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野口健がエヴェレストで拾い集めてきたゴミの展示会を東京都庁で開き、そのパフォーマンスが報道されたあと、「ジャパンタイムズ」(2000年10月18日付)に、読者であるスティーヴ・ジョンソンからの投稿記事が掲載された。投稿は、若干の皮肉を込めながら、次のような趣旨で書かれていた。
「私はエヴェレストからゴミを拾い集め、展覧会を開いたケン・ノグチの努力に感動した。しかし、ゴミの多くが日本人の捨てたものであったことにノグチ氏が驚いたことに私は驚かざるをえなかった。私はここ10年、日本の山に登ってきたが、そもそも日本の山の至る所がゴミまみれなのである。ノグチ氏はおそらく世界中の高い山にばかり登っていて、自国の山についてはご存じないのであろう」
そして、投稿は、「日本では小学校から環境教育を始めるべきだろう」と結ばれている。
もちろん、この投稿は、野口個人を揶揄しようとしたものではない。読み取らなければならないのは、日本と欧米の環境に対する温度差である。
野口自身もまた、いままさに欧米諸国と日本の環境に対する取り組みの違いをいやというほど痛感している。
では、野口を環境問題へと駆り立てるものはいったい何か。それは、日本と欧米(とりわけ欧州)との間に厳然と存在する意識の落差に対する怒りであり、やりきれなさであり、つまりは、強烈なまでの日本への愛郷の気持ちである。
野口健は、1973年、日本人の外交官の父とエジプト人の母の間に生まれた。母親には、エジプト、フランス、ギリシャ、レバノンの血が流れているから、野口には実に5つの国の血が混じっているということになる。野口の言動に表れる滾る ような熱さは、おそらくその血と無縁ではない。
小学校6年の終わりにロンドン郊外にある立教英国学院に入学した野口は、高校3年の終わりまでこの緑豊かな全寮制の学園で過ごした。しかし、野口の熱い血は、学園に入学した直後から疼き出す。喧嘩、校則違反を繰り返し、学業は不振を極めるのだ。
そして、高校1年に上がってすぐに先輩を殴り停学謹慎を食らう。野口は、親元で頭を冷やすように命じられ、日本に一時帰国する。異動のはざまで、たまたま日本に帰国していた父親から、旅に出ることを進められた15歳の少年は、関西方面へと一人旅に出る。そして、その旅の途中で偶然に立ち寄った本屋で、野口はその後の人生を決定づける一冊の文庫本と出会うのだ。冒険家植村直己が書いた『青春を山に賭けて』である。田舎から上京し、必死にもがき、山を糧に変わっていく植村の姿が自分自身とだぶったのだろう。野口はむさぼるようにこの自伝を読んだ。
閉塞した学園生活の突破口を山に見いだした野口は、こののち一気に山の世界へと引き込まれていく。英国の学校、父親の海外駐在というメリットを生かして、高校1年で早くも、モンブラン、キリマンジャロと2つの山に登頂してしまう。そして、このヨーロッパ大陸最高峰(のちにエルブルースとなるが、これも登頂)とアフリカ大陸最高峰の2つの山を制した時点で、野口の目標は「7大陸最高峰最年少登頂」に定められる。人生の里程標を見いだした野口は、青春の10年間をこの目標のために費やすことになる。
そしてついに、1999年5月13日、野口は、最大の難関、世界最高峰8848メートルのエヴェレストを制し、25歳にして7大陸最高峰最年少登頂記録を樹立する(のちにこの記録は、続く若者たちによって次々と塗り替えられていくのだが)。
けれども、最年少登頂記録は、若い野口にとって、一つの通過点であるにすぎなかった。下山した野口には、ほどなく次の目標がむくむくと頭をもたげていたのである。
「97年に国際隊に参加したとき、ヨーロッパの登山家から『日本は経済は一流だけど、マナーは三流だな』ってかなりきつい口調で言われたんです。日本人の捨てていったゴミが多かったので。すぐに『ばかやろう、同じ日本人でも俺のゴミじゃねえや』って言おうと思ったんだけど、なんかアジア人と日本人がバカにされているように感じて、よし、ならば、エヴェレスト登頂を果たしたら清掃登山でまた戻ってこよう、とそのとき決心した。悔しかったんです」
そして、実際に野口は、登頂に成功した翌年の2000年春、清掃登山隊を組織しベースキャンプから標高8300メートル地点までのエヴェレスト山腹を清掃、1.5トンのゴミを下ろしてきたのだ。ゴミは、言うまでもなく、エヴェレストに入山した登山隊が長年にわたって捨て続けてきた残骸である。高所からゴミを持ち帰ることは、登頂を目指す登山隊にとって大きな負担であり、少しでも身軽に、と捨ててきてしまうのである。テント、ロープ、缶詰の空き缶、食器、生ゴミ、そして100本以上の空の酸素ボンベ。もちろん、すべてが日本隊のゴミというわけではない。欧米の登山隊が捨てたものもある。ただ、新しいゴミの多くは、日本隊や韓国隊、中国隊をはじめとするアジアの登山隊のものだった。ある程度はわかっていたとはいえ、野口にとって、それはショッキングな事実だった。
「エヴェレストという一つの山、狭い場所に世界中の人々が集まってきて数ヶ月にわたって生活するわけですね。そうすると、そこには一つの人間社会が出来上がり、ゴミを持って帰ろうとするヨーロッパ人と、何も考えずにポンと置いてきてしまうアジア人がくっきりと浮き上がる。北欧の登山隊が地を這うようにしてタバコ一本まで拾っている横で、アジア人がドカッとゴミを捨ててしまう。それはすなわち、その国の国民性だと思うんです。たとえば、日本の登山隊のモラルが低いとかいう程度の問題ではなく、これは日本社会全体の問題じゃないか、と僕はそのとき思ったんです」
翌2001年春、野口健は、再度清掃登山隊を組み、エヴェレストに向かった。韓国、中国、グルジアなどアジア各国から登山隊を募り、さらに大規模な清掃活動を展開した。しかし、そこで野口は、愕然とする現実にぶち当たらざるをえない。2000年の日本隊のゴミがわんさと出てきたのである。
ゴミを眺めながら、ああ、これは自分に対する挑戦状なんだな、と野口は感じた。
「欧米人も60年代や70年代にはエヴェレストにゴミを置いてきている。でも、彼らは汚した時期も早いけど、気づくのも早かったんです。その点、日本で環境問題が本当に騒がれるようになったのは、ここ5年、10年ぐらいのことです。だから、80年代に捨てられた日本隊のゴミをとやかく言うつもりはまったくないんです。その時代の日本人が行けば当然ゴミは捨ててくる。僕だってその時代にいれば捨てていたでしょう。ただ、日本をはじめ、アジアの登山隊は、90年代の半ば以降、ある時期にゴミに対する意識を変えなければいけなかったのに、それをしないままずるずるときてしまった。なかでも、2000年に捨てられたゴミは意味が違う。環境問題の意識が高まり、しかも僕たちが清掃登山に来ていることを知ってて捨てたわけだから。僕は悪質だと思うんです」
野口が2001年にアジア人による国際清掃隊を結成し、その後も2回、計4回にわたってエヴェレストを清掃してきたのは、次のような理由からだった。
「エヴェレストは世界最高峰であると同時に、アジア大陸最高峰なんですね。そのアジア最高峰にアジア人が大量のゴミを置いてきているという現実は、すごく問題だと思った。なかでも、経済的にもアジアのリーダーと目される日本の行動は、世界中の人が見ていると思うんです。だからこそ、アジアの人を集めた国際隊で清掃したかった。ただ僕は、エヴェレスト一つを綺麗にするつもりもないし、何100トンと雪の中に眠るすべてのゴミを回収するなんて不可能だということもわかっている。このエヴェレストの清掃活動が、日本人の、あるいはアジア人の環境に対する意識が変わっていく小さなきっかけとなれば、と思っているんです」
野口健は、2003年、4回にわたるエヴェレスト清掃登山をひとまず終えた。たった1回の打ち上げ花火としないところが野口らしい。ある程度継続しなければ、効果は薄いと見通していたのである。エヴェレストに通いながらも、野口は、次のプランを考えていた。いや、野口の中には、常にいくつものスキームがパラレルで存在している。それは、換言すれば、「怒り」の噴出である。
たとえば、その一つが富士山である。日本一高い富士山の置かれている状況に野口は我慢できなかったのだ。「富士山から日本を変える」というスローガンを掲げ、野口は動き出した。さらには国立公園の問題。怒りが野口を突き動かす。
「いま世界中の国立公園は国が責任を持って管理しているわけです。その管理方法として、入山料というのがある。入山する各自がお金を払い、そのお金でレンジャーを雇ったり、ゴミを回収するのに使ったりする。さらには、登山者がゴミを捨てているのを見つけたら、レンジャーが罰金を徴収する。たとえば、マッキンリーで違反すれば、600ドルの罰金が科せられる。入山の前には全員必ずマッキンリーの自然の大切さを説くビデオを見なければならない。そこまでやっているんです。それに対して、日本の国立公園は無法状態です。富士山なんて、シーズンになると山小屋がトイレの汚物を垂れ流すんですよ」
こうした野口の提言を受けて東京都レンジャー、富士山レンジャーも野口の提言を受けてスタートした。
冒頭の「ジャパンタイムズ」の読者の指摘にもあったように、野口は、いま、環境教育の必要性を痛感している。欧米とアジア人の環境意識の差は、つまるところ環境教育の差だ、ということに気づかされたからである。富士山での環境学校をはじめ、「野口健環境学校」が全国で展開し始めている。世界各地の国立公園や自然保護の実態を見るツアーにも時間を割いている。いまや、体がいくつあっても足りない状態だ。野口が一番大切にしているのは現場に行くことだから、これも致し方ないないのだろう。現場に行って、見て、触って、話して、考えないと気がすまないたちなのだ。
そんな中、2005年5月、野口健はシシャパンマの登頂に成功した。トレーニングの時間を確保することもままならないような状況下で、原点を見失うまいとする野口健の意地をそこに見た。
野口健は「怒り」に突き動かされる。そして、野口健が怒り戦わなければならないものは、これからも増え続けるに違いない。世界には、日本には、怒りの材料がそれこそ無尽蔵に転がっているのだから。
一志治夫
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