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「2004年を振り返って」

 今年は野口にとって生涯忘れられない年になっただろう。環境省での「青木ヶ原樹海ごみゼロ作戦」の発表を始め、東京都レンジャー制度の発足、約5年ぶりとなる純粋に頂上を狙ったヒマラヤ登山、所属事務所からの独立、参議院選挙出馬報道、結婚、第一子の誕生など公私に渡り目まぐるしい一年であった。
 まずは所属事務所からの独立について伺ってみた。

「2003年の暮れに学生時代からお世話になっていた事務所を出ることを決めた。今の自分があるのも前の事務所のスタッフのおかげ。でもどんどん仕事が増えていくに従い、自分のことを自分で決められないなど、しっくりこない部分が出てきた。独立を決めたのは、やはり自分のことは自分で決めたいということが大きかった」

 独立後、野口は自身の事務所である「野口健事務所」を設立。2004年の4月からは、野口健事務所とサッカー選手の三浦知良氏のマネージメントを手がける株式会社ハットトリックと業務提携を結び、オフィス野口健プロジェクトを設立。マネージメントを委託した。同年の3月までの数ヶ月間、野口は全ての仕事を自身の事務所で行った。そこには結婚したばかりの奥さんの支えがあった。
 
「事務所から独立する直前に、結婚をした。互いに連携してピンチを乗り越えようと事務所を作り、かみさんが社長として仕事を助けてくれた。初めてのことで互いに何が何だかわからないまま暗中模索でやっていたけど充実していた」

 所属事務所からの独立を決意した頃、参議院選挙への出馬報道が相次いだ。結果的に野口は出馬を辞退したが、その背景には何があったのだろうか。

「参議院選挙に関しては、正直、悩んだ。僕の生涯の夢は日本を環境先進国にすることだけど、やはりそのためには制度面からの改革が必要となる。そのためには国会議員になるのも一つの選択肢だと思っていた。
 また環境省を、昔の大蔵、通産、外務というような注目され、力のある役所にしないといけないと思っていた。また環境、環境と叫ばれているにも関わらず、日本の行政は必ずしも環境を重視しているわけではない。たとえば美しい湧水湖だったふじみ湖も今では産業廃棄物の最終処分場となってしまったように、日本全国公共事業のための公共事業が繰り返されている。そういったことに対する危機感があった。

 だけど周りの反応はほとんどが反対だった。あんな汚い世界にいくなと。若い人間が日本のありかたに疑問があり、何とかしなければと行動しようとするときに、周りはあんな世界にいくなという。果たしてそういう社会に将来があるのかといったら僕はないと思う。僕は政治というのは、その国を動かしている根幹だと思っている。本来はむしろ逆に『よし思う存分やってこい』と送り出すような社会じゃないといけないと思う。

 そんな汚い世界に頼むから行ってくれるなという反応がほとんどいう国は沈没するしかないのではないか。反対されればされるほど、だったらやってやろうじゃないかと感じたこともあった。
 だけど結果的に出馬は辞退した。これは別に周りの反対があったからじゃない。様々な理由があるけど、やはり所属事務所から独立の引継ぎの最中で自分のベースキャンプを明確に作れていなかったということがある。あと一番大きなことは、都レンジャー制度がまだ発足していなかったこと。自分で提案しておいて途中で放棄したくなかった」

 東京都レンジャー制度とは野口が石原東京都知事に直訴し、実現の運びとなった地方自治体によるレンジャー制度のこと。地方自治体が本格的なレンジャー制度を創設するのは初めてのことだった。初年度は小笠原と奥多摩に各3名ずつ配置され、野口は名誉隊長として小笠原を中心に制度の周知に奔走した。

「まだ正式に都レンジャーの制度も自分が隊長とも決まっていなかった頃に小笠原に行き、地方自治体によるレンジャー制度とはこうあるべきだ、と自分の責任で島民の方々に発言してまわった。最初のうちは話を聞いてくれない人もいたけど最終的には『あんたが責任持つなら協力するよ』とまで言ってくれた。そこまでしておいてやはり選挙に出るからあとは知りませんとはできない。

 仮に出馬していたら都レンジャーの隊長は兼任できないだろうし、様々な制約を受けて、現在のような活動が出来なくなる。今にして思えばあのとき出馬しなくて良かったと思う。この一年、都レンジャーが発足して、富士レンジャーも動き始めている。こういった活動はあのとき出馬していて仮に当選していて一年生議員だったらできなかったと思う。実際に小池大臣も石原都知事も一年生議員の立場だったら今のように話を聞いてくれなかったと思う。つまり逆に今のポジションで動く方が影響力があるのではないかと思うようになった。あくまでも国会議員になるということは手段だから、僕は今のポジションでどこまで出来るのかやってみたい」

 2004年4月7日、イラクの武装組織に日本人3人が誘拐され、人質となった。人質の解放条件として「サマワに駐留する自衛隊の撤退」を要求を突きつけていたが、15日には無事解放された。昨年、日本中を騒がせたイラク日本人人質事件である。ニュースや新聞に「自己責任」の文字が躍り、連日、議論が繰り返された。
 野口も自身のサイトを始め『正論』(産経新聞社)にも自己責任論を展開した。何故、野口は「自己責任」にこだわったのであろうか。

「今年の流行語大賞に『チョー気持ちいい』という水泳の北島康介選手の発言が選ばれたけど、僕はてっきり『自己責任』になると思っていたんだけどね(笑)。
 ニュースや新聞であれだけ自己責任が議論になったけど、最終的には何が自己責任ということが問われずにうやむやに終わってしまった。それに対して不満があった。


 僕が自己責任にこだわった一番の理由は、一言で言うと、それが自分の生き方として最も大事にしている部分だから。自己責任というのは、自分で決断し、それがどのような結果となろうとも決して他人のせいにしないということだと思う。またときにリスクを背負うわけだから、その自覚と万全の危機管理体制を構築することが必須になる。
 万が一のことが起こった場合は、国や家族にも迷惑がかかる。救助のために人も動く。自分一人で生きているわけではないという自覚が大事なる。

 勿論、徹底的に準備をしても事故は完全には避けられない。でも万全の準備と覚悟を決めていれば周りは大概納得するものだと思う。僕は自己責任ということに関して、ヒマラヤで学んだ。若い人が正義感に駆られて危険な地に赴くことが悪いことだとは思わない。自己責任という名の下に若い人の可能性をつぶしてはいけないと思う。今井君のような若者がウラン弾はけしからんと正義感に駆られてイラクにいったのならば、それに関してはいいと思うし、あるべき若者の姿だとも思う。


 ただ僕の書いた自己責任がそれをも否定しているように受け取られたのが、残念であり、同時に自己責任を説いた瞬間に、その中身を精査せず、全面否定に映ってしまうのが日本を象徴していると思った。僕は特に今井君に対しては、過去の無謀な挑戦をしていた頃の自分の姿とダブって見えたからこそ、しっかりと自己責任というものについて再度考えたかったし、伝えたかった。僕は今井君にはまたイラクにいって、徹底的に活動して欲しいと思っている。勿論、徹底的に下調べをして、危機管理をした上でね。
 あと僕の書いたものに対して、ある雑誌を見たら、今井君が『野口さんの意見が参考になった』というようなことが書いてあって、あれは嬉しかったなあ」

 エベレスト登頂後、4年連続でエベレストの清掃活動に従事してきた野口だが、今回、純粋にピークを目指すヒマラヤ登山に約5年ぶりに挑んだ。自身の原点であるヒマラヤで今回、野口は何を感じたのだろうか。

「ヒマラヤ自体は1年半ぶりだったけど、純粋にピークを狙ったのは5年ぶりだった。ここ4年間、エベレストの清掃登山をし、その借金を返すために日本全国で講演をするという日々を送り、自分が冒険家としての大事な感覚をどんどん失っていくという焦りがあった。七大陸最高峰にしてもエベレスト清掃登山にしても、僕はこれまで肝心なときはいつも感覚的に判断してきた。僕はこの感覚こそが何よりも大事だ。生き死に直面すると五感が研ぎ澄まされ、第六感とも言えるような本能的な感覚が溢れ出してくる。だけど日本国内で仕事をしていると頭でっかちになって、感覚が磨り減っていく。冒険で培う感覚がなくなっていくということは、まさしくアイデンティティが失われていくことで、そのことが怖かった。


 それを早く取り戻さないとという焦りがとにかく強かった。2年前の秋、その焦りの中で突っ込んで自滅したのがシシャパンマだった。あのときは自分自身が見えていなかった。自分自身が見えていないというのは客観的になれてないということ。登山というのは、うまくいっているときは、もう一人の自分がいるもの。何がなんでも登りたいという自分と、それを冷静に判断できる自分がいる。このもう一人の自分がいないなくなるのが、自分が見えていないということ。自分が見えていないと自然が見えない。ヒマラヤは自分と向き合うことが必要になる。故に失敗は当然だった。

 今回、チャレンジした山は学生時代にも登った山で、標高的にはたいした山ではなかった。僕は既にエベレストにも登っているわけで、どこかで『今さら6千メートルに登ってどうする? 感覚を取り戻すためにはどうしても8千メートル級でないと駄目だ』なんて思い込んでしまうふしがある。だけど今回、標高は6千メートルだったけど、エベレストに挑んだときのような、生きることへの渇望の感覚があった。期間は短かったけど、『やっぱり俺にはヒマラヤが必要だ、これだ、これなんだ』ということが再確認できた。

 大きな挑戦ばかりではなく、一つ一つの積み重ねが大きな冒険につながるということがあらためてよくわかった。昔はちゃんとトレーニングしたんだけど、エベレストに登ってしまうと、どこかで『なんとかなるだろう』とか過信してしまう。何が何でも登りたいというハングリー精神がなくなっていく。一つは仕事が順調に運び、生活が安定してきたということが大きいと思う。好きな飯が食べられるし、本当は今の自分に納得していなくても金で解決できてしまうときがある。

 スポンサー活動にしても、昔は全部自分で必死に回ったけど、今は自分のお金でいけてしまう。だから必死さがどこかでなかったんだと思う。 それをシシャパンマで感じた。そのとき、『ああ自分は終わるなあ』という漠然とした不安があった。今年はそこからの脱皮をしたい。
 今年は、4月から5月にかけてシシャパンマの登頂を目指す。既にシェルパも決めている。その成功の先に、ずっとひっかかっている大きな再挑戦が見えてくると思う。

 またヒマラヤにいて生死に触れると、必死になり、モチベーションがあがり、感覚がさえてきて、改めて自分を客観視できる。それで日本に帰ってきて、環境のことをやろうと思える。これまでどこかで『ヒマラヤは終わった』と思っていたけど、やっぱり違うと思った。今年からは自分の原点であるヒマラヤの冒険活動を再開して、帰ってきて環境の活動をするというサイクルを作りたい。ヒマラヤは自分にとってのカンフル剤、エネルギーの源だし、環境の活動にもより精力的に取り組むことができると思う」

 環境の活動としては、主なものとして環境省の記者会見で発表した「青木ヶ原樹海ゴミゼロ作戦」や東京都レンジャー制度の発足、富士レンジャー制度の導入に向けての取り組み、環境学校がある。昨年から始まった「青木ヶ原樹海ゴミゼロ作戦」では計11回の清掃を行い、参加人数延べ約2800人、合計約50トンのゴミを回収した。主に「青木ヶ原樹海ゴミゼロ作戦」と富士レンジャー制度について伺ってみた。

「そもそもエベレスト清掃登山のきっかけを作ったのが富士山だからね。欧米の登山家に『ヒマラヤをマウントフジにするのか』と言われたまさにあの一言がきっかけだった。エベレスト清掃登山をしているときも富士山の清掃活動はしていたけど、どうしてもエベレストで手一杯だった。
 これからはエベレスト清掃登山のきっかけでもあり、日本の象徴である富士山のゴミと格闘する。ある意味、エベレストよりも大変でリスクもあるし複雑。エベレストはゴミをおろせばすむ話だけど、富士山は、社会を変えていかない限りゴミがなくならない。
 またエベレストは登山家の意識を変えればゴミはなくなるんだけど、富士山は人が住んでいるし、観光客が多く訪れ、不法投棄もある。地元の方々だけでなく日本中の人、制度など全部改革しないと成立しない。

 これまで富士山のゴミを拾ってきて、なかなか人は集まらないし、世界遺産にしようといいながら『どうせなるわけない』とどこかで思っていた。ところが気づいたら、僕だけの活動ではないけど、3年位前から5合目から上のゴミがほぼなくなっている。
 今年は2800人が参加してくれて、合計50トンものゴミを回収した。清掃も地味で登山も地味。ダブル地味だけど、今なんかすぐに募集の定員をオーバーしてしまう。
 特に去年は世の中が動いたという変化を感じた。今年はさらに人を巻き込み、一種の国民運動にしていきたい。

 富士レンジャーに関しても、都レンジャーを立ち上げるまでは気がつかなかったことがある。これまでは国立公園の監督省庁は環境省だから国の問題だとばかり思っていた。でもこれは石原都知事から受けた影響でもあるんだけど、自分達のものは自分達で守ると、これはある意味当たり前なんだけど、なるほどと思った。

 だから富士山にしても山梨、静岡の両県の取り組みがあった上で国と連携すべきだろうと思う。両県が連携して守る仕組みがないと富士山の再生はありえない。国立公園は白神山地にしても富士山にしても異なる自治体にまたがって存在している。富士レンジャーを実現させ、両県が連携する形でレンジャー制度が出来ればこれが日本で初めてのことだし、他の地域にも波及すると思う。今年は富士レンジャーを皮切りに、地方発の環境革命により力を入れて生きたい。都レンジャーに関しても、もっと現場に赴き、密接に関わっていく。不都合な部分があればどんどんパイプ役として都にかけあっていきたい」



 2004年、野口は結婚し、初の子供にも恵まれた。我が子に関して何か感じるものはあるのだろうか。

「子供や家族がいないと、仮に山で死んでも、それこそ『野口健が悪かった』と自己責任で完結してしまうんだけど、子供ができてそれはできないなと思うようになった。僕が今、31歳で、最低子供が20歳までは面倒をみないといけない、なんてことをよく考えるようになった。俺は果たしてそのときまでこの子を食わせていけるのかと不安に襲われる時もある。そういう見方をものすごくするようになった。

 またこの前にヒマラヤにいったとき、自分で驚くことがあった。かみさんに子供の写真を持っていけといわれて、まず見ることはないと思っていたんだけど、テントの中にいて雪崩の音がしたりすると、ついつい写真を取り出して、見てしまっていた。これは本当に不思議だったね。これまでは自己責任というのは、ほとんど自分の責任だったけど、明らかに彼女が含まれているんだよね。責任の重さを痛感したよ。でも責任の重さ、これこそが男としての醍醐味かも知れないね」



 所属事務所からの独立を経て、野口は以前より圧倒的に仕事量が増えた。肉体的にははるかに辛くなっただろうが、その表情、日々の会話の中で感じるのは、自分のことを自分で決められるというより深い精神的な充実感である。野口は全国各地を周り、講演会、シンポジウム、取材、撮影など多岐に渡る仕事を手がけている。
私はこれまでウェブサイトの制作の仕事が主だったため、これだけ外を飛び回る経験は人生で始めてのことだった。あるときは小笠原から25時間30分かけて竹芝桟橋についたと思いきや、その8時間後には御蔵島行きの船に乗船した。またあるときは西表島で撮影を行い、翌朝には京都へと飛んだ。テレビ出演、雑誌の撮影、樹海清掃、ヒマラヤ登山、東京都レンジャーへの取り組み、同じく富士レンジャー創設のための取り組みなどなど、あらゆることが同時並行的におこり、立ち止まっている時間などない。このような毎日が繰り返され、一年が終わった。
その多忙さは想像を絶するものだった。

 その中で私は特に講演会について密かに感じるものがあった。野口の様々な活動を支えているものが講演活動である。講演があるからこそ冒険も可能となり、小笠原での東京都レンジャーの立ち上げにも自腹を切って取り組むことができるのである。また野口は講演で宣言することによって、責任を自らに課し、物事を実現させていくのである。
 講演の内容は基本的にはそれほど変わらないのだが、会場の雰囲気、規模、その日の体調などあらゆるものの影響で、同じ内容でもまるで異なるものになる。会場を一人で飲み込んでしまうときもあれば、リズムがつかめず、もがいているときもある。講演とは生き物のようなものだと思った。
 講演が連日続くと、肉体は疲弊しているが、精神的に高ぶりだけが残っているという状態が続き、野口は不眠の日が耐えなくなる。
 このような仕事をしていると、私自身、他にも講演をする方に接することがあるが、中には控え室などで「同じ話をするだけですから楽ですよ」と仰る方もいる。いやむしろそういった方が多いといえる。しかし野口は毎回、毎回、手を抜かず、全力を傾ける。そして事細かに私に感想を求める。こちらとしても漫然と見ているわけにはいかない。

 講演開始5分前、必ず野口は一人トイレに行き、鏡と向かい合う。一度だけその姿を見たことがあった。私がその姿を見ていることに気づいていない、ある一瞬間があった。鏡に眼光を鋭くさせた獣のような野口がいた。すぐに私に気づいた野口は、照れくさそうに「気合入れないとな」と言った。

 アナウンスが流れ、ライトが照らされ、ステージの脇から野口が歩き出す。割れんばかりの拍手が起こり「どうも野口です」と始まる。この一年、私は野口と共に走ってきて、何度もその背中を見た。数分後、会場は笑いの渦に包まれたり、静寂に包まれたり、どよめきが起こったりする。

 ヒマラヤ登山やテレビ出演、東京都レンジャーを始めとする行政への働きかけといった野口の活動はこの時間があるからこそ成り立っている。この一年、野口とともに走り、ひそかに感じていたのは講演活動の重要性だった。
 今年はどんな講演が繰り広げられ、どのような方々に耳にしていただけるのか。こと細かく野口が感想を求めてくる姿が脳裏に浮かぶ。どっしりとすわり、拝聴させていただこうと思う。

2005年元日 文責:小林元喜