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「沖縄での遺骨収集〜戦争はまだ終わっていない〜」


 11月25日、那覇市の国吉勇さん(71)と沖縄「正論」友の会のメンバーと一緒に沖縄・西原町で戦没者の遺骨収集を行った。私はこの3年間、空援隊のメンバーとしてフィリピン(レイテ島、セブ島、ボホール島など)で遺骨収集活動を行ってきた。ジャングルを歩きいくつもの洞窟に入り、そこで目にしたいくつものご遺骨に遺留品。戦後60年、未だに野ざらしにされたままのご遺骨。日本はこれだけ裕福になったにも関わらず、国の命令で、国のために闘い、そして亡くなっていった先人たちにどうしてこのような仕打ちができるのだろうかと日本という国の冷たさに愕然とさせられた。未だに115万体ものご遺骨が祖国に戻る事も叶わないまま、灼熱地獄のジャングルに、薄暗い洞窟の中に、そして海底に取り残されたまま。全ては無理かもしれないが、それでも可能な限り一体でも多くのご遺骨を祖国に戻したいと、あの現場を目にした者ならば誰しもがそう感じるだろう。また現場を目にしなければ本当のところ理解しづらいのかもしれない。



 活動の前に国吉さんの説明を聞く



 産経新聞の宮本雅史さん

 今回は私にとって初の国内での遺骨収集活動。産経新聞の沖縄支局の宮本雅史さんにお声をかけて頂き、県内で約50年間、ボランティアで遺骨収集を続けてこられた国吉勇さんをご紹介頂いた。国吉さんはほとんど毎日のようにスコップとツルハシを手に一人防空壕に入る。遺骨や遺留品がなくなるまで続けると国吉さんは話す。この日、15名で防空壕の中に溜まっている土砂を表に運び出し、土の中に埋まっているご遺骨や遺留品を発見。真っ暗な防空壕の中、ヘッドランプの光を頼りにスコップで土を掘り起こす作業はとても過酷。しかし、この過酷な活動を国吉さんはたった一人で続けてこられたのだ。



 いざ、壕の中へ





 真っ暗闇の中、50年間もの間、黙々とこうしてスコップやツルハシで土を掘り続ける国吉さんの生き方に私はただただ頭が下がる思いだった。以前、国吉さんが沖縄タイムス(2009年6月22日)に「母親が収容所で亡くなった。母親の遺骨と対面した時の安心感が忘れられない。収集を続けるきっかけと支えだ。みんなはなかなか掘ってまでは探さない。自分が見つけてやらないと」と語った言葉を思い出していた。



真っ暗な壕の中で黙々と堀り続ける



 国吉さんと



 土の中から三角定規を発見



フィリピンでの遺骨収集活動は政治的な理由や治安の問題が複雑に絡み合っており、ハードルが高い事は経験からも熟知していたが、何故に未だに多くの遺骨が国内に野ざらしにされたままなのか。国は事あるたびに海外での戦没者の遺骨収集に関し「相手国の国民感情も配慮しなければならない」と言い訳にもならない言いわけを繰り返してきたが、では沖縄や硫黄島などの国内に関してはどう説明するのだろうか。



天井には部分的に火炎放射器で焼かれたと思われる後が・・・



 いくつもの壕があるが、ほら穴のような小さい入口

そして沖縄では軍人のみならず多くの民間人も戦闘に巻き込まれ亡くなっているのだ。国が始めた戦争の犠牲者である。この日も住宅地からさほど遠くない壕の中から8体ものご遺骨と不発弾を含めた遺留品が多く発見された。本来ならば国の責任でやらなければならない。遺骨収集は国家のプライドの問題だと思うが、しかし、この国は遺骨収集の大半を民間団体に任せたままなのだ。





 これもまた日本の姿。情けない。自分の国を情けない感じるほど情けないことはないが、それでも諦めてはいけない。諦めてしまったら先人への裏切り行為になる。60年ぶりに真っ暗闇の壕の中から表に出られて瞬間に何を感じているのだろうかと、私は声なき声を感じとりたかった。



 表に運び出された遺骨



不発弾の手榴弾を手に

 火炎放射器で壕の壁は黒く焦げついていた。この狭い壕の中に立てこもり、米軍に包囲されそして最後は焼き殺されたのだろう。国吉さんが「野口さん、この遺骨は黒いでしょ。火炎放射器で焼かれた跡なのですよ」と。国吉さんの戦争資料館に展示してある御茶わんは火炎放射器の高熱によって変形し、そしてそのお茶碗には遺骨がくっついていた。人間とお茶碗が高熱により一体化してしまっているのだ。その状態のまま壕の中から発見された。

遺骨、遺留品からその時の状況が伝わってくる。年内に再び沖縄に訪れる予定。年末のヒマラヤ遠征前にもう一度、私はもう一度あの薄暗い壕の中に入らなければならないと強く感じている。



活動後、野口剛さんと平和祈念公園へ

何故か、本当のところ私にも説明が出来ないが1つには、また新たな現場で「知ってしまった」のだろう。知るという事は背負うことでもある。そして知るという事は同時に背負う事だ。



  ひめゆりの塔

遺骨、遺留品を眺めながら、私は戦争を知らない世代ですが、この現場には「現実の世界」があった。理屈抜きに感覚で戦争を感じていた。一人でも多くの人に体験してもらいたいと強く感じていた。



また、沖縄に戻ってくる

活動中、スコップで土を掘っている時にガチンと音がするので、石かと思いながらライトで照らしてみたら手榴弾(不発弾)であった。それ以外にも照明弾に迫撃砲の弾丸。ひゃっとする瞬間であった。人家の近くにこうして遺骨と不発弾が普通に残されたまま。まだ戦争は終わっていない、私にはそう思えてならない。