2009年5月アーカイブ

「千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式」に参列して

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 5月25日、主にフィリピンなどで収集された戦没者のご遺骨1,406体が千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納骨された。この拝礼式にはどうしても参列したかった。登頂はならなかったもののヒマラヤ・マナスル峰から下山し拝礼式に間に合った事にホッと胸を撫で下ろす思いであった。

靖国神社にて参拝
靖国神社にて参拝

昨年から空援隊の一員となり、フィリピンで遺骨調査に加わるようになった。昨年までは厚労省等の許可を頂けず民間団体による「遺骨収集」は許されていなかった。灼熱地獄のジャングルをさ迷い必死の思いでご遺骨を発見してもどうにもすることができなかった。

三笠宮同妃両殿下による御拝礼

三笠宮同妃両殿下による御拝礼

しかし、あれから一年、事態は大きく変わろうとしている。昨年11月、厚労省から「空援隊に関しては遺骨収集活動を認める」と条件付ではあるがお認め頂き、この3月、再びフィリピン(セブ島・レイテ島・ポロ島)に戻り、昨年までに発見していたご遺骨を収集し、念願であったご遺骨と共に帰国を果たした。

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この一年、ご遺骨のおかれた状況を主にメディアなどを通じ訴えてきました。多くの人々から「そんなことになっているとは知らなかった」とご連絡を頂いた。知ってもらうことからアクションを始めようと考えたわけですが、想像以上に反響があった。厚労省にも国民から様々な問合せがあったとも聞いています。

空援隊メンバー

空援隊メンバーと

そして政治家の先生方からも「これはなんとかしなければならない」と言葉のみならず、遺骨収集に関する議員立法を立ち上げ予算を付けようといった具体案まで持ち上がっている。この日も議員会館にて小島敏男先生、戸井田徹先生、中山泰秀先生、鈴木宗男先生、川田龍平先生、また防衛省では浜田防衛大臣とも意見交換を行った。

浜田防衛大臣と

浜田防衛大臣(中央)、空援隊理事の倉田宇山氏(右)と

浜田大臣と2


(浜田大臣には遺骨収集時にご遺骨と一緒に発見される旧日本軍の手榴弾などの不発弾の処理、また富士山山ろくに不法投棄されている廃棄物の回収作業に自衛隊のサポートを得られないものか相談させて頂きました)

川田龍平さんと

川田龍平さんと

この流れを止めたくない。その為にも我々、空援隊は絶えず現場から訴え続けていかなければならないが、現場は想像以上に過酷だ。私のヒマラヤ遠征中も空援隊のメンバーによって遺骨収集活動は続けられたが、メンバーの一人がゲリラ(山賊)に拘束された。自力で脱出し助かったがフィリピンでの遺骨収集活動は常にリスクが付きまとう。ゲリラ(山賊含む)、マラリア、コブラなど遺骨収集活動はまさに命がけだ。過酷きわまる環境下での活動だけに最後、墓苑に収まるご遺骨をしかと見届けたかった。

拝礼式で東條さんと再会

拝礼式で東條由布子さんと再会

この度、納骨されたご遺骨は1,406体。その内、空援隊が関わったのが1,230体。つまり昨年度に収集されたご遺骨の大半が空援隊によるものだ。今まで厚労相によって収集されてきたご遺骨は年平均600体。

今年度に入り(5月)空援隊が収集し帰国されたご遺骨は既に1260体。この半年だけでも2000体を越えている。「一NPO法人がここまで出来るのに今まで国は何をやってきたのか」といった声が沸きあがる中、我々としては、国との連携を強化し一緒になって取り組んでいきたいし、また厚労省、外務省にはもっと当事者意識を強めて頂きたい。
議員会館にて御遺骨収集団報告会が行われた

議員会館にて御遺骨収集団報告会が行われた

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この拝礼式に参列しながら「まだまだ多くの英霊が戦地で野ざらしにされたままだ。一刻も早く、一体でも多く、祖国に帰したい」と同士である倉田宇山氏と誓い合っていた。

2009年5月16日 野口健

千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式に出席(映像編)

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5月25日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて行われた、身元が分からない先の大戦の戦没者を慰霊する拝礼式に臨みました 。墓苑には身元不明で遺族に引き渡されない御遺骨が納められており 、昨年度フィリピンなどから持ち帰られた1406柱の御遺骨が新たに納められました。

帰国

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本日、ネパールより、野口隊一同、無事に帰国しました。
ご声援いただきました皆様、本当にありがとうございました。

精一杯もがきたい

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一ヶ月半の遠征を終えカトマンズに戻る日がやってきた。登頂していればなんとも清々しい凱旋帰国となるのだろうが、まあ~こればっかりは仕方がない。サマ村に下りてから晴天続きだ。上部の方は雪煙を噴き上げているので風が強いのであろうが、今となっては青空がとっても嫌味である。まあ~永い冒険人生、こんなこともあるさ。
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 それにしてもベースキャンプから下りてからサマ村での生活はまるで東京並みにバタバタと一息入れる間もないほど忙しかったがとても楽しかった。マナスルでは雪との格闘の日々であったが、こうしてサマ村で人々の営みに触れていると、あの日々の出来事がまるで夢の中のようで信じられない。まさしく「生と死」の世界のギャプである。この両方を行ったり来たり。これが私の人生なのかもしれない。
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チャーターヘリに乗り込み、上空からマナスルを眺めていたが、沸々と湧きあがる悔しさを抑えるに一苦労だった。客観的に見ればそう大きく判断を間違えたわけでもないだろうが、しかし、心がどこかで納得していない。つまり不完全燃焼なのである。もっとボロボロになるまで戦いたかった。慎重になりすぎたかなぁ~とも思う。しかし、死んでしまえば次がないわけで、ここが他のスポーツと決定的に異なる。

ビルバードル校長とのお別れ
ビルバードル校長とのお別れ

 慎重になればなるほど登頂率が下がり、生還率が上がる。無理をすればその分だけ登頂率が上がり生還率が下がる。その狭間を行ったり来たりするのがおそらく冒険人生であろう。どちらに重点をおくのか、その人の判断に委ねられるのだが、エベレスト登頂を目指していた学生の頃と比べれば「えいや!」といった勢い、つまり攻撃的な側面が抑えられているような気がする。
学校の子ども達と

学校の子ども達と
 
 無理をしなければ8000M級の山には登れない。しかし本当に無理をしきってしまうと命を落としてしまう。そのバランスであろうが、極限状態でバランス感覚を保つことは極めて難しい。最終的には自身の勘によって判断を下すのだが、それを信じるほかない。

「次だよ!次にちゃんと繋げればそれでいい」「いつまでも、くよくよするなよ!男だろ!」と自身を叱り飛ばしていた。
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 マナスル前に確かカトマンズで「2002年のシシャパンマ峰挑戦時と似ている」といったような文章をブログに載せた記憶がありますが、やはりそうなりました。面白いもので永く冒険を続けていると、なんとなく勝負前にその結末を感じ取ってしまうことがある。本番前から勝負が始まっているんですね。つまり来年のマナスル再挑戦は、今日、この瞬間から挑戦が始まっているのだ。さて、これからリベンジまでどのような一年になるのか、精一杯もがいてみたい。

2009年5月16日 カトマンズにて 野口健

サマ村初のファイヤーダンス?

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 後半から参加したダンサーの藤崎鮎美さんがサマ村でダンスを披露。日頃あまり目にしないボリウッド・ジプシー・ダンス(インド映画の踊り)で、派手な衣裳からその仕草など、どれをとってみても免疫のない村人にとっては相当刺激が強かったに違いない。ダンスが始まった直後は口をポカーンと開けキョトンとしている老人の姿に思わず吹き出してしまったが、さすがはプロダンサーだ。彼らに話しかけ、気がついたらあっと言う間に観衆を魅了し、我が隊のシェルパもあれよ、あれよとダンスに飛び入り参加、夜になってファイヤーダンスがスタートした直後からはシャイな村人も踊り始めた。

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そして鮎美さんが踊り終えると、口笛が鳴りやまず「アンコール」と相成り、彼女もそれに応えようとトータル4時間ほど踊っていた。あのシャイな村人が楽しそうに踊っている姿を眺めながら、音楽やダンスの力は人々の垣根を一気に越えグッと距離が近づくのだから凄いものだなぁ~と改めて実感。

_MG_4361これぞファイアーダンス!

これぞファイアーダンス!
ポカーンとする長老P1060336

ポカーンとする長老

小生もゲラゲラと笑いながら呑気に見ていたら突然引っ張り出され、頭を真っ白くさせながら、あたふたと踊ってみたもののどうであったのだろうか。小生、どうやら極度のリズム音痴であるらしい(本人はまったく自覚していないが)。それはそのはずで、もし音楽センスがあったのならば、アルピニストではなく、ピアニストになっていただろうに。

えっ!俺・・・まじっすか(汗)
えっ!俺・・・まじっすか(汗)
この人、大丈夫?

この人、大丈夫?

見苦しい姿を披露してしまったが、この日ばかりはマナスル敗退のことなど忘れ素直に村人との交流を楽しんでいた。この日の為に遥々と日本から駆けつけてくださった鮎美さんには感謝です。

最後は子供たちも参加

最後は子供たちも参加

2009年5月15日 サマ村にて 野口健

サマ村での歓迎会

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 清掃翌日、今度はサマ村の村人が我々一行に対し歓迎会を開いてくださった。歓迎会といっても村を挙げて開催され数百人に囲まれてである。チベット形式で行われ私も彼らの伝統的な着物を着用した。なかなか似合うでしょ?
この写真をトップに

サマ村の伝統的な着物を着て
サマ村で歓迎会が開かれた
サマ村で歓迎会が開かれた

「冬虫夏草」事件では一部の村人と激しくやりあったがもう一昔前の出来事だ。いつしか村人も私をよそ者扱いせず受け入れてくれていた。そして一緒になって多くの課題に対し考え取り組もうとしている。言葉は通じないがいつしか心が通じ合っていた。
学校の子供たちが出迎えてくれた
学校の子供たちが出迎えてくれた

この学校建設にしろ、そこからさらに広がっていくプロジェクトについて、これからも様々な困難にぶつかるのは容易に想像できる。そもそもネパールでのプロジェクトだ。ここは日本ではない。すんなりと行くはずもない。しかもサマ村はネパールの中でも未開発地である。
サマ村の長老と並ぶ

サマ村の長老と並ぶ

「冬虫夏草事件」が象徴しているように我々とは大きく感覚が異なる。文化もまた生息している自然環境も大きく異なる両者が、一緒になって取り組むわけだから、時にぶつかることもあるでしょう。そこを1つ1つどのように解決し前へ進んでいくのか、互いが意固地にならず理解し合うことが重要だ。学校という建物を作るのだが、大切な事はハード面よりも互いのソフト面だ。学校プロジェクトをきっかけに互いに新たなマインドを構築していかなければならない。これは逆に私が彼らから学ぶべきことが多いはずだ。
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 歓迎会で子供たちがダンスを披露してくれたが、そのダンスを眺めながらこのサマ村と運命共同体になりつつあると感じていた。
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 生半可な気持ちでは息が続かなくなるぞ!といった緊張感と、新たなテーマを明確に捉えた時に味あう高揚感を同時に感じていた。私はこの瞬間が好きだ。その分だけ背負う責任は増すが30代半ばになればそれも使命である。頭の中でこれから先に展開されていくであろう出来事をイメージし、それらをどのように実現させていくのか、これからも多くの方々の知恵を吸収しながら確実に一歩一歩進みたい。

2009年5月15日 サマ村にて 野口健

マナスル基金 学校建設現場

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 清掃活動後、マナスル基金による学校建設の現場に出かけた。建設作業員も21人に増え少しずつであるが着実に作業が進んでいるように感じられた。前回のレポートにも触れたように全てが手作業。木を一本切るのだって大変な時間がかかる。日本の建設現場の感覚ではあまりにもコツコツで短気な私にはなかなか辛いものがあるが、しかし、仮に日本の大工さんがこのヒマラヤにやってきて、同じような境遇に置かれたら果たしてどれだけ動けるのか、おそらく彼らよりも非効率的になるだろう。その辺を理解していればこそ現場にいても大きなストレスは感じない。幾分か言いきかせてる感もないわけでもないが・・・。
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 年内に完成するといった話もあったが、まあ~来年春かな?最初が肝心。焦らず焦らず着実に。これで私の短気が治れば一石二鳥である。
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2009年5月14日 サマ村にて 野口健

サマ村大清掃!

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 ベースキャンプから下りホッとしたのも束の間。翌日(5月14日)からサマ村大清掃スタート。清掃活動には村人約200人が集まった。まず清掃活動前に村人とのミーティングが行われたが、これまた驚いた事に「ゴミ焼却所がない。各村人から毎月200~300ルピーを招集してゴミ焼却所を作ったりするゴミ処理費に充てようじゃないか」「川の遠くに公衆トイレを設置しよう」などと村人の方から多数の意見が出された。3年前はゴミ清掃の意味も理解していなかった村人が今ではゴミ処理の具体的な方法、またルール作りに乗り出しているのだ。大きな大きな進歩ではないか。
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 そして何よりも嬉しかったのが子ども達だ。大人以上に一生懸命拾ってくれる。基本的には大人たちは目立つゴミを拾いたがるが子供たちは岩の陰に隠れていていかにも拾いにくそうなゴミを見つけては潜って引っ張り出してくれる。その徹底ぶりにアッパレ!学校の先生も「子供たちがゴミを拾うことで大人たちが動く。ゴミに無頓着であった大人たちが変わってきた」と子供たちの行動力、また影響力に驚いているようであった。
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 3時間ほどで3トン以上のゴミを回収した。ごみ回収量にも満足させられたが、それ以上に村人の変化を目の当たりにし、これからのサマ村の将来に大きな希望を抱けたことがなによりもの収穫であった。私に出来る事は限られている。しかし、彼ら自らが動けば私の存在などどうでもいい。私は絶えずきっかけでありたい。残念ながらマナスル登頂はならなかったが、しかし、村人のアクションに疲れた心はしっかりと満たされていた。彼らのアクションは私にとって大きなプレゼントとなった。
キャプションなし活発な意見が相次いだミーティング

この活動、富士山でもそうだが、反響があるから続くのだ。これが一人ぼっちでは孤独でしかたがない。仲間の輪が広がるからこそ持続していける。我々の投げかけに応えてくれたサマ村の仲間たちとこれからも一緒に一歩ずつ歩んでいきたい。
清掃清掃1

清掃4

清掃2


2009年5月14日 サマ村にて  野口健

ベースキャンプ撤退

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いつでも判断は難しい。5月に入り連日の大雪。そしてキャンプ1に設置したテントは2メートルほど雪に埋まりポールは砕け完璧に破壊されていた。キャンプ1でこの状況ならばキャンプ2はまったく期待できない。我が隊に限らず多くの隊がテントと装備を失った。
ベースキャンプ最後の写真
ベースキャンプ最後の写真
 キャンプ2に荷揚げした装備の回収も検討されたがシェルパから「雪崩のリスクが大きすぎる。私たちには家族がいる」の一言が響いた。ちょうどそのころ、前回のマナスルで我が隊のシェルパであったラクパ・ヌルブがエベレストのアイスフォールで氷河の崩壊に巻き込まれ遭難死したニュースが届いた。遺体回収も不可能であった。嫌なタイミングであった。

5月中旬まで登山活動を中止し、雪の状態が落ち着いたら(早くとも20日以降だろうと推測された)再開することも考えられたが、5月中旬にはモンスーン(雨季)がやってくる。そうなればさらに天候が不安定になる。そして前回のマナスルの経験からすれば20日を過ぎれば氷河が緩みセラック(氷の塊)の崩壊が多発する。

バタバタと撤収作業に入る
バタバタと撤収作業に入る

様々な判断があるだろう。粘るのも1つの方法。パッと見切りをつけるのも1つの方法。人生いろいろ。冒険家もいろいろ。人それぞれである。判断の分かれ目となるが、生涯最後の挑戦とあれば大きなリスクを背負ってでも続ける意味もあるでしょう。しかし私の冒険人生はこれからも続く訳で、私はそのような見方はしていない。臆病風に吹かれたと言われればそれまでかもしれない。また力不足を指摘されればまたその通りかもしれない。反省材料があったことも否定できない。まだまだ甘い。それら全てを受け止めてみて、確かに悔しいが、また戻ってくればいいではないか。チャンスは必ずある。

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 5月13日、森田健作千葉県知事とのテレビ会談を行い、撤収作業開始。酸素ボンベなどキャンプ2に荷揚げし、雪に埋まり回収出来ていない装備は約100万円相当であったが、我々の身代りになって頂いたと解釈すれば大きな問題ではない。ただ我々が撤退してしまえばその装備はゴミとなる。次回戻ってきた際はその分だけ、いやそれ以上のゴミ回収を行うことお約束しますのでお許し頂きたい。
森田知事とのテレビ会談
森田知事とのテレビ会談

解釈によってはマナスルの女神に酸素ボンベをプレゼントしたことになるのかな?

 ベースキャンプを後にする時、振り返りマナスル山頂を見上げたが相変わらずの雪空でなにも見えず。しばらく山頂付近を眺めていたが、コレヒドール島脱出時の挫折感または敗北感とは比較できるはずもないが、私なりの「アイ・シャル・リターン」を心に誓っていた。

 「近い将来、必ず戻ってくる。それでいい」と自身に言い聞かせるかのように、何度も何度も繰り返し呟きながら、そして山頂を目指している時と同じように、「一歩一歩」サマ村へ向かって下った。


2009年5月14日 サマ村にて 野口健

撤退 野口健よりメッセージが届きました

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マナスル ベースキャンプより メッセージが届きました。

再びアタックを目指していた野口隊ですが、
天候の回復が見込めず、再び上部に上がることは危険であると判断し、
撤退することを決意致しました。
皆様には、ご声援・ご協力いただきました事、心より感謝申し上げます。
皆様からのコメントに、現地では、大変勇気づけられていたようです。
本当にありがとうございました。

野口健事務所


千葉県知事 森田健作氏とテレビ電話対談

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昨日、マナスルベースキャンプと千葉県庁にテレビ電話にて通信を行い、県知事の森田健作氏とテレビ電話対談を行いました。
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千葉県知事 森田健作氏とテレビ電話にて対談
千葉県内に自宅を構える野口は、以前より、県内の環境問題の解決や千葉の活性化につよい希望を持っていました。
今回の対談で、知事は「地元に帰ってきたら、子ども達へ環境への思いを伝えてほしい」と要望され、野口は「千葉にはもっと自然の豊かなところがたくさんある。これからは地元の千葉で環境学校などを開催していきたい」と話しました。


野口健事務所

出口のないトンネル?

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キャンプ2から下ってきても連日の大雪。せっかく下って来たのに相変わらず雪下ろしで寝不足が続く。特に夜中の雪が激しくまるで我々に雪が襲いかかってくるかのようだ。そして強風に指先の体温を奪われキーンとまるで爪に中に針を入れられるかのような耐えがたい痛みを耐えなければならない。
容赦なく襲ってくる雪
容赦なく襲ってくる雪

寒さで指先が痛み温める
寒さで指先が痛み温める

シェルパ達が「もうモンスーン(雨季)が来たよ」と告げてくる。事実だとすれば遠征は終了となる。この悪天候に次の戦略が練れず困り果てているが、ただ、ちょっとだけ本音を暴露すればシェルパの反対を押し切ってベースキャンプに降りたので、仮にその翌日からカラッと晴れたら立場ないなぁ~と。ベースキャンプに下りてきた瞬間にシェルパ頭のダワ・タシに「これで明日晴れたら腹切りする」と伝えていただけに、翌朝の9日は早朝から強風が吹き荒れ午後には大雪になったので実は内心ちょっとだけほっとしたものです。腹を切らずにすんだ。上部で腹をたてていたシェルパ達に「ほらっ!みろ!」と勝ち誇ってやったらニヤッと笑いながら頭をかいただけであった。うまく誤魔化されたなぁ~。
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いつまでも続く雪かき
いつまでも続く雪かき

ただ、そのタイミングで友好関係を築いていたロシア隊が山頂を目指そうとしていただけに心配もしていた。ほっとしながらも、同時に心配もする、ヒマラヤ生活はなかなか忙しいものです。アタックを断念したスペイン隊の一名がレスキューヘリに乗せられてカトマンズに飛んで行った。今年のマナスルはよくレスキューヘリが飛んでくる。これで4回目か。
ベースキャンプは雪の中
ベースキャンプは雪の中

静まり返るベースキャンプ
静まり返るベースキャンプ

5月に入ってからマナスルで丸一日晴れた日があったのだろうか。私の記憶にはない。特にこの5日間が酷い。周辺の登山隊からも「もう家に帰れってことだろう」と嘆き声も聞こえてくる。事実、昨日からベースキャンプを下りていく登山家の姿がちらほら。
悪天候のお陰で本だけはたらふく読める
悪天候のお陰で本だけはたらふく読める

ベースキャンプでは平賀カメラマンが風邪のためダウン。キャンプ2で体を冷やしたのと疲れが一気にでてきたのだろう。「寒気がする」とブルブル震え寝込んでいる。そして新たな変化として我が事務所スタッフの島袋規子氏の親友である藤崎鮎美さんがベースキャンプ・マネージャーとして我が隊に加わった。ベースキャンプ・マネージャーを探していたが見つからず島袋が親友の藤崎さんに声をかけたら「行きたい!」と即決してくださったのだ。
平賀カメラマン、発熱しダウン
平賀カメラマン、発熱しダウン

彼女はダンサーとしてカトマンズに滞在していた時期がある。ネパール通でありネパール語も操り、また明るい性格ゆえにシェルパ達ともすぐに溶け込んでくれた。ベースキャンプからのテレビ中継など平賀カメラマンのアシスタントを行ってくれる。やはりダニに食われながらの道中に苦労したそうだ。ただ、さすがにダンサーであり、同中の村々で村人に対しダンスを披露したとか。マナスル登山終了後、サマ村にて学校の子供たちや村人にファイヤーダンスを披露してくれるとのこと。日本人ダンサーがサマ村で踊るのは史上初めての試みだろう。村人もさぞかし喜んでくれるに違いない。野口隊はなかなかキャラが濃い。
さっそく自分のテントの雪下ろしに追われるあゆみさん
さっそく自分のテントの雪下ろしに追われる鮎美さん

早ければ5月14日にアタック予定でいたが、この大雪でまったく目処が付かず。5月25日までにはどうしても帰国していなければならず、次がラストチャンスであるだけにいよいよ追い詰められた感はありますが、こればっかりはどうしようもない。いずれにせよあと、2~3日中には決断を下さなければならないでしょう。
この「日の丸」がマナスル山頂に輝く日は来るのか
この「日の丸」がマナスル山頂に輝く日は来るのか

マナスルの女神もちょっとやり過ぎじゃないかと、一言文句も付けたくなるが、そんなことしたらさらにご機嫌斜めになるのでそっとしておきますが、やれやれ、どうなることやら、一寸先は全くもって闇であります。


2009年5月11日 マナスル・ベースキャンにて 野口健

大荒れのマナスル

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5月9日を山頂アタック日とし5日にベースキャンプを出発。キャンプ1入りしたその日の夜から再び悪天候となる。夕方から雷がゴロゴロと鳴りだしそれから絶望的な大雪。そして雪が止んだかと思いきや今度は猛烈な強風。真横の平賀カメラマンがいるテントに向かうこともままならず。大声を出しても強風の「ゴォー」という爆音に声が届かない。相変わらず眠られない夜を過ごす。6日のキャンプ2行きは前夜の大雪で積った雪が落ちてくるリスクがあるので一日延期。キャンプ1に二泊することとなった。この日、ロシア隊はキャンプ2に向かったが途中で二回雪崩を誘発し隊員4人が数十メートル流されゴーグルやストックなど失ってしまったが、またしても強運に助けられ犠牲者なし。これでロシア隊は5回目の雪崩遭遇にも関わらず一人の犠牲者も出していないのが奇跡である。恐るべし、バルチック艦隊。

キャンプ1の朝日・朝はいつも晴天なのだが・・・キャプションなし
キャンプ1の朝日・朝はいつも晴天なのだが・・・


キャンプ1を出発する野口隊キャプションなし
キャンプ1を出発する野口隊

 7日、朝から雲ひとつない晴天。平賀カメラマンと「やっと天候が見方してくれた!」と素直に喜びキャンプ2を目指した。しかし、ところどころに点在している雪崩多発地帯をドカドカと歩くのは、それはそれは恐ろしくソロリソロリと出来るだけ雪面にショックを与えないように一歩一歩進む。冷や冷やで生きた心地がしない。
一歩一歩、この繰り返し
一歩一歩、この繰り返し
キャンプ2に向かうアタック隊
キャンプ2に向かうアタック隊

キャンプ2に到着し、早速、平賀カメラマンは撮影した映像を日本に送信。ブログやHPにて動画をアップするためであるが、こんな高所でアンテナを含む衛星通信機材を担ぎあげて作業する登山隊はまあ~なかなかないだろう。平賀カメラマンが「どうせなら新しい事をやりましょうよ!これもチャレンジ!」と張り切ってくれている。大した男です。
キャンプ2から動画を送信する
キャンプ2から動画を送信する

 久々の晴天に浮かれ「9日にはマナスルに登れるぞ!」とはしゃいでいたら、あっという間に雲行きが怪しくなりまたゴロゴロと雷が、そして再び大雪に・・・。「ハァー」と溜め息。「一体全体この山はどうなっているんだ!」と愚痴がこぼれる。それからが大変だった。

寝袋の中で寝ていたら両サイドから「グググッ」と圧力がかかり目を覚ましたが体が固定され動かせない。雪が私の一人用の小さなテントを押しつぶしていたのである。必死に体をモジモジさせながら少しずスライドさせなんとかテントから脱出に成功。ヘッドランプの光で真横にあったスペイン隊のテントを探したが見当たらず。「あれっ」とよくよく見たらテントの天井が辛うじてチョコンと雪から出ていた。慌てて「カルロス!大丈夫か!」と声をかけたが無反応。

雪に埋まっているカルロスのテント
雪に埋まっているカルロスのテント

雪で埋まったテントを掘り出す
雪で埋まったテントを掘り出す

上から一部露出しているテントの天井をバンバンと叩いたら「オウ!」と目を覚まし驚いているカルロスの声が聞こえた。中でもがいているようであったが、ここまで雪に埋まってしまったら自力脱出は不可能。慌ててスコップで雪かきを始めるが一人では限界。我が隊のシェルパと平賀カメラマンを起こし交替で猛吹雪の中、雪かき合戦が始まる。顔に当たる強風が容赦なくチクチクと針で刺されているかのような痛みに涙がでた。約30分の作業でなんとかカルロスを雪の中から引っ張り出すことに成功。テントを失ったカルロスは平賀カメラマンのテントに避難。放心状態であったのか、グッタリしていた。
極寒の中、救助作業は続いた
極寒の中、救助作業は続いた

吾輩のテントも雪に埋まりテント内は雪まみれとなり寝袋も濡れ、そして次の瞬間にガチガチに凍ってしまった。体も心から冷え切り朝までガタガタ震えが止まらなかった。結局、この日も一睡もできず。それにしても厳しい夜であった。ただ、後にカルロスが「あの時、日本人が助けてくれなかったら私は今、生きていないだろう。日本人はとても親切だ」と話しているのを耳にし「良かった、良かった」と一人自己満足に浸っていた。
助けられたカルロスと平賀カメラマン
助けられたカルロスと平賀カメラマン

8日は朝から上空に不安定な雲が不気味に漂っていた。そして特に嫌だったのが、マナスル山頂をすっぽりと覆っている笠雲。98年の二度目のエベレスト挑戦もあの笠雲の中に突っ込み酷い目にあった。幸い、私は途中で引き返したため無傷で帰還できたが、そのまま突っ込んだスペイン人登山家は凍傷で手足の指の大半を失っていた。これは単なる偶然であるが、あの時のスペイン人登山家もカルロスという名であった。
レンズ雲に覆われるマナスル峰
レンズ雲に覆われるマナスル峰

 マナスル山頂の笠雲は天候が大きく悪化するサインである。さて、どうするか。ベースキャンプで待機している野口隊のシェルパ頭のダワタシに無線連絡したら「天気予報では9日の午前中まではなんとか天候がもつ」との事であったが、いやはや、どうしてそんな予報が信じられるものですか。何故ならば我々はその時点で既にブリザードに全身を曝されていたのだから。
目が開けられないほど容赦ないブリザード
目が開けられないほど容赦ないブリザード

 それでもロシア隊はキャンプ3に突っ込むと決断。ロシア隊に引きずられるかのように台湾隊もキャンプ3行きを決定。では我が隊は?シェルパからは「みんなが行くのだから我々もキャンプ3に上がろう」と迫られた。しかし、笠雲を見上げながら「これで行くのか・・・。う~ん、やっぱり行くしかないのか」と天を仰ぎ、いったんはキャンプ3行きをシェルパに告げた。シェルパが先に出発し、「あ~ いよいよかぁ~」と気分はもう玉砕。
大荒れのマナスル峰
大荒れのマナスル峰

 それでも、もう一度、空をジッとにらみながら「本当にこれでいいのか、自分の中でこれだけ迷っているにも関わらず突っ込んでいいのか」と自問自答。そして無線機を取り出しキャンプ3へと先行しているオンチュウ・シェルパに「アタックは中止。ベースキャンプに戻る」と告げた。
キャンプ2から下る(左・カジシェルパ・右・野口)
キャンプ2から下る(左・カジシェルパ・右・野口)

 いつでも山の中での判断は難しいが、特にこのいつまでも天候が安定しないマナスル峰はとても困難だ。キャンプ2に戻ってきたシェルパの表情は「またアタックをかけないのか」と不満で一杯だったが、こればっかりは仕方がない。我が隊から如何なる事情があろうとも犠牲者を出すわけにはいかない。確かに悪天候で待機ばかりの生活が続けば突っ込みたくなるのが人の心情である。しかし、そこをグッと堪えるしか生き延びる術はないではないか。人に臆病と思われようが、そんな見栄や強がりなど、もはやどうでもいい。そんな感情はこの世界に必要ない。
 ベースキャンプに向かって下山中
ベースキャンプに向かって下山中

 私の判断が正しいのかどうか、はっきり言って分からない。それでも「今がその時ではない」と感じたのならば降りるべきである。ベースキャンプに向けて下山しながら「これで明日晴れたらシェルパ達、怒るだろうなぁ~」と平賀カメラマンと話しながら、その時はケロッと笑うしかないと、根拠のない所で生きているのだから、「まあ~そんなこともあるよ」と開き直ればいいじゃないか。
もうすぐでベースキャンプ
もうすぐでベースキャンプ

 ベースキャンプに無事に戻り夕食を食べたと同時に猛烈な睡魔に襲われ、久しぶりに朝まで安心してぐっすりと寝ました。

 8日にキャンプ3入りし9日に山頂アタックを賭ける予定でいたロシア隊は強風のためアタックかけられず、スペイン隊もキャンプ3から撤退。複数の登山隊が9日を狙っていたが、全てのアタック隊が登頂ならず。そう簡単には登れないのがマナスル。あの韓国隊も5回目のアタックでようやく山頂に立ったではないか。それに簡単にマナスルに登ってしまったら勿体ない。

 過酷だがこの自然との駆け引きが登山の最大の醍醐味だ。命がかかっているだけ何よりも本気になる。だから登山はやめられない。このマナスル登山、スタート時から、いやその直前から困難の連続だった。そして継続中だ。しかし、生き生きとしている自分の姿を明確に自覚している。これは決して強がりなどではない。

 さて今後の予定ですが、ベースキャンプで数日休養し再びアタックをかける。5月14~17日の間に山頂を目指します。
ヒマラヤの満月
ヒマラヤの満月

2009年5月9日 マナスル・ベースキャンプにて 野口健

あ~あ ベースキャンプ

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マナスルベースキャンプの野口より映像が届きました。
悪天候の中、いったん、ベースキャンプに戻る必要があると判断しました。
今後、天候を見ながら、改めてのアタック態勢を整える予定です。

いったん、ベースキャンプに戻る

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5月8日 19時頃、野口より電話連絡ありました。
登頂を目指し、キャンプ3へと向かった野口隊ですが、
かなりの悪天候で、アタックは難しいと判断し、
いったん、ベースキャンプへと戻りました。
野口、平賀カメラマン、シェルパ達、みんな、元気にしているとの事です。

現地より、詳しい情報が入り次第、また、ご連絡いたします。

野口健事務所

野口より電話ありました

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5月8日 14時20分 キャンプ2の野口より電話がありました。
天候回復しませんが、これからキャンプ3へと向かうとの事です。
残念ながら、衛星携帯電話の調子が悪く、この先、電話連絡が不可能となります。
次の連絡は、登頂後、キャンプ2へ降りてからとなります。

音声ファイルはこちらから

キャンプ2より 電話連絡ありました

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野口より、本日9時30分に電話連絡ありました。
昨晩かなりの雪が降ったようです。
本日のキャンプ3への移動は、様子を見ながら出発することになるようです。

音声ファイルはこちらから


野口健事務所

マナスル キャンプ2からの映像 (後編)

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マナスル・キャンプ2より映像が届きました。
こちらは後篇です。前編と合わせてご覧ください。

マナスル キャンプ2からの映像 (前編)

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野口健より キャンプ2の映像が届きました。
こちらは前編です。後編もありますので、ぜひ、ご覧ください。



野口健事務所

野口隊 キャンプ2に到着しました

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野口より、本日16時30分に電話連絡ありました。
無事、キャンプ2に到着できました。
野口・平賀・シェルパ、皆元気なようです。

音声ファイルはこちらから

野口健事務所

5月7日午前10時40分、 キャンプ1の野口より電話連絡ありました。
天候も回復したので、本日、キャンプ2を目指すとのことです。

音声ファイルはこちらから

野口健事務所

キャンプ1 2日目

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野口健、キャンプ1にて2日目を過ごしています。
悪天候のため、キャンプ2に出発できずにいるようです。


ビデオ内にて、「今日は7日・・・」と言ってますが、6日の間違いです。

キャンプ1より電話連絡あり

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5月5日、野口隊、キャンプ1のテントより、野口のコメントが届きました。
外はかなりの大雪、嵐のようです。

音声ファイルはこちらから

野口健事務所 

キャンプ1に到着しました

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野口隊、無事にキャンプ1(5700m)に到着しました。

ベースキャンプより、アタックへむけてのコメントです

遭難相次いだか? マナスル

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 我々がサマ村におりてからマナスル上部では遭難が相次いだ。まずはイタリア隊の隊員がキャンプ2で我々の酸素ボンベを使用したが残念ながら死亡。イタリア隊から我が隊のシェルパに「遺体をベースキャンプまで下ろしてほしい」との要請を受けたが、熟慮を重ねて上でその要請を断った。これに対し批判はあるかもしれない。しかし、我々も5月に入ったら山頂アタック体制に入る。キャンプ2から遺体を下ろす作業は極めて困難かつ雪崩多発地帯を横切らなければならない。我が隊のシェルパを危険にさらすわけにはいかない。また山頂アタックを目前に控えている我がシェルパの体力的な消耗具合を考慮すれば受け入れられない。また、イタリア隊は隊員が10人以上いながら二人のシェルパしか雇用しておらず、つまり事実上シェルパレスに近い形態を自らがあえて選択したわけで、事故が起きた際には自身の隊員(独自)による活動が当然求められる。もし仮に遭難者が生存していれば、もはやそんな事も言っていられず、どうであれ至急レスキューしなければならないが、すでに亡くなっている。ミイラ取りがミイラになってはいけない。

 また理解出来ないのが最終キャンプに緊急用の酸素ボンベにマスクを用意していなかったこと。無酸素登山であろうが緊急事態を想定し用意するべきではなかったか。その結果、上部キャンプにて他の隊(野口隊)の酸素ボンベを使わざるを得なかったのは厳しい表現になるかもしれないが、明らかに初歩的なミスであり失態である。そして強風が吹き荒れる中、すぐに下山しないで最終キャンプに留まり続けたこと。遺族の心情を思えば一刻も早く遺体を下ろさなければならないが、登山活動はあくまでも自己責任。その覚悟と自覚が必要だ。冷たいようですが山で生きるとはそういうこと。

 ここまで偉そうに指摘しながら自身が遭難したら誠にだらしない。もし仮にマナスルから戻らないことがあれば、その時は「お前はだらしないじゃないか」と厳しくバッシングしてください。明日は我が身であるから彼らの遭難事故をきっかけに自らの気持ちをしっかりと締めなおさなければならない。

 4月29日にアタックした他の隊も登頂ならず。シェルパらの情報(未確認情報)によれば、隊員一名が凍傷にてレスキューされたとのこと。同日アタックしたまた別な隊の一名も一時行方不明となりクレパスに落下したかと心配されたが足の指を凍傷に侵されながらもなんとか救助されたとのこと。

 その中(28日)、登頂を果たしたのは韓国隊のキムさんとソーさん。このプサン出身の韓国隊はマナスル峰、ダウラギリ峰、アンナプルナ峰の8000M級の三山をワンシーズン(約2ヶ月間)で登るという計画をたて、このマナスルも3回目のアタックで登頂。彼らの決して挫けないネバーギブアップ精神、まさに驚異的な精神力に同じ登山家として敬服、また尊敬します。上部キャンプでキムさんが一人黙々とアイゼンの爪をやすりでガリガリと磨きながら、一言「アイアム、影武者」とニヤリ。そして今度はフォークを、磨くふりをして「アイアム座頭市」と。

親交深めた韓国隊のみなさんと
親交深めた韓国隊のみなさんと


 なかなかのギャクセンスと、これからアタックするのにこの精神的な余裕さに彼らはやれるなと確信を抱いていた。登頂翌日、早速サマ村まで降りてきて一緒に祝杯をあげ、30日にはヘリでカトマンズに飛んで行った。数日休んでからダウラギリ峰に向けてキャラバン開始とのこと。残り二峰。無事に生還してほしい。プサンでの再会を誓い合った。

キャプションなし

現場を視察する
現場を視察する

我々はサマ村で休養を取りながらマナスル基金によって建設中の学校を見学。外壁に使用する石は既に集められ、また窓枠やドアなどが手作りで作られていた。重機などの機械は一切ないこの山幹部で建物を建てるのがいかに大変か、彼らの作業を眺めながら改めて感じていた。とっ、同時に「何とか年内に間に合わせてほしい、頑張ってくれ!」と心の中で叱咤激励していた。来年はもう一棟、宿舎を建てたい。このサマ村の子供たちだけではなく周辺の村の子供たちも含めたい。一人でも多く。

窓枠を作る職人たち
窓枠を作る職人たち

30日はマレーシアからやってきた医師団が村人の診察を行っていた。村の子供たちの多くが慢性的な下痢であった。栄養失調や水の汚染が原因とされている。村の川の周辺にトイレがあり、また上流ではゴミが川に捨てられている。マナスル挑戦後、再びサマ村にて村人との一斉清掃を行うが、改めて水の保護の必要性を彼らに伝えたい。そして学校建設と同時にごみの焼却施設の設置も念頭にいれ計画を広げていきたい。それにしてもこの僻地まで足を運んでいる医師団の先生方には感謝。日本ではちょっとした地方ですら医師不足になっているときく。都市部の大病院に医師が集まり、地方には行きたくないとの要因もあげられているらしいが、本来の医師としてのあるべき姿とは、などとお節介ながらもついつい考えてしまった。麻生総理の医者についての例の問題発言?に対し、私は、むべなるかなといった印象を抱いている。いつの日か、このサマ村にも日本人医師による診察が行われることを切に願い、またその光景を想像しながら実現させたいとイメージだけは勝手に膨らんでいた。

診察する医師達

医師による診察風景1
医師による診察風景

診察を待つ村人たち
診察を待つ村人たち

あと二日しっかりと休み5月2日にはベースキャンプに戻りたい。

2009年4月30日 サマ村にて 野口健

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