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寝袋支援プロジェクト ご報告

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東日本大震災後、被災地へ行なっておりました寝袋支援プロジェクトですが、皆様のご協力の下、無事に被災地へ送り届けることができました。皆様のご協力のおかげで、私どもの予想を超える数の支援物資が、日本全国、中国、アメリカより集まり、4回にわたり、被災地へ届けました。

3月17日
長野県小諸市の支援物資として、小諸市役所の方が届けてくださりました。
福島県南相馬市 寝袋100個

3月23日
小諸市の方々と、物資を届けました。
アウトドアメーカーの協力のもと、寝袋を中心に集めることができました。
岩手県陸前高田市広田小学校 
・寝袋440個
・寝袋インナー 100枚
・マット100枚
・テント50張
・食料ダンバール4箱
・衣料品ダンボール 2箱

4月2日
小諸市芹澤市長、富士山クラブメンバー、有志メンバーとともに支援物資を届けました。
寝袋は、中国のStar Products Ltd,Star Asphalt Ltd.による寄付800個、ヴィクトリアノックス・ジャパンからの寄付255個の他、全国の方々から送っていただき309個が集まりました。
また、海外からの輸送に関して、全日本空輸様のご協力をいただきました。

岩手県山田町・陸前高田市・宮城県気仙沼

・寝袋 1364個 (山田町800個、陸前高田市264個、気仙沼市300個)
・ランドセル 60個
・マフラー 300枚
・文庫本、漫画本、お菓子
・色鉛筆、折り紙
・靴下 200足
・玩具 7箱分
・子供用運動靴 100足
・水 1.5リットル 90本
・お茶・コーヒー
・女性用下着
・発電機
・使い捨てカイロ
・煙草、お酒
・Tシャツ、ウインドブレーカー


4月18日
岩手県山田町 耳栓・アイマスク 各2000個
岩手県陸前高田市 耳栓、アイマスク 各300個
宮城県石巻市 耳栓・アイマスク 各300個

その他、お送りしたところ
ガーネット宮城 耳栓、アイマスク 各3000個

栃木県の青年会議所 
・耳栓、アイマスク 各7000個
・寝袋 50個
・文房具など

海外を含め、多くの個人の皆様、企業の皆様にご協力いただけましたこと、心より感謝申し上げます。
今後も、様々な形で、被災地の復興の支援をしていきたいと思います。

野口健事務所



4月2日、再び被災地へと向かった。今回の訪問先は岩手県山田町陸前高田
市、気仙沼市。主な支援物資は寝袋が1376個(中国から800個、アメリカから
256個、フランスから50個、そして日本中から270個)。

気仙沼市では大規模な火災も発生。_800
 気仙沼市では大規模な火災も発生

 また前回3月23日に訪れた広田小学校(陸前高田市)の鈴木真紀子先生から
「ランドセルがあれば」との事でしたので、マナスル基金で集めたランドセル200個のうち100個を被災地に届ける事になった。
ヒマラヤ・マナスル峰の麓に学校を作ってきましたが、そのヒマラヤの子ども達に
日本のランドセルを贈ろうと長野県小諸市の子どもたちが200個のランドセルを
集めて寄付してくれていたのだ。この春のヒマラヤ遠征時に持っていく予定であっ
たランドセル。そこから100個を被災地へ。そして広田小学校には60個。残りの
40個は次のタイミングで他の地域に届ける予定。それ以外にもマフラー・文庫本・
漫画本・文房具・女性用下着・発電機・嗜好品など。富士山クラブからは富士山の天然水も。

津波の破壊力は凄まじい_800
 津波の破壊力は凄まじい

 10トントラック1台、4トントラック1台、ハイエース2台、エスティマ1台に支援物資を積み込み被災地の現場へと向かった。また各車両に予備用のガソリンタンクを積んだ。
何しろ被災地では極度のガソリン不足。その貴重なガソリンを我々が使うわけにはいかない。(東北道に関しては給油可)

 4月2日、午前11時東京発。途中、仮眠をとり4月3日午前3時半に紫波SAで芹澤小諸市長、富士山クラブの舟津さん達と合流。支援物資を運ぶトラックは前回同様に小諸市が提供してくださった。小諸市で環境大使を務めている関係から小諸市がバックアップしてくださったのだが、今回は芹澤市長も同行してくださった。
 何しろ、東京からも遠いのに、小諸市となればさらに遠い。それでも芹澤市長は「私も現場に行く」と、市長も現場主義。午前7時、岩手県山田町役場に到着しましたが、町役場の前はまるで戦争などで空襲を受けた跡のようだ。一面が焼け野原状態。2度目の現場入りに再び声を失う。津波が押し寄せた後、石油のコンビナートが破壊され町中に海水が混じった石油が。そして引火。

 山田町役場前。辺り一面が焼け野原となっていた。_800
 山田町役場前。辺り一面が焼け野原になっていた。

長野県小諸市の芹澤市長と。山田町役場にて_800
 長野県小諸市の芹澤市長と。山田町役場にて

 山田町、沼崎喜一町長は「私も家を失いましたが、弱音を吐くわけにはいかない」と自らが被災者でありながらも陣頭指揮を執っておられた。職員の多くも役場に寝泊まりし表情からは明らかに疲労感が伝わってきた。被災者のケアと同様に市町村の職員、または消防、自衛官などのケアも必要なのだろうと感じていた。彼らが倒れてしまっては元も子もない。特に長期戦となるこの大震災。サポートする側のケアも大切だ。

役場に宿泊している職員も寒くて寝られないとの声もあったので、寝袋600個を避難所用に。そして200個を町役場へ提供。町役場の方々は「私達はいいんですよ」と話されていたけれど、彼らに託されている役割、責任、そしてプレッシャーがどれだけ大きい事か。悲しみや怒りのやり場のない方々の感情が時に職員に向けられる事もあるだろう。せめて寝る時ぐらい少しでも暖かい夜を迎えてほしいと願っていた。

お寺の屋根だろうか_800 
 お寺の屋根だろうか・・・ 

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瓦礫の中にアルバムが_800
 がれきの中にアルバムが・・・

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 町役場を後にした我々一行が次に向かったのは山田高校。
 前回、陸前高田市に支援物資を届けた際、私のツイッターに山田高校の関係者から「山田にも寝袋を届けてください」とメールが入り、「今回は無理ですが次回は必ず届けます」と約束していただけに山田高校に到着した時には少しだけホッとしていた。
 車から寝袋以外の支援物資も下し、次の目的地である陸前高田市へ向かう準備に入った時に山田高校の先生から「もし可能でしたら避難所の人たちに声をかけてくれませんか」とお願いされた。私は正直、ドキっとしてしまった。なんて声をかけていいものか、分からなかった。
 何しろ、失ったものがあまりにも大きすぎる避難所の方々。家を失い、家族を失い、仕事も何もかも。なんて声をかけていいのだろうか、私には自信がなかった。頭が真っ白になったまま700人以上が生活している山田高校の体育館へ。

 しかし、体育館に入った次の瞬間に被災者の方々から拍手が沸いた。そして目が合うと笑顔も。私がイメージしていた避難所とは大きく違っていた。私の肩からスーと力が抜けていくのが分かった。

  そしてマイクを取りお話させて頂きましたが、私が一番使いたくなかった表現は「頑張ってください」だった。あの極限状態の中で生活していることが既に頑張っているのだ。頑張っている人にどうして「頑張って」と言えるのだろうか。「頑張って」という言葉は時に人を追い詰めることにならないだろうか。気が付いたら「皆さんはもうじゅうぶん頑張っています。あまり我慢しないで」と話していた。

 「頑張る」よりも「踏ん張る」。ツイッター上で見つけた言葉ですが、なるほどこちらの表現の方が正しい気がする。

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子ども達の笑顔に逆に元気をもらった_800
 子ども達の笑顔に逆に元気をもらった

この後も合計7か所の避難所を回りましたが、どの避難所でも共通していたのが支援物資を届けた際に「私達も大変ですが、もっと大変な人たちもいますから。私たちだけ頂くのは申し訳なくて。
そちらの方たちにも分けてください」といった譲り合いの言葉であった。

 海外メディアではこうような状況を「ほかの被災国でしばしば噴出する怒りやいらだちはほとんどない」(AP通信)「被災者は自分たちが置かれた状況を『我慢』という言葉で表現した」(米誌タイムズ)「ほかの国の大災害では殺し合いや略奪が起きるのに、日本人は避難所や商店で順番待ちの列を作っている」(タイのインターネットブログ)「日本人は例え親族が亡くなったとしても泣き叫んだりしない。我々が世界各地の被災地で見てきたものと違う光景だった」(中国の国際救急隊医務官)と報じ日本人の被災者のモラルを称賛している。

 確かに報じられた通り。世界の人々が驚くのも無理はない。しかし、あまり我慢ばかりしてほしくない。もっと「こうしてほしい」「あれが必要だ」と言ってほしい。我慢がばかりが先行すれば心のダメージに繋がる。時に我がままになることだって必要だ。

 避難所では一人でも多くの方々と直接お話しがしたかった。しかし、なかなかの移動距離で一カ所にゆっくりと滞在する時間がなかったが、それでも何人かの方々とお話が出来た。

 ある60代の男性は「野口さん、不思議なのです。私はサービス業をやっていて、お店も家も、お客さんも流されてしまった。何一つ、残っていないんですよ。でも不思議な事に悲しくないんですよ。まだ夢のような感じなのかもしれませんが。何だと思いますか、この不思議な気持ちは」と。私には答えられなかった。しかし、答えられなくてもいい。彼らの声を聞くことに意味があると思えた。私は被災にあった当事者ではい。理屈ならまだしも、「感覚的に当事者の気持ちになれるのか」と言われればそれは無理だ。当事者にしか分からない世界がある。しかし、少しでも近付く努力は必要だ。

 中学生の女の子たちはニコニコしながらも「自分の時間がほしい」と話した。50代の女性は「寝られないんです。寒かったり、音が気になって」と。また他の女性は申し訳なさそうに「耳栓とアイマスクがあれば・・・」と。それはそうだ。プライベートのない避難所では耳栓は必需品だろうし、比較的に暖かい昼間に寝たくても明るくては寝付きも悪いだろう。登山生活においても私は必ず耳栓とアイマスクを持っていく。なぜ、そこに気がつかなかったのだろうか。次回は耳栓にアイマスクだ。

 こうして様々な声を聞いた。この声は繋がる。

 山田高校を後にし、次は陸前高田市へ。前回訪れた広田小学校へ。ランドセル60個と子ども用の運動靴100足に文房具に玩具を届けた。ちょうど学校にはランドセルを失った子どもやこの4月からの新一年生がいたのでその場でランドセルを手渡した。恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはしゃぐその子の表情に、逆に我々が元気や勇気を頂いた。

 広田小学校にランドセルと届ける_800
 広田小学校にランドセルを届ける 

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 陸前高田市のセンターには寝袋約200個を届け最後の目的地である気仙沼へ。海岸線の45号線が繋がっていれば近いのだが、津波で所々が寸断され内陸側を走らなければならず時間がかかる。

 15時40分、気仙沼市役所着。寝袋300個をトラックから降ろし気仙沼市の菅原茂   市長と面会。震災時の様子、状況を事細かくお話頂いた。「野口さん、ご覧になって分かると思いますが、津波の被害は100か0なのです。津波が押し寄せ場所は津波で破壊された後に火災で壊滅的です。津波の被害がない所はほとんど無傷です。地震の揺れ自体ではほとんど被害がなかったのです」と菅原市長。

 気仙沼市も山田町同様に広範囲にわたって火災が発生したのだ。市内入口では燃えた車の残骸の後ろに陸に打ち上げられたままのタンカーの姿が。町に横たわるタンカーの姿が全てを物語っていた。

 震災後、私はずっと気になっていた事がありました。それは気仙沼市在住の畠山重篤さん。10年前にある表彰式で一緒になり、それがきっかけで畠山さんの著書を読んでみたり。畠山さんは牡蠣やホタテの養殖業を営んでいますが、ユニークなのが牡蠣の養殖に適している場所とは淡水と海水の交わっている所とのことで、20年前から豊かな海を取り戻そうと広葉樹の植林活動「森は海の恋人」を展開。美味しい牡蠣作りのための森作り。ご著書には「森は海の恋人」「漁師さんの森作り」「森が消えれば海も死ぬ」など森と海の繋がりを訴えている。

 その畠山さんは無事だったのか、震災後ネットで情報を探している内に無事を確認。そしてテレビニュースで畠山さんが「もう一回やりますよ!」と宣言している姿に「会いたい」と気仙沼市役所を後にしてから畠山さん宅を目指した。畠山さんが住んでいる集落の住宅地の大半が津波に流され場所によっては瓦礫すら残されず砂浜のようになっていた。確か4件しか残らなかったとか。その内の一軒が畠山さん宅。海から20メートルほどの崖の上にあり、しかし、津波が襲ってきた時には玄関の1メートル手前まで波が迫ってきたそうだ。

 その畠山さんと再会したら「お久しぶりです。牡蠣は100パーセントやられてね。全滅ですよ。でもね、海は生き生きしているんですよ。多くの方が犠牲になった津波だけれどね、海の状態はいいんです。津波によって海底に溜まっていたものが流された。津波とはそういうものです。2年あれば復活できます。私たちには海しかないんですから。海があれば大丈夫なんですよ。野口さん、2年待ってください。必ず美味しい牡蠣を東京に届けますから」と畠山さんは確信に満ちた表情で私にそう語った。この津波で母親を失った畠山さん。しかし畠山さんはどこまでも前向きであった。

牡蠣の養殖を行っている畠山重篤さんと再会_800
 牡蠣の養殖をしている畠山重篤さんと再会

 畠山さん同様に多くの漁師の方々が船や養殖所を失った。廃業を考えている漁師さんも多いのだそうだ。漁業の復活抜きに三陸地域の復活はない。再建を宣言する畠山さんの表情を眺めながら、畠山さんの復活は三陸地域の漁業全体の復活に繋がると感じていた。

 全ての漁師を一気に救済することは現実的に不可能だ。そこで復興のシンボル的な存在が必要となってくる。私はその方が畠山さんだと思う。長年による幅広い活動、メッセージ性、リーダシップ、発信力に影響力のどれをとっても。

 2度目の被災地訪問はこうして無事に終了し東京に戻ってきましたが、車中では運転しながらも次のテーマを考えていた。私に出来る事とはなにか。着実に意味のあることとはなにか。支援物資を届ける事もあれば、その次のステップとして子ども達の心のケア、または漁師さん達の復活に向けての何か、その「何か」は「何だろう」とずっと考えていました。そして私なりのアイディアも浮かんだ。そのアイディアをどのようにして形にしていくのか、更に考えを深めていきたい。もう間もなく私はエベレストへ向かいます。ヒマラヤでの生活は考える時間がたっぷりとある。

 2度目の被災地入りでは希望の芽を確かに感じた。人々の表情からは、時に笑顔、そして時に闘志が見えた。東北の方々の強さ、そして優しさ。被災地の方々は過酷な状況の中で必死に生きている。

 それなのに私たちが下を向いて落ち込んでいる場合じゃない。自粛の連鎖が続いているが、過剰な自粛モードは社会を暗く停滞させる。我々が元気やエネルギーを失ったらどうして被災地へサポートが出来るのか。正直、私自身「エベレスト清掃活動どころじゃない」と気持ちが切れかけたけれど、私には私にしか出来ない事もある。人にはそれぞれ与えられた役割がある。その役割の中で生きていくもの。その上で被災地、被災者の方々と向き合っていきたい。

 この度の「野口健・寝袋支援プロジェクト」では本当に多くの方々からご協力、ご寄付を頂きました。大阪の鼓動館さんも嗜好品を集めてくださった、富士山クラブは富士山の天然水を、そして小諸市はトラックの手配だけでなく芹澤市長自らも現地入り、中国など海外の企業からも寝袋の提供、そしてその救援物資を中国から無償で運んでくださったANAさん、皆さん、本当に有難うございました。深く深くお礼申しあげます。

 6月、無事にエベレストから帰国し、再び三陸の地で新たな活動を開始したい。

2011年4月7日 野口健

 PS 野口健・寝袋支援プロジェクトで届けられた支援物資の一覧など近々に報告書を作成しブログ・ホームページにてご紹介させて頂きます

東日本大震災に関して1 「私に出来ること~被災地に寝袋を届ける!~」
東日本大震災に関して2 「陸前高田市へ~寝袋を届けて~」

多くの皆さまのご協力のもと、たくさんの支援物資が集まりました。本当に本当にありがとうございます。また、物資とともに、温かいお言葉や、メッセージもたくさんいただきました。これら一つ一つを大切に、また、確実に被災地で大変な思いをしている人たちに届けてきます。

野口は小諸市の芹澤市長とともに、3日に岩手県山田町、陸前高田市、気仙沼市に支援物資を届ける予定です。

小諸市役所・鼓動館・富士山クラブ・野口健事務所に集まった支援物資
寝袋 1206個
ランドセル 100個
マフラー 300枚
文庫本、漫画本、お菓子
色鉛筆、折り紙
靴下 200足
玩具 7箱分
子供用運動靴 100足
水 1.5ℓ 90本
お茶・コーヒー
女性用下着
発電機
使い捨てカイロ
煙草、お酒
Tシャツ、ウインドブレーカー
etc....

支援物資を送っていただいた皆さま、本当にありがとうございました。
また、物資の受け取りや仕分けなど手伝っていただいた方々にも、あわせて御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

野口健事務所

陸前高田市へ~寝袋を届けて~

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3月23日、被災地の1つである陸前高田市の広田小学校に救援物資(寝袋440個・寝袋インナー100枚・マット100枚・テント50張り・食糧ダンボール4箱・下着ダンボール2箱・タバコ2カートン)を届けた。322日、まず東京から長野県小諸市へ。東北道は救援車両以外は通行不可ということで小諸市が手配した救援車両(10トントラック1台・4トントラック1台)に我々の救援物資を積み込み現地へと向かった。10トラックは小諸市民の方々が寄付した衣服・日用雑貨など。4トントラックは我々が集めた寝袋など。

 

テレビ映像で何度も見てきた被災地の様子ですが、実際に現場に訪れてみると・・・言葉が見つからなかった。被災地を覆っていたのが腐敗臭。海から打ち上げられた魚の臭いもあるだろし、瓦礫の下に埋もれたままの被害者も含まれているのだろう。実際に我々が訪れた時も瓦礫の下から遺体が発見されていた。白黒写真で見てきた東京大空襲、原爆が投下された後の広島・長崎の光景と重なった。

 

映像で見るのと、現場に訪れ自分の目で見るのとでは世界がまるで違う。「陸前高田市・死亡916人・行方不明1400人・7~8割の世帯が水没・13千人が避難」。これはあくまでも数字の世界だ。いつでもそうですが現場の世界は、数字の世界では感じられない生々しさがある。リアルに残酷で、目を塞ぎたくてもそれが容赦なく現実であるという事実を突き付けられてしまう。そしてその現実からは逃れられなくなる。見るということは知ること、知るということは同時に背負うこと。それが現場の世界なのだろう。

 

多くの犠牲者を出した巨大津波ですが、あの壊滅的に破壊された陸前高田市の現場に立って感じたことは「これでよく助かった人がいたものだ」であった。

 陸前高田市の被災現場 - コピー


地震直後に高台へと避難した人々。それは日常的に津波に対する警戒感があったからなのだろう。津波から逃れようと道は避難する方々の車によって渋滞になっていたとも。その渋滞の列に容赦なく津波が襲ったと聞いた。完全に折れ曲がった車や破壊されたコンクリートの建物が津波の破壊力を物語っていた。これだけの巨大津波を一体誰が予想しただろうか。三陸地域は津波対策にあらゆる努力を行ってきた地域だ。決して無防備であったわけではない。

しかし時に自然は人間の想像力をいとも簡単に越えてしまうことがある。今回の震災はまさにそうだろう。今ここで誰を責めてみたところで意味はない。東京電力だってそうだろう。被災の現場で感じた事は誰の責任でもない。地震大国日本が抱えた運命なのかもしれないと。


避難所となった広田小学校に救援物資を運んだものの、勿論まだまだ足りていない事も分かっている。砂漠に一滴の水滴を垂らす様なものだろう。私の元には「広田小学校の避難所も着替えの下着もなく寒さに震えております。なんとか寝袋を届けていただきたい」「お願いします。福島県に、いわき市や相馬市にその寝袋を運んでください!!!避難所で凍死者や餓死者が出ているんです」といった現場からの悲鳴が連日届いている。

無力感に襲われメールを確認するのが怖くなることもある。それでも知らなかった地名から次から次へと寄せられるメールを目にする度に、何処にあるのかと地図とにらめっこ。故に私の枕元にも地図がある。しかし地図があっても道路状況までは分からない。届けることが出来るのか出来ないのか。分からない事だらけ。そしてまた途方に暮れる。

広田小学校に到着し救援物資を下す - コピー


しかし、ツイッターに寄せられる情報によって1つ1つ見えてこない部分が見え始める。そう、悩んでいる場合ではないのだ。被災者のおかれた状況を思えば我々が落ち込んでいる場合ではないのだ。悩んでいる時間があれば今すぐに出来ることを探したほうがいい。国も行政も含めみんながパンク状態。情報を待つよりも自分から探し出さないと、そしてアクションを起こさないといけないと、自身に言い聞かせながらの日々でした。


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被災現場で一人の男性を出会った。
70代の男性は写真を片手に「この辺りで母さん(奥さん)が流されたのか。自宅は20キロ先なんだけれど、母さんはヘルパーでここにいた。一人なら避難できたかもしれないけれど、年寄りが一緒だったから逃げられなかったんだろう。すぐ横に高台があったのに。ヘルパーだから一人では逃げられなかったんだろう。母さん探して歩いているんだ」と奥さんを探している男性は淡々と冷静に私たちに話すのだけれど、その姿が逆にとても辛かった。そして話している内に涙をポロポロと流しているのだけれど、それでも感情を押し殺したまま、最後まで表情は崩れなかった。

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怒りや悲しみの感情を爆発させない東北の方々。この姿に世界中のメディアが「日本人は我慢強い」「理性的だ」と報じていたけれど、感情を押し殺してしまえば、その苦しみや怒りが表に向かわずに、己に刃となって襲いかかってしまわないのかと、私はむしろその事の方が心配になった。

 

報道で家をなくした40代の女性の言葉が紹介されていた。

 

「私達は他人の幸せや喜びをねたむほど落ちぶれていない。皆さんどうぞ我慢せず楽しい時は笑い嬉しい時は喜んでください。私達も一日も早く皆さんに追いつきます」

 

私が彼女と同じ立場になった時に果たして同じ言葉が出るのだろうか。

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この5年間、戦没者の遺骨収集を行ってきたが、あの現場で感じる空気と共通点がある。東京に戻る車内の中でそれは何だろうと考えていましたが、それは失われた命であり、無理やり肉親から引き裂かれた命であり、また自分の元に取り戻したいと願う遺族の気持ちであり、命の切なさ、尊さなのかもしれない。

 

私が訪れた陸前高田市以外にも同じような被害を受けた街がいくつもあるのだ。元に戻るまでは果てしない道のりが待っている。5年や10年ではないはず。

 

もし一滴の希望があるとするのならば、今はその一滴の希望を大切に温め、少しずつ、少しずつ、膨らませていくことが何よりも大事なのだろう。確かに道のりは遥か彼方まで続くが諦めてしまったら終わる。

日本中のみんなが覚悟を決め、腹を括って一丸となって取り組めば何とかなる。

仮にもし日本中のみんなが覚悟を決められず、腹も括れず、そして何1つの取り組みも行われなければ、山陸地方含む東日本全体の真の復興はない。そしてそれは日本全国にも大きな影響を及ぼすだろう。我々は運命共同体なのだ。小さな事でもみんなが一歩一歩、コツコツと力を合わせれば,とてつもなく大きなエネルギーとなる。それこそ1億2000万人の底力だ。

 来週、再び被災地へと向かうことになりますが、それまでに何が出来るのか、今はやるしかない。


 

2011328日 野口健

2011年3月19日 東日本大震災~私たちに出来る事~被災地に寝袋を届ける

野口健・寝袋支援プロジェクト

野口健・寝袋支援プロジェクト

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東日本大震災の被災者の方々に救援物資として寝袋を送っております。多くの方々に、お問い合わせをいただいており、ありがとうございます。
現地の気温はかなり寒く、多くの方が寒さに震えています。

野口健ツイッターより
「どのような形で受取をするのか考えなければなりませんが、寝袋を寄附してくださる方々がいらっしゃればどうかお願いしたい。現地からも、もっと寝袋がほしいとの声が沢山寄せられました。全てに応えられないのが悔しい。」

「来週、再び現地に向かいます。予想以上に寒くて、寒くて、あれでは被災者の方々の体がもたない。もっともっと沢山の寝袋が必要。上海から800個、アメリカから500個が一日も早く届いてほしい。そして私も日本で一個でも多くの寝袋をかき集めたい。」

来週、野口が再度、現地に寝袋を届ける予定で、以下のように、寝袋のご寄付を集めております。皆さまのご協力、どうぞよろしくお願いいたいます。

募集している物資
寝袋(新品もしくはそれに同等もの、0℃対応のもの)
テントマット

送り先
長野県小諸市役所 総務部総務防災課
〒384-8501 長野県小諸市相生町3-3-3
電話 0267-22-1700

募集締め切り 2011年3月31日必着

送る際の注意事項
※寝袋とテントマット以外のものは、入れないで下さい。
※段ボールなどの箱に入れて送って下さい。
 他の支援品と区別するため、外箱にわかりやすく「野口健寝袋支援プロジェクト」と明記してください。


お問い合わせ先
長野県小諸市役所 総務部総務防災課
電話0267-22-1700 内線304

東日本大震災から一週間。バタバタと大慌てであっという間に過ぎた。311日に発生した大地震時、私は羽田空港にいた。12日に青森県で講演会が予定されていたのだ。空港内もユラユラとまるで船に乗っているかのような横揺れが続き、次にガタガタと建物が激しい音をたてた。これはいつもの地震とは違うと建物から室外に避難。駐車してあったバスが揺れに揺れている姿に「これはヤバイ」と初めて身の危険を感じた。

 
それでもその時点ではこの直後に発生した大津波の大惨事など知る由もなく再び空港内に戻りゲートへ。青森県に先に入っていた講演会フタッフに青森の状況を聞こうと携帯電話と取り出したが携帯は繋がらない。2時間ほど待機していたらフライトの欠便がアナンスされた。何かが起きている。そしてふと窓から表に視線を移したらなんとも形容しがたい空の色。一見美しい夕日のようでありながらその上部には分厚いグレーの雲がまるで渦を巻いているかのような、なんとも不気味な世界にゾクッと背筋に寒気が走った。これは大変な事が起きていると、再び携帯電話を試みるも不通。

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しかし、ツイッターだけは繋がった。青森入りしているスタッフのツイッターに「市内が停電」「講演会は中止」と書き込まれてあり、帰宅しようと歩きはじめたら空港内のテレビに人垣が。テレビ画面を見たら横一直線の巨大津波が民家や車などをまるでマッチ箱のように次から次へと流している。最初、映像が強烈過ぎて今一つ意味が分からず「なに?」という感じであり、私含めその衝撃的な映像に足を止めてテレビを見ている人たちもポカンとしていた。それは9・11のあの映像を始めて見た時にショックのあまりにしばし思考が停止したのと同じであった。

 
あれから一週間。最初の数日間はテレビ画面に釘付け。被災地の映像に言葉を失い、ただただ画面を眺め続けていた。気がつけばガクッと気持ちが落ちている。そして無気力化していく。これはいけない。被災者ではない我々が落ち込んでいる場合じゃない。これだけの震災である。国や行政だけでは限界がある。またこんな時こそ日本人が一丸となって復興に向けて取り組まなければ、この国の未来はない。自分に何が出来るのか。テレビを見ながら必死に考えていた。我々が元気を失ってしまったらどうして応援できるのか。「しっかりせい!」と叱咤していた。

 
そこで一つ思いついたのが「寝袋」である。被災地の夜は寒い。多くの避難所では一枚の毛布しか配られていないとのこと。燃料不足から暖房も限られまた停電により夜は真っ暗闇。寒く暗い永い夜。これがどれだけ辛いことなのか、登山家としての経験上から少しは感覚的に理解できる。故郷が壊滅的に破壊され家族を失い、または安否の確認が出来ないという異常事態が続き、精神的に限界が続く中、寒さと不眠が追い打ちをかける。「精神」と「肉体」が壊れてしまえば絶望感ばかりが残される。



そこで「寝袋」を被災地に届けようとなったのだ。布団の場合は敷布団なりが必要となる。重たいだけでなく運ぶのにかさ張る。それに比べ寝袋はマット一枚敷けばいい。マットがなければ段ボールでもいける。また軽くギューと押し込めば小さくなるので持ち運びも便利であり、一台の車でも相当数の寝袋が運べる。そして何よりも寝袋のジッパーを閉めれば寝袋の中の空気が密閉され体温が籠り暖かい。

 

色々なご意見があるかもしれないが、私に出来る事の一つとして寝袋を被災地に届ける事だと決めた。何しろ時間との戦いでありノンビリしていられない。私のツイッターには本当に多くの意見が全国から寄せられ、何には「低体温症で多くの被災者が避難所で凍死している。早く寝袋を届けてください!」といった悲痛な叫びも。それから事務所を上げて寝袋探しが始まった。付き合いのあるアウトドア・メーカーに片っ端から連絡をいれるものの、この状況下では止むを得ないのだが在庫がない。「すみません、在庫がありません」との返事ばかり。

 
しかし、コールマンジャパンさんに連絡を入れ「救援物資として被災地に出来るだけ多くの寝袋を届けたいので注文できますか」とすがる様な気持でお願いしたら「すぐに確認します!」と返事を頂き30分もしないうちに「100個なら用意出来ます」との事に事務所内が湧いた。

 
同時に「どのようにして寝袋を被災地に届けるのか」を探らなければならなかった。ネットで調べたものの義援金の受付はあるものの、救援物資を受け付けている行政機関が見つからなかった。どのようにして届けるのか。

 

この時も役に立ったのがツイッター。私が環境大使を務めている長野県小諸市が私のつぶやきを見て「小諸市は被災地の相馬市と友好関係を結んでいるので救援物資を届けようとしていますが、一緒に寝袋を運びますよ」との連絡が入る。また環境観光大使を務めている岡山県総社市の片岡市長からも「総社市も被災地に救援物資を運びます」とご連絡を頂いた。

 


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15日にコールマンジャパンさんに連絡を入れ寝袋100個の注 文。

316日の夕方に救援物資をトラックに詰め込み東京から小諸市へ。

317日に小諸市から福島県相馬市へ寝袋が届けられた。

317日の深夜、小諸市の職員の方から私のツイッターに「無事に寝袋を届けました」との連絡を入った時には涙が出そうになったが、まだまだこれからだと感慨にふけっている場合じゃないと言い聞かせた。

 

318日にはコールマンジャパンさんからさらに「200個の寝袋と寝袋の中に入れるインナーも100枚を用意できる」との連絡を頂き、またアウトドア・メーカーのスノーピークさんの寝袋も100個注文できた。そして友人からも約30個の寝袋が。

 

相馬市に続き今度はこの330個の寝袋をやはり津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市へ届ける事になった。

 

陸前高田市では避難所が足りずキャンプ場で被災者の方々がテント生活しているとの情報が入る。この寒さの中、また天候が崩れ、雪が降る陸前高田市。

 

323日に小諸市からこれらの救援物資をトラックに積み込み陸路で運ぶ事になった。私も小諸市の職員の方と一緒に現場入りする。

 

そして嬉しかったのが318日の朝に中国香港に滞在している私の兄貴に「中国で寝袋を調達できないものか」と相談したところ、その日の夕方に「1000個の寝袋が用意できそうだ。知り合いの中国人たちが集めてくれている」との事。これには心底驚いたが、喜んでいる間もなくその1000個の寝袋をどうやって至急国内に持ち込むのか。ここで役立ったのがまたもやツイッター。ツイッターで「1000個の寝袋をどうやって日本に」と呟いたら、翌19日の早朝に「知り合いにANAの人がいるので紹介します」と連絡が入り、ただいま、全日空さんが調べてくださっています。

 

一週間後には中国からの寝袋も被災地に届ける事が出来れば・・・。

 


私にとってもこの一週間はとてつもなく目まぐるしかった。現地からの映像に落胆しながらも、しかし同時に多くの方々からツイッターを通して沢山の情報を頂き、またアウトドア・メーカーや小諸市の職員、香港にいる兄貴や中国の方、そして
ANAの方々が一緒になって被災地に寝袋を届けようと動いてくださったのだ。人の繋がりの温かさにどれだけ救われた事か。

 

東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)による現段階の被害状況は死者6911人。安否不明は19370人。避難は403975人。戦後最大の被害となり失ったものは果てしなく大きい。「復興」と一言で言ってもその道のりは果てしなく遠いだろう。しかし、諦めてしまっては終わる。一歩一歩コツコツと前へ前へと進んでいくしかない。

 

私には私に出来る事がある。みんなにもみんなに出来る事がある。日本中の人々が、それぞれ何か1つを背負っていけば、時間はかかるかもしれないが必ず立ち直ると私は信じている。

 


2011
319日  野口健

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