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レイテ島・遺骨調査の報告

  フィリピン・レイテ島での遺骨調査のため、10月17日、日本を出国しセブ島へ。空援隊の事務局長であり、またこの度の団長の倉田宇山(くらた・うさん)さんと合流。18日、レイテ島、オルモックに入る。何が何でもご遺骨を祖国に還すといった倉田さんの強い思いによって「空援隊」が誕生。空援隊によるフィリピンでの遺骨調査活動はこの3年間で20回を超え、今年に入ってから7回目。フィリピンはレイテ島、セブ島、ルソン島、ミンダナオ島が最も多くの戦死者を出した地域であり、いまだ40万人のご遺骨が野ざらしになっている。激戦地となったレイテ島では8万人以上の日本人将兵,軍属(民間人)が犠牲となり、その大半が収集されていない。


レイテ島で見つかった御遺骨

 レイテ島が激戦地となったのは、その地形が平坦であり航空基地に適していたからだ。米軍が上陸する前、このレイテ島を防衛していたのは第16師団(18,600人)のみ。直前の「台湾沖航空戦」で大本営は大勝利をおさめたと報じ、10月20日には日比谷公会堂では首相はじめ海軍大臣、陸軍大臣ら閣僚が集まり大勝利を祝いバンザイ三唱が叫ばれ歓喜に沸いていたが、皮肉にもその同じ日にアメリカ軍がレイテ島に上陸。

 アメリカ軍の主力である航空母艦の大半を撃沈し壊滅的な打撃を与えたとされ、レイテ島を襲ったアメリカ部隊は台湾沖で破れた一部の敗残部隊に過ぎないと考えられていたが、これはまったくの誤報(空母11隻、戦艦2隻を撃沈、空母8隻、戦艦2隻を撃破、その他多数の敵艦を撃沈したと発表したが、沈没した艦艇はゼロであった)であり、レイテ沖にはアメリカ軍艦船700隻が集結し、一斉艦砲射撃が行われていた。海軍中枢部には極秘で誤報であったと報告されていたが、すでに天皇陛下にも報告され、また陸軍との対立もあり、誤報と知りつつもその事実は伏せられたまま、その3日後にレイテ島決戦が遂行された。日本軍部隊は大幅に増員されたが、予期せぬアメリカ艦隊からの一斉艦砲射撃に多くの兵士はジャングルの奥地へと逃避するしかなかった。

 そして追い討ちをかけるかのように日本兵に襲い掛かったのがフィリピン人による対日ゲリラだ。開戦直後に日本軍によりフィリピンを追われたマッカーサー大将はフィリピンの対日ゲリラの組織化に全力をあげていた。無線機や、武器、弾薬、医療機器などを潜水艦に積み込み密かにレイテ島に送り続けていた。そして日本軍の動きは隅々までゲリラに監視され詳細にマッカーサーに報告されていた。

 そして12月10日、大本営はついにレイテ島を放棄し、生存している兵士にアメリカ軍が上陸していなかったセブ島へ避難するように命じたが既に時遅し。衰弱しきっている兵士に自力でジャングルを超え、海を渡るのは絶望的であり、また捕虜になることを禁じられていたため、多くの兵士が自決。セブ島に渡ることができたのはたったの900人。そして1万人以上がレイテ島に取り残された。
兵士はカンギポット山に立て篭もり徹底抗戦を試みたが、食料、弾薬の補給もなく極限の飢餓に苦しみ、一万人以上が生存していたとされている日本兵だが終戦時にカンギポット山から下りてきた兵士はたったの一人もいなかった。レイテ島に送り込まれた兵士の大半は20歳前後の若者であり、実に投入された兵士の97パーセントが戦死。作戦の破綻である。

 この度、我々が調査を行ったのはその玉砕地となったカンギポット山とその周辺であった。
10月18日、SAN VICENTE周辺 ご遺骨1体を発見
10月19日、MATAG・OB市のバナナ畑にてご遺骨2体を発見
カンギンポット山、山中の洞窟の中にてご遺骨3体を発見
10月20日、オルモック市内、ご遺骨約10体を発見
10月21日、カモテス諸島に渡りご遺骨約8体を発見
4日間の調査では約24体ぶんのご遺骨を発見。

 ご遺骨と一緒に多くの日本製の手榴弾、銃剣、弾薬が発見。いずれも不発弾であり未使用であった。自決する余力もなく餓死だったのだろうか。ご遺骨を握りしめ何があったのか英霊の声を探したが、私には無念さしか伝わってこなかった。

手前にあるのが日本製の手榴弾など

 今回の遺骨調査隊に5名の一般参加者が加わった。驚いた事に参加者の方々はNHKの「視点論点」で私の遺骨調査活動を知り申し込んでくださったのだ。

 ご夫婦で参加となった間島ご夫妻。奥様のお父さんがレイテ島で戦死されご遺骨は不明のまま。もしかすれば、今回発見されたご遺骨の中にお父さんがいらっしゃるのかもしれないと、「一度、お父さんに会いにレイテに来たかったんですよ。お父さん!」と涙を流されていた。あれから60年の歳月が経ち、娘さんがお迎えにレイテ島にやってきたのだ。お父様はさぞかし喜ばれているに違いない。
  また森田裕子さんはご遺骨に触れながら「本当にお疲れ様でした。こんな所に連れてこられて、早く日本に帰りたいですよね。本当に申し訳ないです」とバラバラになっているご遺骨の頭、背骨、手足と順番通りにそろえていた。藤岡誉司さんは「記録映像は白黒ばかりで現実味がなかったが、でも自分の目でこの景色を見て、この現場に立ってみて本当に戦争があったのだと感じた」と、危険地帯であり多くの参加者を募ることは出来ないが、少しでも多くの日本人に現場での出来事を知ってほしい。

 ジャングルの中は蒸し、スコールにうたれ過酷な気象条件であった。我々はたかだか数日間の滞在であったが、それでも疲労困ぱいであった。このジャングルの中、援軍が来る望みもなく、置き去りにされ、見捨てられた兵士たちは一体なにを感じ最期のその時を迎えたのだろうか。山の稜線に上がってみると太平洋が見渡せた。あの海の向こうに祖国日本がある。帰りたいという思いと同時に、絶望的な作戦を強いた国に対する怒りがなかっただろうか。そもそも誤報から始まったレイテ決戦。作戦自体が最初から破綻していたのだ。兵士を大切にしない組織はろくでもない。

カンギポット山中腹の洞窟の前にて

 彼らは祖国に殺された。私にはそう感じてならない。にも関わらず国は最低限の責任を果たそうともしない。
 
  それと比べアメリカは未だに約400人の軍人、また戦史研究家、人類学者がチームを作り第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで行方不明となった兵士の捜索、遺骨収集を行っている。年間予算は55億円。昨年6月には硫黄島で行方不明となっているたった1人のアメリカ兵士のために捜索が行われた。アメリカはこうした調査を世界各地で継続しているのだ。
  レイテ島で調査活動を行いながら、本来ならばこれは国の役割であると、ただその国がやらないのならば、じゃあ一体誰がやるんだ!と、国が動くまで、私は空援隊の一員として倉田宇山さんと共に英霊の元へ通い続けたい。

 ご遺骨はなにも語らない。ならば我々が代わって声をあげるしかない。レイテ島には未だ8万体ものご遺骨が残されたままである。

2008年10月23日 日本に戻る 野口健