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僕を支える人〜シェルパ編〜

サーダのダワタシ・シェルパ(38)

 彼はシェルパ頭(サーダ)。6回のエベレスト登頂記録を持つ。僕とはエベレスト三回目。昨年暮れ、日本に遊びに来た際、インドカレー屋で一番辛いものを注文し、顔面を引きつらせながら食べていたので、 「無理しなくてもいいよ」 とアドバイスしたにも関わらず、 「これぐらい辛くないよ」 と強がりながら食べていたら、なんとその場で鼻血を噴出してしまった。体はでかいが、恥ずかしがりやで、お茶目なダワタシ。そんな彼も、パキスタンにある世界第2の高峰、K2に挑戦した際、クレパスに滑落し、全身血だらけで救助されたことも・・・。一緒に映画の「バーティカルリミット」を見ましたが、見終わった後、彼の一言。 「今までヒマラヤに毎シーズン通っていたが、ヒマラヤがこんなに危ないとは思わなかった」 「・・・・・」 今、気が付いたの?と僕には返す言葉がなかった。

デンディ・シェルパ(30)

 彼は、僕の本にもよく出てきますが、92年に始めて僕がヒマラヤに訪れたときからの付き合い。弟、ナティーが雪崩に巻き込まれ、遭難死した後は酒がやめられずアル中になった時期があったが、あれから時間の経過を得て、今では立派なクライミング・シェルパに成長。僕の片腕として支えてくれています。デンディとは兄弟の契りを結んでいる。足のにおい、なんとかならないかな〜デンディ!

キッチンスタッフの三人

 右端がクックのペンバ・シェルパ(35)彼は98年のエベレスト挑戦から僕の食事を担当。宮下隊員が彼に日本食を教え、今では日本食も立派に料理する。おかげで、ついつい食べ過ぎてしまい、いつも片手に胃薬をもって食事テントに向かう。ペンバの料理抜きではこの過酷な清掃活動を乗り越える自信なし。

 お隣のお2人はペンバの助手。真中はデンディの兄・フロバキタ・シェルパ(42)以前はクライミング・シェルパとして名をはせていたが、金が貯まったと同時に遊び暮れ、家族に逃げられ、今ではすっかりおとなしくなってしまった。フロバキタ、今からでも遅くないぞ。早く、妻をとりかえせ!次に、一番、左にいてバケツを頭にかぶっているのは、ホンバードル(29)で、あだ名は「バカタレ」。昨年、冬にヒマラヤにトレーニングに来たときに彼と出会い、僕の顔を見るなりいきなり日本語で
「バカタレー」
と叫ぶ。いつかの日本隊が彼に「バカタレ」と教えたらしいが、印象に残ったのか、今でも僕の顔を見ると「バカタレー」と叫ぶ。まったく閉口してしまうが、どちらといえば、「バカタレー」は彼のほうで、シェルパ達からも「バカタレー」と呼ばれだしている。いつも分けの分からない、歌をうたい、朝からうるさくて仕方がないが、気持ちが落ち込んでいるときにはその場を明るくしてくれ助かる。野口隊に必要な一人です。

ニマ・オンチュウ・シェルパ(32)

 彼とは97年のチョモランマ初挑戦からペアーを組んでいる。99年5月13日、午前9時30分、彼と共にエベレストに登頂。ハンサムで女性にもてる彼はいつでもプレイボーイ。国境など関係なく、ネパール・チベット・そして日本でもモテモテ。

 ニマ・オンチュウは以前、日本の富山県に研修(よく分からない研修)で滞在。日本語を流暢に話し、性格も外交的で、控えめなシェルパ達の中では、いつも目立つ存在。一言で言えば、彼には華がある。彼とは、山以外にも、ネオン輝く都会の路地裏でパートナを組むんだことも・・・!? 僕の大親友です。

  将来、青森に野外学校を設立しますが、ニマ・オンチュウには自然の中で生き抜くことの厳しさを子供達に伝えてほしい。昨年暮れ、オンチュウと、一緒に屋久島に行ったが、
「ネパールは木を切ってしまって残っていない。日本には素晴らしい自然が残っている。この自然、大切にしてください」
と屋久島の子供達に語っていたのが、印象的だった。

2002年4月28日
野口健