シェルパとの共存共栄

 シェルパとはヒマラヤの案内人のことです。ヒマラヤ登山はシェルパ達の協力・サポートなくしては不可能です。日本をはじめ世界中の登山隊がヒマラヤで登頂を達成できるのも現地に住むシェルパのサポートによるものです。しかし、毎年遭難や事故にあうシェルパは少なくなく、残された家族への補償や、事故にあったシェルパへの医療やケアは十分ではありません。

 1995年11月10日にネパール・クーンブ地方にて大雪崩による事故が発生しました。日本人13名、ネパール人12名の計25名が亡くなりました。その中に野口が弟のように接していたナティー・シェルパー(当時18歳)が含まれていました。
 日本人の遭難者が多数含まれていたため、日本でもその模様は連日報道されました。しかしどのメディアでもシェルパ族の遭難に関してはほとんど触れられていませんでした。 野口がナティーの遭難を知ったは、ナティーの兄デェンディーから「ナティーが日本隊にポーターとして参加し雪崩に巻き込まれ死にました」との連絡をいただいためです。
 日本にいた野口は、急いでヒマラヤに飛び、ナティーの亡骸の前で兄デンディーに会います。そこで、デンディーは涙ながらに「私たちは好きで山に登っているのではない。危険を承知で山に登らなければ生活していけないんだ」と訴えたそうです。

 このことがあるまで実は野口自身も、毎年多くのシェルパがなくなっているということについて知りませんでした。隊長である野口は他の隊員の生命を預かる立場です。一つ一つの判断に重い責任があります。しかしシェルパに対しては、専門家であるという認識からなんとなく「シェルパは大丈夫だろう」というように、隊員に対するほど強い責任感を持っていなかったといいます。

 この事故以来、野口はシェルパ族と登山隊の共存について思索に耽ります。
「シェルパにも生活があり、登山隊が彼らを必要としなければ生活ができない。逆に登山隊も彼らの協力なしではヒマラヤでは活動できない。しかし自分たちの夢を実現するためにシェルパ達を犠牲にしてはいなにか。無理難題を強いてはいないか。シェルパとの共栄共存の道はないのだろうか」
 そして少しずつ「シェルパ基金」の構想がふくらみ、設立にいたりました。
 
 シェルパ基金はシェルパ(他民族も含む)が山で遭難死したり、また下山後に高度障害の後遺症により死亡したシェルパの遺児達の教育費を負担することが主な目的としています。これまで計9名の遺児達に援助を行ってきました。また基金の設立により、広くシェルパの現状を知らしめることも目的としています。
 今後は遺児の教育以外にも、後遺症があるシェルパの復帰訓練、山間部への学校設立などを徐々に活動を広げていきます。

   

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