴える必要があった。

 
 「北海道洞爺湖サミット」で「氷河湖問題」が取り上げられる為にはまずは神戸で開催される「G8環境大臣会合」の議長総括の中に氷河湖問題を組み入れて頂ければならない。順序としては「G8環境大臣記念特別シンポジウム」→「G8環境大臣会合」→「北海道洞爺湖サミット」となる。

 まずは「シンポジウムからのメッセージ」の中に氷河問題が含まれなければ「G8環境大臣会合」で議論されない。そして次に「G8環境大臣会合」の議長総括に氷河湖問題が入らなければ「洞爺湖サミット」にこのテーマは届かないだろう。これら1つ1つの積み重ねなのだ。コツコツと富士山やエベレストで清掃活動をしてきたのと同じことだ。このコツコツの後に大きな変化があるのだ。せっかちな私にはなかなか大変な道のりであるが変化の陰にはこうした地道な取り組みがあるもの。

 シンポジウムで特に強調したのが地球温暖化の影響でヒマラヤ地域の氷河が急激に溶け、さらなる氷河湖の決壊から大規模な洪水の恐れが高まっている事だ。そしてG8環境大臣会合や北海道洞爺湖サミットで、ヒマラヤ地域の温暖化による影響について話し合って頂きたい、そして具遺体的なアクションを起こしてほしいとお願いした。

 エベレスト南方にあるイムジャ氷河湖は1960年代半ばから出現し、直径1キロ、最大水深90メートル、3580万トンの水を蓄えるまでになっている。これは黒部ダムの5分の1で、東京ドーム32個分。そのイムジャ氷河湖は17年の間に35%も拡大。今月中旬に訪れたロウアー・バルン氷河湖(マカルー峰の南10キロにあり標高は4570㍍)も16年間の間に45%拡大しているのだ。どちらも決壊すれば数万の人々が被災するだろうと指摘されている。
 
 WMO(世界気象機関)は、このまま地球温暖化が続けば2035年にはヒマラヤ地域からすべての氷河が消滅すると予想している。パチャウリ氏が議長を務めるIPCCも第四次報告書で2035年までにヒマラヤの氷河は五分の一になると報告している。ICIMODO(国際総合山岳開発センター)によると現在、ヒマラヤ地域には1万5千の氷河と9千の氷河湖があるとのこと。またその中でも最低200の氷河湖が近々、決壊するであろうと警告している。

 いつ決壊するか分らない巨大な氷河湖の下流で多くのヒマラヤの民が怯えながら過している。決壊してからでは遅い。時間がないのだ。決壊対策のアクションプランとしてシンポジウムでは「日本政府」や「洞爺湖サミットからのアクション」として主に以下の3つを要望した。


(1)ヒマラヤ地域の氷河湖のモニタリング調査の実施
(2)ハザードマップを作成して頂きたい 
(3) 危険であると判断された氷河湖に対して、根本的な対策を取って頂きたい
 
 

 特に(3)の決壊対策であるが、以前オランダ政府が氷河湖に水門を設置したように日本政府も決壊した影響を早急に調査すると共に、増水した氷河湖の水を抜くなどの対策を取って頂きたい。先に述べたようにイムジャ氷河湖やロウアー・バルン氷河湖はこの15~17年の間に35%~45%ほど拡大したが、しかしオランダ政府によって水門が取り付けられた世界最大級の氷河湖、ツォー・ロルパは2%しか拡大していない。数字の上でも水門設置による効果が明らかになっている。「水門」がいいのか、それとも穴を開けパイプから水を抜くのがいいのか、氷河湖の標高も地形も様々。したがってその方法も様々である。土木関係の専門家を氷河湖に派遣し、決壊の可能性のある氷河湖の湖水をどのように抜くのか調査する必要がある。


 シンポジウムではインド出身のパチャウリ氏が「私の出身はヒマラヤの麓です。年に数回しか帰れませんが、あの美しいヒマラヤを眺めると涙が出てくる。そのヒマラヤの岩肌が冬になっても白くならなくなってきた。雪が降らなくなってきた。またMrノグチがネパールではシャクナゲの花が早く咲きていると話していたがインドでも同じ。春になる前にシャクナゲが咲くようになった。これは明らかに気候変動の影響です」と発言され、故郷であるヒマラヤの異変に心を痛めておられたのが印象的であった。そして「Mrノグチ、ヒマラヤでの活動に感謝します。一度、インドのヒマラヤにも来てください。こちらのヒマラヤ(インドの)も温暖化の影響が深刻です。あなたにはこれからも世界に対して訴えて頂きたい」と力強いエールを頂いた。
IPCC議長 ラジェンドラ・パチャウリ氏

IPCC議長 ラジェンドラ・パチャウリ氏

IPCC議長 ランジェンドラ・パチャウリ氏と


 ちょうど1年前にヒマラヤの氷河が溶けることにより氷河湖決壊について環境省の記者クラブで会見を行ったが、あの頃は氷河湖問題に対して大きく注目されることもなかった。しかし、この1年間で世の中の氷河湖に対する注目度は大きく変わった。1つのきっかけは「第1回アジア・太平洋水サミット」だっただろうし、また鴨下環境大臣がこの問題に対してすばやく福田総理に提言されるなどのアクションを起こしてくださったことも大きかった。バングラデシュから帰国し鴨下大臣に帰国のご挨拶にお伺いしたら「野口さん、ヒマラヤの氷河湖ですが、解決するまでやりましょう!」と力強いお言葉にどれだけ励まされたことか。  

 また地球環境国際議員連盟の谷津義男会長のご尽力もあってこのシンポジウムに「氷河湖問題」を取り上げることができました。多くの方々のご協力に心から感謝しております。ありがとうございました。
 
 私は学者でも政治家でも役人でもない。一登山家にしか過ぎない。そんな私が第1回アジア・太平洋水サミットに引き続きこうして国際会議で発言するのは出すぎた行動なのかもしれない。しかし、「言葉の世界」である会議場に、ヒマラヤやバングラデシュなどの現場で感じてきた危機感を伝えたかった。学者、政治家、役人、そして現場の人間など、そのすべてが連携し一丸となって取り組んでいくべきだろう。

盛山正仁衆議院議員(左)と鴨下一郎環境大臣(中央)と

盛山正仁衆議院議員(左)と鴨下一郎環境大臣(中央)と

谷津義男衆議院議員と
谷津義男衆議院議員と

桜井郁三環境副大臣と
桜井郁三環境副大臣と

 これからどのように「ヒマラヤの氷河湖決壊対策」といった具体的なアクションに向かって進んでいくのか、G8環境大臣会合や北海道洞爺湖サミットの場でしっかりと話し合われ、明確な、そして勇気ある政治的決断がなされることを期待しています。

 2008年5月24日 神戸にて 野口健
 
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 世界最高峰エベレストからの旅はもう間もなく終了する。最終目的地はベンガル湾に浮かぶハティア島。ハティア島はバングラディシュの西から流れてくるガンジス川と北から流れてくるブラフマプトラ川が合流し、さらにそこに東方面から流れてくるメグナ川が合流しベンガル湾に抜けた場所に位置する。そのおかげでハティア島は大河からの激流がダイレクトにぶつかり激しい海岸浸食に襲われ続けている。大河といってもなんら地理的な知識を持たなければ海と勘違いするほど広い。

ハティア


ハティア島の大きさは南北の長さが20キロ、東西の幅は5キロの細長い島であるが、それでもバングラディシュでは二番目に大きな島であり、そして驚いた事にこのサイズの島にして、人口がなんと40万人弱とのこと。チャータした漁船に(かなりオンボロでいわゆるポンポン船?北朝鮮からの脱北者が使用しているあの船と同レベル)に揺られ、ハティア島の北部にあるハニル湾から上陸した。「湾」といってもかつての港で今では海岸浸食によって港は跡形もなくなっている。我々がチャータした小型船は強引に着岸できるが、大型船は浸食作用によって使用できなくなった(大型船は中西部のトモルディン港を使用)。

ハティア


二度目のバングラディシュ訪問だが前回同様に気がつけば目の前は360度の人、人、人の壁に囲まれる。これだけの人が一体どこからやってきたのか不思議になってしまうほど人集まる。そして目が合うとニコニコと笑う。最初こそ恐怖感を覚えたものの、すぐに彼らの人懐っこい人相にふと安心する。盗難の危険は充分すぎるほどあるのだろうが生命の危険を感じた事はない。

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ガイドによればこのハティア島の北部ハニル湾の海岸が毎年平均して1キロほど浸食しているとのこと。ならば長さ20キロのハティア島は「おおよそ20年で消滅するのか」と質問をしたら、それがそうではないのだと言う。どういう事かと尋ねたら「島の北部の土砂が浸食により流され今度は島の南部に推積作用により流れた土砂が溜まり新たな河岸や島が誕生している」とのことだ。北部で家、土地を失った人々は優先してこの「新陸地」に移住できるとのこと。北部の土地がなくなり南部で新たな土地が誕生するので、まるでハティア島が「北」から「南」へと移動するかのようで現地では「ムービィング・アイランド」と呼ばれている。

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 ハニル湾の近く(15メートルほど手前)に店舗を構えるモハメッド・ラシェッドゥさん(28歳)に「河岸が目の前ですが心配じゃないですか?」と質問したら「心配がないいかって。目の前の河岸を見てごらんよ!毎年、600メートル以上は河岸が浸食しているさ。心配している暇なんかないよ。来年にはこの辺りはもう流されてないよ。いや、この夏にはもうないでしょ。13年前はここから8キロ先で商売していたんだ」と言って今や大河となっている方へ指を指した。そして「また引っ越すよ。もう場所は決めたんだ。来年はそっちに来てね」とこの男性には悲壮感など微塵もなかった。震災に慣れきってしまったのか、それとも覚悟を決めたのか。

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それからしばらく浸食されている海岸を歩いていたら一人釣りをしている女性がいた。名前はビルキスさん(32歳)。目が合ったので挨拶したら悲しげな眼で「2週間前までここに私の家がありました」と地面を指さした。確かにそこの地面はきれいに整地してあり所々に柱の跡の穴があった。彼女は2年前にここに引っ越して来たのだと言う。「どこから越して来たの」と聞けば「あっちのほう」とベンガル湾を指さした。

ハティア

侵食により家を失ったビルキスさん、32歳

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家の跡地。生活の跡がみてとれる

つまり二年前にも浸食により土地、家が流され避難し新たに家を構えたら再び浸食によって追われてしまったのだ。浸食される前に家を解体し再び内陸部に越したとのことだが、先の男性と違い悲しみに暮れている彼女に「ご主人は?」と立ち入った事を聞いてしまった。なんと悲しい事にビルキスさんのご主人は13年前に交通事故で亡くなっておられた。



 「旦那に先立たれ今は子ども二人と私の両親と生活していますが、私が一人で養っているようなものです。ただでさえ経済的に厳しい生活なのに、せっかく建てた家を再び失った。これから先どうやって生活していいのかもう分からない」と、そして「自宅の跡地が目の前にありますが、どのように感じますか?」と酷な質問に「とても悔しいし悲しい。でも誰にも言えないし、言う事に意味もない。誰が助けてくれるわけでもないでしょ。被害者は私だけではないし。それでも生きていかなければいけないし・・・でもどうやって・・・」と、そして彼女は一人夕日に染まるベンガル湾を呆然と眺めていた。その表情は、怒りをもすでに通り越し悲しみだけが支配していた。

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昨年、浸食が進むハティア北部に河岸の浸食を防ごうと部分的にコンクリートによる護岸工事を行ったとのことだが、一年後には完全に破壊され今では跡形もなく流されてしまった。温暖化によってヒマラヤの氷河はさらに融解しガンジス川の水量はさらに増え続けるだろうし、それ以上に深刻なのが温暖化によってさらにサイクロンがその勢力を拡大しそして多発することだろう。確かにサイクロン対策として高床式のサイクロン・シェルターなどの施設が増えサイクロンによるその時点での死傷者は減っている。

 1970年11月 サイクロンによる死者・行方不明者は500000人だったのが、1985年5月に10000人、1991年4月は140000人、そして2007年は4166人と波はあるものの全体的には減少傾向である。

 しかし、こうして「現場」に訪れてみれば多くの人々との出会いにその数字以外の世界を目にする。報告書などではけっして感じる事のできない現場の空気にさらされて改めて感じることは、先進国の発展の陰にこのように「一日一ドル以下」で生活している人々が我々のツケを支払わなければならない不合理さだ。そしてそんな彼らの多くは地球温暖化の原因を知らない。ヒマラヤの民同様に「神様へのお祈りが足りない。私たちの感謝の気持ちが少なくなっている」などと自分たちを責めているのだ。そんな姿を目にする度に申し訳ない気持ちで胸が押しつぶされそうになる。現場で感じたこの気持ちをしっかりと日本に持ち帰り伝えたい。

 「我々(先進国)が彼らを援助し助けてやる」などといった上から目線ではなく、私たち(先進国)はあくまでも加害者側であり、加害者として、その責任をどのように全うするのか、我々は肝に銘じなければならない。

バングラディユ・ダッカにて 野口健

hatexia

跡地で呆然とたたずみ、川をみつめるビルキスさん


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 ネパールでの活動を終えバングラデシュへ。北京オリンピックの影響でネパールでの活動も大きく制限され予定されていたマナスル峰山麓のサマ村(マナスル基金による学校建設のため)、またツラギ氷河湖訪問は残念ながら断念せざるを得なかった。

ハシャリ1

ハシャリ2

5月11日、カトマンズからバングラデシュの首都ダッカに飛んだ。昨年7月にバングラデシュの洪水視察(ハシャリ村)を行ったが、今回のテーマは前回訪れたハシャリ村の「その後」である。ヒマラヤの氷河が急激に溶け出し、ネパール、ブータン、インドなどのヒマラヤ山域国では洪水が増えているが、その影響がバングラデシュにも及んでいるとのこと。エベレストの氷河が溶け、その流れ出した水がネパールからインドのガンジス川を流れそしてバングラデシュへ。そして最後はベンガル湾から海に抜けていく。海面上昇の原因の1つに内陸にある氷河の融解があげられている。3月に南太平洋のツバルを訪れ、温暖化による海面上昇の深刻さを目の当たりにしてきたが、遠く離れた「ヒマラヤ」と「ツバル」が繋がっていることを感じていた。

ハシャリ3

ハシャリ4

昨年訪れたハシャリ村で驚いたのは「洪水によって毎年平均250メートル~300メートルの川岸が削られる」との村人の証言であった。確かに川岸では半分ほど川に落ちている建物、そして慌てて自宅を解体し、移築している人々の姿を至る所で目にした。しかし、毎年250メートル以上が侵食することに「そこまで極端かなぁ~ ちょっとオーバーじゃないかな」と半信半疑であった。「それならば一年後にもう一度同じ現場を訪れてみよう」となったが、一年ぶりのハシャリ村の姿に私は絶句した。何故ならば原型を留めていなかったからだ。上陸し村人に確認したら、この一年間で約1キロ侵食しハシャリ郡で5000件の家が流されてしまったとのこと。特に昨年(2007年11月15日)はバングラデシュにとって災害の被害が例年以上に深刻であった。2007年11月15日にバングラデシュを襲った超大型サイクロン「シドール」は、観測史上最大であり、数千人が命を落とし2千万人が被災した。専門家の説明では地球温暖化の影響で大気中の水蒸気が増えることによって、降水量が増える。そしてサイクロンの勢力が増すとのことだ。
ハシャリ5

変わり果てたハシャリ村を歩きながら昨年訪れたあの学校を探していた。昨年は上陸地点からおよそ80メートル内陸部分にあったから、もうすでにこの世にないことは分かっていたが、無意識に探してしまっていた。村人に尋ねてみたら「学校は300メートルほど奥地に場所を移してある」と教えられ探し出した。校舎はトタン屋根のいわゆるバラックであったが、しかしそれでも確かにそこには学校があり子どもたちがいた。1200人いた生徒も今では600人に減ってしまった。校長先生は「この学校は1901年に設立されましたが、昨年の引越しを入れると8回目です。何度も引っ越しして、お金の面でも苦しいです。この土地も借りています。ここも2~3ヵ月後には川に流されてしまうでしょう。しかし、まだ次の土地も決まっていません。私たちは政府に手紙を出しましたが、援助の連絡はこない。助けをまっています」と途方にくれていた。

ハシャリ6

hasyari 7


 そして生徒の一人は「友達の家が沢山流された。みんなどこかに行ってしまった。生きているのか死んでいるのかも分からない。連絡のとりようもない」「僕の家もこの夏には流されてしまう。でも、引っ越して一からみんな(家族)で頑張るよ!」と話していた。建物が壊れてしまうのも、もちろん大変なことであるが、それ以上に深刻なのは「土地ごと」失ってしまうことだろう。帰るところが無くなり人々は、バラバラに離散するしかない。こうして人々の繋がりが引き裂かれてしまう。その残酷な現実に彼らになんて声をかけていいのか、必死に言葉を捜すが出てこない。しかし、1つ救われたのが子どもたちの目の輝きであった。深刻な被災地であり、ましてや現在進行形であるにも関わらず我々の訪問に喜んでくれ、大声で笑ってくれた。なかには我々を笑わせようと漫才師のように、ジョークを連発してくる人もいた。逆に我々一行が彼らの笑顔に励まされた。「一からみんなで頑張るよ」との子どもの言葉に洪水と共に生きる彼らの生命力を感じていた。もし私の身に同じことが起きたら、あの美しい笑顔で人と接しまた人を励ますことができるだろうか。もう一度、彼らに会いたい。またハシャリ村に来ることになるだろうと、そんな事を想いながら首都・ダッカへと戻った。

バングラデシュ・ダッカにて 野口健






※野口は先週、無事に日本に帰国しました。
 早速、G8北海道洞爺湖サミットに先駆けて行われます、
 G8環境大臣会合(5月23日、神戸)にて、ヒマラヤにおける氷河湖融解問題に
 関して発表します。
                             野口健事務所




ロウアー・バルン氷河湖の視察

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 5月9日、ロウアー・バルン氷河湖の視察を行った。JAXAによれば、ロウアー・バルン氷河湖はマカルーの南約10㎞。標高4,570m、幅0.6km、長さ2.0km、面積1.09k㎡の氷河湖です。1992年には長さ1.2kmだったものが、2007年には2.0㎞にまで拡大し、面積も0.75k㎡から1.09k㎡に拡大をしています。面積の変化は+45%と、約二倍になっています。このままのスピードで拡大をし続ければ、何時かは決壊する可能性があります。

ローアバルン

  近隣の村にてインタビューを行った。
 Yangri Kharka(ヤングカルカ)にて村人にインタビューを行った。

 ニマ・シェルパ(46歳)さんは「20年前に比べるとロウアー・バルンは大きくなった。氷河が溶け、以前は小さな湖がいくつかあったが、今はそれらが1つに合体し、巨大な湖になった。そしてロウアー・バルン氷河の方に氷河湖が拡大している。夏になると目の前の川(バルン・ナディー)の水量が以前よりも増えた。最近、日本人がやってきてロウアー・バルンの調査を行っている。イムジャ氷河湖なども決壊の危機だと聞いている。最初は、神様が我々の行いが悪いので、氷河湖を大きくして決壊させようとしているのかと思っていたが、今は温暖化の影響だと分かった。ネパール政府ではこの氷河湖の水を抜くことは出来ない。外国(国際社会)の援助でロウアー・バルンの水を抜いてほしい。そうでなければ怖くて安心して生活をおくることが出来ない」と国際社会による救済を訴えていた。

ローアバルン

ローアバルン

 これで私の一ヵ月間に及んだ氷河湖の視察の旅は終わり、明後日からバングラデシュに、ハティア島やハシャリ村の侵食状況の視察に向かう。多くの村人の声を集めてきて感じてきたのは、いつ決壊するか分からない巨大な氷河湖を頭上に抱えながらの生活に、不安と戸惑い、そしてどこに訴えていいのか分からないといった焦りに怒りである。時に我々のカメラに向かってその蓄積した感情が爆発することもあった。「早く水を抜いてほしい!」という声を何度も耳にしてきた。

 帰国後、G8環境大臣会合記念特別シンポジウム(5月23日(金)神戸にて開催)でこの現場の声を届けるとともに、議長総括に「日本政府として氷河湖への支援・対策」を盛り込むように尽力したい。
 それにしてもイムジャ、ツォー・ロルパ、そしてロウアー・バルンと氷河湖を見てきたが、その中でもロウアー・バルンの氷河湖の幅がひときわ目立っていた。氷河湖の横斜面の上部にも氷河の塊が多く、あれが崩れて氷河湖に落ちてきたらどうなってしまうのだろうと、シーンと静まり返っているだけに逆に無気味であった。

カトマンズにて 野口健

シェルパ基金~子どもたちとの再会~

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 緊迫状態のヒマラヤからカトマンズに戻り待ちに待った定宿のサウナに入ったら肩の力がガクンと抜けたのか、そのまま部屋のベッドに倒れこむかのように、そしてしばらく起き上がることが出来なかった。夜は日本レストラン「ロイヤル華」へ。ここのお鍋料理が大好きで、またお庭にお風呂があり、ヒマラヤで冷え切った体を温めるには最高だ。ガイドのアンドルジさん、そしてカメラマンの平賀淳君と「いや~お疲れ様でした!」とお風呂の中で乾杯!ヒマラヤから戻った最初の記念すべき第一回目のお風呂はなんとも形容しがたい気持ちよさ。こればっかりは経験しないとその感動は伝わらない。なにしろ一か月ぶりのお風呂である。エベレスト登山ならば二か月ぶりのお風呂となる。夢にまでみたお風呂にサウナに感激のカトマンズに夜となった。
シェルパ1

シェルパ2

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6日、私はカトマンズ郊外にある「マウント・カイラススクール」に向かった。チベット系の小中高一貫教育の全寮制の学校だ。2002年から始まったシェルパ基金。ヒマラヤ登山で外国人に同行し遭難してなくなったシェルパ達の遺児の養育を手伝わせて頂こうと立ち上げたシェルパ基金。きっかけは相棒のナティー・シェルパ(デェンディー・シェルパの弟)がパンガ村で日本のトレッキングツアーに同行し、遭難(宿泊していたロッジが雪崩に押しつぶされた)、日本人トレッカーと共に死亡してしまった。遭難のニュースを耳にし、慌てて日本から駆けつけ彼の遺体を発見しルクラで待つ彼の母親のところまで届けたが泣き崩れる老いた母にその兄弟たち。日本の報道陣のカメラは亡くなった日本人トレッカーの遺族ばかりにむけられ一緒に亡くなったシェルパ達に向けられることはなかった。
シェルパ6


シェルパ5

現場にてその一部始終を目撃した時からシェルパ基金を作り、ヒマラヤの遭難による遺児たちの育成に関わっていこうと心に決めていた。いま、このマウント・カイラススクールには私の子どもたちが沢山いる。年に一回、ヒマラヤから降り彼らのところを訪問することが習慣となっている。

一昨年は動物園、その前は美しい丘、今回は悪天候とうこともあり、ネパール山岳会会長のアンツエリンさんの弟さんのトゥクテンさん宅でお食事会パーティーとなった。来年はネパール第二の都市であり美しい湖がある「ポカラに遠足に行こう!」と盛り上がった。
シェルパ4

年々、成長していく子供たちの姿にどれほど励まされ助けられてきたことか。助けているようで逆に助けられているのだ。シェルパ基金によってマウント・カイラススクールに通う子どもたちを毎年数人ずつ増やしているが、最初は地方から一人やってくるのでホームシックやカルチャーショックなどを経験する。特にお父上を亡くされてからやってくるわけで、その表情が怯えているようであったり、曇っていたり。しかし、その翌年に再会する時には目をキラキラと輝かせた彼らの姿に安心させられる。
 
慣れない鉛筆を握るだけで幸せなそうな彼ら、学べる事に最大限の喜びを感じてくれている。厳しいヒマラヤから戻り彼らと再会するのが私の最大の喜びでもある。私もこの年であまりにもたくさんの子の父親になった。彼らの生き生きとした表情を眺めながら「またこれからの一年、頑張るぞ!」と気合を入れるのであった。
シェルパ3

2008年5月6日 カトマンズにて 野口健
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この度はエベレスト街道周辺で氷河湖の視察を行ってきたが出来る限り多くの村人から声を集めてきた。確かにイムジャ氷河湖などの実態は多くの学者によってそれぞれが発表し様々な指摘がなされてきたが、私を含めその関係者のみなさんは地元民ではない。したがってよほど運が悪くない限り氷河湖が決壊する時にその場に居合わせることもないだろう。仮にイムジャ氷河湖が決壊したとしても自らの生命財産を失うわけではない。逆に学者の先生方にとっては氷河湖が決壊すれば活躍の場が増えるのかもしれない。

しかし、村人は違う。仮にイムジャ氷河湖が決壊すれば、エベレスト街道沿いの村々の多くも、あのサバイ湖決壊によって辺り一面がひどくえぐられ跡形もなく流されてしまったように、いやそれ以上に残酷に、そして一瞬にしてこの世から姿を消すだろう。
我々(学者の先生方も含む)はあくまでも安全な場所からやってきて、それでイムジャ氷河湖を含めた氷河湖の拡大が及ぼす決壊の危険性であり、想定される被害、また決壊させないための対応策についてあれこれ訴えているに過ぎず、「他人事」と言ってしまえば「他人事」なのである。

いつでもどこの世界でも同じ事が決まって繰り返されるのだが、氷河、温暖化関係など学者の先生方、また様々な関係者と接してみると、私の主観かもしれないが、この限られた世界の中にもいわゆる対立の構造が見受けられたりする。限られた世界ゆえになおさらなのかもしれないが・・・。しかしそんな事は被害を受けるかもしれない「当事者」からすればまったくもってどうでもいい話で、とにかく早くアクションを起こしてほしいのだ。

前回の記事にも書いたように、もし私たちの住み家の頭上に今にも決壊しそうな巨大な氷河湖があればまた違った展開になるのかもしれない。大切な事は少しでも当事者の気持ちに近づくその努力だ。その為の「現場」だと私は感じている。


昨年8月、トゥクラ村での洪水で経営していた山小屋が流されてしまったディキ・シェルパ(44歳)に話を聞いた。92年に初めてヒマラヤに訪れた頃から私はこの小さな山小屋を定宿にしてきたが、昨年12月に久々にトゥクラ村に訪れた時に山小屋もろ共その周辺の地面までが削られてなくなっている光景にしばし呆然とまた絶句してしまった。ガイドのアンドルジ・シェルパに「あの山小屋のおばさんは!」と確認したら「彼女は助かって今はペリチェ村に住んでいる」と無事を確認しホッとしたが、しかし長年にわたり彼女が築いてきたあの山小屋を失い今はどうしているのだろうかと気がかりであった。

トゥクラで洪水被害にあったディキさん
トゥクラで洪水被害にあったディキさん


その山小屋の主であったディキ・シェルパは我々のインタビューに、

「昨年の夏に水と砂が一緒になって(いわゆる土石流のことだと思われる)何度も流れてきて、私の目の前でロッジが流されていった。なんとか逃げることは出来たけれども少しのお金と少しの衣服だけしかロッジから運び出せなかった。私には子どもも土地もない。私にとってあのロッジが全てだった。今はペリチェ村で喫茶店を借りてポーター相手に商売しているけれど、とても厳しいよ。私は全てを失ったけれど、でも、いつかまたロッジを建てられるようになるまで諦めずに頑張るさ」

と気丈に振舞ってくれたのが唯一の救いでもあったが、頬はすっかりと痩せこけ眼には涙が溜まり疲労困憊されているのは明らかであった。


そして対照的であったのがディンボチェ在中のソナムイシ・シェルパさん(60歳)だ。

「イムジャ氷河湖が決壊したらこの村は10分もしないうちにみんな流されてしまう。最近、外国人(日本人のことだろうと思われる)が決壊した時の警報器を設置したと聞いたが、そんなものになんの意味があるのだ!警報がなって逃げだせたとしても家も財産も全て失ったらその先どうやって生きていけばいいのか。この村にも若い人が少ない。爺さん,婆さんばかりよ。今からもう一度働いて家を建てることなどできるわけない!犬のように動物ならば体一つで生きていけるかもしれなしが私たちは人間だ。洪水で家が流されるぐらいならば一緒に流されて死んだ方がましだ!政府はまったく無関心だ。温暖化も私たちのせいではない。一体誰に訴えればいいのか。そこの積まれた石を見てごらん。若いシェルパ達が新しい家を建てるために運んできたが、洪水が起きてしまったら全て流されるからしばらく様子を見ているんだよ。誰かがイムジャの水を抜くかも知らない。イムジャが安全になったら家を建てるんだと。それまで石は積まれたままさ。いつになったら家が建つのか、それともその前にこの村が流されてなくなってしまうのか。私はお金がないから危なくてもこの村に残るしかないよ」

ディンボチェ在住でソナムさん
ディンボチェ在住でソナムさん

と約30分以上にわたって焦りから来る危機感なのだろう、また怒りをどこにぶつけていいのかも分からないのだろう、その蓄積された不満が一気に我々のカメラに向かって大爆発した。彼はしきりに「警報器はなんの意味もない」と訴えていたが、それはあくまでも極論であって私の解釈では「警報器のみでは意味がない」ということなのだろう。

それはそうだろう。警報器はあくまでも緊急事態(決壊時)に一刻も早く決壊を村人に知らせる手段であって決壊そのものを防ぐものではない。したがって「緊急避難」としての「警報器」と同時に必要不可欠となるのが決壊させない対策である。その為には氷河湖の湖水を抜くのか、または氷河湖の壁面が崩れないように砂防技術などによって強化し決壊しないようにするのか、様々な方法があるのだろう。

このクンブ地方の山旅で改めて感じたのが速やかな氷河湖の決壊対策に関する調査と同時に可能な限り早い段階での例えば「水抜き作戦」などといったアクションである。現場の緊迫感を早く日本に伝えたい。5月8日はカトマンズからヘリでマカルー方面にあるローアバルン氷河湖に向かう。
決壊を恐れ建設をみあわせた資材だという
決壊を恐れ建設をみあわせた資材だという

2008年5月5日 カトマンズにて 野口健
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5月3日、最後の峠を越えやっとこさルクラ村に戻ってきた。約一ヵ月間、歩きっぱなしであった。いやはや、なかなか堪えた。途中、ルクラ村の手前にシャクナゲなどのお花が至る所に咲いており、まるでお花畑であった。久しぶりに見る色が新鮮でしばらく見とれていた。赤にピンクに黄色に緑に、そして香り。岩と氷の世界から命あふれる世界に戻ってきた安堵感に包まれ幸せであった。しかし、気になったのがこの時期にしてはいささか早咲きであるとのシェルパの一言。

花1

ああ、そういえばエベレストのベースキャンプも4月中旬であったにも関わらず氷河が溶けだし至る所で水が流れ川となっていたのを思い出した。今頃、どうなっているのだろうかと心配。アイスフォールの一部が崩壊しシェルパ3名がクレバスに滑落し負傷したとのニュースも聞いている。三浦隊のみなさんはお元気だろうかと心配しながらも大ベテランの三浦さんに限っては大丈夫だろうと、ただ今年ばかりは自然現象よりも北京オリンピックの悪影響でそれ以外の部分でさぞかし精神的にもスケジュール的にもご負担になっているに違いないと気の毒でならない。

*三浦雄一郎さんのエベレスト遠征の模様はこちらに詳しく紹介されています。

自然現象よりも人間社会のほうがよほど怖く、またたちが悪い。なにしろエベレスト街道には中国から私服に化けた公安、または情報機関などのいわゆる工作員ら約50人が潜んでいるとのこと。そしてベースキャンプにも中国大使館員と思われる人物がテントを張り監視活動を行っていた。メラピーク登山最中にもダークグリーンに塗られた軍用機がエベレスト上空を何度も旋回しているのを目撃した。

やれ5月10日までベースキャンプから上部に上がってはならないだとか、信じられない事に登山隊付きの医師までもが「ベースキャンプから退却せよ」とのお達しがネパール観光省からあったとのこと。そして山頂を目指していたアメリカ人登山家が「フリーチベット」(チベット解放)と書かれた旗を持っていただけなのにエベレストから追放されてしまったとか。なにゆえに中国は越境までしてネパールにそこまで圧力をかける必要があるのか。そこまでしてなにを隠したいのか。中国はチベット問題を「内政干渉」と表現されるが、ネパールで行っている行為はどのように説明されるのだろうか。内政干渉どころかネパールを完全に支配下におき属国扱いしているではないか。

「言論の自由」が一切許されない、まるで戦時中の日本の憲兵による、またはナチのゲシュタボのような異常な監視体制化下の中で山頂を目指さなければならない全ての登山隊がまことに不憫でならない。聖火リレーを走った日本人選手の中に「スポーツと政治は別ですから」とのコメントがあったそうな。いかにも綺麗な「正論」でしょう。しかし、もしチベットでの悲劇を目の当たりにしたら、その「正論」が通用しない世界があることを知るに違いない。なにしろ「ヒマラヤ登山」という「スポーツ」が中国の政治によって弾圧されているのだから。

春の美しい花に見とれながら、しかしその上空を旋回する軍用機に人間の愚かさを感じ、また人はいつの時代も同じ過ちを繰り返すものだと、ヒマラヤの大自然はそんな人々の姿をさぞかし滑稽に感じていることだろう。

花2

花3

2008年5月3日 ルクラ村にて 野口健

サバイ氷河湖決壊に山が割れた

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 メラピーク登頂の翌日(4月30日)我々はタンナ村まで下った。98年9月3日、午前5時にタンナ村のすぐ上部にあるサバイ氷河湖(地元名タン湖)が決壊しタンナ村の一部が流され、また一面が緑の放牧地がその面影を残すことなくまるで軽井沢の「鬼押し出し」のような死の土地に変わり果てていた。


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サバイ湖決壊時の写真(ラクパ・ギャルゼン・シェルパさん撮影 )

 決壊前に何度も訪れた事のあるタンナ村。先にも書いたように一面が青々として牧草地で、特に夏は放牧用の村として知られている。私が行き来していた時期は今と違ってロッジなど一軒もなく、夏はヤク使いからヤクの新鮮なミルクにバターをとっては頂いていた。またジャガイモ畑が村中にあり、観光地となったエベレスト街道とは違いシェルパのリアル・カルチャーを感じられるほのぼのとした世界であったが、メラピーク登山が注目させるにつれ外国人トレッカー、登山隊が増え今ではルクラ村からメラピークのベースキャンプ(カーレ)までまるでエベレスト街道を連想させるかのように至る所にロッジが建てられている。

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サバイ湖決壊時にタンナ村で避難したラクパ・ギャルゼン・シェルパさん 

 そのタンナ村の上部にあるサバイ氷河湖の上部にある氷河が溶け、湖面に崩れ落ち湖水を圧迫しその威力で水位が上がると同時に湖の岸壁を押し破り決壊したとのこと。タンナ村から見ると、ちょっとした丘のような山の奥にサバイ・ツォがあったが、決壊と共にその山が真っ二つに割れたようにV字形に削られ、そこから水と一緒に土砂が12時間以上にもわたって何度も繰り返してタンナ村に襲いかかってきた。


サバイ湖全容.jpg
サバイ湖全容


土石流はタンナ村を襲った.jpg
土石流はタンナ村を襲った


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決壊した場所を指さす

後ろが98年に決壊したときにできたV字型の傷痕.jpg
後ろが98年に決壊した時にできたV字型の傷痕

 爆音と共に岩が擦れる時に発する異臭に驚き慌てて家を飛び出したラクパ・ギャルゼン・シェルパさん(30)は「12時間ほど時間をかけて何度もゆっくりと土石流が流れてきた。音が大きくて怖かった。また岩が擦れる臭いが臭くて吐き気がした。私の兄のロッジが目の前で流されていくのをただただ黙って見守るしかなかった。兄は全ての財産を失いルクラ村に戻ったが生きる希望を失ったのか心の病に侵され未だに社会復帰できていない。引きこもり状態で家族を養えていない。一日も早く元の兄に戻ることを祈るばかりだ。私もジャガイモ畑をもっていたが今は土砂に埋まっている。この地では二度とジャガイモ畑はできないだろう。温暖化の影響で氷河が溶けだし氷河湖の決壊がネパールでも増えていると聞くけれど私たちにはなにもできない。運命として受け入れるだけ」と嘆いていた。

 翌日、タンナ村を離れ下流約5キロのコテ村まで下ったが川岸の道程も土砂とともに巨大な岩が押し流されてきており、歩行困難な状態であった。改めて水の破壊力を思い知らされた。新聞報道によればサバイ氷河湖の貯水量は1700万立方メートル。エベレスト街道上部にあるイムジャ氷河湖に至っては現在直径一キロ、深さ約90メートルにも達し、約3580万トンの水を貯水している。日本人に分かりやすく説明するのならば東京ドーム32個がすっぱりと入るとのこと。一目にサバイ氷河湖よりもイムジャ氷河湖のほうが遥かに巨大なことが分かるだけに、もしイムジャ氷河湖が決壊すればサバイ氷河湖決壊時の被害(死者2名・橋が5つ流された)では済まされない事など一目瞭然である。ただ、不幸中の幸いはサバイ氷河湖の下流にも大きな村もなく人的被害は極めて限定的であったこと、数万人が生活し行き来するエベレスト街道での上流での決壊となればその被害は想像しただけでもゾッとさせられた。


サバイ湖に流れ込む氷河.jpg
サバイ湖に流れ込む氷河、この氷河の一部が崩れサバイ湖に
落ちたことによりサバイ湖は決壊した


 サバイ氷河湖決壊は水の破壊力を改めて私たちに知らしめた。この自然の合図に対し私たちは謙虚に受け止めそして敏感に察知し、そして大胆な決壊対策としての早急にアクションを起こさなければならないだろう。私とも関わりのあるカトマンズに本部があるICIMODO(国際総合山岳開発センター)が仮にイムジャ氷河湖が決壊すれば下流7・5キロのディンボチェは決壊から14分に土石流に襲われ、さらにこの湖から14キロあるパンボチェ村には21分後に土石流がやってくると発表していた。エベレスト街道の玄玄関口であるルクラ村までは一時間で土石流が届くと指摘する日本の学者の先生方もいる。


タンナ村からこて村に下る途中の光景
タンナ村からコテ村に下る途中の光景。洪水、土石流の影響で川岸が大きく削られ、また地面もえぐられ巨木が倒れ見るも無残な姿だった。


決壊したサバイ湖からは30キロ下流まで・・・.jpg
決壊したサバイ湖からは30キロ下流まで土石流が流れた。
かつてこの辺りは放牧地であった

 
 いつ決壊するかも分からない氷河湖。「野口健は危機感を煽りすぎだ」と指摘する日本の専門家の方々がいらっしゃるようですが、もしその方々のお住まいの頭上にいつ決壊するか分からない巨大な氷河湖を抱えていても同じ気持ちになるのだろうか。私はこの旅で多くの村人の声を集めてきたが、みな異口同音「地球温暖化はシェルパのせいではない。氷河湖の水を抜いてほしい。早く安心して生活がしたい」であった。怯えて過ごす人々の生活を目の当たりにし待ったなしの状況であると自身に言い聞かせ、この現場の声をどのようにG8環境大臣会合、洞爺湖サミットに届けられるのか、現場を知っている人間の責任でもあり声を上げる義務があるのだと、明日から再び新たな現場を目指す。


丘の上からタンナ村を撮影
丘の上からタンナ村を撮影。後方は決壊したサバイ湖

2008年4月30日 タンナ村にて 野口健

思い出のメラピーク

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 8年ぶりのメラピーク登山。28日にメララ峠を越え最終キャンプへ。メララ峠からは広く長いメラ氷河を一歩、また一歩進む。気の長くなる行程だ。峠だけあって風が強く、まただだっ広いので霧になり視界がなくなると方向を見失いやすい。このメラ氷河をなんど歩いてきたことだろうか。今回で6回目となるメラピーク。

山頂直下

山頂直下

メラ氷河を登る最終キャンプを目指す

メラ氷河を登る最終キャンプを目指す

 98年6月に秋のエベレスト再挑戦を控え最終トレーニングとして亜大山岳部の長尾とメラピークに登っていた。下山時に2度ヒドンクレバス(表面に雪が被さっていて見えないクレバス)を踏み抜いて落ちた。幸いな事にロープを付けていたので宙ぶらりんとなり、なんとか這い上がり助かったが、落下した際に、あごを氷に打ちつけ瞬間的に意識を失った。しばらくあごが痛くて歩く振動さえ苦痛だった。

夕焼けに沈むマカルー峰

夕焼けに沈むマカルー峰

標高を上げるにつれ、宇宙が近づいてくるのがわかる

標高を上げるにつれ、宇宙が近づいてくるのがわかる

 そんなことよりも辛かったのがカトマンズに戻った時に日本に連絡した時のこと。私がメラピークに登っていた頃、エベレストでは歴史的な大量登頂の記録が更新され日本でもニュースとなっていた。その時の秋に私のエベレスト再挑戦(二回目)が予定されていたが、同行取材する事になっていたテレビ局のディレクターから「これだけエベレストに大量登頂するとニュースとしての価値がなくなる。同行取材は難しいかもしれない」との一言にショックを受けていた。今となってみればディレクターのあの一言は「そりゃ~そうなのかもしれないな」と理解できないこともないが、当事者としてまだ23歳の若造には冒険をもっとピュアに受け取ってもらいたいと、一人カトマンズでやけ酒をあおっていた。ただ、紆余曲折ありながらも秋のエベレストにそのディレクターの姿はあった。にも関わらずまたしても登頂ならず。散々、振り回し迷惑をかけしてしまった。

太陽を背に歩を進める

太陽を背に歩を進める

山頂からの絶景(中央奥にエベレスト、左奥にマカルー)

山頂からの絶景(中央奥にエベレスト、左奥にマカルー)

 95年のメラピークも色々とあったものだ。一緒に登っていたテンバ・シェルパの娘のラムさんに恋し、テンバに相談したら「それなら一緒になれ」とメラピーク登頂後にルクラ村に戻り式を挙げた。本人も慌てたがそれ以上に慌てていたのが私の両親だった。父の方は「まあ~俺もそうだったからなぁ~カエルの子は結局はカエルってことだな」と、ただ、母親からは「家を出て行きなさい!」と事実上の絶縁勧告だった。

 その後、2年たってラムさんとは破局を迎えたが、今では彼女の二児の母。私の母は一昨年、他界してしまった。母は厳しかったが、今ではあの厳しさが愛情だと、心底、心から感謝している。素敵な母だった。

 前回(2000年)のメラピークではラムさんの弟のニマと再会し一緒にメラピークに挑戦しているのだから、色々とあるものです。そのニマがメラピークのベースキャンプで他の外国隊のポータと喧嘩し、やられそうになり、連中が短刀をもっていたので、また私もこういうことは嫌いなほうじゃないので、ピッケルを手に参戦。短刀対ピッケルとなり、慌てた周りのシェルパ達が仲介に入り事なきを得たがもしあのまま誰にも止められることもなく本気でやりあっていたら一足先にあの世に行っていたか、それともカトマンズの牢獄生活をおくっていたかだろう。しかし、その騒動の後に、ニマと二人でシェルパ達に「迷惑をかけました」と謝りながらも目があうとニコッと笑い、ラムさんとの破局などで離れかけていた距離を一気に取り戻せたような、男と男の絆なのか、また互いに「しでかした」共犯ともいえる妙な一体感に包まれなんとも嬉しかった。

我々の前を行く登山隊

我々の前を行く登山隊


一歩一歩、慎重に進む

一歩一歩、慎重に進む

 考えてみればメラピークは92年の初挑戦の時から激しかった。ルクラ村からザトルワラ峠を越えなければならないのだが、我が隊が先に腰までのラッセル(雪かき)を行いルートを切り開いたにも関わらず真後ろから金魚のフンのごとくピタッとついてきたイギリス隊(イギリスの陸軍隊)がテント場についた瞬間に私のシェルパがテントを設営しようとしていたら「ここは我々の場所だ!」とテント場を横取りしようとした。相手からすれば19歳の日本人一人のシェルパ達。軽く見たのだろう。私のシェルパと連中の間で一悶着起きそうだったので、やれやれと間に入ったら、いきなりそのイギリス人が私の胸ぐらをつかんで「ファック」だのなんだと吠えてきた。軍人だけあって大柄で、私などとても勝ち目などないが売られたケンカ、逃げるわけにもいかず、どのようなトラトラトラ(奇襲攻撃)を仕掛けるかと思いきや背後にいたデンディーがスーと音を立てずに近づいてきたと思ったら手には短刀、そして短刀を手にしたほうの手を腰にあて体重をかけたまま相手(イギリス人)に突っ込もうと突撃態勢に驚いたそのイギリス男が「オー・ノー・ノー」を叫び怯み私の胸ぐらから手を放しひっくり返るように尻持ちをついた。私もデンディーの本気モードにこれはヤバいと彼を止めたが間一髪だった。

メララから登山ルートを確認

メララから登山ルートを確認

メラピーク峰

メラピーク峰

 それにしても短刀一本で尻持ちをつき怯えきっているイギリス男の姿に果たしてこの男に国防の一端を任せられるのかと人様のお国事情で余計なお世話かもしれないが心配になったものだ。後でデンディーの「本当にやろうとしたの」と聞いたら「もちろん、ケンがシェルパを守ろうとしたのだから」と一言。寡黙な男であるが、それ以後私とデェンデイーはいつも一緒、セットとなった。男と男との関係はいかにも単純で時に野蛮だが、ピンチな時に体を張って助け合った時に初めて確かな絆が生まれるもの。それにしても、ニマとの件にしろ、デンディーの件にしろ、やはり若かった。若さゆえの危うさもあったが、私の大切な青春の一ページに違いない。

メラピークに登頂した瞬間!

メラピークに登頂した瞬間

シェルパたちと山頂で記念写真

シェルパたちと山頂で記念写真

 8年ぶりにメラピークに登りながら「本当に色々あったなぁ~」とヒマラヤ、またシェルパとの関係、どちらも私にとっての原点がここメラピークにある。2008年5月29日、午前9時、メラピークに登頂!山頂からはチョオユー、エベレスト、ローツェ(ローツェシャール含む)、マカルー、カンチェンジュンガと8000M峰5座が見渡せる圧巻の景色。メラピークの山頂で抑えかけていた冒険心に再び火がつこうとしている事を客観的に自覚している自分、そして「それでよい!」と容認している自分がいた。

2008年4月29日 メラピーク登頂後、カーレ
(メラピーク・ベースキャンプ)に下る。カーレにて 野口健

クレバスに気をつけながら登る

クレバスに気をつけながら登る

アタック中の撮影は過酷だ。頑張る平賀カメラマン

アタック中の撮影は過酷だ。頑張る平賀カメラマン

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