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僕の保養地 カトマンズにて

ヤク・アンド・イエティー・ホテルでのパーティーで橋本元総理と
カトマンズとインドを結ぶ幹線道路の視察。ライフラインであるこの道路にはところどころがけ崩れの後が見られ、根本的な解決が求められている
青年海外協力隊の隊員と。持っている技術と知識を発揮し、この国に役立てようと頑 張っていた。
ダムドゥードゥルにて、エベレスト11回登頂の世界記録を持つアパ氏(右側の青いシャツの男性)と
ダムドゥードゥルにてシェルパと日本の温泉について話が盛り上がる
野口隊のゴミを批判したラッセル ブライス氏(写真奥の男性)
長野県松本市によって提供されたカトマンズ市内にある柔剣道場。落成式に出席した橋本氏は竹刀を構え、疲れを見せない気迫で10数人を相手に打ち込み稽古をつけていた
お古の柔道着に身を包み、稽古に励む人々。松本市から訪れた柔道家の指導に熱心に答えていた
カンティー小児病院にて。現地の人々が橋本元総理を取り囲み、歓迎していた
病院の利用者は一般市民、援助なしの運営は経済的に大変むずかしい
新生児室。新しい命は新しい未来の力になる。僕にも橋本氏のようにできることはないかと考えてしまう・・・
ガラスケースの中の未熟児。必死に肩で呼吸しているその子供の姿に涙が出そうになった
病院関係者がポツリと語った「この病院がなかったら・・・」のひとことがズシリと胸に響いた
カトマンズ市内にある登山家の溜まり場となっているレストラン「ダムドゥードゥル」での親睦会。手相占い師に手を見てもらう橋本氏
手相占い師はその震える手で橋本氏の手を握りしめ、長い間離さなかった
ネパール山岳会、アンツェリン氏のオフィスで2002年清掃登山について打ち合わせ。シェルパのタシ、オンチュウも同席した
ネパール山岳会、アンツェリン氏。僕の清掃活動のよき理解者であり、協力者でもある
シェルパ頭のダワタシ氏の自宅に招待される。外で撮影していると近所の子供たちが寄ってきた。経済的には豊かではないが、見せる表情はとても豊かだ
ネパールではめずらしいデジタルカメラに興味を持つ子供たち。後ろのチェックのシャツを着ているのがダワタシ氏
子供たちの笑顔は力を与えてくれる。僕は彼らに対して、なにを与えられるのだろう
エベレスト方面トレッキングの玄関口、ナムチェバザール。チベットとネパールの交易で栄えたこの村では今でも毎週大きなバザールが行われている。
トレッカーや登山隊で賑わうナムチェのここ数年の変化はすさまじい。ここ10年で電気、水道が整備され、衛星による情報の入手も可能な宿が増えた。

 2月3日、ネパールでのトレーニングを終え帰国。例年よりも今年の冬は雪が多かった。おかげで顔が汚く焦げてしまった。羽田空港についたときに回りの人の、僕の顔をいかにも汚いものを見るかのような眼差しが辛かった。

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 1月13日にネパール入りした。14日、午後バンコクで国際環境会議に議長として参加された橋本龍太郎元総理がバンコクからカトマンズ入り。午後7時にヤク・アンド・イエティー・ホテルで出迎えた。三日間に及ぶバンコクでの会議がよほど過酷であったのか橋本氏の表情は疲れていた。

 翌日、土砂崩れが頻繁に起きる唯一カトマンズからインドとの国境を結ぶ道路を見学。日本の国際協力(JICA)がこの土砂くずれ地帯の砂防工事を行っている。

 ネパールでは夏のモンスーン(雨季)に各地で土砂崩れの被害が発生し、インドからの物資の運搬が中断してしまう。海に接していないで港を持たないネパールは燃料、食料、医療等の物資をインド経由で輸入している。したがってインドとの友好道路の維持はネパールにとって死活問題だ。しかし、毎年繰り返される土砂崩れによる道路の寸断。

 日本政府は地域住民が参加できるような砂防工事、土砂崩れ時の非難訓練、などをサポートしている。橋本氏と共にその工事現場を視察しながら、このような厳しい山岳地帯で土砂崩れと格闘するJICAのスタッフに頭が下がる思いであった。

 その日の午後、カトマンズのホテルでネパール全国から青年海外協力隊員が集まりパーティーが開かれた。僕なんかより若い協力隊員が電気も水道もないようなところでネパールの為に必死に働いている。自信に満ちた彼らの目の輝きが眩しかった。
「最近の若者は〜」
と嘆く中高年の方々よ、ご心配なく!

 15日はネパール山岳会や山岳協会の会長以下幹部と橋本氏の食事会に参加。エベレストに11回登頂し、世界記録を持つアッパー・シェルパも同席し、エベレストの環境問題にも話題が及んだ。アッパーは
「莫大なエベレスト入山料を徴収しながらヒマラヤの環境対策を充分に行ってこなかったネパール政府にも責任がある」
と指摘していた。また、昨年の夏に来日したニュージランド人登山家が「山と渓谷」という専門誌の取材に
「チョモランマに野口隊(清掃隊)のゴミが大量に捨てられていた」
と発言しそのまま報じられたことに話題が移り、ネパール山岳会の幹部らがラッセル氏の発言に対し、
「ミスターチョモランマと自負しているラッセル氏のジェラシーだ」
「彼は以前からケンの活動を快く思っていなかった。自分がチョモランマの環境を訴えていたのにケンが大々的に清掃活動を行い、チョモランマの環境問題の中心になったケンが許せなかったのだろう」
「アジア人ごときが、といった西洋人のおごりだ!」
といった意見まででた。そもそも彼は以前からネパール山岳関係者からの評判がよくない。98年だったか、他のチョモランマ登山隊員が高山病で危険な状態となり、近くにいたラッセル隊に助けを求めた。ラッセル隊には医者がいたからだ。しかし、ラッセル氏は自分とは関係ないからとその患者を追い返したことがネパール山岳関係者のなかでも問題となっていたようだ。

 いずれにせよネパール山岳会の幹部がラッセル氏に抗議することとなった。昨年合同隊を組んだチベット登山協会のほうからもラッセル氏に抗議するよう連絡するとのこと。

 ラッセル氏の指摘の通りわが野口隊のゴミがあるのかどうか、この春チョモランマに複数のシェルパを調査の為に派遣することとなった。昨年の装備リストは残されている。食料品のメーカ名まで・・・。どのキャンプ地にどの食料を荷揚げしたかも記録に残っているので、果たして発見されたゴミがわが隊のものかはすぐに判明できる。

 シェルパ達も命を賭けてこの2年間必死にチョモランマを清掃してきた。彼らもラッセル氏の発言に怒り狂い
「あいつを殴る」
と言うので
「まだ待て。調査の結果、野口隊のゴミが発見されなければ、その時は好きにしていい。」
と! そして
「ただし、その時はまず俺があいつを殴るよ」
とだけ付け加えた。今はまだ我慢。3月中旬のカトマンズで記者会見を行うがそこでもラッセル氏の発言を発表する予定だ。彼は後悔するだろう。無意味に売られた喧嘩だろうけれど僕は負けないよ!

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1月16日、カトマンズ市と姉妹関係にある松本市がカトマンズに武道館を開設した。そのオープニングセレモニーが行われ、橋本元総理が剣道を披露した。
橋本元総理のサムライ顔に剣道着はみごとにマッチしてかっこよかった。一人で10人ほど稽古の相手をし、その体力に驚いたが、それ以上に広い武道館のなかで
「キェーッ!!」
と橋本氏の声が響き渡り、小さい体ながらその存在感からか、背中が大きくみえた。稽古の相手をしてもらったネパール人は緊張のあまり明らかにへっぴり腰であったが、生涯忘れられない経験になっただろう。剣道のよこでは柔道が行われ、100ほどのネパール人の子供達が楽しそうに稽古していた。
柔道着には日本語でどこかの中学校名や個人名が書かれており、古着を寄付したのだろうが、彼らはそれを大切に使っていた。日本の文化がこうして世界に伝えられていく。そしてスポーツを楽しむ機会の少ないネパール人の子供達が武道館に集まり生き生きした表情で稽古している。中には学校にもいけてない子供達もいるだろう。この武道館が彼らの学校になれば素晴らしい。

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1月17日はカトマンズ市内にあるカンティパティ小児科病院の視察。以前、ソ連が援助し運営されていたこの小児科病院であるが、ソ連崩壊後、その援助もなくなり運営できなくなったところ、日本政府に援助のお願いをしたが政府開発援助関係者のなかから
「他国がやっていたものの後始末はしたくない。日本政府の援助の姿勢として1からのものじゃなければやれない」
などと面子を気にしたかのようなばかげた返事をしたらしく、それを聞いた橋本氏がとんでもない!と自分が率先してこのネパール唯一の本格的な小児科病院を自らのポケットマネーから寄付し基金を設立し、ODAからの援助、技術協力を呼びかけ、立派な小児科病院を作り上げた。ネパール唯一の本格派小児科病院とあってネパール全国から患者が運び込まれる。ガラスケースの中に手の中に入ってしまいそうな小さな体の未熟児がいた。その体の至るところからチューブが体内に差し込まれ、必死に肩で呼吸しているその子供の姿に涙が出そうになった。病院関係者がそっと耳元で
「この病院がなければこの子はすぐに死んでいた。でもミスターハシモトはこの子の命を救った。」
とポツリ語っていた。小さい声であったが、ズシリと胸に響く言葉だった。橋本氏はこんな時でもマスコミのカメラが近づくのを嫌う。橋本氏の極端なまでな、マスコミ嫌いには正直首を傾げてしまうし、時には大人気なく感じることさえもある。どうしてマスコミ相手にいつもあのような無愛想なコメントしかできないのかと腹立たしく感じることなど日常茶飯事だ。我々国民を見下しているかのようなあの嫌味な話し方(!?)に冗談じゃないぜ!国民にもっと自分の考え方を率直に話せないのだろうか!と、国民に対する言葉の投げかけは政治家にとって命だろうと、橋本氏のその表現方法には疑問を持つ。この橋本流表現方法は橋本氏の欠点であり最大の弱点なのかもしれない。しかし、パフォーマンスばかりの政治家よりは格段にいいかもしれない。その辺りの政治家ならば、カメラマンの前で病気の子供を抱えているところを撮影させ、イメージ戦略として利用することだろう。この不器用な政治家にはそれができないし、また彼の知性自体が見え見えのお涙頂戴といった安っぽい演技を許さないのだろう。

 日本ではほとんど知られていないこのカンティパティ小児科と橋本氏の関係。でもこれが本当の政治のあるべき姿なんだと、素敵な世界を見せて頂いた。日本人はどこかで政治に失望している。諦めている。冷めている。しかし、僕は、僕らのような若い者が政治に参加し国を動かせるんじゃないかと本気で思っているし、そうでなければならないと思っている。小児科病院を視察した橋本氏は党大会に参加する為にその日の午後のフライトで帰国した。ネパールでの橋本氏は本当に楽しそうだった。雑音から開放された貴重な時間だっただろうし、なによりもここが俺の居場所だ!と第二の故郷に帰ってきたような心境だったんじゃないだろうか。その表情は清清しかった。

 カトマンズのある夜、橋本氏は手相占い師に手相を占ってもらった。その手相占い師な橋本氏の手相に
「はじめてこのような手相を見た」
と興奮し、30分以上も橋本氏の手を握り続けた。占い師は
「この人は総理大臣になる人だ」
とはしゃいでいた。そのコメントをきいていたみんなは、苦笑いしていた。等の本人が一番
「ヤレヤレ」
といった顔をされていたが僕は、
「まだまだ。」
と、密かに希望を感じずにはいられなかった。

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シェルパ基金設立へ着々と準備が整いつつある。この春には東京都に申請しているNPO(非営利団体)としてシェルパ基金が認可される予定だ。ネパール側の事務所の代表にはネパール山岳会副会長のアンツェリン氏が引き受けてくれた。アンツェリン氏も我々が計画しているシェルパ基金に共感してくださり、
「特にクライミング・シェルパに拘らずにポータにまで範囲をひろげてほしい」
と積極的だ。実際にはベースキャンプまでのポータにも事故が頻繁に起きている。高度障害であったり、衣服の貧弱からの凍死、また病気だったりと死因はさまざまだが、中には保険にも賭けられておらず、その身元さえ分からない被害者もいるという。
「貧しいポータを助けたい」
というアンツェリン氏の願い。僕も同感だ。しかし、まだシェルパ基金は成立していない。わがシェルパ基金の集金能力も未知数だ。どこまでシェルパ基金の補償枠をひろげられるのか現段階では、なんとも言えない。ただ、ネパール側からのシェルパ基金に対する期待感は充分に理解している。日本の山岳関係者も力を貸してくださるだろう。皆でなんとか盛り上げたい。

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2000〜2001年に行われた2回の清掃活動はいずれもエベレストのチベット側。今年からは反対側のネパール側。エベレストのチベット名は「チョモランマ」ネパール名は「サガルマータ」。そのサガルマータで共に清掃活動を行うシェルパは26人。全てのメンバーが決定。メンバーリストには新しい名前もちらほら。心機一転がんばろう!

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橋本氏帰国後、トレーニングを兼ねてカラパタール(5545メートル)までトレッキングを行った。寒さと雪に少々いじめられたが、それでも久しぶりのヒマラヤを満喫。体も絶好調で、日本での疲れをヒマラヤで癒した。

年々、日本での生活が息苦しくなる。講演・講演・講演・・・の嵐で、全国を飛び回っている。どこに行っても握手、握手の連続で、12月上旬だったか高速道路の料金所でお金を渡そうと車の窓を開けた瞬間に料金所のおじさんがお金を受け取ろうと手を差し伸べてきた瞬間に、無意識にそのおじさんと握手をしようとしてしまったこともあった。慌てて手を引っ込めたが料金所のおじさんはキョトンとしていた。

またそのころだったが、久々の休みに九十九里の白子という町に温泉でも入ろうとやはり高速道路で現地に向かっていた。運転に集中できなかったのか、料金所の前に止まっている車に突っ込んでしまった。幸い、ほとんどスピードが出ていなかったので大惨事至らなかったが、それでも相手の車に同席していた女性は鞭打ち症になってしまい、大変ご迷惑をおかけしてしまった。

もちろん、警察に連絡し現場検証や取り調べを受け、人身事故として処理された。2度とこのような事故を起こしてはならないと肝に銘じた。その直後、車のドアを閉めた際に手の一部を挟んでしまいでかい血豆ができた。天罰が下った。痛かったな〜。 

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橋本氏じゃないが、僕もネパールでは久々に人間らしい生活を満喫していた。4000メートルでも講演の夢にうなされた日々がつづいた。決まって講演中に声がでなくなるといった夢の内容だった。11月下旬から約一月間続いた謎の頭痛もヒマラヤで治まった。ヒマラヤは僕にとっての保養所だ。

ただこの「保養所」もどうやらきな臭い。シェルパ達のメッカであるナムチェバザール(3345メートル)だが、ビックリしたのが午後6時以降は外出禁止令がだされていた。マオイスト(毛沢東主義者)のテロが相次ぐネパールでは国軍とマオイストの衝突が相次ぎ、このナムチェバザール村でも国軍の兵士が自動小銃を手に高台からにらみを効かせている。午後6時以降に歩き回る人がいればその高台から狙撃するとの通告があったようで、現地のシェルパからも
「6時以降は山小屋を出るな!」
と何度も何度も釘をさされた。最初は冗談かと思ったが、確かに6時以降は外出する者はいない。窓から高台のほうを覗けば兵士が銃を手にじっとしている。ネパールも物騒になってきた。アフガンでの戦争、またマオイストと国軍の襲撃闘争の影響でネパールもめっきり旅行者が減り、トレッカーの姿もほとんどなかった。ネパール経済には大打撃だ。そして、カトマンズでは目にした現、王様の写真も、ここシェルパの村では未だに昨年殺害された王様の写真が壁に掛けられている。シェルパ達は
「今の皇太子の反抗だ。クーデターだ。ネパール国民は今の王を支持していない。ネパールは大統領制にすべきだ!」
といった王制打倒とも受けたられる声が多かった。
「カトマンズでは国からのプレッシャーがあり、今の王様の写真を掲げているだけだ!」
ネパール人の口からはじめて王室批判を聞いた。確かにあの事件は誰がどう考えてもおかしい。

 実際に現皇太子は過去に2人殺害している。ディスコで喧嘩し銃で相手を殺害、つぎに車で人をひき殺している。ネパール国民は皆この犯罪を知っている。国民から受け入れられない現皇太子。当然といえば当然だろう。カースト制度の象徴としての王制。いつまで続くのだろうかネパール王制・・・。

 ずいぶんと長くなってしまったが、今回はこのへんで

2002年2月10日
野口健