2010年3月アーカイブ

シェルパ基金に関する動画を公開!

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シェルパ基金はシェルパ(他民族も含む)が山で遭難死したり、また下山後に高度障害の後遺症により死亡したシェルパの遺児達の教育費を負担することが主な目的としています。詳細は是非こちらから動画でご覧ください。


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IWC『シェルパ基金』モデルに関する動画を公開!

2008年、時計メーカーであるIWCがシェルパ基金とのコラボレーションを提案。1つの時計が生まれました。裏蓋には、登山をしている野口のシルエットと「KEN NOUCHI & IWC FOR SHERPA FUND」の文字が彫られている。詳細はこちらから動画でご覧ください。

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もうすぐヒマラヤ

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 もうすぐでヒマラヤです。フィリピンから帰国し山形、青森、高知と講演行脚してまいりました。ヒマラヤ遠征が目前に迫っていますが、今年は日本でも寒かったのでヒマラヤはどうでしょうか?これから日本では桜が咲きやっと暖かい季節になるのに、僕は真冬に逆戻り。

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ただ、あの真っ白な純白な氷河の世界に戻れるのが今は何よりも嬉しい。言葉の世界から感覚の世界です。よく「ヒマラヤは大変ですね」と言われますが、とんでもない。私からすれば日本の世界の方がよほど大変です。同時に様々な事を考えなければならないのが娑婆の世界ですが、ヒマラヤの生活は至ってシンプル。その日をいかに生きるか、それだけ。そしてふと感じる事は、日頃悩んだり、一大事だと感じていたことが、いかにもスケールが小さく、どうでもいいようなことに思えてくる。日々の生活の中で気がつかないうちに心をギューと鷲掴みされ、余裕がなくなっていく。誰しもが同じような事を感じていると思いますが、僕の場合はヒマラヤが解放してくれる。心のリセットなようなものです。これ、大事です。
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よく人から「もうヒマラヤのような危険な所に行かないで環境活動に専念すればいいのに」と言われますが、ヒマラヤでの冒険活動を辞めたら私の今のモチベーションは維持できないでしょう。日本での活動含めこれだけコツコツと続けていられるのはヒマラヤからエネルギーを頂いているからです。

それはそうと一昨日、高知からの帰りのフライト中、ふと窓から表を覗いたら夕日に飛行機雲のラインが一筋光り輝き、その光景がなんとも美しくハッとした。久々に無条件に美しいものを見た気がしました。
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さて、残り約一週間、仕事とヒマラヤ遠征準備に専念したい。
フィリピンから戻った翌日、山形へ移動。灼熱であったフィリピンから雪が残る山形へ。3月14日、コスモアースコンシャストアクトの講演会ですが、このイベントも8年目。そして記念すべき50回目。2002年からスタートし全国を回ってきました。コスモ石油さんも全国のFMさんもよくもこんな自分に嫌気をさすこともなく使ってくれました。そして会場に足を運んでくださった多くの方々。本当にありがとうございます。

決まっている?
決まっている?


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 控室に入ったらこの講演会をずっと支えてきた博報堂のそるとさんが大きな何枚ものパネルを持ってきて「野口さん、サインしてください。50回記念のプレゼントにしますから」と。我ながらなかなか格好いい写真?もあれば、微妙な表情?のドアップも何点かありました。 

ソルトさんのブログにて応募していますので希望する方は申し込んでみてください。

プレゼントの詳細はこちらから
プレゼント写真です
プレゼント写真です

 でもでも、あんなに大きなパネル写真もらって嬉しいのかなぁ~。邪魔だといって僕のサイン入りのパネル写真が樹海に捨てられたりして・・・。

50回記念ケーキ!


コスモ石油イベント責任者である前島さんは「野口健、50回といわず100回までお願いしますよ」と。思わず涙が流れそうになってしまった。

コスモ石油さんには本当に感謝です。だって何故ならば、企業からすれば野口健へのサポートは不安だろうに。やはりなんといっても発言内容。チベット問題、遺骨収集問題、そして政治問題等々。一般的には、企業からしたら「そんな信念よりもうまく上手に当たりさわりないことを綺麗に話してくださいよ」となるでしょう。企業の姿勢としたら当然の事なのかもしれない。

 しかし、コスモ石油さんは私に「野口さんの生き様を講演会で語ってください」「現場の世界を届けてください」と。

 こんな使い勝手の悪い男をよくもここまで育てて下さったと私はコスモ石油さんには頭があがりません。本当に感謝しています。
いつの時代も美女には弱い。幸せな一時。
いつの時代も美女には弱い。幸せな一時
そるとさんが撮影。
そるとさんが撮影

参加者との写真撮影会は
参加者との写真撮影会は貴重な出会いの場です

高校生?中学生?
中学生?高校生?若い人が聞いてくれるのが嬉しい

 フィリピンでは心が傷つくことがありましたが、日本に帰ってきてこのコスモアースコンシャストアクトの仲間たちに囲まれ、記念ケーキまで頂いちゃって、心から嬉しかったです。
小さな写真にサインしてと頼まれて
小さな写真にサインしてと頼まれて 

 3月30日からはヒマラヤ遠征です。氷河湖の調査再び。IPCCの情報修正騒動以来、「ヒマラヤの氷河など溶けていない」といった極論が目立つようになっていますが、それはちょっと待った!

 IPCCの四次報告書問題がなんなのかよく知りませんが、現実問題、現場では急激にヒマラヤの氷河が融解し氷河湖が拡大し、またその氷河湖の中から決壊による洪水被害も始まっているのは紛れもない事実。ヒマラヤの温暖化問題をもう一度、世間に訴えるべく私はヒマラヤの氷河湖調査を再び開始。ネパールで仲間のダワステーブン・シェルパが一人温暖化の被害を訴え続けていますが、私も再び彼と加わりたい。

 次にマナスル基金によってマナスル峰の山麓サマ村にて建設中の学校ももう大半が完成。 開校式も行う予定。そしてチュール峰という6000M級の山にも登ってきます。

 あと、2週間でヒマラヤに帰れる。私の第二の故郷であるヒマラヤ。一年ぶりのヒマラヤ。安心して過ごせるヒマラヤ。あと2週間でヒマラヤです。
大切なスタッフに囲まれて
大切なスタッフに囲まれて<

台湾・高砂義勇隊を巡る旅 後編

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台湾での滞在は二泊三日と短期でしたが、内容はとても濃かった。
蕭錦文(ショウ・キンブン)さん、馬莎振輝(マサ・トフイ)さんとの出会いから私は本当に多くの事を考えさせられました。台湾行きの前にそれなりに資料に目を通し、なんとなく表面的な知識でしかないものの、高砂義勇隊について少しだけ理解していたつもりでしたが、実際に直接お会いしお話をきくと、それは調べていた事前情報などとはまったく違った世界でした。
高砂義勇隊英霊記念碑の近くに植えられた桜
高砂義勇隊英霊記念碑の近くに植えられた桜 

 蕭錦文さんは仕切りに「日本人が日本の悪口を言うのが残念」と話されていましたが、本当にその通り。時に反省も必要でしょう。その反省とは次に繋げるため、より進歩するための行為であり、ただただ自身を卑下するための自虐的な行為ではないはず。

 確かに戦争は不幸です。日本社会はあの戦争から多くを学び過ちを検証しなければならない。しかし、同時に国のために命を賭けてまで闘っていった人たちがいた事を再認識し、自己犠牲の精神の尊さを見直さなければならない時期にきているような気がしてならない。

 私は明日から再びフィリピンに向かいます。私にとっては第五回目となる遺骨収集活動。今回はパラワン島。沈船内の遺骨(海没遺骨)を含め一体でも多くのご遺骨を発見し祖国に帰したい。

 昨年、我々、空援隊によって収集された御遺骨は8675体。今年の目標は2万体。非協力的な日本政府の姿勢、またご遺骨をODAの取引材料としてくる相手国との駆け引き、壁は次から次へと立ちはだかる。しかし、その1つ1つを粘り強くクリアしていく以外に方法はない。

 時に弱気になる事もないわけではありませんが、しかし、こうした活動を通して、新たな出会いが生まれます。この台湾での新たな出会いも私に大きな大きな勇気を与えてくれました。蕭錦文さんの「日本のためにありがとう」、私はこの言葉を生涯忘れません。

それにしても温もりのある言葉は大切ですね。私が蕭錦文さんの言葉に救われたように、日本政府から台湾義勇志願兵の方々に対し、また遺族に対し「よく日本のために戦ってくれました。本当に御苦労さまでした。ありがとうございました」の言葉があれば救われるのです。もちろん、言葉のみではなくしっかりとした補償を国家のプライドを賭けてでも行うべきですが、しかしその前に人としての言葉を台湾の方々に対し発するべき。
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 それにしても台湾の旅は本当に楽しかった。新たに「知ってしまった」「背負ってしまった」こともありますが、あの町中から伝わってくるエネルギーはなんだろうか。夜の街をあてもなく剛さんと歩きましたが、歩いているだけで、また屋台で食事をしながらご主人や女将さんと話しているだけで、または銭湯の中で出会った台湾の方と話しているだけで、それだけなのに、どこか妙に懐かしく、かつての日本の姿を垣間見るようでホッと心が安らぎ、また同時にエネルギーの渦を感じ、生き生きとしている自身の姿を明確に認識していました。

 また近々、台湾に行く事にある。それがいつの日か分かりませんが、必ずその機会がそう遠くない将来に実現するだろうことは直感として感じ取っていました。
お茶屋さんの女将さん・台湾の朝青龍?
お茶屋さんの女将さん・台湾の朝青龍?

急須を買わないと万事休すですって!
急須を買わないと万事休すですって!

屋台は楽しい
屋台は楽しい

 蕭錦文さん、馬莎振輝さん、そして台湾行きのきっかけ作ってくださった野口剛さん、日本李登輝友の会のみなさん、本当にありがとうございました。
相棒の野口剛さんと
相棒の野口剛さんと

違いの分かる男?台湾茶は美味しい!
違いの分かる男?台湾茶は美味しい!

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2010年3月6日 野口健

台湾・高砂義勇隊を巡る旅 中編

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台北入りした日の夜、私たちは蕭錦文さん(しょうきんぶん・台湾総統府と台北二二八記念館解説員 84歳)とお会いすることができました。
しょうきんぶんさんと
蕭錦文さんと
   

蕭錦文さんは1942年台湾義勇志願兵(ウィキペディア)に志願し同年7月にシンガポールにて3ヶ月間の軍事教育を受けたのち、ビルマへ派遣されインパール作戦では15師団に加わる。この作戦は「白骨街道」と呼ばれたほど多くの犠牲者を出した。蕭錦文さんはそのインパール作戦から奇跡の生還を果たしたわけですが、実は私の祖父・野口省己(のぐちせいき)もビルマ作戦(第33軍)に参加しており同じく奇跡の生還を果たしたが晩年「あの作戦は生き地獄であった。私の兵士も大半が戦死した。戦死といっても多くが餓死やマラリアといった病死。食料も医薬品も弾薬もなく、バタバタと目の前で兵士が死んでいった。いまだに彼らの骨はそのまま放置されている」とよく話していた。  それだけに同じビルマ作戦に参加した蕭錦文さんに当時の話をお聞きしたかったし、親近感を覚えていました。蕭錦文さんは私達に面会に応じてくださり、自宅から2時間以上かけて訪ねてくださった。申し訳なくこちらからご挨拶に伺いたいとお伝えしたところ、「わざわざ日本からいらっしゃるのにとんでもないことです。2時間なんてなんでもないことです。よく台湾までいらしてくださいました」と。 「野口さん、私はとても嬉しいのです。あなたのような若い日本の方が私たちの話を聞いてくださる事がなによりも嬉しいのです。そうですか、あなたは野口参謀のお孫さんでしたか。あの戦いはとても悲惨でした。敵機の空襲を避けるために夜中しか行動ができなかったのですが、水がなくてね。何日も水を飲まないまま駆けずり回っていましたが、喉が渇き首を締め付けられて死ぬ想いでした」
しょうきんぶんさんは3時間も
蕭錦文さんは私たちの為に3時間も話してくださった


 蕭錦文さんと約3時間お話しましたが、台湾義勇志願兵に志願した経緯について、 「私たちは自らが志願したのです。合格した時は泣いて喜びました。名誉な事だと嬉しかったのです。日本の軍人たちも私たちを大切に扱ってくれました。苦しい戦でしたが、私は今でも誇りに感じています。  確かに戦後、日本政府は日本人ではない私たちには保証してくれませんでした。とても残念に思います。でも私たちはお金がほしいわけではありません。私ももう年です。お金なんかじゃないんです。ただ、日本の総理大臣から『よく日本のために戦ってくれました。御苦労さまでした』の労いの一言がほしいのです。私たちは自分たちの意志で参加し日本のために立派に戦ったのですから。  私たちは傭兵とは思っていません。正規の軍隊、軍属だと思っています。ですから、他の日本人と同じように扱ってほしかった。それだけなのですよ。でも、戦争で負けて、日本ではあの戦争は全ていけなかったと教育されてきました。ですから私たちの事は忘れられてしまったのかもしれません。日本政府の対応に納得はしていませんが、私は今でも日本が大好きです。残念ながら今の日本は私たちの時代(日本統治時代)の日本とは変わってしまいました。  戦争はするべきではないけれど、実際に戦った者として言わせてもらうならば日本が好きこのんで始めた戦争ではないですよ。そして台湾は日本の植民地時代にとっても大切にしてもらった。教育もインフラも日本と同じように日本人は一生懸命、台湾を良くしようとしてくれました。イギリスはシンガポールを200年も統治していたのに、汚いみずぼらしい街でした。当時のシンガポールは90パーセントの人たちが文盲でした。教育を受けていないから字が読めない。日本人は私達に教育の機会を与えてくれました。同じ植民地でもこんなに違うのかと思いましたね。  戦後の方が大変でした。中国から蒋介石がやってきて多くの台湾人を拷問し殺しました。中国国民党は40年間もの間、戒厳令を布いたのです。私も二二八事件で拷問を受けました。処刑される直前までいきました。  野口さん、私はね、今の日本がとても心配です。もっと自信をもってほしいのです。素晴らしい国だと胸を張ってほしいのです。私たちが命を賭けてまで志願し日本を守ろうとしたのは、日本が好きだったからです。それなのに今では日本人が日本の悪口を言う。とても悲しいことです。私たちにはまだ大和魂が残っています。日本人にも大和魂を取り戻してほしいのです。  でも、あなたが遺骨収集を始めたと聞いてとても嬉しかったです。みんな国の為に戦ったのですから。一体でも多くの兵隊さんを日本に帰してあげてください。日本のためにありがとう。ありがとうございます。」   私は、蕭錦文さんの言葉に涙を流してしまった。台湾人である蕭錦文さんの「日本のためにありがとう」の言葉。台湾は2度、日本に裏切られた。1度目は敗戦時。次に田中内閣で一方的に台湾との国交を断絶し中国と国交を結んだとき。  第二次大戦中、日本人として戦地に送られた台湾人は20万7000人あまり。うち戦死したのは3万0304人。特に高砂義勇隊の戦死、戦傷者の割合は高かった。それにも関わらず戦後、日本政府は日本人ではないとして彼らに補償してこなかった。  それにも関わらず蕭錦文さんの言葉から日本に対する恨みは聞こえてこない。これは蕭錦文さんだけではない。  その翌日にお会いした馬莎振輝さん(マサ・トフイ 台湾タイヤル族民族会議長)も 「私たちは日本人を恨んでいませんよ。日本が戦争に負けて私たちの町からも日本兵が引き揚げていきましたが、みんなで港まで見送りにいきましたよ。泣きながら別れました。日本人は基金を募って高砂義勇隊英霊記念碑を守ってくれましたが、嬉しかったです。日本のために戦った高砂義勇隊に感謝をしてくれたのだと思います。日本政府は冷たいですが日本人は温かいです。野口さん、この近くに日本兵のお墓があります。あなた達はそこには行かないのですか。日本のために戦った兵隊さんたちですよ」と。 サマ・トフイさんと
馬莎振輝さんと  私たちは馬莎振輝さんの案内で日本軍人の慰霊碑に伺いました。  日本人よりも日本を愛している台湾の方々。蕭錦文さん、馬莎振輝さんの言葉1つ1つがとっても温かった。それだけに日本政府が彼らに対し行ってきた数々の冷酷な仕打ちがなんとも申し訳なく、日本国民としてただただ恥ずかしかった。そしてつい先日まで高砂義勇隊の存在すら知らなかった自身の無知さがまた情けなかった。
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サマ・トフイさんの案内で日本兵の慰霊碑に
馬莎振輝さんの案内で日本兵の慰霊碑に
 

今からでもいい。日本政府は、また日本社会が、日本のために戦った彼らに対ししっかりとお礼の言葉と、そして日本人同様の補償を行うべき。それが人としての道であり、国家の在り方ではないだろうか。どうしてそんな当たり前の事を蔑しにしてきたのか、自身の国でありながら私には到底理解できない。友愛精神なるものが本当にあるのならば、もう遅すぎるかもしれないが今からでもいい。国家として当たり前の責任を果たしてほしい。
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台湾・高砂義勇隊を巡る旅 
後編

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