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「野口、お前が単独でマッキンリーに行ったら、死ぬよ。止めとけ」。私が入っていた某山岳会の先輩に言われた言葉である。私は、この瞬間に迷いが吹っ切れた。どこかでマッキンリー単独行は、まだ自分には無理じゃないかという思いがあったし、正直怖かった。植村さんが遭難した山だ。ただ、だからこそ植村さんが単独で登ったあのマッキンリーに私も同じ様に単独で行きたい。迷っていた。
そして山岳会の先輩に相談した。「僕が単独でマッキンリーに行ったらどうなると思います?」。その返事がいとも簡単に「死ぬよ」であった。根拠もなく「死ぬよ」と言われて「ハイ、分かりました。止めます」とはならない。その言葉で私の気持ちは「ならば登頂して生きて帰ってくるぞ」となった。
マッキンリーに毎年のように出かけていく登山家が日本にいる。日本山岳会の理事も務めている大蔵喜福さんである。大蔵さんはマッキンリーの山頂付近に気象観測機を設置し、一年を通して、温度、風速、風向の記録をとっている。ただ、厳冬期に入ると、あまりにも気象条件が悪く、器材が壊れる事がよくあるそうだ。

アタック開始直前。後方にアイスフォールが見える |
例えば、風速を調べるプロペラが吹き飛んでしまったり、器材を固定しているワイヤーが切れてしまい、器材が傾いてしまったりする。我々の想像を越える苦労をしながら、マッキンリーの山頂付近にある観測機を訪れ、壊れた部分の修理やデータの回収を行っている。あらゆる条件のマッキンリーの姿を知る登山家である。私は大蔵さんの事務所を訪れ、マッキンリーの資料を沢山借り、マッキンリ一の情報を頭にたたき込んだ。
1993年5月中旬、私は大蔵さんの日本山岳会・マッキンリー気象観測機設置登山隊と共にアラスカ、アンカレッジを目指して日本を離れた。初めてのアラスカ、アラスカと聞くだけで私はロマンを感じる。アンカレッジの空気はカラっとしていて気持ちがいい。夜になっても日が暮れず、とても不思議な感じがした。
数日間、アンカレッジで食料等の買い出しを行い、マッキンリーの玄関口であるタルキートナに車で向かった。途中、車内からマッキンリーの姿が見えた。私の持つ6000メートルクラスの感覚よりも遥かに大きく見え、また堂々としていた。雄大なマッキンリーの姿を眺めながら「やはり俺には、厳しいかな」とつぶやいていた。
タルキートナからはセスナ機に乗り、マッキンリーのBCに続くカヒルトナ氷河まで行く。そのカヒルトナ氷河を約20キロ程行くと、マッキンリーのBCに到着する。そこから1000メートル標高を上げた場所に最終キャンプを張り、山頂へとアタックを行う。この山の特徴は、氷河が巨大であること、北極圏に入るため気象状況が極めて悪い事などがあげられる。毎年のように遭難者を出す。その大半が天候の急変によるものである。そして猛烈な寒さ。私の経験してきたどの山よりも、全ての条件において厳しい環境にある事は百も承知であったが、いざ目前にすると恐怖を感じた。
3日間、タルキートナで足留め状態が続いたが、夕方になってから突然宿に連絡が入り、飛行場に集められた。これから、カヒルトナ氷河に飛びますと説明を受けた。アラスカの夏は大腸が沈まないから時間は関係ないのだ。暑いタルキートナで完全装備に着替え、セスナ機に乗り込んだ。
セスナ機が到着する場所はマイナス1O度前後の世界だ。上空に飛び立ったセスナ機の前方にはマッキンリーが待ち構えていた。緊張感で落ち着かなかったが、もうここまできてしまったら、もうやるしかない。くよくよ考えてもなにも始まらない。
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