「台湾・高砂義勇隊を巡る旅 前編」
昨日から台湾に来ています。成田から飛行機に乗った瞬間、ホッと肩の力が抜けました。2泊3日の短い旅だけれど、日本を離れる事ができます。ちょっとだけ息抜きができます。
今回の旅のテーマは「高砂義勇隊」(ウィキペディア)。3年前からフィリピンなどで先の大戦で亡くなった日本将兵のご遺骨収集を行ってきましたが、日本の国は国のために戦い命を捧げてきた人たちに対してあまりにも冷たい、未だにあれだけのご遺骨がジャングルの中に野ざらしにされたまま、それを分かっていながらして、知っているにも関わらず無かった事にしてきた、あえて目を瞑ってきた日本という国の姿勢に、これはもはや怒りを越え胸にポカリと穴があいてしまったかのような虚脱感。これが自分たちの国の姿かと思えばなんとも情けなく寂しく空しい。
高砂義勇隊英霊記念碑にて
現場でそんな事を感じていましたが、では、当時、日本人として戦った台湾人なり朝鮮人はどのような扱いを受けて来たのか、ふと疑問になり、調べているうちに台湾の高砂義勇隊の存在を知りました。
「高砂義勇隊」とは台湾原住民により編成された日本軍の軍属。当時(占領時代)日本は数ある台湾原住民を「高砂族」と呼んだ。その1つにタイヤル族がある。
正式な数は把握されていないとの事ですが、数千人の原住民がフィリピンやニューギニア、つまり南方の地域に派兵され、その多くが帰ることはなかった。高砂義勇隊の多くは山間部に住む部族であり、話に聞くと普段から靴を履かなく山を歩いていたとか。靴を履かないで歩けば音が出にくい。それらに目をつけた日本軍部は高砂義勇隊を組織し、南方方面の激戦地に軍属として、また時に特殊部隊のような役割も含め派遣した。
1992年、タイヤル族の団体が鳥来(ウライ)温泉郷に「高砂義勇隊英霊記念碑」を建てた。記念碑の碑文には李登輝前総統の名前が彫られていた。
私はこの高砂義勇隊英霊記念碑にどうしても訪れたかった。何故ならば高砂義勇隊を含め多くの外国人(戦死した当時は日本人扱い)も日本軍に加わり、日本兵、日本軍軍属として戦死してきたにも関わらず戦後、日華平和条約により日本国籍のない台湾人を戦争被害者の補償対象から除外し、軍人、軍属に対する遺族年金、恩給、戦争中の未払いの給与などの支払いも一切行われなかった。
つまり戦後、台湾は独立し高砂義勇隊に参加した方々は日本人ではなくなった。日本政府の方針としては遺族年金などの補償は日本人に限るとし、日本人として戦い亡くなっていた高砂義勇隊隊員の遺族にも、また無事に生還を果たした本人にも補償しなかったとのこと。
今回案内してくれた野口剛さん
これが、この国の冷たさであり、ズルさだと私はしみじみと感じてしまう。戦後に独立し日本人ではなくなったかもしれないが、戦死した時は日本人として戦いそして死んだんだ。それを後から「日本人ではなくなったので補償はしません」で、本当にそれでいいのだろうか。1つしかない命を捧げるということがどういうことなのか、政治家や官僚の方々は真剣に考えた事があるのだろうか。
私はフィリピンで遺骨収集を行いながら、私が知らないだけでこの問題はさらに複雑であり、広範囲にまで広がっているのだろうと感じ、帰国後、調べているうちに高砂義勇隊の事を知りました。インターネットなどで調べはしましたが、実際に高砂義勇隊に参加した方々に本当の話を聞いてみたいと台湾行きを決定。
私を案内してくれたのが、野口剛。彼は三宿のお寿司屋・金多楼さんの若旦那で私の行きつけのお寿司屋さんですが、すでに剛さんは台湾入り6回目。以前から高砂義勇隊について思う事があり、毎年のように台湾に訪れては高砂義勇隊英霊記念碑に献花されてこられた。私とは一緒にフィリピンでの遺骨収集活動に参加したり、つまりはマインドに共通点が多く、よく日本でも互いに「ああだ、こうだ」と意見交換をおこなったりする私の大切な仲間ですが、その彼に「台湾を案内してほしい」とお願いし、実現しました。
台北市の地下鉄に乗って
詳しくは次回の原稿で書きますが、二泊三日の短い滞在となりますが、出来るだけ多くの方々から生のお話を聞かせて頂きたいと思っています。
飛行機からの富士山
偶然にも機内誌に自分の記事が・・・驚きました(全日空機内誌)
2010年2月25日 台湾、台北市にて 野口健
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