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「バングラディシュ滞在記その2〜もし川が許してくれるのならばここで生きていきたい〜」


3度目のハシャリ村へ。至る所で道路が寸断されているために船に乗り換えてハシャリ村へ。途中、船からの景色が以前より増して洪水(浸食)の被害が深刻なのを物語っていた。至る所で村人が浸食を防ごうと川岸に無数の竹を打ち込みそこに砂が入った袋を引き締めていた。船の上から作業している村人に状況を聞くと「この一週間で20メートル以上も削られた。もういくつもの家が流された。雨が降っていないのに突然、水が増え毎日、土地が削られていく。神様、私たちはもう終わりです」と悲鳴に近かった。中には傾いている家、また流される前に自らが家を解体し移築しようとしている家、様々であるが、待ったなしの状況であり我々としては声を掛けづらいのだが、目が合うと逆に相手から一生懸命話しかけてくる。

寸断された道路

 
広いガンジス川

この船でハシャリ村に向かう

川岸の浸食から土地を守ろうと

日々削られていくので時間との戦い

すでに傾き始めている家 

そのような状況が一か所や二カ所ではない。我々のガイドのアラムシャヘさんは「野口さん、彼らは土地を失うと全てを失う事になるのです。帰る場所がなくなるのです。生活が変わっちゃうのです。あそこの家の人はもうすぐで家が流されちゃうけれど、あの人はサウジアラビアにずっと出稼ぎにいって土地を買って家を建てたのです。でももう間もなく全てを失ってしまう。補償はありませんからね」と。

逃れてきた避難民

 2年前にも感じていた事ですが、この現場の深刻さは来なければ伝わらない。私も平賀カメラマンも呆然としながら彼らが独自で行っている護岸工事を眺めていた。あの程度の竹と砂袋ではそう何日ももたないだろうと思いながらも、ただ黙って自分の土地、家が流されていくのを見ているよりも、最後の抵抗として何かしなければならない動機に駆られるのもまた当然でありましょう。自然とは時に容赦ない。

急ピッチで進められている護岸工事

避難するために解体を初めて家

土地を失った人たちの難民キャンプ

 船がハシャリ村に近づいたが、アラムさんに「野口さん、あれがハシャリ村です」と指さされてもまったく原形をとどめていないのでピンとこない。以前は出っ張った地形をしていたのが、今では逆に窪んでいる。そして2年前は船をつけるときにえぐれた土壁のような、崖のような地形の所に船を横付けし、そこに長い板をはしごのようにして、その上を歩いて上陸したが、今では平たくなっており表面にコンクリートのブロックがビッシリと張られていた。

「これがハシャリ?」
2年前も3年前のハシャリと比較し、たかだか一年でここまで浸食してしまったのかと驚いたけれどその比ではなかった。

原型をとどめていないハシャリ村

コンクリートブロックが敷かれた河岸

2年ぶりにハシャリ村に上陸して

村人から被害状況を聞く

 上陸し商店街の薬屋さんのシャントヌボシュさん(36歳)に話を聞いたら「ハシャリはこの7〜8年で2・5キロ浸食した。スピードが年々速くなり、この3年で1キロ以上だ。
この3年間で300〜400件の家が流された」

「ただ、昨年からこの地域出身の情報大臣が政府の協力で初めてコンクリートの工事をしてくれたんだ。私が知っている限り、この辺ではハシャリだけが政府から協力してもらっている。浸食は一応止まったけれど、コンクリートの壁が壊れたらまた浸食が始まる。不安だ」と声を上げていた。

そして気になっていたのがハシャリ・バナリ高等学校だ。 過去に2度訪れたバナリ高等学校。2007年に訪れた時は川から上陸してすぐの所にあった。2008年、二度目の訪問時は既に流され土地ごと消失。そして上陸地から300M以上も奥の土地にバラックと姿を変えた校舎があった。「バナリ高等学校はもっと奥だっけ?」とシャントヌボシュさんに尋ねたら「いや、すぐそこだよ」と指を指した。

以前訪れた学校を探して

この学校も間もなく5回目の移動を行う

これには心底驚いた。何故ならばバナリ高等学校が上陸地点からそれこそすぐ目の前にあったからだ。この2年間で300Mは河岸が浸食し川と学校が目と鼻の先になっていたのだ。

学校と川を交互に見ながら、被害状況が分かりやすいと言えば分かりやすいのだが、なんと言えばいいのか、つまり分かりやす過ぎて言葉を失ってしまった。今までも2度、ハシャリ村に訪れ、村人には何度も話を聞き、自身の目で見てきたつもりだけれども、2年のブランクの大きさを改めて感じた。たかだか2年かもしれないがされど2年。私にとってこの2年はあっと言う間であったかもしれないが、彼らからしたらとてつもなく酷な2年であったに違いない。

「ハァー」と溜め息しかでない。平賀カメラマンがビデオカメラを向けてくるので一生懸命言葉を探すのだけれどもどの言葉も空しい。表現が追い付かない。やはり「ハァー」と溜め息がでる。

もう間もなくであろう

学校の近くと歩いていたら髭を立派に蓄えたサダムフセイン似の男性が「ここにはめったに外国人は来ない。あなた方は前にも来てくれたね。ぜひ、家に上がってくれませんか?」と招待を受けた。
彼の名前はドゥラルシェィクさん(55歳)。20年前に初めて家を流されてから既に5回目。昔はこの辺りでも資産家であったが、今では学校の近くに土地を借り一族、バラックで生活しているが、ドゥラルシェィクさんは「まだ私たちはこの村に住めているから幸せだ。家を失ったほとんどの人がバラバラになっている。ダッカに出稼ぎに行ったまま帰ってこない人が多い。何故ならばここには彼らの帰るべき家がないんだよ」。

ドゥラルシェィクさん

 

彼の息子のシャキール君(12歳)は「友達がバラバラになってしまった。いなくなった友達に会いたい。どこに行ってしまったかも分からない。とても悲しいです。これから先、僕たちもどうなってしまうのか分からないけれど、もし川が許してくれるのならばこのままここで生きていきたい。それが僕の望みです」

「川が許してくれるのならば」この言葉はズシリと重たかった。時に恥ずかしそうにはにかむ12歳の少年だが、別れてしまった友達の話をする時の彼の目は無邪気な少年の目ではなくなっていた。彼もまた多くを背負って生きているのだ。

別れた友達に会いたい」とシャキール君

2時間半ほどの滞在であったが、帰りの船、ガクッと疲れ果て倒れ込むように寝てしまった。猛烈な暑さ、湿度も影響したのでしょう。しかし、それ以上にあの厳しい状況におかれた村人の声は聞いているだけでも辛く、それがなによりも私たちをグッタリさせたのだろう。時に現実は映画以上に酷である。そして途方もない。何からどうすればいいのか。やはり途方に暮れてしまう。

ヒマラヤから来た我々にはとにかく暑い

移動中、バタンキューの平賀カメラマン。お互いに疲れがピークに。

3度目のハシャリ村は我々に強烈なインパクトを与えた。この現場の空気をどうすれば伝える事が出来るのだろうか?私には分からない。

2010年5月1日 ダッカにて 野口健

2007年7月5日〜9日 バングラデシュ・首都ダッカを訪問 前編
バングラデシュ・首都ダッカを訪問 後編
2008年5月23日変わり果てたハシャリ村 〜バングラデシュ・洪水と生きる人々〜
動く島・ハティア 〜バングラディシュ 洪水と共に生きる人々〜