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隔絶された岩と雪の山――。七大陸最高峰を目指していた野口にとって、そんなフィールドがすべてだった。そこは人間のあらゆる管理機構から離れた世界。2ヶ月にも及ぶ登山期間中、ひとりの日本人にも会わないこともあった。
しかし環境問題に取り組むようになって以来、野口の世界は大きく変わった。自然ではなく人間の渦の中で野口は揉まれることになったのだ。野口は言う。
「環境問題は自然が相手ではなくて、人間社会が相手だ」
エベレストや富士山登山道のゴミを清掃したのも、単に山を綺麗にしたいといった叙情的な理由からではなかった。世のシンボル的な山を変えることで、広く人々の環境意識を高めようと考えていたのだ。
野口のエベレスト清掃登山は、1999年から2003年まで続いた。その間、経済的に低迷を続けていた日本は、これまでのような発展ではなく、持続可能な社会作りとそれに伴う環境保全策を模索していた。環境を考え始めた企業にとって、野口の活動は興味深いものだった。そのため、不景気にも関わらず、清掃登山は企業に後援された。そして、テレビや新聞は、これを何度も取り上げることになる。
しかしエベレストの清掃活動は、それから野口が起すアクションのはじまりのはじまりでしかなかった。
その後まず、野口は富士樹海の不法投棄問題で、社会と激しくぶつかることになる。
02年夏、野口は樹海に不法投棄されたゴミを拾い始めた。タイヤ、車、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ドラム缶・・・。登山道周辺とは違い、そこには実生活で出るゴミばかりが落ちていた。野口は、人々の営みに直接触れはじめようとしていた。
本格的に樹海のゴミを回収し始めると、多くの人から意外な助言が来るようになった。
「不法投棄を行う輩には『いろいろな人』がいる。できればそこに触れない方がいい。そんなことよりもイメージとしての環境問題をしていた方が利口だよ」
野口は、脅迫状などの嫌がらせを何度も受けることで、この言葉の意味を痛感するようになる。つまり、不法投棄をして稼いでいる廃棄物業者も少なくなかったのだ――。
ある夜、帰宅すると庭のペットが、腹を切られて殺されていた・・・・・・。野口の周囲を深い闇が覆っていた。身の危険を感じながらも、野口は冷静だった。環境活動に関われば、社会との戦いがはじまると覚悟していたからだ。
野口はかまわずに、樹海のゴミ回収を続けた。大事なことは続けることだった。いずれこれが国民運動につながっていけば、嫌がらせもなくなると信じていた。
02年から05年まで、富士山全域で回収したゴミは合計200トンにも及んだ。
だが富士樹海の問題は、現場で清掃を行っていれば解決するというものではなかった。自分達がいくら拾っても、樹海のどこかで誰かが不法投棄を行っている。この広範囲な樹海を守るためには、「監視の眼」が必要不可欠だった。
まず、これまでの樹海の管理体制を調べてみて、野口は頭を抱えてしまった。
樹海は、いくつかの市町村にまたがっているため、いくつもの自治体の管理機構があるはずだった。さらにNPOやボランティアの環境団体も富士山周辺には多い。にもかかわらず、効果的な環境活動はまったくなされていなかった。
これは各団体の利害関係が絡まり、お互いに足の引っ張り合いをしていたためだった。一元化されたルールや共通の目標は、皆無だった。
この状態を改善するため、野口は「青木ヶ原樹海ゴミゼロ作戦対策本部」の設置を行った。
これは、5年間で樹海のゴミをゼロにしようとう、大プロジェクトだ。
注目すべき点は、富士吉田市、富士河口湖町、鳴沢村村長の地元3市町村長をはじめ、環境省レンジャー、富士山登山学校ごうりき、富士山クラブ、ボランティア企画集団NUTSなどの環境保護組織が、このプロジェクトに賛同した点だ。
05年11月2日に行われた記者会見では、各団体の代表者が集い「これから我々、連携しながら富士山の自然保護に取り組んでいく」と宣言した。
具体的な活動としては、不法投棄のゴミが放置されている場所を記した「ゴミマップ」の作成、自治体と民間団体が連携した樹海のパトロール活動、周辺小学校とNPOが協力しての環境教育などを行なうことが決定された。
この「対策本部」の設立は、混沌としていた樹海問題に、ひとつのまとまりが生まれた瞬間だった。
この対策本部に協力した理由を富士山クラブの船津宏昭さんは言う。
「これまで富士山周辺の環境保護団体は、環境保護、環境保護と言いながら、樹海の不法投棄という大きな問題に協力して取り組むことはなかった。でも野口さんは、命を懸けて、この問題にいきなり本腰で取り組みはじめた。それに比べると、団体同士の権力争いとはあまりにも次元が低い。細かい方法論など多種多様なのは当たり前だ。細かい事に執着するよりも、目指すべき方向性が大きく変わらないのならば、共に連携するべきじゃないだろうか」
この直後の05年11月17日、たたみかけるように野口は、富士河口湖町役場にひとつの計画書を提出した。これは「野口健マニフェスト」とも呼べるものだが、その内容は誰も予想しないものだった。
環境保護だけでなく、観光産業をも重視した内容だったのだ。
計画書には、富士山保護財団の設立、入山料を始めとする環境保全のための財源確保策、富士山地域のエコツーリズム協会の設立などが謡われていた。
人間の手を極力排除して自然を守ろうとする「環境原理主義者」から見れば、自然環境を利用して経済を維持しようとするこの計画は、抵抗のあるものだったに違いない。だが野口は、
「環境保全とは人間の生活のためにするのです。地元の人の生活を否定してまで、環境を守ろうとは思いません」
と言い放っていた。
富士山周辺に住む人々にとって、富士山は一番の観光資源だ。野口は、美しいこの資源を継続的に活用してもらいたいと考えている。
そのためには、やはり環境保全が必要不可欠なのだ。また、その環境活動は、地元の人々の協力なくしては成り立たない。環境と産業は車の両輪のように、どちらがかけても前に進めないものだと野口は思っていた。
このように富士山で活動を続ける傍ら、野口は地元・東京都でも「都レンジャー」の名誉体長の任務を請け負っている。
都レンジャーは主に東京都奥多摩地域と小笠原地域を巡回し、動植物の違法な持ち出しや、不法投棄などを監視している職員だ。この機構は野口が都に提案し、発足したものだった。
「レンジャー」とは聞きなれない言葉だが、海外の国立公園に行けば必ず見かける環境保護のスペシャリストだ。世界各国の国立公園を見てきた野口にとって、これまで日本の国立公園にレンジャーが巡回していないのが不思議でならなかった。
03年夏に訪れたガラパゴス国立公園では、ハイカーの各グループごとにレンジャーがついていたほどだった。そこでは現地の生態系を守るため、食べ物やアルコールなどの持ち込みが一切禁止されている。レンジャー達は何度も「ここは国立公園ですから!」と言いそのルールを徹底させていた。彼らは「国立公園」という存在に対して敬意をこめて仕事をしていた。
毅然とした態度のレンジャーは、その秋に訪れたマウント・レーニア国立公園でも見られた。登山道で動物に餌を与えたハイカーを逮捕しているレンジャー。また、小学校の先生に環境教育を指導するレンジャーもいた。
レーニアと富士山は「姉妹山」にあたる。しかしそれは名ばかりで、富士山はレーニアに10年遅れていると、野口は思った。
日本の国立公園について詳しく調べてみると、確かに環境省内にレンジャーとう役職はあった。しかし、各公園に一人割り当てられている程度。しかも現場にはでず、遠く離れた役場でデスクワークをしている人がほとんどだった。
それを知った時、野口の脳裏に、19歳で登頂したマッキンリーでのワンシーンが蘇ってきた。標高4000mの登山ルートの中間部。そこにはなんと、凍てつく氷河の上で、レンジャーがテントを張り登山者を監視していたのだ。
氷点下数十度の世界とエアコンの効いた役所の部屋。この落差はなんなのだろうか。日本の国立公園にも、「現場主義」のプロが欲しいと思った。
野口は、環境省に何度も足を運び、本格的なレンジャー制度の提案をした。しかし、ほとんど聞き入れてもらえない。
どうにかならないものだろうか? 答えが行き詰っていた野口に、チャンスはいきなり巡ってきた。
03年9月、東京都主催の「第四回エコツーリズム・サポート会議」に野口は参加した。中心議題は、小笠原諸島を世界自然遺産に登録させるための政策検討だった。
小笠原には環境省のレンジャーは1人も常駐していない。野口はこの点をあげ、レンジャーの必要性を石原都知事に直接強く訴えた
石原都知事はディーゼル車規制など国に先駆けて環境問題に取り組んでいる。石原都知事なら耳を傾けてくれるに違いない、と野口は確信を持っていた。返事は、予想もしない方法で返ってきた。
翌日の記者会見で、突然、石原都知事は「都レンジャー」の計画を発表したのだった。
都知事の決断は、世界遺産登録のためだけではなかった。東京の自然は、登山ブーム、や旅行ブームの影響を受けて自然の保護と利用のバランスが崩れかけていた。国立公園である小笠原諸島においても、移入種の持ち込みによって、固有種の減少、林地や草原の裸地化が起こっていた。さらには裸地化を原因とする土壌流出が、珊瑚礁にも影響を及ぼしはじめていたのだ。
しかし監督官庁である環境省は、何もしておらず、都が行動を起こすしかなかった。具体的な保護活動を模索していた石原都知事にとって、野口の提案は渡りに船だったのだろう。
「都レンジャー」は翌04年7月に発足し、野口は名誉隊長に就任した。6名の隊員たちは、年間300日以上、自然の中に入り、まさに「現場主義」のレンジャーとして活動している。
野口も小笠原を船で何度も訪れた。島の自然を監視する一方で、積極的に島民ともコミュニケーションをはかった。そこで生まれたアイディアは、すぐに東京都に提案してきた。
野口は、ここでも富士山と同様に「自分たちの自然は自分たちで守る」という姿勢を貫いていたのだ。
地元の自然は、地元の人が一番良く知っている。そしてその自然から利益を受けるのも、被害をうけるのも、地元の人々なのだ。やはり都レンジャーは、地元の人の意見の積み重ねで作っていくしかない。野口はそう強く思っていた。
そういった意味で、国ではなく、小回りの効く地方自治体から、本格的なレンジャー制度をはじめたのは大正解だった。
都レンジャーについての記者会見で、野口は語った。
「最初の頃は、なぜ国がレンジャーをつくらないのか?とずっと思ってました。でも考えが変わってきまして。全国の地方自治体が、国に依存しないで『自分たちがやるんだ』と言う方が、よっぽど説得力がありますし、効果的な保護活動ができると思うんですね。」
そして、きっぱりとした口調で、こう続けている。
「都レンジャーが成功すれば、北海道レンジャーから沖縄レンジャーまで、日本中あちこちで、地元密着型のレンジャー制度の動きが始まると思います。ですから都レンジャー制度のスタートは、大きな一歩だと思うんですね。」
都レンジャーを参考にして、はじめに動いたのは山梨県だった。山本知事は、05年7月5日、富士山レンジャーを発足させたのだ。ここでも野口は名誉隊長に抜擢された。
「東京や富士山で起きている環境問題ってのは、全国どこでも起きているんです。大げさでなく、東京や富士山が変われば、日本が変わると思うんです。」
就任式でのこの挨拶は、野口の姿勢を象徴していた。
野口にとって環境保護活動とは、東京都と富士山など、限定された範囲の活動ではない。あくまで目標は、日本全体を変えることなのだ。
アルピニスト野口健――。99年に25歳で七大陸最高峰の登頂に成功した登山家は、今このように、環境問題に取り組んでいる。このモチベーションは何処からくるのだろうか? 僕が、彼に聞くとこんな答えが返ってきた。
「人間が生き延びるためだよ」
そう、野口の環境保護は、あくまで人間社会のためなのだ。
「環境問題は、美しい緑を守りたいとか、動物がかわいそうとか、そういった感情的な視点で捉えられることが多い。でも、極端な話、環境を完璧に守りたいのなら人類が滅びればいい。本当は人間が生き延びるための、環境保全なんだ。昔と変わらぬ機能的な生態系サービスがなければ、人類は生き残っていけない」
七大陸最高峰登頂を目指していたとは、一味違う野口がそこにいる。
学生の時、僕と野口は、木造一軒屋で共同生活をしていた。あの頃は、ひたすら山、山、山だった。簡素な共同生活をしていたのも、家賃を抑え、遠征資金を貯めるためだった。
町でアルバイトをしている時も、大学のキャンパスにいるときも、白い山々を想った。その時私たちは、自然の美しさ、壮大さしか目に入っていなかった。
時は流れ、現在の野口は、社会と環境の関係性しか頭にない。
夜、飲んでいるときも環境政策について早口で話し続ける。仲間が聞き疲れると、今度は飲み屋のマスターに自分のアイディアをとうとうと語る。
そして山に入っても、向き合うのは汚れた不法投棄の山だ。
野口の戦う相手は、山から社会に変わったのだ。それゆえ、野口を環境活動家としか認識していない人も多いだろう。
しかし実は野口は、環境活動に取り組むようになってからも、4回ほどヒマラヤの高峰に挑戦している。あまり報道されることはないが、そんな登山中の野口こそ、本来の野口の姿だ。
いずれ野口は、山に入り浸る生活に戻るに違いない。
だが、それは野口が、納得のいく環境保全のシステムを構築できた後だ。
将来、フルタイムのアルピニストとして山の世界に戻るためにも、野口は環境活動家として、これからも社会と激しく戦っていくことだろう。
ライター 大石明弘
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