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野口健からのメッセージ

 
ぼくの遺骨収集記
(月刊『文藝春秋』 2008年12月10日発売新年号)

「ヒマラヤで想った先の大戦」

 私はこれまで登山家として世界各地の山々に登ってきた。1997年、世界最高峰エベレストに初めて挑戦した際に、登山隊が捨てていったごみが大量に捨てられていることを知った。1999年、3度目の挑戦でエベレストの登頂に成功して以来、2000年からはエベレストや富士山の清掃活動を主なフィールドワークとしてきた。ひょつとすれば今は登山家というよりも環境活動家というイメージの方が強いかも知れない。その私が今年から新たな活動を始めた。それは先の大戦でお亡くなりになられた方々のご遺骨を日本に送還するというものである。
まず初めに私がこの活動に携わるまでの経緯を記したい。

 3年前の2005年の5月、私はチベットにあるヒマラヤ山系の8000メートル峰に挑戦していた。山頂まで残りわずかの地点で、天候が急変し、最終キャンプに閉じ込められていた。あまりの強風にテントごと吹き飛ばされそうになればロープで何十にも固定し、雪にテントが押しつぶされそうになれば頬っぺたを凍傷にやられながら1人必死に雪かきを行った。冷えた身体を寝袋の中で温めながら残りの酸素ボンベの本数を数えていた。もしこのまま悪天候が続けば酸素が底をつく。酸素がなくなればそれは死を意味する。明日、もし天候が回復しなければ・・・。その時間が長くなるにつれ、暗闇の中で私は「死」を意頭の中では様々なことが走馬灯のように駆け巡った。もうどうにでもなれとテントの中で寝転ぶがそう簡単に死ねるわけではない。その中でふと頭を過ぎったことがあった。それは先の大戦で亡くなられた方々についてであった。

 私は1973年生まれの35歳。当然、戦争体験はない。しかし、おじいちゃん子だった私は幼い頃から祖父を通じて戦争の話を耳にしていた。祖父の野口省己(のぐち せいき)は情報参謀としてビルマのインパール作戦に参加していた。インパール作戦は「白骨街道」と呼ばれたほど多くの犠牲者をだした。奇跡的な生還を果たした祖父はよく「多くの部下を無駄死にさせてしまった。俺の目の前で兵士が飢えで倒れてもなにもしてやれなかった。目の前でバタバタと死んでいく兵士の姿は戦後50年たっても脳裏に焼きついている。地獄だった。それに比べ俺は孫に囲まれ長生きしている。生き残って申し訳ない」と繰り返していた。様々な話をしてくれたが「生き残って申し訳ない」という言葉は幼い私にも深く心に残る重い言葉だった。

 マイナス30度の強風の吹きすさぶテントの中で私はふとそういったことを思い出していたのだ。私は「死」を前に恐怖のあまり震え、どこかで死を受け入れる心の準備に取り掛かっていたが、一人静かに死を覚悟する行為はいつでも孤独なものだ。気がつけば一心不乱に紙切れに家族に対して遺書を書いていた。紙が足りずテントやマットにまで書き続けていた。書き続けることによってどこかで家族と繋がっているのだと安堵していたのかもしれない。死を全身で感じればその分だけ生に対する執着心が強まる。最後は「登頂などもうどうでもいい、とにかく日本に帰りたい。俺はこんなところで死ねない。チクショウ」と叫び「俺は大バカ野郎だ」と怒りテントを殴っていた。

 私は好きで山に登っているのだ。それにも関わらず「死」を目前に見苦しいほど取り乱していた。それに比べ戦争で亡くなられた方々の多くは赤紙一枚でご自身の意思とは関係なく戦場に派兵されたのだ。派兵までは「天皇陛下万歳!」「お国のために!」と盛大に見送られただろうが、過酷な戦地で死を目前にした先人は何を想ったのだろうか。明けても暮れても間断なく続く連合軍や対日ゲリラとの戦闘の中で命を奪われるという日常。武器や食料が尽き、次第に追い詰められ、洞窟の中で自害した方々もいただろう。またマラリアや栄養失調でゆっくりとした時間の中で徐々に死を迎えた方々もいただろう。人間と人間が殺しあうという恐怖の連続の中で先人達の目には何が見えたのだろうか。それは決して「天皇陛下万歳!「お国のために」といったスローガンが象徴する全体主義的な気分の高揚などではなく、家族や恋人、そして故郷ではなかっただろうか。

 酸欠の影響で思考能力が衰えていきながらも、頭でこのようなイメージが浮かんでは消えていった。私は衛星電話を取り出し、様々な思いを述べた後、事務所のスタッフに「俺はここから生還できたら、遺骨収集に行きたい」と伝えていた。

「戦後67年がたった今も約59万のご遺骨が放置されている」

 幸運に恵まれ天候は回復し私はヒマラヤから生還した。帰国後、早速、戦没者遺骨収集事業について調査を始めた。我が国の海外戦没者遺骨収集事業の所管官庁は厚生労働省の社会・援護局援護企画課外事室である。「何故、防衛省や外務省ではないのか?」といった疑問が浮かんだが、戦後の引揚援護を管轄していた経緯から未帰還者の捜索、そして遺骨収集といったように拡大してきたのだという。そして海外戦没者遺骨送還状況(硫黄島、沖縄含む)について調べると驚くべきことが判明した。

 まず先の大戦での海外戦没者概数は約240万人。その内の約125万柱が日本へと送還されているが、未だに未送還のご遺骨は約115万柱もあることを知った。この内の約30万柱は艦艇または飛行機ごと海に沈んでいる海没遺骨である。これは技術的にも引き揚げることが困難であり、厚生労働省によると「海が永久墓地」という理由で収集を断念している。また約26万柱は中国の旧満州地域や北朝鮮、ウズベキスタンなどは相手国の事情により収集困難とされている。たとえば中国の旧満州地域であれば「先の大戦を想起させる」といった国民感情の問題があり、北朝鮮に関しては「国交自体がないため物理的に収集団を送る事ができない」といったものである。海に沈んだままのご遺骨とこれらのご遺骨を差し引いても約59万柱が未だに放置されているのである。何故このようなことになっているのだろうか。

「国は遺骨収集事業の幕引きを図ろうとしているのか?」

 ここで日本政府の戦没者遺骨収集事業の歴史を振り返りたい。遺骨収集事業が開始されたのが、1952年度。フィリピン、東部ニューギニア、ビスマーク、ソロモン諸島など南方地域で開始された。また抑留中死亡者に関しては、旧ソ連地域においては1991年度から現在まで継続しており、モンゴル地域おいては、1994年度に開始し、現在はおおむね収集を終えている。
問題は1952年度に開始された南方地域での遺骨収集事業である。日本政府は南方地域の大規模な収集に関して1975年度に打ち切りをしている。その後は民間団体等から情報があった場合のみ収集してきた。

 しかし、打ち切ってから31年後の2006年度、突如、厚生労働省は「概ね3年間を目処に南方地域で集中的な遺骨の情報収集を行う」と発表した。これは厚生労働省によると「戦後60年以上が経過し、遺骨情報が減少してきているなどの事情から、未だ約59万柱のご遺骨が未送還であり、特に南方地域の遺骨収集が困難な状況になりつつあるという状況を踏まえ、南方地域における今後の遺骨収集の促進を図っていくため」とのことであるが、それでは何故、1975年度の打ち切りとしたのか理解に苦しむ。

 更にいえば2006年度から開始された「集中的な情報収集」に関しても、大半は民間団体に任せきりであり、厚生労働省自体が情報収集を独自に行っているとは言いがたく、当事者意識が著しく欠落しているとしか言いようがない。またそもそも「概ね3年間」というスタンスにも疑問を感じる。この3年間でご遺骨の収集が一気に進んだのならば理解できるが、そんな事実はなく、私には遺骨収集事業の幕引きを図ろうとしているようにしか見えない。

 そもそも近年の厚生省による遺骨収集数は年平均600〜700柱であり、このままのスピードでは収集可能な59万人が帰国できるのにあくまで計算上で、ざっと800年以上かかることになるのだ。

 それに比べアメリカは現在でも約400人の現役、退役軍人、戦史研究家、人類学者がチームを作り第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで行方不明となった兵士の捜索、遺骨収集を行っている。年間予算は55億円。昨年6月には硫黄島で行方不明となっているたった1人のアメリカ兵士のために捜索が行われた。アメリカは現在でもこうした調査を世界各地で継続しているのだ。

「政府の派遣団以外はご遺骨の収集はできない」

 私は早速、ご遺骨の収集活動に携わりたいと思ったが、これが困難を極めた。遺骨収集事業の公式団体は、厚生労働省、日本遺族会、JYMA(旧日本青年遺骨収集団)、戦友会だけであり、それぞれの団体から数名ずつが参加し政府派遣団が構成されている。このメンバーでなければご遺骨を日本に持ち帰る事ができない。厚生労働省に問い合わせたところ原則的には遺族や戦友でない方はJYMAが参加の窓口になるという。JYMAは昭和40年代から遺骨収集事業に携わっており、歴史と実績がある。現在は学生を中心に数十名が所属し、国内では沖縄、硫黄島、海外ではフィリピンやソロモン諸島、シベリアなどにメンバーを派遣している。私は、当初、JYMAのメンバーとなり、フィリピンでの遺骨収集活動に参加する予定でいた。しかし参加期間が2週間であり、最終的に日程と場所が確定するのが直前になるという社会人には難しいものだった。何とかスケジュールを工面したが、結局、直前になり、現地の治安悪化の理由で延期となり、参加が難しくなってしまった。

 その後、しばらく時が過ぎ、私の公式ウェブサイトの掲示板の書き込みにある団体の方からメッセージが届いた。京都にあるNPO法人「空援隊」の理事であり設立代表発起人の倉田宇山(くらた うさん)氏からのご遺骨の収集活動に関するものだった。NPO法人「空援隊」は「何が何でもご遺骨を祖国に還す」といった倉田氏の強い想いによって設立された。フィリピンのセブ島に現地事務所まで設立し、現地の方と連携してご遺骨の情報収集を行う団体だ。
上述したようにご遺骨を日本に持ち帰る事ができるのは、公式団体だけであり、空援隊の目的はご遺骨の場所を調査し、その情報を厚生労働省に提出し、政府による遺骨収集の派遣団を要請することだった。空援隊によるフィリピンでのご遺骨の調査活動はこの3年間で20回を超え、今では厚生労働省も動き、空援隊の情報をもとに政府の収集団を派遣している。私が自身の公式ウェブサイトで「ご遺骨の収集活動をしたいが、行き詰っている」といったメッセージをアップしていたので、それを読んでくださり、倉田氏が助け舟を出してくれたのだ。

「リゾートホテル付近の住宅地に日本兵のご遺骨が埋まっている」

 2008年3月17日から21日まで私は空援隊のスタッフの方々とともにフィリピンのセブ島に降り立った。フィリピンは先の大戦で日本兵が最も多く戦死した地域だ。地域別戦没者数はフィリピン51万8000人、中国本土46万5700人、旧満州地域24万7000人、中国東北地域24万5400人、沖縄18万6500人、ミヤンマー13万7000人である。フィリピンにおいては日本に送還されたご遺骨は約13万柱に過ぎない。戦後67年が過ぎようとしている当時も未だに40万柱近いご遺骨に現地に置き去りにされているのだ。

 うだるような暑さの中、一体でも多くのご遺骨を発見し日本政府の遺骨収集団に託したいとの想いで調査活動が開始した。当初、私はどのようにご遺骨の場所を特定するのかが疑問であった。倉田氏によると現地のフィリピン人を組織化して現在も存命中の当時日本兵と戦った対日ゲリラから情報を集めるのだという。空援隊のセブ事務所の所長であるジェシー氏の案内の元、私たちはじっとしているだけで汗がふきだしてくるジャングルの奥へと足を運んでいった。
急な斜面、崖を登りたどり着いた真っ暗な洞窟の中に入った瞬間、私の目に飛び込んだ光景におもわず絶句してしまった。足の踏み場もないほど無数のご遺骨が当たり一面に散乱していた。粉々になったご遺骨の状況からして手榴弾による集団自決と思われた。またフィリピン人によってズタ袋に詰め込まれたご遺骨の姿が痛々しかった。

 この度の遺骨調査はセブ島を中心にボホール島、ネグロス島で調査を行い、約180体以上もの日本兵と思われるご遺骨を発見した。

 中でも特に驚いたのがリゾートホテルが乱立するセブ島の空港近くの住宅街の庭にご遺骨が埋もれていたことだ。セブ島の住宅街に住むフィリピン人、当時76歳のイサベル・ラリンティ氏からご連絡を頂きご自宅にお伺いした。ご自宅の庭の地中から6体のご遺骨が発見された。イサベル氏は「日本軍の占領時代に私の家は日本軍にとられていた。ここには通信施設があった。占領されたのだけど、私は日本兵のオリガサさんと仲良くなった。いい人だったんだ。アメリカ軍機の機銃掃射に襲われて、このあたりは日本兵の遺体がいくつも横たわっていた。我々は怖くて近づけなかったが、それからオリガサさんの姿を見ていない。ここに眠っているかもしれないから掘っているんだよ。日本から調査団が来たと聞いて喜んでいる」と私達に話、そして掘り起こしたご遺骨に向かって「オリガサ、やっと日本人が迎えに来てくれたんだよ」と、私はそのイサベル氏の言葉に涙が出そうになった。

 イサベル氏のご自宅は空港までは車で5分程度。幹線道路が走り、観光客がひっきりなしに移動する。多くの日本人観光客の姿もあった。その目と鼻の先に、同胞の粉々になったご遺骨が放置されているのだ。私はかつて学生時代に恋人とセブ島でのん気にバカンスを楽しんでいたが、その時のことを思い出し、無知な自分を恥じた。

 倉田氏は粉々になったご遺骨を手に涙ながらに「これが現実なんです。このような例はたくさんあります」と憤っていた。倉田氏は約2ヶ月に1度、毎回2週間、フィリピンで遺骨調査を行っている。費用の大半を自ら持ち出してである。

「大変じゃないですか?」と聞くと「野口さん、そりゃきついよ。でもね、待っているんだ。みんな待っているんだ。早く日本に帰したい。それだけだよ、それだけなんだよ」と肩を震わせていた。私は倉田氏の涙に返す言葉も見つからなかった。

 

「理解不能なご遺骨の鑑定」

 帰国後、空援隊は調査結果を厚生労働省に提出し、その報告を受けた厚労労働省は2008年6月に空援隊と共に遺骨収集団を現地に派遣したが、収集されたご遺骨は20体にも満たなかったという。つまり我々が発見したご遺骨の大半は回収されずにそのままであるということだ。ご遺骨の鑑定人が一人しか同行しておらず、爆弾等で自爆し、バラバラに飛び散っているご遺骨の鑑定は極めて困難であった。洞窟内に大量のご遺骨があるという状況証拠(そもそも米兵は洞窟内で集団自決していない)、また日本兵の物と思われる遺留品などの状況判断によって判断すべきであると私は思うが、厚労労働省はあくまでも民族としてのご遺骨の鑑定にこだわる。

 しかし、専門家に話を聞けば「バラバラになった御遺骨からこれが日本人、これはフィリピン人と分けるのは事実上不可能に近い。日本人は単一民族ではない。中国系、韓国系、またロシア系がすでに溶け込んでいる。したがって日本人の骨格も様々です。野口さんも日本人ですが、混血(父が日本人 母はエジプト人)ですよね。野口さんの頭の形は西洋人に近いでしょう」とのこと。これではいくらご遺骨を発見しても帰国できるのはごく一部となってしまう。空援隊の倉田氏から事の顛末を報告されて私は怒りを隠せなかった。

 また先日、東条英機元首相のお孫さんであり、パラオ共和国で遺骨調査活動を行ってきた東條由布子氏(NPO法人・環境保全機構・理事長)とお話させて頂いた。
東條氏が「野口さん、いまだにこれだけご遺骨が残されているのに厚生労働省は何故打ち切ったか分かりますか? 厚生労働省は骨を数える時に、頭蓋骨1個で1柱、両腕で2柱、両足で2柱と数えるんです。となると1人分で5柱になってしまうから、あっという間に予定数に達したということなんでしょうね。だから打ち切りになったことに怒った民間の団体が直後から活動を始めたのですが、日本への持ち込みは民間には許されていません。それどころか、厚生労働省が『遺骨収集は終わった』としているところへ『まだここにもあるぞ』という情報が入ると困るのか、民間の活動の邪魔をしたり、向こうの大使館(現地の日本大使館)に『活動させないように』と連絡が入り、『骨を触ったら逮捕する』と言われたこともあるくらいです」と打ち明けてくださったが、何故に彼女がここまで追い詰められなければならなかったのか、東條氏の言葉の1つ1つがとても重たく、そして改めて厚生労働省、外務省を始めとした日本という国の冷たさを痛感した。これもまた祖国の姿であると思えば、怒りよりも、それは寂しさであり、胸にぽっかりと穴が空いてしまったような虚脱感に襲われた。

「レイテ島の戦いとは?」

 2008年10月17日から21日まで再びフィリピンを訪れた。今回の舞台はレイテ島である。レイテ島はフィリピン中部に位置する。人口は約190万人。中央部が山岳地帯となっており、熱帯性の気候のため密林が生い茂っている。10月17日、日本を出国しセブ島へ。倉田氏と合流し、18日、セブ島から船で約2時間、レイテ島のオルモックに足を踏み入れた。

 先の大戦で激戦地となったレイテ島では約8万人の日本人将兵、軍属(民間人)が犠牲となり、今もそのほとんどのご遺骨が収集されていない。レイテ島でのご遺骨の調査活動に触れる前にまずは「レイテ島の戦い」とはどのようなものであったか振り返りたい。

 1941年12月、先の大戦の開戦直後に日本はアメリカの植民地であったフィリピンの島々を占領した。レイテ島が日本軍の支配下に入るのは、1942年5月のことであった。しかし次第に戦況が悪化して行き、米軍が迫っていた。フィリピンは日本本土への侵攻を防衛するための重要なポイントだったのである。

 1944年10月20日、レイテ沖に米軍艦船700隻が集結。一斉艦砲射撃が4時間にわたって行われた。その後、米軍が一斉上陸、6万人もの兵士が上陸した。結果、米軍上陸直後の戦闘だけで日米両軍とレイテの島民を合わせて1万人以上の命が失われた。しかし通信手段が破壊され、日本軍の惨状が本国に伝わる事はなかった。この日から敗戦までレイテ島の戦いは続く事になる。

以下、今回の調査の詳細である。

10月18日、SAN VICENTE周辺 ご遺骨1体を発見
10月19日、MATAG・OB市のバナナ畑にてご遺骨2体を発見
カンギポット山、山中の洞窟の中にてご遺骨3体を発見
10月20日、オルモック市内、ご遺骨約10体を発見
10月21日、カモテス諸島に渡りご遺骨約8体を発見
4日間の調査では約24体ぶんのご遺骨を発見。

ご遺骨を前に、戦後67年、誰に発見されることもなく残されていたのかと思うと早く運び出したくなる思いに駆られた。しかし政府の収集団でないと回収はできない。命令で戦地に赴かされ、死ななければならないハードルがこれだけ低かったのに、ご遺骨になって帰国するハードルがなぜこれほどまでに高いのだろうか。そんな疑問とも怒りともいえる感情が湧いてきた。洞窟を離れる際、ご遺骨に手を合わせ「もう間もなく日本政府の収集団が来る。もう少しで日本に帰れます。もう少しの辛抱です」と申し訳ない気持ちで一杯だった。

ジャングルの中は蒸し、スコールにうたれ過酷な気象条件であった。我々はたかだか数日間の滞在であったが、それでも疲労困憊であった。このジャングルの中、援軍が来る望みもなく、置き去りにされ、見捨てられた兵士たちは一体何を感じ最期のその時を迎えたのだろうか。山の稜線に上がってみると太平洋が見渡せた。あの海の向こうに祖国日本がある。帰りたいという思いと同時に、絶望的な作戦を強いた国に対する怒りがなかっただろうか。そもそも誤報から始まったレイテ島の戦い。作戦自体が最初から破綻していたのだ。彼らは祖国に殺された。私にはそう思えてしかたがない。

今回の遺骨調査隊には前回と異なり、5名の一般参加者が加わった。第一回目のご遺骨の調査活動後に、多くの方々にこの現実を知っていただきたいとNHKの『視点・論点』という番組で自分の想いを述べさせていただいた。驚いた事に参加者の方々はNHKをご覧になられて申し込んでくださったのだ。

ご夫婦での参加となった間島ご夫妻。奥様のお父様がレイテ島で戦死され、ご遺骨は不明のままだという。もしかしたら今回発見されたご遺骨の中にお父さんがいらっしゃるのかもしれないと一縷の望みを託し「一度、お父さんに会いにレイテに来たかったんですよ。お父さん!」と涙を流されていた。あれから60年の歳月が経ち、娘さんがお迎えにレイテ島にやってきたのだ。お父様はさぞかし喜ばれているに違いない。

「遺骨収集事業を民間に」

現地での情報提供者は高齢化し年々数を減らしている。フィリピンに関して言えば、主な情報収集源は日本軍と闘った対日ゲリラである。しかし高齢のため年々、その人数は減っている。時間がないのだ。あと5年もすれば、どこにご遺骨があるのかその情報が手に入らなくなるだろう。

私は、具体的な対策としては、空援隊のような現地とのネットワークをもっている民間団体にご遺骨の調査だけではなく収集活動自体も委託していくことを提案したい。そして空援隊だけではなく「フィリピンのこの地域ならこの団体」、「東部ニューギニアならばこの団体」といったように現地とのネットワークをしっかりと構築できる団体を国がしっかりと財政的にも補助すべきであろう。空援隊の方々は、わずかな善意の寄付金そして大半は自腹を切って活動しているのである。

戦後、67年が過ぎようとしている現在まで、我が国のために命を落とされた、いやむしろ祖国に殺されたといっても過言ではない英霊たちを、国は野ざらしのまま放置しているのだ。にも関わらず多くの日本人はご遺骨の存在すら忘れている。この現実に英霊たちは何を感じているのだろうか。また私は英霊たちやご遺族の為だけに調査活動を行っているわけではない。祖国のために命を賭けた人々に対して敬意を払わなければ、これから一体誰が国の為に命を賭けるのか。そんな国はいずれ滅びてしまうだろう。

確かにフィリピンでの遺骨調査活動はリスクが付きまとう。時に崖を登り洞窟にもぐる。マラリアやコブラの生息地であり、治安も決してよくない。しかし、私たちには続けなければならないわけがある。「知る」ということは「背負う」ことである。初めて洞窟で無数のご遺骨と対面したときのこと。帰り際、ふと振り返ったその時「俺達はここで60年間待ち続けている。それなのにお前達はもう帰ってしまうのか」と英霊たちの声が聞こえてきた。ご遺骨はなにも語らない。ならば我々が代わって声をあげるしかない。レイテ島には未だ約8万体ものご遺骨が残されたままである。

御遺骨収集に対する思いを本の中で書いておりますので、こちらも是非ご覧ください。ご購入はこちらから。


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発売元:日本経済新聞社