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8月15日に感じること

毎年、8月15日になるとマスコミ各社は「終戦記念日」「終戦日」と報じる。今日は66回目となる。その度に感じる事がある。1つには「終戦」という表現。語弊があるかもしれないが、「終戦日」という言葉に首を傾げてしまう。あの戦争は負けるべきして負けた。遺骨収集を通し戦争を知れば知るほど何と戦略なき無謀な戦争だったのかと驚く事が多い。詳細は私の著書「自然と国家と人間と」「それでも僕は現場に行く」に書かせて頂いたが、祖父が関わったインパール作戦、そして遺骨収集を行ってきたフィリピン・レイテ島など完全に制空、制海圏を失い、先に上陸していた部隊の多くは戦う前に餓死していった。海軍と陸軍との対立構造の中、互いの情報は隠ぺいされそのおかげでどれだけ多くの兵士が死ななければならなかった事か。
 
  作家の半藤一利氏によれば太平洋戦争の戦闘員の戦死者は陸軍165万人、海軍47万人(1964年厚生省調査)。このうち、餓死で命を落としたのはなんと約70パーセント。そして海軍の海没者が18万人に対し、陸軍も同じ18万人。つまり、どれだけ多くの船が兵士を乗せ戦地に向かう途中に沈められていったのか。半藤氏は「戦争とは戦場だけで行なわれるのではないのです。兵站と輸送が確保されないと第一線の兵士たちは悲惨な死を迎える事になる」と指摘されている。

  あの大戦の是非を今の時代の感覚で我々が「ああだ」「こうだ」と論じてみてもさほど大きな意味はないのかもしれない。しかし、あれだけ多くの犠牲者を出した大戦。振り返らないわけにはいかない。

  あの戦争は誰が始めたのか。政治家か、軍部か、それとも国民かマスコミか、または天皇陛下か。今では反戦一色の新聞ですが、あの頃(開戦前)、国民にどのようなメッセージを送っていたのか、アメリカとの開戦が発表された時に多くの国民が日の丸を手に高揚していなかったか、政治家たちは軍部の圧力、暗殺を恐れていなかっただろうか、また全ての軍人が戦争を始めたいと考えていたのか、では天皇陛下が戦争を希望していたのか、それに対しては様々な意見があるかもしれないが、答えはNOだろう。故に陸軍を抑え込もうと東條英機氏をあえて首相にしたとも言われている。つまり、一部の誰か、ではなく日本社会全体が日清日露と立て続けに勝利しいつしか我を見失ってしまったような気がしてならない。

  故に日本社会全体であの大戦としっかりと向き合い次の時代に繋げていかなければならないと強く思う。くどくなりましたが、一言で表現すれば「終戦日」ではなく「敗戦日」とするべきではないか。
  何故に「終戦日」となったのか。その経緯をどれだけの人が知っているだろうか。

  終戦直後、東久邇宮内閣に議会を開き、そこで首相自らが国民に向けて戦争終結のメッセージを送る演説を行っている。演説が行われる前の出来事。演説の原稿の中に「敗戦」という言葉を見つけるなり陸軍大臣であった下村定氏が「敗戦ではなく終戦にしてほしい」と注文をつけた。東久邇宮首相は「何を言うか、敗戦じゃないか。敗戦という事を理解するところから全てが始まるんだ」と声を上げたそうです。しかし、結局は軍に押し切られ「終戦」となったとのこと。

  私は「終戦」ではなく「敗戦」ではないかと表現する度に「戦争で戦い亡くなっていった兵士に対し失礼だ」「左翼的発言だ」などと言った声が多く寄せられる。これは考え方の問題かもしれないが、私はそうは思わない。確かに軍部の上層部にはメンツがあったかもしれない。しかし、戦場の最前線で死ななければならなかった兵士たちはメンツよりも本当の真実を伝えてほしいと願っているように感じる。

 
戦艦大和の沖縄特攻で戦死した青年将校、臼淵磐氏の遺言には

「進歩のない者は決して勝たない。日本は進歩という事を軽んじすぎた。私的な潔癖や道義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか、今目覚めずしていつ救われるのか」 (一部中略)


と書かれてありますが、死ななければならなかった青年将校の「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか」、まさにこの言葉だと思う。

 
  アメリカやイギリスなどの連合国、つまり戦勝国は「戦勝記念日」と呼び、敗戦国である日本が「終戦記念日」と呼んでいる。これも何かの象徴かもしれないが、戦争に敗れ焼け野原から再出発した日本。戦争を二度と起こしてはならないと肝に銘じるためにも、また何故にあの様な無謀な戦争を起こしたのか、その現実から逃げず直視する為にも私は「敗戦日」とするべきだと感じている。

  そして次に首を傾げるのは「終戦」が本当に「8月15日」なのだろうかということ。何を持って終戦にするかの定義の問題かもしれないが、8月14日に日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、翌15日に昭和天皇によって日本が連合国に対し降伏すると国民に公表された。

 つまり日本サイドが「戦争はやめます」と宣言はしたものの戦争とは相手があること、片一方の宣言だけでは「終戦」となるのだろうか。また大本営は8月15日以降の8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対し「8月22日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令した」とされている。また、レイテ島などフィリピンなどの戦地などには戦闘停止命令が届かず8月15日以降も部分的に戦闘が続いていた。8月15日以降も戦闘が続き多くの兵士が戦死しているのだ。

 1945年9月2日、重光外務大臣が昭和天皇、日本国政府の代表として東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ甲板上において降伏文章に調印した。では、「この1945年9月2日が「終戦日」となるのか」と思えば、この降伏文章は「停戦協定」とのこと。降伏文章の内容の中には「休戦に伴う軍事措置」とある。つまり「終戦」ではなくあくまでも「停戦」だ。あの朝鮮戦争も未だ停戦中。故に南北朝鮮は未だに軍事衝突を繰り返している。それが「停戦」と「終戦」の違いだろう(北朝鮮からの挑発ばかりだが)。

  ではいつ「終戦」になったのか。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効によって国際法上、日本と連合国との戦争状態が終結した日となっている。つまり国際法上の終戦は「1952年4月28日」なのだ。だとすると「終戦日は4月28日」ということになる。

(戦勝国は9月2日を対日戦勝記念日とし9月2日を終戦の日とする国が多いとか)

  あくまでも私の無知ゆえの出来事かもしれないが、恥ずかしながら遺骨収集活動を行うまで「いつ戦争が終わったのか」などと考えもしなかった。「8月15日が終戦記念日」と言われるままにそれでスルーしてしまっていたが、「いつ戦争が終わったのか」という基本的な事を知らない、または考えてもいない人は実は私以外にも多いのではないだろうか。

  遺骨収集を始めたのは約5年前。それからというもの8月15日を迎える度にそんな事を繰り返し考えてしまう。「今更、そんな細かい事どうでもいいじゃないか」と言われた事もあるけれど、私にはそうは思えない。「何故に終戦記念日になったのか、その意図は?」「戦争はいつ始まりいつ終わったのか?」、そんなにどうでもいいことなのだろうか。私はその延長線上に、ついには日本と連合国が戦争をした事も知らない人が増えてきているのではないかとさえ思う。これは果たしてこじつけだろうか・・・。


沖縄の遺骨収集現場にて

フィリピンや沖縄での遺骨収集活動に加わり約5年目。遺骨収集活動を始めた動機などはこのブログや著書にも散々書いていますのでここでは省略しますが、先の大戦での海外戦没者数は約240万人、その内の約125万柱が日本へと送還されている。つまり未帰還のご遺骨は約115万柱。日本政府は敗戦から30年が経過した1975年度を遺骨収集における一つの区切りとし、その後は主に民間団体等から情報があった場合に収集してきた。つまり民間任せの状態が続いている。

確か尾辻厚生大臣の時代だっただろうか。厚生省は「おおむね3年間を目処に南方地域で集中的な遺骨収集を行う」と発表したが、なぜ3年間なのか、また、06年度からの「集中的な情報収集」に関しても民間団体に任せきりだったのではないか。そもそもこの3年間の間に民間団体抜きに国がどれだけ具体的なアクションを起こしてきたのだろうか。この事を厚労省に何度も質問したが、いつも歯切れが悪かった。

「ああ〜この国は本気でやろうとしていないな。やらない理由を一生懸命さがしているのか。または取り残されたご遺骨に関し国民に早く忘れてほしいと思っているのでは。戦友、遺族が高齢化している。時間の問題で風化していく事を望んでいやしないか」などとそんなことばかりを感じていた。

アメリカが全て正しいとは思わないが、こと遺骨収集に関しては国を上げて徹底的に行っている。菅政権になってようやく力を入れ始めた硫黄島もアメリカは既に徹底的に調べ上げ米兵の遺骨収集活動を行っていた。情けない事に日本政府はアメリカサイドから硫黄島の情報を入手しなければならなかったのだ。

そして沖縄も・・・。昨年から沖縄での遺骨収集にも関わり始めましたが、例えばレイテ島などの海外や自衛隊しか駐在していなかった硫黄島と違い沖縄は日本であり、そして多くの人々が生活している。その沖縄本島にはいまだ多くのご遺骨が洞窟や豪の中に埋もれたままだという。「本当かな」と半信半疑、沖縄へと向かった。そこで出会ったのが国吉勇さん(当時71歳)。国吉さんはたった一人で50年間遺骨収集、遺品収拾を行ってこられたのだ。その国吉勇さんとご一緒させて頂き昨年の10月、12月、そして今年の6月と3回ほど遺骨収集活動に参加させて頂いた。真っ暗やみの豪の中をスコップで掘ればその土砂の底からご遺骨や遺留品がいくつも発見された。6月26日に糸満市で行われた遺骨収集活動では約30体ものご遺骨が発見。たった1日の活動で・・・。しかも住宅街のすぐ裏で。

フィリピンなどの海外に遺骨が取り残されているのも当然問題であるが、国内でしかも人が住んでいる沖縄がこの様な状況である事はさらに大問題だ。そしてご遺骨と一緒に掘り起こされるのは無数の不発弾。私もたかだか3回の沖縄での活動で数え切れないほどの不発弾(迫撃砲、38式銃の弾、手榴弾など)を見つけていた。

蒸し暑い豪の中で収集活動が続く





国吉さんたちと

毎年、8月15日になると決まって「靖国神社」が注目され、参拝する政治家に対し「公人としてか」「それとも私人としてか」、などとそんなことばかりを繰り返している。語弊があるかもしれないが、長年もの間、国のために戦い亡くなっていた英霊を放置してきたこの国の政治家たちに私は言いたい。「靖国神社に参拝しただけで満足してくれるな。未だにあの薄暗い洞窟、豪の中で土砂に埋まり、フィリピンなどのジャングルでは未だに野ざらしにされたままに、日本から忘れ去られた英霊たちの無念、それが分かりますか。ご遺骨が私たちの迎えを待っているんだということを肝に銘じて政治を行ってほしい。そして具体的なアクションを起こして頂きたい」と。これも色々な場で発言してきましたが、私が何故に遺骨収集活動を行っているのか。国のために戦い亡くなっていった方々を大切にしない国は滅びていく、私はそう感じている。遺骨収集は過去を振り返るようでいて、しかし、同時にこれからの日本を思えばこそやらなければならない活動だと思う。そして遺骨収集は国家のプライドの問題だとも。

靖国神社参拝の国会議員の「公人としてか、私人としてか」など私は、全くもって興味がない。そんな事よりも8月15日にだけ(ばかりに)靖国神社に参拝する事にどれだけ意味があるのだろうか。私も靖国神社には毎年、何度も参拝している。日本人とても大切な事だと思う。しかしそれは心があればのこと。私の偏見かもしれないが、もし仮に政治的なパフォーマンスとしての靖国参拝ならばむしろ英霊に対して失礼ではないか。

テレビ画面に映し出される8月15日の靖国神社の騒ぎが私にはどうしても滑稽に映ってしまう。

  「前編」に引き続き「後編」も実にクドクなりました。しかしこのテーマはサラリとはいかない。色々と語弊があるかもしれませんが、所詮は一介の登山家の独り言と思って頂ければそれで結構です。ここに書いた事はあくまでも私が現場から感じた事に過ぎない。人それぞれの考え方がありますから、意見の食い違いは当然のこと。当たり前です。議論している内はまだいい。そんな事よりも最も懸念しなければならないのは「無関心」であるということ。何よりも怖いのがこの国の人々が無関心になっていくことです。

  2009年11月13日、天皇陛下御即位20年を祝う記念式典が開催され、これに先立ち、記者会見で陛下は日本の将来への心配を問われた際に「私はむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです」とお話しされ、第二次世界大戦にも触れられたあとに、「過去の歴史的事実を十分に知って、未来に備える事が大切に思います」と述べられました。遺骨収集活動も、まさに陛下のお言葉そのものです。

  前編、後編と「8月15日に思う事」を書かせて頂きましたが、これは私にとっての8月15日。皆さんにとってもそれぞれの8月15日があるでしょう。それを語り合う事も大切だと思います。それではここで終わりとします。ありがとうございました。


遺骨収集について那覇市にて講演


遺骨収集活動後に対馬丸記念館に訪れて


775人もの子どもたちが犠牲になった・・・


8月15日 野口健