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「野口健・寝袋支援プロジェクト」
〜陸前高田市へ寝袋を届けて〜

 

3月23日、被災地の1つである陸前高田市の広田小学校に救援物資(寝袋440個・寝袋インナー100枚・マット100枚・テント50張り・食糧ダンボール4箱・下着ダンボール2箱・タバコ2カートン)を届けた。3月22日、まず東京から長野県小諸市へ。東北道は救援車両以外は通行不可ということで小諸市が手配した救援車両(10トントラック1台・4トントラック1台)に我々の救援物資を積み込み現地へと向かった。10トラックは小諸市民の方々が寄付した衣服・日用雑貨など。4トントラックは我々が集めた寝袋など。

テレビ映像で何度も見てきた被災地の様子ですが、実際に現場に訪れてみると・・・言葉が見つからなかった。被災地を覆っていたのが腐敗臭。海から打ち上げられた魚の臭いもあるだろし、瓦礫の下に埋もれたままの被害者も含まれているのだろう。実際に我々が訪れた時も瓦礫の下から遺体が発見されていた。白黒写真で見てきた東京大空襲、原爆が投下された後の広島・長崎の光景と重なった。

映像で見るのと、現場に訪れ自分の目で見るのとでは世界がまるで違う。「陸前高田市・死亡916人・行方不明1400人・7〜8割の世帯が水没・1万3千人が避難」。これはあくまでも数字の世界だ。いつでもそうですが現場の世界は、数字の世界では感じられない生々しさがある。リアルに残酷で、目を塞ぎたくてもそれが容赦なく現実であるという事実を突き付けられてしまう。そしてその現実からは逃れられなくなる。見るということは知ること、知るということは同時に背負うこと。それが現場の世界なのだろう。

多くの犠牲者を出した巨大津波ですが、あの壊滅的に破壊された陸前高田市の現場に立って感じたことは「これでよく助かった人がいたものだ」であった。

地震直後に高台へと避難した人々。それは日常的に津波に対する警戒感があったからなのだろう。津波から逃れようと道は避難する方々の車によって渋滞になっていたとも。その渋滞の列に容赦なく津波が襲ったと聞いた。完全に折れ曲がった車や破壊されたコンクリートの建物が津波の破壊力を物語っていた。これだけの巨大津波を一体誰が予想しただろうか。三陸地域は津波対策にあらゆる努力を行ってきた地域だ。決して無防備であったわけではない。

しかし時に自然は人間の想像力をいとも簡単に越えてしまうことがある。今回の震災はまさにそうだろう。今ここで誰を責めてみたところで意味はない。東京電力だってそうだろう。被災の現場で感じた事は誰の責任でもない。地震大国日本が抱えた運命なのかもしれないと。


避難所となった広田小学校に救援物資を運んだものの、勿論まだまだ足りていない事も分かっている。砂漠に一滴の水滴を垂らす様なものだろう。私の元には「広田小学校の避難所も着替えの下着もなく寒さに震えております。なんとか寝袋を届けていただきたい」「お願いします。福島県に、いわき市や相馬市にその寝袋を運んでください!!!避難所で凍死者や餓死者が出ているんです」といった現場からの悲鳴が連日届いている。

無力感に襲われメールを確認するのが怖くなることもある。それでも知らなかった地名から次から次へと寄せられるメールを目にする度に、何処にあるのかと地図とにらめっこ。故に私の枕元にも地図がある。しかし地図があっても道路状況までは分からない。届けることが出来るのか出来ないのか。分からない事だらけ。そしてまた途方に暮れる

しかし、ツイッターに寄せられる情報によって1つ1つ見えてこない部分が見え始める。そう、悩んでいる場合ではないのだ。被災者のおかれた状況を思えば我々が落ち込んでいる場合ではないのだ。悩んでいる時間があれば今すぐに出来ることを探したほうがいい。国も行政も含めみんながパンク状態。情報を待つよりも自分から探し出さないと、そしてアクションを起こさないといけないと、自身に言い聞かせながらの日々でした。

被災現場で一人の男性を出会った。70代の男性は写真を片手に「この辺りで母さん(奥さん)が流されたのか。自宅は20キロ先なんだけれど、母さんはヘルパーでここにいた。一人なら避難できたかもしれないけれど、年寄りが一緒だったから逃げられなかったんだろう。すぐ横に高台があったのに。ヘルパーだから一人では逃げられなかったんだろう。母さん探して歩いているんだ」と奥さんを探している男性は淡々と冷静に私たちに話すのだけれど、その姿が逆にとても辛かった。そして話している内に涙をポロポロと流しているのだけれど、それでも感情を押し殺したまま、最後まで表情は崩れなかった。

怒りや悲しみの感情を爆発させない東北の方々。この姿に世界中のメディアが「日本人は我慢強い」「理性的だ」と報じていたけれど、感情を押し殺してしまえば、その苦しみや怒りが表に向かわずに、己に刃となって襲いかかってしまわないのかと、私はむしろその事の方が心配になった。

報道で家をなくした40代の女性の言葉が紹介されていた。

「私達は他人の幸せや喜びをねたむほど落ちぶれていない。皆さんどうぞ我慢せず楽しい時は笑い嬉しい時は喜んでください。私達も一日も早く皆さんに追いつきます」

私が彼女と同じ立場になった時に果たして同じ言葉が出るのだろうか。

 

この5年間、戦没者の遺骨収集を行ってきたが、あの現場で感じる空気と共通点がある。東京に戻る車内の中でそれは何だろうと考えていましたが、それは失われた命であり、無理やり肉親から引き裂かれた命であり、また自分の元に取り戻したいと願う遺族の気持ちであり、命の切なさ、尊さなのかもしれない。

私が訪れた陸前高田市以外にも同じような被害を受けた街がいくつもあるのだ。元に戻るまでは果てしない道のりが待っている。5年や10年ではないはず。

もし一滴の希望があるとするのならば、今はその一滴の希望を大切に温め、少しずつ、少しずつ、膨らませていくことが何よりも大事なのだろう。確かに道のりは遥か彼方まで続くが諦めてしまったら終わる。

日本中のみんなが覚悟を決め、腹を括って一丸となって取り組めば何とかなる。

仮にもし日本中のみんなが覚悟を決められず、腹も括れず、そして何1つの取り組みも行われなければ、山陸地方含む東日本全体の真の復興はない。そしてそれは日本全国にも大きな影響を及ぼすだろう。我々は運命共同体なのだ。小さな事でもみんなが一歩一歩、コツコツと力を合わせれば,とてつもなく大きなエネルギーとなる。それこそ1億2000万人の底力だ。

来週、再び被災地へと向かうことになりますが、それまでに何が出来るのか、今はやるしかない。

2011年3月28日 野口健