2002年7月アーカイブ

 

田中さん達と 田中さんから熱心な説明をいただきました

 エベレストから戻ったばかりだったか、僕のホームページの掲示板(カキコミひろば)に「ふじみ湖」という聞いた事もない名の湖の話題が展開された。茨城県、笠間市にあるふじみ湖の水を抜き、そこに産業廃棄物の公共処分所が建設される。そこで、ふじみ湖を守ろうと、地元住民が立ち上がった。採石場の跡地がそのまま放置され、そこに湧き水が湧き出し、いつの間にか美しい湖に湿地帯が形成された。そして地域住民に名づけられたのが「ふじみ湖」。1日100トン以上の水が湧き出すこの場所を茨城県は湖と認めず「水溜り」とし、湧き水も否定している。

 地域住民の一人、田中宏さんが「美しいふじみ湖を一度見に来てください。」と僕のホームページに書き込んだのがそもそもの出発点。僕は7月6日、ふじみ湖に向かった。カキコミ仲間達が何度かふじみ湖ツアーを企画し現地に訪れていた。その度に「信じられないくらい美しい」「心が癒された」「ふじみ湖を眺めていたら涙が出た」「エメラルドグリーンの湖」などの意見が寄せられていた。アフガニスタンから戻ったばかりの僕は「水」に飢えていた。それだけにエメラルドグリーンの美しい湖と聞かされて胸がときめいた。ふじみ湖手前で田中宏さんと合流。ふじみ湖が一望できる高台からふじみ湖を見た瞬間、思わずはっとさせられた。いつだったか幼年時代に父に連れて行かれたノルウェーで目にしたエメラルドグリーンの湖と同じ色だ。子供ながらにノルウェーで見たエメラルドグリーンの湖は衝撃的だった。今まさに目の前に展開するふじみ湖は幼年時代から忘れられなかった、憧れの湖。湧き水でできた湖水はスッカーンと底まで透けて見えた。一度人の手で破壊された自然がたかだか10数年で、形を変え、湖として復活した。そこには命が生まれた。湖畔にはトンボが飛び、湖には魚の姿が見えた。自然の回復能力の凄さに驚いた。生き返ったふじみ湖に再び人間の脅威が襲いかかろうとしている。今年10月から廃棄物の最終処分場建設が、このふじみ湖で始まろうとしているからだ。確かに、廃棄物の最終処分場は必要だ。しかし、何故、ここなんだ!湧き水が溢れるこの美しい湖、ましてや水源地とされているこの場所にどうして?僕にはまったく理解できない。

 皮肉な事に建設されようとしている廃棄物処理施設の名は「エコフロンティアかさま」。茨城県のホームページには「自然との調和を図りながら、最新の技術を導入して、安全性を最優先に全国のモデルとなる施設を目指す・・・。

 また、環境教育に関する見学、研修機能、自然保全の普及啓発の役割なども兼ね備えた先導的施設」と書いてあるが、これまた自然保護という名目の乱用、いや悪用ではないか。ふじみ湖に来ていた地元の中学生達に「このふじみ湖が廃棄物で埋められてしまいそうだけれど、どう思う」と聞いたら「すごく悲しい」「ゴミに埋められてしまうのは嫌。残してほしい」「ふじみ湖は私の好きな所。失いたくない」と答えていた。湖をゴミで埋め尽くすことが、環境教育になるという茨城県の発想は、はなはだ理解できない。環境教育どころか子供達を失望させるだけだろうに・・・。

 来年3月、日本で「水環境フォーラム」が行われる。世界中が「水」をテーマにどのように「水」を守り確保していくのか、真剣に取り組まれようとしているこの時代に議長国でもある日本で美しい湧水でできたこの湖を殺していいのだろうか。ふじみ湖を眺めながら僕は抑えがたい怒りや、社会の矛盾、哀れさを感じていた。そしてアフガニスタンで水が無い為に死につづけている子供達を思いだし、日本はどこかが狂っていると嘆いた。

 そしてテレビ報道でふじみ湖問題を放送していたが、地域住民への笠間市長や茨城県職員の傲慢な態度は凄かった。廃棄物処理施設を作るには300メートル以内に住む住民の同意が必要だとの県の規則がある。しかし、テレビ報道によれば事前にほとんど地域住民には知らせれていないままに決定したという。笠間市長の地域住民への説明会の様子を住民側がこっそりと撮影した映像がテレビで紹介された。事前に知らされていなかったと、指摘する住民に笠間市長はハッキリとこう言い放った。
「どこに作ろうと、賛成する人はいないでしょう。先に説明しても何をしても反対しか出てこない事も事実ですよ。そうでしょう!そしてら先に決定するしか・・・」
と言いかけて住民側から
「それじゃ、先に決定したという事か」と抗議され、映像はそこで途切れた。住民の同意があって決定されるべきルールが逆に決定があって後から同意させるというのが笠間市長の政治理念。お上に逆らうなと言わんばかりの勢いだった。

 マスコミがふじみ湖に関わる取材依頼をした際に、県職員から
「各マスコミには取材を配慮して頂いています」
との返答に、誰の為の政治や行政なのか!あなた方には説明責任があるだろう!と怒りを抑える自信がなくなった。過去にもこのような不幸な経緯を得て誰にも知らされずして殺されていった自然がどれだけあったのだろうか、そしてこのままその流れが続いていいのだろうか。たかだか小さな湖の問題と受け取る人もいるだろう。しかし、この小さな湖を取り巻く環境から僕は日本の政治家や行政側の自然環境に対する意識の度合いが見えてくる。

 そもそも政治家とは一体なんなのか。単なる職業でしかないのか。いや、政治家が職業であっていいのだろうか。国を変えたい、日本を美しい国にしたい、人が人として健康に過ごせる社会を目指したい、という哲学よりも、どうやら選挙に当選したいという欲ばかりの政治家が目につく。日本にいると何が正しくて何が正しくないのか、もうよく分からなくなってしまいそうだ。地方の県会議員、市会町会議員の多くが、己の利益のみに執着する輩に囲まれ、いつの間にか自身までもが伝染してしまっている。ふじみ湖がどのようにして廃棄物処理施設の場に決められたのかは分からないが、どうもきな臭い。僕には匂ってくるんだな~。

 このふじみ湖問題で、僕に何が出来るのか分からない。しかし、このまま何事もなかったように、その存在すら否定されたままふじみ湖が殺されてしまえば、これは取り返しのつかない不幸だ。そして時代錯誤の行政や政治に全てを任せてはいけないと、我々が立ち上がらなければならない時期がきているんじゃないだろうか。お上の言いなりになる時代からの脱皮。ふじみ湖は新たなテーマを我々に示しているのではないだろうか。

 

参考ホームページ
茨城県生活環境部廃棄物対策課

 

 


 6月22日、我々取材班はアフガニスタン第二の都市ヘラートに到着。へラートで最も快適とされているホテルにチェックインしたが、もちろんクーラなどない。裸電球がぶら下がっているだけの薄汚いその部屋の中にいるだけで汗が滴り垂れる。パンツ一枚で床に着いたが全身からはジトーと汗が流れる。窓を開けようと思いもしたが、夜の町は小石が吹き飛ぶほどの大風。そして真っ暗闇の路地裏から、助けを求める声なのか、悲鳴なのか、ときたま叫び声が聞こえてくる。風に吹き上げられた砂埃で夜空の月光もぼんやりとくすんでいる。ここはアフガニスタン。充分すぎるはど地の果てにやってきたことを実感していた。

 翌朝、へラートから車で一時間ほどウズベキスタン国境方面に向けて車で走った。我々が向かったのはカマール・カロック村。アフガニスタン入りした我々が目にしたのは干からびた川の周辺に点在している村々。カマール・カロック村も2本の川が交差した中州の部分にあるのだが、今ではその川も干上がっている。カマール村に着い我々にカマール村長が村の状況を話してくれた。
「5年前まではこの川は水で溢れていた。この辺り一面芝生が生えていた。そこには畑もあったんだ」
と指を差す先は完全に砂漠と化した砂地であった。そして次に村長が我々を案内したのが干上がった井戸。村の至る所に井戸を掘っている形跡があるが、しかし5年前までたっぷりあった水がいくら掘っても出てこないという。井戸の底に土色に濁った水がかすかに残る。その限られた泥水をすすりながら細々と生きているカマール・カロックの村人。
「いつからか山に雪が降らなくなったんだ。そして川の水が枯れたんだ。井戸もね・・・」
「この半年で子供達が16人、死んだ。我々はどこに行くこともできない。ここで死を待つだけだ」
「お金がなくても生きていけるけれど、水がなければ生きていけない」
「なにが一番怖いですか?」
と質問すれば、やはり
「このまま川に水が戻らない事だ」
と遠くを眺めた後に
「もうここには何もないよ」
とポツリと呟いていた。
 そして村長は村はずれの高台に我々を案内してくれた。カマール村を一望できるその高台は墓場であった。遺体の上に砂利を被せるだけの簡単な墓だから体の大きさが分かる。その大半が一歳前後の子供達だろう。小さな小さな墓が無数あった。川の水が干上がってから子供や老人達が赤痢やコレラに犯され死に続けているのだ。

 その午後、次に我々が向かったのはマセラック難民キャンプ。難民キャンプに到着し歩き始めたら難民キャンプの子供達が我々を囲みつかみかかってくる勢いで、その人数たるやもう僕も身動きが取れなくなるほどで、現地スタッフもこれは危ないと判断し、車の方へ非難。慌てて車に乗り込みいったんその場を離れたが、離れていく車に子供達がいつまでも走りながら追いかけてくる。その表情は笑ってはいるものの、眼光は飢えてる狼のようなきつさがあった。その光景からは悲惨な難民キャンプの現状が窺えた。再び、マセラック難民キャンプに近づき、難民の方々の声を聞いた。アフガニスタンのあちらこちらから集まったマセラック難民キャンプ。多い時には数百万人いたそうだ。その大半が戦争難民ではなく、生態難民であった。温暖化の影響とされている旱魃の被害で自分らの村を捨てて逃げてきたのだが、このマセラック難民キャンプでも水は充分にない。
「この難民キャンプでは毎月80~100人の子供達が死んでいるんだ!」
「世界は我々を見捨てたのか!」
と我々に強く抗議する男性。どの人に聞いても5~6年前から川の水が干上がったと指摘する。地球温暖化の影響がこうして幼い子供達の命を奪いつづけている。

 日本で生活している我々には地球温暖化という言葉をよく耳にするが、しかし、五感で温暖化を感じているだろうか?そしてどれだけ危機感を抱いているのだろうか?先進国が生産と浪費に明け暮れながら栄えている間にそのしわ寄せがアフガニスタンの人々の命を奪っているとすれば、これは我々先進国の責任は極めて重大だ。アフガニスタンの人々の犠牲の上に我々の発展があるのかと思ったら、どのように死に行く子供達に声をかけていいのか分からなかった。死を直前にした弱り果てた子供を抱えながら僕に悲惨な現状を訴える父親に自分の無力さを痛感した。我々にとって環境問題は被害者でありながら一方では加害者なのだ。加害者という事を自覚しながら自身の生活スタイルを考えていかなければならない。

 アフガニスタンから帰国した三日後に今度は氷河の後退を調査する為にスイスに向かった。機内の中で危険なアフガニスタンの旅を振り返っていた。この混乱したタイミングでアフガニスタン行きは正直、正しい判断であったのか最後の最後まで大きな疑問を抱いていた。

 GOという判断が出された以上はやむを得ないと覚悟を決めたこの仕事。何事もなくアフガニスタンから戻れたのは、エベレストから無事に戻ったのと同じくらい嬉しかったい。いやそれ以上だったかもしれない。しかし、僕はもう一度アフガニスタンに行きたい。この目でもっともっと現地に住む人々の姿を見たい。日本も明日は我が身だと、危機感のない日本社会に地獄と化したアフガニスタンの現象を伝えていきたい。

 

子供達の墓 老人と話す僕

 

ウズベキスタンの首都タシケントの市場にて

美しかった(!?)女性 砂漠に落ちていく夕日。きれいだったな~

 「健ちゃん、6月中旬にアフガニスタンにいくことになったよ」
「えっ!アフガニスタン!なんでまた・・・」
「素敵な宇宙船地球号」の企画でアフガニスタンの旱魃(かんばつ)を取り上げるんですって。そこで健ちゃんにナビゲーターの依頼がありました。がんばってね」
「・・・」
僕は突然のアフガニスタン行きに驚いていた。何故ならば、このやり取りは、僕がエベレストのベースキャンプから衛生電話で事務所に連絡を入れた際に突然聞かされたからだ。エベレストの雪空を眺めながら、アフガニスタンの旱魃を想像してみたが、ピンとくるはずもない。

 エベレストから帰国後、テレビ朝日で打ち合わせが行われた。8月から5週連続で世界各地で引き起こされている温暖化の現象や、このまま温暖化が進めば地球の未来はどうなってしまうのか、をテーマに追っていくこととなった。「晴れたらいいね」で富士山に登頂した翌日早朝、僕はウズベキスタンに向けて日本を発った。
「カブール以外の地方は治安の悪化とともに国連職員は撤退」
「カイザル氏が大統領に選ばれてから民族同士の対立激化」
などアフガニスタン関連ニュースはろくなのがない。機内のなかで
「どうして僕はこうも危険な場所ばっかりにいくのだろうか・・・」
と途方にくれていた。

 まずは、ウズベキスタンの首都タシケントにいく。タシケントは僕の予想とは全く違い人々の表情もラテン気質でいて実に開放的な雰囲気だ。町の作りもチリやアルゼンチンの田舎町を思い出させる。最も驚いたのが町を歩いている女性達の美しさ。世界中旅してきたが、この国ほど美しい女性が多い国を僕は知らない。日本にいれば間違いなくモデルと思われる女性達がわんさかいる。僕と、日本から一緒に来ているテレビ局のスタッフは思わず見とれてしまった。アフガニスタン前に目の保養ができた。ウズベキスタンからトルクメニスタンを陸路で通過し、アフガニスタンの国境を越え、ヘラート(アフガニスタン第二の都市)に向かう。ヘラート周辺の村や難民キャンプを訪れながら、砂漠化した経緯や被害を調べることとなった。タシケントからブハラまで空路で、ブハラからヘラートまで陸路でざっと1150キロ。移動だけで困難を極めた。2つの国境越えがあるのだが、国境の度に厳重なチェックを受け、国境を越えるのに5時間以上は費やす。ゲートが占められたままの国境で、じっと許可がでるまで待つ。車内の温度は48度。あまりの暑さに絶えかねて、我々が乗りつけたミニバンの限られた日陰に身を寄せ合った。ミネラルウォータがいつの間にかお湯と化し、ウズベキスタンで買い込んだサラミとパン、そして道路脇の川に袋に詰めたビールをロープに結び投げ込みなんとなく冷やしてから些細な食事が始まった。辺りは砂漠化した高原。
「ここでは予定通り事が進むわけがない」
と、半分諦めモード。フライパンのように熱を発する道路にしゃがみこみ、
「なんで俺はここにいるんだ~」
と疑問を感じていた。そんな時に我々を救ったのが真っ赤な夕日だった。砂漠に落ちていく陽の光はなんとも寂しげで、それでいて何故かホッと心が和むような、不思議な世界だった。 

 ウズベキスタンからトルクメニスタン入りを果たし、アフガニスタンの国境に近づくにつれ空気が緊張していく。そういえば、ウズベキスタンで現地の通訳のスタッフがなかなか決まらなかった。
「この時期にアフガニスタンにいくのはリスクがありすぎる」
「親に反対され行けません」
「結婚を控えていますから、やはり、危ない所は・・・」
と何人かに断られていたのだ。その意味がアフガニスタンの国境に近づいた時に分かった気がした。アフガニスタンの国境越えも大変だった。銃を構えた兵士にほったて小屋に連れていかれペルシャ語でなにやら騒いでいる。何を言っているのか意味不明。荷物もパンツまで一枚一枚広げて隅々までチェックする。彼らがいつ盗賊に変貌するかという不気味な恐怖を感じながら時間だけが過ぎていった。それにしても彼らのひげは濃すぎる。まるで羊の毛のようなフワフワとしたひげが密集している。
「そのひげは、暑くないのか」
とジェスチャで聞いたら
「これがアフガニスタンスタイルだ!」
との返事。あまり質問に答えていないような気もしたが・・・。残念なことに我々がウズベキスタンから持ち込んだビール、ウオッカは全て没収された。当たり前といえば当たり前だけれど、あ~無念。アフガニスタンの国境からヘラートまでの道のりはそれまでのトルクメニスタンとはうって変わって戦車の残骸や建物の壁には銃痕の後が至る所で目に付いた。人々の表情も眼光がきつくなり、ギラついている。大地の乾きもよりいっそう厳しくなり、川があったと思われる跡が干からびていて今ではジープの通り道となっている。これはただ事じゃない、僕の直感が久々に騒ぎ出した。これからどうなるんだろうか、不安と冒険心が僕を興奮させていた。  つづく

 


ここ(1合目?)から富士山に登る
新緑の木々におおわれた登山道
登山道に落ちていた便器。これはトイレではありません!!
独立峰 富士山の夕日。きれいだな~
頂上で記念撮影
下山中に集められたゴミ
今回の撮影スタッフと集合写真。お疲れさまでした

 エベレストから帰国したものの、連日休む暇もなく、目まぐるしい日々が続いた。わずかにあった休みには九十九里浜の白子にある「太陽の里」という温泉で、ボケーと過ごした。寒さに震えながら過ごしたエベレストが夢のように感じられた。そして洗い場の鏡に映った自分の体に驚いた。全身の筋肉が落ちまくっている。特に腰や背筋、モモの当たりがなんとも貧弱で頼りなさげであった。サクラの散歩で家の周りを歩いていても息切れし、ばててしまう。相変わらずお腹の調子は良くなく下し気味・・・。そんな僕には不安があった。

 それは6月にフジテレビの「晴れたらいいね」の取材でふたたび大坪千夏さんと富士山に登ることになっていたからだ。昨年の秋には彼女と雪が積もる八ヶ岳に登り、春には再び彼女と屋久島の山々を縦走した。毎日8時間以上歩かなければならないハードなコースだ。それでも、彼女はへこたれなかった。それどころか山道の歩き方をマスターしたのか短期間で驚くほどに違和感なく不安定な足場をスタスタと歩くようになっていた。そしていつでもにこやかに楽しそうだ。

 温泉の洗い場で貧弱になった自分の体を眺めながら、富士登山を思うと
「大坪千夏さんのスピードについていけるかな~」
と心配になった。

  取材の日、下吉田の駅で大坪千夏アナ、そして新たに参加する渡辺和洋アナと合流。一合目?となる浅間神社から歩き始めた。驚いたことに、森林に囲まれた気持ちのいい登山道を歩いていたら捨てられた便器がすぐ脇に転がっていた。そして山小屋の工事の時に使われていたのかパイプ管などの工事道具がいたる所に無造作に捨てられていた。ゴミの中にテレビまであったのだからいやはや・・・。 5合目の佐藤小屋に着いたのは午後4時過ぎ。この頃から風が強まり、山頂の方から「ゴゥオー」と不気味な風のうなりが聞こえてくる。佐藤小屋の食事は凄かった。なんと鴨鍋!ビールで乾杯し、幸せ一杯。午前0時30分に起床したが、台風が近づいてきたのか山小屋の表は嵐になっていた。風の強さは真っ直ぐ歩けないほどで、雨は横殴り。大坪千夏さんと話し合った結果、今回のアタックは中止!残念だけれど、この天候でアタックを続行するのは無謀だ。おそらく山頂付近では風で小石が飛ばされているに違いない。体力的に自身のなかった僕には恵みの嵐だった。

 6月23日、前日まで韓国にいた僕は再び富士山の5合目にいた。先週とはその姿を変え、カラッと晴れていた。翌朝、午前1時30分に佐藤小屋から山頂へアタック開始。真っ暗闇の中、黙々と歩く。五合目から1時間程歩いたのか、草木の生存が限界である標高まで登ってきた時に大坪千夏さんが
「ここが森林限界ですね!」
と突然草木がなくなりガレ場になった辺りを指差した。いつの間にか専門用語まで口にするようになっている。彼女のアウトドア熱は本物だ。そして、いつでもそうだが、彼女と山に登ると心がいやされる。どんなに疲れていてもその疲れがいつの間にかなくなっている。彼女の笑顔にこちらまで楽しい気持ちになる。彼女の暖かさがホッと安心させてくれるのかもしれない。だから僕は千夏さんと山に登るのが好きだ。とてもとても大切な大切な時間。 

 7合目辺りから温度が下がり佐藤小屋で12度あった温度も7度まで下がってきた。そして風の強さ。ただ、日の出は美しかった。富士山は独立峰。視界を阻む山々が回りにない。天候さえ良ければ伊豆半島まで見渡せる。ひたすら登りが続く富士登山では、この絶景で救われる。アタック開始から11時間、我々は富士山山頂の鳥居をくぐった。寒さでダウンジャケットまで着用。山頂は山小屋が並び、山頂から捨てられたゴミが眼下を覆っていた。夏になれば自動販売機がズラリと並び、人人人の渦。昨年8月は8合目から山頂まで渋滞で6時間ほどかかった。ゴミ、登山者の渋滞そしてジュースなどの自動販売機。何人もいた外国人登山者の目にはこの人工的な山、富士山はどのように映ったのだろうか・・・。山頂の山小屋を横目に火口へと向かった。山小屋の裏へ回ったら、突然、深くえぐられた火口が目に飛び込んできた。山頂までゴミばかり見てきた千夏さんは「アー 凄い!」と涙目になりながら感動してくれた。まだまだ、富士山には人を感動させる魅力がある。僕はそんな千夏さんの顔を見ていたら、この見慣れたはずの火口の迫力に感動していた。感動は新たな感動を呼ぶ。素晴らしい連鎖反応だ。下山中はゴミを拾った。ゴミ袋がすぐに一杯になったが、でも諦めてはいけない。僕はエベレストに散乱しているゴミにショックを受け、それから清掃登山を始めた。大切なのはショックを受けること。この富士山のゴミから日本の姿が見えてくる。変わりつつある日本人の環境に対する意識。富士山は日本人の環境意識に対するバロメータだ。必ずいつの日か世界に誇れる富士山にしたい。山頂で目を潤ませながら感動してくれた千夏さんの顔を眺めながら自分にはなにが出来るのか、そしてなにをするべきなのか、を考えていた。

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