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「思い出のメラピーク」
(写真はクリックしたら大きくなります)

 8年ぶりのメラピーク登山。28日にメララ峠を越え最終キャンプへ。メララ峠からは広く長いメラ氷河を一歩、また一歩進む。気の長くなる行程だ。峠だけあって風が強く、まただだっ広いので霧になり視界がなくなると方向を見失いやすい。このメラ氷河をなんど歩いてきたことだろうか。今回で6回目となるメラピーク。

夕焼けに沈むマカルー峰

標高を上げるにつれ、宇宙が近づいてくるのがわかる

太陽を背に歩を進める

 98年6月に秋のエベレスト再挑戦を控え最終トレーニングとして亜大山岳部の長尾とメラピークに登っていた。下山時に2度ヒドンクレバス(表面に雪が被さっていて見えないクレバス)を踏み抜いて落ちた。幸いな事にロープを付けていたので宙ぶらりんとなり、なんとか這い上がり助かったが、落下した際に、あごを氷に打ちつけ瞬間的に意識を失った。しばらくあごが痛くて歩く振動さえ苦痛だった。

山頂直下!

山頂ではその景色ゆえに長いしすぎた。天候が変わる前に急いで下ろう。

山頂からの絶景(中央奥にエベレスト、左奥にマカルー)
 
 そんなことよりも辛かったのがカトマンズに戻った時に日本に連絡した時のこと。私がメラピークに登っていた頃、エベレストでは歴史的な大量登頂の記録が更新され日本でもニュースとなっていた。その時の秋に私のエベレスト再挑戦(二回目)が予定されていたが、同行取材する事になっていたテレビ局のディレクターから「これだけエベレストに大量登頂するとニュースとしての価値がなくなる。同行取材は難しいかもしれない」との一言にショックを受けていた。今となってみればディレクターのあの一言は「そりゃ〜そうなのかもしれないな」と理解できないこともないが、当事者としてまだ23歳の若造には冒険をもっとピュアに受け取ってもらいたいと、一人カトマンズでやけ酒をあおっていた。ただ、紆余曲折ありながらも秋のエベレストにそのディレクターの姿はあった。にも関わらずまたしても登頂ならず。散々、振り回し迷惑をかけしてしまった。

我々の前を行く登山隊

  95年のメラピークも色々とあったものだ。一緒に登っていたテンバ・シェルパの娘のラムさんに恋し、テンバに相談したら「それなら一緒になれ」とメラピーク登頂後にルクラ村に戻り式を挙げた。本人も慌てたがそれ以上に慌てていたのが私の両親だった。父の方は「まあ〜俺もそうだったからなぁ〜カエルの子は結局はカエルってことだな」と、ただ、母親からは「家を出て行きなさい!」と事実上の絶縁勧告だった。

一歩一歩、慎重に進む

メラ氷河を登る最終キャンプを目指す(左・野口・右・パサンラム・シェルパ)

  その後、2年たってラムさんとは破局を迎えたが、今では彼女の二児の母。私の母は一昨年、他界してしまった。母は厳しかったが、今ではあの厳しさが愛情だと、心底、心から感謝している。素敵な母だった。

 前回(2000年)のメラピークではラムさんの弟のニマと再会し一緒にメラピークに挑戦しているのだから、色々とあるものです。そのニマがメラピークのベースキャンプで他の外国隊のポータと喧嘩し、やられそうになり、連中が短刀をもっていたので、また私もこういうことは嫌いなほうじゃないので、ピッケルを手に参戦。短刀対ピッケルとなり、慌てた周りのシェルパ達が仲介に入り事なきを得たがもしあのまま誰にも止められることもなく本気でやりあっていたら一足先にあの世に行っていたか、それともカトマンズの牢獄生活をおくっていたかだろう。しかし、その騒動の後に、ニマと二人でシェルパ達に「迷惑をかけました」と謝りながらも目があうとニコッと笑い、ラムさんとの破局などで離れかけていた距離を一気に取り戻せたような、男と男の絆なのか、また互いに「しでかした」共犯ともいえる妙な一体感に包まれなんとも嬉しかった。

メララから登山ルートを確認

メラピーク峰

 考えてみればメラピークは92年の初挑戦の時から激しかった。ルクラ村からザトルワラ峠を越えなければならないのだが、我が隊が先に腰までのラッセル(雪かき)を行いルートを切り開いたにも関わらず真後ろから金魚のフンのごとくピタッとついてきたイギリス隊(イギリスの陸軍隊)がテント場についた瞬間に私のシェルパがテントを設営しようとしていたら「ここは我々の場所だ!」とテント場を横取りしようとした。相手からすれば19歳の日本人一人のシェルパ達。軽く見たのだろう。私のシェルパと連中の間で一悶着起きそうだったので、やれやれと間に入ったら、いきなりそのイギリス人が私の胸ぐらをつかんで「ファック」だのなんだと吠えてきた。軍人だけあって大柄で、私などとても勝ち目などないが売られたケンカ、逃げるわけにもいかず、どのようなトラトラトラ(奇襲攻撃)を仕掛けるかと思いきや背後にいたデンディーがスーと音を立てずに近づいてきたと思ったら手には短刀、そして短刀を手にしたほうの手を腰にあて体重をかけたまま相手(イギリス人)に突っ込もうと突撃態勢に驚いたそのイギリス男が「オー・ノー・ノー」を叫び怯み私の胸ぐらから手を放しひっくり返るように尻持ちをついた。私もデンディーの本気モードにこれはヤバいと彼を止めたが間一髪だった。

メラピークに登頂した瞬間!

シェルパたちと山頂で記念写真

 それにしても短刀一本で尻持ちをつき怯えきっているイギリス男の姿に果たしてこの男に国防の一端を任せられるのかと人様のお国事情で余計なお世話かもしれないが心配になったものだ。後でデンディーの「本当にやろうとしたの」と聞いたら「もちろん、ケンがシェルパを守ろうとしたのだから」と一言。寡黙な男であるが、それ以後私とデェンデイーはいつも一緒、セットとなった。男と男との関係はいかにも単純で時に野蛮だが、ピンチな時に体を張って助け合った時に初めて確かな絆が生まれるもの。それにしても、ニマとの件にしろ、デンディーの件にしろ、やはり若かった。若さゆえの危うさもあったが、私の大切な青春の一ページに違いない。

クレバスに気をつけながら登る



アタック中の撮影は過酷だ。頑張る平賀カメラマン

 8年ぶりにメラピークに登りながら「本当に色々あったなぁ〜」とヒマラヤ、またシェルパとの関係、どちらも私にとっての原点がここメラピークにある。2008年5月29日、午前9時、メラピークに登頂!山頂からはチョオユー、エベレスト、ローツェ(ローツェシャール含む)、マカルー、カンチェンジュンガと8000M峰5座が見渡せる圧巻の景色。メラピークの山頂で抑えかけていた冒険心に再び火がつこうとしている事を客観的に自覚している自分、そして「それでよい!」と容認している自分がいた。

 2008年4月29日 メラピーク登頂後、カーレ(メラピーク・ベースキャンプ)に下る。
カーレにて 野口健