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「遺骨調査団に参加して」

 フィリピンのセブ島を中心に行われた遺骨調査団に参加してきた。昨日帰国しましたが、う〜ん、まだ私の頭の中で整理できていない。「戦争に行け!」とたった一枚の赤紙による戦地への召集令状によって多くの日本兵が戦地に派兵され約240万人(国内約20万人を含む)もの命が失われてきた。戦後の遺骨収集によって約半数の124万5千体のご遺骨がご帰国されているものの、残りの115万5千体のご遺骨はいまだに戦地に取り残されたままでいる。

 2005年のヒマラヤ遠征の際、悪天候で上部キャンプに閉じ込められ死を覚悟した時にふと感じたことがあった。私は好きで山に登っている。にも関わらず死を前に恐怖のあまり震え、登頂などもうどうでもいい、とにかく生還したいと祈っていた。昨年のチョモランマ挑戦で一緒に山頂に立った日本人登山家が下山中に山頂直下で歩けなくなり彼が息を引き取るまで一緒にその場で共に過ごしたが、逝く方も、そしてまた見送る方もどちらも孤独だ。死を受け入れる作業はいつでも孤独なものです。

  そんな時に感じたのが自身の意思とは関係なく戦場に派兵され亡くなっていた戦没者のことだ。派兵までは「天皇陛下万歳!お国のために!」と盛大に見送られただろうが、過酷な戦地で死を目前にし、また米軍やゲリラに追い詰められ洞窟の中で自害した方々、またマラリヤや栄養失調で時間をかけながらゆっくりと死を迎えた彼らの目には最後、なにが見えたのだろうか。そこには「天皇陛下万歳!」ではなく家族や恋人たちの姿ではなかっただろうか。

 私にはもちろん戦争体験はない。だから、ヒマラヤでの経験から想像することしか出来ない。ヒマラヤから戻り戦記を読み、また靖国神社の遊就館に展示されている特攻隊員の遺言の一文字一文字に残されたメッセージになにかを感じたいと通ってみたものです。しかし、頭で理解していてもなにか感覚で理解していない、どこかで限界を感じていたのも事実。

 2005年のヒマラヤ遠征でどこかで死を覚悟した時に衛星電話を取り出し事務所のスタッフに「俺はここから生還できたら、遺骨収集に行きたい」で伝えていた。現場に行けば、なにかもっと感じられるはずだと、それから遺骨収集がどのように行われどのように参加できるのか調べる日々が始まった。戦後60年におよぶ海外戦没者の遺骨収集の政府派遣団に参加している団体は主に遺族会、戦友会、JYMA(日本青年遺骨収集団)の3団体。そして今回私が参加したのがNPO法人空援隊による遺骨調査団。遺骨には法的な制約があり勝手も持ち出してはならない。政府の派遣団にしかご遺骨を日本に戻せない。


泉ケンタさんと

 したがって今回私が参加したのは遺骨調査活動であって遺骨収集活動ではない。今回の目的は「空援隊」による遺骨調査(遺骨の捜索)→厚生労に調査情報を提供→日本政府による遺骨収集団の派遣による収集と繋げる事です。

 3月17日、空援隊の理事でもあり設立代表発起人の倉田宇山さんと同団体顧問の泉ケンタさん(民主党衆議院議員)と日本を出発、フィリピン・セブ島へ。フィリピンは日本兵が最も多く戦死した地域だ。地域別戦没者数はフィリピン51万8千人、中国本土46万5千7百人、旧満州24万7千人、中国東北地域24万5千4百人、沖縄18万6千5百人、ミヤンマー13万7千人など。

 セブ島に現地事務所を置いている空援隊によればフィリピンでの戦没者51万8千人のうち千鳥が淵に入っているのは9万4645人。一体でも多くのご遺骨を発見し日本政府の遺骨集集団に託したいと3月18日から調査活動が開始した。

 3月18日、ボホール島へ。猛暑の中、汗だくになりながら崖を登り洞窟の中に入る。猛暑に耐え難い湿度、洞窟の中はまるでスティームサウナ。厳しい気象条件に加わってくるのがコブラのような毒蛇、そして夕方にはマラリア蚊のご登場となる。そしてもっとも厄介なのが山賊。特にフィリピンの離島は極めて治安が悪く誘拐など日常茶飯事。あの若王子さん誘拐(1986年11月、当時三井物産マニラ支店長だった若王子さんが誘拐された事件)もフィリピンだ。したがって我々の調査活動に約30人ものボディーガードが付いた。危険地帯にあえて入っていくわけだからそれなりの備えが必要なのだ。空援隊の倉田さんは「そもそも危険な場所。気楽な気持ちでは遺骨調査はできない。日本人には危機感がない。野口さん、いいですか、我々から離れないでくださいよ。気を緩めばやられますからね!」と現場は緊張感に包まれていた。

空援隊の倉田さん

 学校裏にある海岸の洞穴に入ってみたらそこにご遺骨を発見。倉田さんは「野口さん、ご遺骨の多くは海が見渡せるところから発見されるんです。米軍やフィリピンゲリラに追われ洞窟に逃げ込んだのでしょうが、やっぱり海の近くなんですよ。仲間の舟が助けに来ないかと最後まで諦めなかったんですよ」と。私もしばらくその洞窟から海を眺めていた。同じ景色を眺めながら少しでもなにかを感じたかった。自分がなにを求めているのか分からないままに。この日は19体のご遺骨を確認した。

 3月19日、ネグロス島へ。ドミンゴ・サラッパさん(81歳)が「私は抗日ゲリラとして日本兵と戦ってきた。この洞窟のあたりでは3人の日本兵が死亡した」と、彼の証言した辺りから数体のご遺骨を発見。遺骨調査に欠かせないのが戦争体験者からの情報。したがって残された時間はあまりない。午後は山の上の方にご遺骨があるとの情報を得てバイク13台を借りボディーガードが運転し我々が後ろにまたがって目的地に向かった。特に山賊が多い山間部ではスピーディに移動しなければ危ない。悪路を走り続け、なんとか目的地についたが、倉田さんが「野口さん、この遺骨は子どもだね。10歳くらいかな。つまり日本兵じゃないな」と、提供された情報を元に苦労して現場入りしてみても日本兵のご遺骨とは限らない。しかし、諦めずにコツコツと調査を続けなければならない。


一体でも多く見つけたい

数百体にのぼるご遺骨

 午後、ネグロス島での調査を終えセブ島に戻る。再び丘の上にある洞窟を目指して登る。この洞窟の近くに日本軍の基地があったとか。薄暗い洞窟に入ってその目にした凄まじい光景に思わず悲鳴を上げてしまった。地面は足場のないほど一面にバラバラに飛び散ったご遺骨。長年、遺骨収集活動に関わってきた泉ケンタ先生は「少なくみても200体はある。これだけご遺骨が細かく砕けているということは爆弾による自決の可能性が高い。近年でこれだけ多くのご遺骨を発見するのはレアケース」と話されていた。

 あまりのご遺骨の多さにしばし呆然。戦後60年、誰に発見されることもなくこの薄暗い洞窟に残されていたのかと思うと一分でも早く運び出したくなる思いに駆られたが、我々にはそれが許されない。洞窟を離れる時、ご遺骨に向かって「もう間もなく日本政府の収集団が来る。もう少しで日本に帰れます。もう少しの辛抱です」と申し訳ない気持ちで一杯だった。

 3月20日、セブ島の住宅街にイサベル・ラリンティさん(76歳)からのご連絡を頂きご自宅にお伺いしたが、自宅の庭の地中から6体のご遺骨が発見。イサベルさんは

「日本軍の占領時代に私の家は日本軍にとられていた。ここには通信施設があった。しかし、私は日本兵のオリガサさんと仲良くなった。いい人だったんだ。アメリカ軍機の機銃掃射に襲われこの辺りは日本兵の遺体がいくつも横たわっていた。我々は怖くて近づけなかったが、それからオリガサさんの姿を見ていない。ここに眠っているかもしれないから掘って入るんだよ。日本から調査団が来たと聞いて喜んでいる。やっと日本人が迎えに来てくれたんだよ」と私はそのイサブルさんの言葉に涙が出そうになった。占領されながらもオリガサさんとの友情から今でも掘り続けてくださっているイサブルさん。

イサベル・ラリンティさん

 今回の遺骨調査では少なくとも240体のご遺骨を確認、発見した。4泊3日と短い滞在期間では限界がある。足りない。倉田さんは二ヶ月に一度、二週間に渡ってフィリピンで遺骨調査を行っている。「大変じゃないですか?」と聞いてみたら「野口さん、そりゃきついよ。でもね、待っているんだ。みんな待っているんだ。早く日本に帰したい。それだけだよ、それだけなんだよ」と、私は倉田さんの言葉に返す言葉も見つからなかった。

 死ななければならないハードルがあれだけ低かったのに、遺骨になって帰国するハードルがなぜこれほどまでに高いのだろうか。遺骨が無事に祖国に戻るまではあの大戦は終わらないのだろうと、そして多くの日本人に遺骨の存在すら忘れられているこの現実に英霊たちはなにを感じているのだろうか。

 次回は二週間、倉田さんとどっぷりと調査を行いたい。2005年のヒマラヤから3年越しでやっと実現した遺骨調査。しかし、冒頭にも書いたように帰国してみてもまだボーとしているのか、自分の中でまだ受け止められていない。もう少し時間が必要です。次はレイテ島。年内にもう一度訪れたい。私の遺骨調査はまだ始まったばかり。