2002年9月アーカイブ

悔しい。

 このシシャパンマを断念してから、悔しくて寝られない夜が続いている。これだけ体が疲れているにも関わらず寝られないことに驚き、また正直、嬉しい。自分にも、まだ負けん気が残されていたことがなによりも嬉しい。

 このシシャパンマ挑戦は、最初から自分の登頂がイメージできないでいた。戦う前から敗北が決まっていたのだ。私の登山歴の中には、いくつも敗退は記されているが、その中に1つだけ「敗北」という文字が過去にもあった。1997年のチョモランマ挑戦だが、ついに2つ目の「敗北」が私の中で記された。

 しかし、このシシャパンマ敗北は大きな意味がある。いままで、直視しようとせず、何年間もの間、蓋を被せてきたある思いがこのシシャパンマ敗北によって吹き飛んだ。それは、もう避けては通れない道。随分と時間がかかったが、やっと自身を見つめ直すことができた。

 自分の全てを賭けた大きな戦いが始まろうとしている。思い出すな~97年の5月下旬、チョモランマ敗北直後、やはりこのカトマンズで一大決心したあの夜と同じだ。もう1度、あの頃の自分に戻れる幸運さに感謝したい。

 


 

 いよいよ、明日、山を下りる。撤退を決断してからというものの、朝目が覚めてテントの入り口を開けると目の前にシシャパンマが大きく構えている。
「敗戦の将、多くは語らず・・・」
というが、やはり、その頂きを見せ付けられるとついつい愚痴がでてしまう。
「本当に自分はもっと頑張れなかったのか」
と、その度に高畑隊員が
「ケンさん、負けたわけじゃないんですから・・・。正しい判断でしたよ・・・」
と励ましてくれた。なかなか、撤退の決断ができない僕に
「もう、下りましょうよ」と、とても言いづららそうに言ってくれるのだが、
「そんな事は自分で決める事だ!」
と思わず厳しく言い放っていた。テントの中でジッとどう判断するか迷いに迷った。すでに自分が登頂できるイメージなどわかなくなっていた。

 せめてもう一度だけでもキャンプ1に行きたいと思っているのだが、しかし、相変わらず食欲はなく、キュウリを薄くスライスしてもらって、なんとか胃袋に収めていたが、明らかにスタミナがない自分をトイレに行く度に感じていた。寝袋に潜り込むだけで息が切れ、夜になれば順化できていたはずのABCでも頭痛と吐き気に襲われた。そんな僕をやはり高畑隊員は心配でならなかったようで、
「よし、明日から上部に向かう!」
と僕が決断したら
「どうやって止めたらいいんだろうか・・・」
と本気で悩んでいるような顔をしていた。ABCに下りて3日目の朝、
「高畑、もう終わりだ。下りるよ。いろいろありがとう」
と言った時の彼の安堵の表情は忘れられない。

 シェルパ達も同様で皆、僕の判断が下るのをじっと息を殺しながら待っていたようだ。断念の判断に皆の表情が明るくなった。自分のわがままで皆に迷惑をかけた。でも、わがままを許してくれた素敵な仲間達とシシャパンマに挑戦できたこと、本当に自分は幸せ者だと思う。自身にガッカリしたこのシシャパンマ挑戦であったが、しかし、仲間たちとの絆はよりいっそう深まった。

 明日から、この山を下りる。やはり、どこかで寂しさを感じているけれど、また、同じメンバーでこのシシャパンマにやってきたい。そう
「また、来るよって!」
とシシャパンマに挨拶してニコニコ笑いながら日本に帰りたい。

 

 

 

決断に時間がかかりましたが、シシャパンマ登山は断念します。肉体的、精神的に限界。7月下旬から体調不良になやまされ、なんとか回復させようと努力していましたが、そのままの状態でシシャパンマ挑戦が始まりました。

 途中、ABCで体調が回復したように感じられ、また、そのように思い込もうとしていたのも事実。なんとか気持ちを盛り上げようと必死でしたが、そんなものは通用するはずがなかった。過信があったのもその通り。体調が悪いのは分かりつつも、どこかでなんとかなると信じようとしていた。このシシャパンマ挑戦に色々な思いがあっただけに、なかなか現実を直視できなかった。

 しかし、まだ、終わったわけじゃありません。

 半年後には最後のエベレスト清掃登山が控えています。今日からエベレスト遠征までどのように過ごすべきなのか、このシシャパンマ敗退が全てを物語ってくれました。追い詰められてしまったのも、自身の弱さでしかない。時には、断る勇気も必要。生活環境の全てを見直す。そして自分の足で起つ。

 ゼロからのスタートとして、一から出直す。来年の春には100パーセントの状態でエベレストに挑めるよう全身全霊で戦っていきたい。

 多くの方々に声援を頂きながら、今日まできました。みなさんからのメッセージ、本当に嬉しかった。それだけに、期待に応えられなかったこと、とても残念ですが、ただ、次があります。この敗退が意味あるものになるのか、ならないのかは今後の私にかかってきます。
今日から頭を切り替えて、再度、本当の意味での「前へ前へ」と向かっていきたい。本当にありがとうございました。

 


 9月16日、C1へと向かった。途中まで高畑隊員が見送ってくれた。C1までは極めて順調。一時間以上前に出発していたスイス隊に追いついたものの6000mを越えた辺りから急にブレーキがかかる。

 体が思うように動かず、首から下が他人の体のようになっていくのが分かった。

 C1のテントに着くなり手足がしびれた。その夜が酷かった。意識がもうろうとしていくのが自分でも分かり、同時に吐き気に襲われ、この日はほとんどなにも口にしていなかったので、胃液だけを吐き出すのだが、吐いても吐いてもスッキリしない。そして目の前の景色が揺れて見え出した。以前、登山家の小西浩文さんが襲われた症状と同じだ。パルスオキシメータで血中酸素濃度を計ったら63パーセントという数字にショック。雪崩れの音が近くで鳴り響くが、もう恐怖感もなくなっていた。胸ポケットに僕のお守り達がいるので手を突っ込み握りながら
「どうにでもなれ!」
と声だけは出していたような気がする。

 翌朝、他の登山隊が
「雪崩れが危険だ!」
と撤退していくなか、下山する余裕もなく、また、どうしてもC2までは到達したい。しかし、これがいけなかった。その日は地吹雪が酷くテントから一歩も出れず、雪で押しつぶされていくのだが、体がなかなか動かず、どうすることもできず、そして再び、酷い頭痛と吐き気、そして顔の浮腫み。胃液を吐いていたら、目の前の雪が赤くなった。吐血だ。

 9月18日、早朝、もうダメだとシェルパに伝えABCへと下りことした。2人のシェルパ達に支えられながら、7時間以上かけてABC着。

 どうしてこうなったのか、正直分からない。とにかく、今はダメージを受けた体を休ませること。このABCで体制をたてなおしたい。

 

 


 

 

 本日9月16日、ネパール時間の午前8時00分、野口隊長はABCを出発し、本格的な登山活動に入りました。今回の目的はキャンプ2,3の設営、および高度順化トレーニングで、これに4,5日をかける予定です。これがうまくいけば再びABCにもどり、3,4日の休養の後、今度は山頂をめざすことができます。

 すべては高度順化にかかっており、上手くいかないとこれをまた繰り返さなければならず、時間とともに体力を奪われてしまい、無酸素による登頂は遠いものになってしまいます。

 気合充分、祭壇にいつもより長く手を合わせる野口隊長。ABCからは氷河を右に見ながら長いモレーン(氷河の圧力によってできたガレの山)を3時間ほど進み、デポジットキャンプへ。ここはキャンプ1とABCの中間点に位置し、氷河の入り口にあるため、重い登山用具などを置いておくための場所。ここから上は本格的な冬山登山になるため、私はここで隊長を見送り、ABCへ。

 スニーカーから登山靴に履き替え、ハーネス、ピッケル、アイゼンを装備し、氷河に入る。氷柱帯を横切り、標高差300メートルほどを登ります。氷柱帯のすぐ先に人が見えますがこの標高だからか、なかなか先に進みません。近くに見えるキャンプ1までここから4時間、そしてキャンプ1では延々と氷から水を作る作業が待っており、夜は頭痛との格闘。すこしずつ前へ前へ、野口隊長の楽しみにしていた長く過酷な登山は始まりました。

 シシャパンマはABCが遠く、遮断物が多い為、キャンプ3まで無線機が使えません。よって今回は隊長が帰ってくるまでの4,5日間、無事を祈って待つだけです。残されたコックのペンバ、キッチンボーイのデンディと3人で毎日祭壇の前で祈ります。

2002年9月16日
シシャパンマの麓より 高畑将之

 

 明日からキャンプ1へ向けて登山活動開始。今日は一日中、ボケーと過ごした。髪の毛や体を洗い、また、テントの中で本を読んだり、整理したりと久しぶりになにもしない日だった。テントの出入り口から眺めるシシャパンマの姿が日増しに大きく見えてくる。昨夜は寝ていたらドドドドドーと雪崩れの音が響き渡り目が覚めてしまった。

 いよいよ、きたな~ シシャパンマ!

 明日からがスタートライン。いつも通りと思いつつも、どこかで緊張しているのかもしれない。なかなか寝付けないどころか、突然、下痢になった。朝には治っていたが・・・。これから2週間の勝負。明日はキャンプ1、その翌日にはキャンプ2を目指し、ここで二泊する。そしてキャンプ3付近まで標高を上げて、キャンプ1に戻る。そしてABCにいったん帰り、数日間の休養をとった後、4日間かけて山頂アタック。これはあくまでも予定だが、9月28日頃、登頂したい。大体、予定通りに事が進んだ事などないが・・・。遠征期間も半分以上を経過した。あまり時間がないが、ここで焦ってはいけない。 僕は白神山地に行くといつもあの腐葉土に感心させられる。裸足で歩いても柔らかいじゅうたんのように、優しく僕の足を包み込んでくれる腐葉土。1000年以上もの間、ブナのおち葉が一枚一枚蓄積されてあのような素晴らしい腐葉土が形成されるのだが、人の人生もそのようなものかもしれない。

 このシシャパンマ挑戦が僕にとっての一枚のおち葉になればいい。

 

 


 今日がABCでの最後の高所トレーニング。昨日2時間30分かけて登った裏山(5700m)に今日は1時間30分で登頂!この好調さには自分でも驚いてしまった。そこから、調子にのってしまい
「よし!高畑!俺は走るぞ!」
と5700mの地で走り始めた。口から心臓が飛び出しそうになるが、それでも気持ちがいい。走っては休み、また、走っては休んだ。この標高で走ったのは初めて。なんなんだこの体の軽さは・・・。ここ数年にない体の好調さに人間の体ってつくづく、不思議だな~と思った。ここのところずっと心の中に閉まっていた色々な出来事がここにきて一気に爆発したような、開放感すらあった。もうバント、コツコツは辛い。思いっきりホームラン打たせて!

 トレーニングの最後は美しい湧水湖に出かけた。あまりに綺麗な湧水湖に日本の
「ふじみ湖」
と重ねて眺めていた。日本にも美しい湧水湖がある。茨城県笠間市にある「ふじみ湖」だが、今まさにその
「ふじみ湖」
が殺されようとしている。ふじみ湖を埋め立てて、その上に産業廃棄物最終処分所を茨城県が建設するというのだ。来年には
「水の環境フォーラム」
が日本で開かれる。その開催国であり議長国である日本が、貴重な湧水湖を産業廃棄物で埋めてしまおうとしている。時代錯誤がはなはだしい茨城県と笠間市。今まさにその工事が着工しようとしている。悲しい事だ。
「シシャパンマの湧水湖はそんな哀れな人間どもの餌食にならず、幸せ者だな~」
と思い、また
「これが本来の姿なんだ」
と考えさせられた。

 トレーニングを終了しABCに戻ってきた。そこでシェルパ達と相談し色々な状況からC1行きを一日延期。僕としても明日はゆっくりと体を休ませたい。体調不良など厳しい状況の中で出来る限りの事はした。毎日、毎日、安定しない体調をじっくり見つめながら、今何が出来るのか、いや、何をしなければならないのか、自分の体と会話しながら日々を過ごしてきた。小さな小さな一歩。でも確実に前へ前へと進んでいるんだな~。

 

 


 今日はシシャパンマ登山へ向けての安全祈願。いつもの清掃隊とは違い、たった6人のささやかな儀式。

 ニマ・オンチュウが
「今回の登山はファミリーだ」
と、言ってくれたが、本当にそうだ。ここにいるシェルパ達は永年に渡り僕を支えてくれた仲間だ。

 それこそデンディーは今年で10年目の付き合い。僕が高校生で初めてヒマラヤに挑戦したときからずっと僕のそばで支えてくれている。

 あるときは、英国隊の隊員が僕のシェルパに向かって野蛮な言葉を使い、
「コノヤロー」
と口論になり、その野蛮な英国人が僕の襟首をつかみかかっその瞬間にデンディーが短刀を抜き、その英国人に襲いかかろうとした。必死に止めたが、デンディーは本気で彼を刺そうとしていたのだ。
「ケンはシェルパのために戦ってくれた。そのケンに手をだすやつは許さない!」
と、最後は涙声で訴えていた。そんな事は1度や2度じゃない。

 あるときはこうだ。村のシェルパが酔った勢いで僕にからんできたが、それを知ったデンディーはその酔っ払ったシェルパの家に乗り込み殴りつけただけでなく、家に火を放ってしまった。翌日、その事を知らされ、村長に頼み込んで警察に捕まっていたデンディーを迎えにいったこともあった。

 ニマ・オンチュウもクリシナも97年のチョモランマ挑戦から僕と一緒だ。

 コックのペンバは98年からずっと僕の胃袋を満足させてくれている。ただ、1つ悩みがある。一生懸命作りすぎる。体調が悪くて食欲がなくても、彼はいつでも一流の料理を作ろうと本気で料理している。僕が食べているときはじっと僕の顔色を眺めている。苦しくて食べられないときなど本当に悲しそうな顔をする。これが、たまらなく辛い。そして食後に
「ペンバ、今日も美味しかったよ!」
と、声をかけると目をハートマークにさせながらはにかんで喜んでくれる。彼の愛情に溺れそうになる。贅沢な悩み。僕はこんな素晴らしい仲間と一緒だ。オンチュウが言ったように僕らは
「ファミリー」
なんだな~

 午後は順化活動の為に裏山に登った。体が軽い。スタスタと足が前にでる。昨日は全身がだるくて気が重かったのがウソのよう。約200m登ったが、苦しくない。帰りは余裕が出てきたのか、高畑隊員に
「日本の政治は一体全体どうなっているんだ!」
と、議論を吹っかけたがこれはあまり反応がなかった・・・。

 スペイン隊の3名がC1から下りてきたが、
「キャンプ2付近が雪崩れでやばい!しばらくABCで待機するよ!」
と我々に言い残してテントの方へと消えていった。明日の朝、体調がよければC1へと向かう予定なのだが・・・。

 

 

ABCは遠かった

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 ベースキャンプを出発したくても、なかなかヤクに荷を詰めない。チベットのヤクは元気がいい。跳ねるは、頭を威嚇しながら角を振るはで、ヤク使いのチベット人もなかなか近づけない。結局、ベースキャンプを後にしたのは午前10時30分。目に前の川を渡らなければならず、靴を脱ぎ川の中へと入っていったが、氷河から溶け出したこの水はめちゃくちゃ冷たく足の指先がキーンと痛んだ。
だだっ広い高原をひたすらシシャパンマへと向かって歩くが、全然近づいてこない。そしてお決まりの雪が降りだす。雪の中、ヤク達と歩いていたら、今後の展開について色々と考えてしまった。パッと頭を切り替え
「日本に帰ったらなにが待っているんだろうか」
と、楽しいことだけを考えるようにした。途中で高畑隊員が遅れ、デンディシェルパが彼についた。いくつもの、モレーンを越えるが全然、ABCが見えてこない。氷柱群が表れその美しさだけが救いだ。

 午後5時30分、ABC着。目の前のシシャパンマは雪に覆われ真っ白。どう見ても雪崩れ多発地帯にしか見えない。サーダのニマ・オンチュウの顔を見たら彼も同じ事を思っているに違いない表情をしていた。
「シシャパンマ」

「雪崩れ」
僕にとってはこのシシャパンマ挑戦は弔い合戦でもある。

 今から6年前の今ごろ、僕の命の恩人がこのシシャパンマで雪崩れに巻き込まれ亡くなった。彼の名前はギーナァ。僕がヨーロッパ大陸の最高峰であるエルブルース峰に彼と挑戦し、しかし、高度障害でアタック中に意識を失った僕の体をギーナァが山頂直下から担いで下ろしてくれたのだ。その彼がこのシシャパンマで雪崩れで亡くなったのだ。その悲しい知らせを聞いた時に
「いつかシシャパンマに行く」
と、心に決めていた。あれから6年。ABCからシシャパンマを眺めながら
「ギーナァはこれにやられたんだ~」
と気持ちがグッと引き締まった。

 高畑隊員とデンディシェルパがいつになっても、ABCに着かない。チベット人にお願いし、馬で彼を迎えに行ってもらった。それから数時間後、彼はABCに着いた。
「遅れました~ すみませ~ん 体調が悪くなりました。高山病です~」
とまたまた悲しげな表情。しかし、この短期間でこの標高まで登ってくれば誰でも体調を崩す。
「体調を崩すのは当たり前なんだから気にするなよ」
と伝えた。以前、高畑隊員はアドベンチャレースに参加し、チベットに来たことがある。その時もチベット高原で高山病犯され1人、馬に乗せられたことがあったそうだ。その屈辱がいまだに抜けていないみたいだ。でも、人間の体なんかそんなもんだ。酸素がなければ当然、あちらこちらに障害がでてくる。僕なんか、ここ数年、どうも記憶力がなくなってきたような気がする。この間なんか友人と寿司を食べに行ったんだけど、その彼女が美味しそうに食べているその寿司を見てたら自分も食べたくなって
「それ、なに!俺も食べたい」
と、言ったらその彼女がキョトンとした表情で
「ケンさん、たった今、同じ物を食べたじゃない!」
と言われたがどうにも思い出せない。数分前の事なのに・・・。高所の影響かそもそもそれが自分の体質か分からないが、しかし、年々、高所に行くと自分の体が衰えているのが分かる。そもそも高所登山は不健康だ。ゆっくりゆっくり体を慣らしながら最後は体をごまかしていくしかない。早く日本に帰って温泉にでも浸かりたいな~

 

 

 

体と仲良く会話

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 朝、目が覚めて頭を振ってみたが痛みが少ない!というより寝られていた。久しぶりに気持ちのいい朝を迎える。しかし、今度は高畑隊員が顔を腫らせながらテントからでてきた。
「風邪っぽいです~」
と、悲しげな表情。裏山に登ろうと体はワクワクしているのに、なかなか雨が止まない。午前中はテントの中で本を読んで過ごした。昼食は焼きそば!

 ここのところ食欲というものを忘れていただけに、この日本の香りに感激。珍しくおかわりした。そして午後雨が止み裏山に登った。少しずつペースを上げ、息が切れたらゆっくり登る。息が落ち着けばまたペースを上げるのを繰り返しながら200mほど登った。さすがに頭がふらついたが昨日のだるさがない。平地になっている所を恐そる恐そるゆっくりと走ってみた。
「走れる!」
3分走って休む、そしてまた走ってみる。息が切れるが気持ちがいい。ここのところ、しばらく機能が停止していた細胞が生き返ったように体が生き生きしているのが分かる。一時間ほど、走ったり、歩いたり、柔軟体操したりした。明日はいよいよ、ABC(5600m)だ。まだまだ、いつもに比べたら程遠い体調だが、それでもこの4日間のBC滞在で最低限の高所順化ができたようだ。今日も自分の体と会話しながら体調がいいと
「よし!その調子だ。頑張れ!」
と声をかけてやっている。人間の体は本当に面白い。自分の体と会話してやると、ちゃんとそれに応えてくれるんだよな~。ダメな時はどんなに声をかけても
「兄貴、ダメっす」
って素直に返事が返ってくる。明日からも、自分とのコミュニケーションを大切にしていきながら一歩また一歩、確実に登っていきたい。

 チベットにきて本当に良かった。この雄大な大地に身をおいているだけで、人生観が変わりそうだ。このノンビリとした空気の流れの中で物事を考えていると日本での自分の心の小ささがよ~く分かる。なんて俺は心の狭い男なんだろうか、と気がつかされる。忙しいという字は「心を亡くす」と書くでしょう、本当にそうなんだな~。

 99年エベレストに登ってから生活が一変し、ひたすら走ってきた。時には自分でもどこ向いて走っているのか分からなくなった。それでも、ただひたすら走るしかなかった。走ることによってしか「答え」が見つからないような気がしていた。しかし、同時に大切なものを失いかけていた。いつしか本気で人と向き合えなくなったような気がする。どこかで、「こなす」ことを覚えたのかもしれない。疲れたくないという防衛本能なのかもしれないが、これは僕にとって致命傷だ。いつまでも本気で、前へ前へと進まなければ自分の存在は意味がない。
「心技体」

「心」
が真っ先にくるのもうなずける。このチベットで心を養いたい。そして、また、心新たに走り続けたい。

 

 


 「こりゃ~気長に構えるしかないかな・・・。」
昨日の高所順化で少し体調回復かと思いきや、なかなかうまくいかない。

 昨夜は胃痛と頭痛で一睡もできなかった。11日からABC(アドバンスベースキャンプ 5800m)に向かうがそれまでになんとか調整したい。

 かつてヒマラヤでは経験したことのない低所での高度障害。7000mまではいつでもすんなりと高所順化できていただけに、どこかで自分を過信していたのかもしれない。自分を知る良い機会になれば・・・と思う。でも、体とは面白いもので山に来ると自分の体調の具合がよく分かる。これは時間単位ではっきり自覚できる。今日、明日とどこまで回復できるのか、どうすればこの状態から脱出できるのか、これも挑戦。大切なのはいつでも前向きであるということ。必ずこの状態から抜けられるはず。 今日はハードに斜面を登るのは控え、BC前の川を上流に向かってのハイキング。高山病の時にテントの中でじっとしているのが一番いけない。精神的に参ってしまうのと、少しでも体に負荷をかけながら低酸素を全身に配れるような体質作りをしなければならないので、いずれにせよ体を動かさなければならない。

 しばらく歩いてふと川の方へ視線をよせたら魚がうじゃうじゃいる! 5000mの標高で魚を見るのは初めて! よくよく見ると口が平べったくひげが生えハゼのような魚や、白神山地で見たような岩魚のような魚だ。このような高原で命とめぐり会え、自然界の生命力を感じた。しかし、同時に、それこそ網があれば大漁だ。
「から揚げにして食べたいな~。」
と、思ってしまった自分もいた。

 さらにしばらく川を登っていったら、シシャパンマが目前に現れた。この楽園のような世界にしばし頭痛を忘れられた。

 BCに戻ってみると新たな登山隊がBC入りしていた。10月中旬あたりが山頂アタックなのだろう。ヒマラヤは10月上旬を過ぎればグッと寒さが増す。そのかわり雪崩のリスクがそのぶんだけ減る。

 その頃を狙うのだろう。我々はそこまでの時間的な猶予はない。辛くないといえば嘘になるが、日本にいる時とは違い自分の事だけを考えればいい。ここにはストレスはない。

 

 


 8時起床。昨夜はとんでもない目にあった。さすがに5000m、日が沈めば突然グッと冷え込む。夕食を済ませテントに戻り急いで寝袋に潜り込みやっと温まってきたら突然、お腹がグルグルと鳴ったかと思いきや緊急事態。慌ててヘッドランプとトイレットペーパを探すもののパニック状態で見つかるものも見つからない。
「平常心、平常心」
と、口にしながら、やっとこさ、ヘッドランプを見つけ出しトイレに駆け込んだ。トイレまでがこれまた遠く涙がでそうだった。それからというもの
「眠りにつけたかな~」
って時にまたあの
「グルグルー!」
と緊急事態警報機が鳴り出す。その繰り返しで朝を迎えた。日本から続いているお腹のストライキ。困ったものです。そして相変わらずの頭痛。いつになったらこいつらから開放されるんですかね~

 そんなこんなで朝食後はあまりの睡魔に勝てず寝袋に潜り込み夢もみないほど深い眠りについた。久しぶりに熟睡。

 昼食後、高畑隊員と高所順応トレーニングの為に裏山に登りにでかけた。なんでもない坂道にハーハーと息を切らし、それでも上へ上へと登りつづけた。一時間ほどで1つの頂きに登ってみたものの、その向こう側にさらに高い頂きがある。
「よし!あれも登ろう!」
と高畑隊員と気合を入れなおした。登り始めて3時間、やっとこの辺りでは最も高いピークに登頂。
「高畑 今何メートル?」
「ケンさん、5580メートルです」
と彼の時計についている高度計が示していた。
「5580メートルか! 結構きたね~」
「明日は少しこの辺りでも走ってみようか!」
と久しぶりのハイテンション。どんな頂きでも登ってみると気持ちいいもの。そして目の前に展開するチベット高原の凄さ。モンスーンのチベットは美しい。緑の高原が地平線の彼方まで続いている。見せたいな~ この雄大な景色を・・・。

 5時にベースキャンプに戻った。今日は充実していた。ところが喜んでいる僕のところに高畑隊員が
「実は240mしか登っていませんでした」

「なんで、お前の高度計で5580mだったじゃん。BCが5000mだからつまり580m登ったんじゃないの!」
と。そしたら
「ところがこの高度計、BCに下りてきても5000mに戻っていないんですよ~ 5340mになっているんですね。調整していなかったみたいです~」
「そうか・・・。でも240mのわりには随分、辛かったな~」
でも明日があるさ!なにも焦ってもしょうがない。頭を振るとやはりまだチクチクと痛むが、これもなんだか気持ちの問題のような気がする。明日も高所トレーニング 楽しむぞ!

 

決意あらたに

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 9月7日、朝7時30分、シシャパンマBCへと向けて出発!

頭痛で寝れない夜を過ごしていただけに移動中はうとうとしてしまい、せっかく車窓から眺められる壮大なチベット高原の景色を楽しめなかったのが残念。途中、5000mの峠を越え、シシャパンマが見えるかな~と期待したが雲がかかっていてお預け。ニャラムを出発して3時間強でシシャパンマBC着。

 僕が想像していたBCとはあまりにもかけ離れていた。目の前には小川が流れ、羊の群れがその水を飲み、遠くには大きな湖があり、テント場も緑の草に覆われ、それはこれからヒマラヤ登山が始まろうとしているような緊張感のかけらも無く、まるでピクニックにでもきたような平和な空間であった。そして次に驚いたのがBCであるにも関わらずほとんどテントが張っていない。聞けば中国隊とスペイン隊の2隊だけが我々より先にBC入りいるとのこと。しかもその2隊ともすでに上部キャンプに向かっており、BCはほとんど無人状態。あの1000人前後いたチョモランマやサガルマータのBCとはえらい違いだ。僕はこの静かな美しいBCが大好きになった。

 午後5時過ぎ、さっきまで雲に覆われていたシシャパンマが突然その姿を現した。大きさに圧倒されながら一体全体、どこから登るんだとルートを探してみたが、その険しさと、いかにも雪崩れが発生しそうな地形にしばらく呆然としてしまった。そしてシシャパンマの回りには大きな山が無い為によりいっそうシシャパンマの巨大さが強調されている。独立峰のどうどうたる姿に胸が熱くなった。さて、どうなるのか、シシャパンマ登山。3年間のブランクがどのように影響するのか。1999年5月13日にエベレストに登頂した時のことを思い出そうとしても、結局は過去の出来事でしかない。終わってしまった冒険の事をまるで今の出来事のように振り返るなんてしょせん、無理な話しだ。シシャパンマを眺めながらまるで初めて8000m峰にチャレンジするかのような、気持ちのいい緊張感に包まれた。

 日本から体調不良に悩まされ、カトマンズ入りしてもそのまま変化もなく、3600mのニャラムで高度障害に苦しみ、どことなく気持ちが前向きになれなかった。「カキコミ広場」でもそんな僕に
「しっかりしろ!」
「隊長が弱気でどうする!」
と檄が飛んだ。でも、このBCでなにか吹っ切れたような気がする。挑戦するからにはもちろん、登頂を目指す。体はこれから順化活動を繰り返しながら整えていけばいい。それでも悪ければ悪いなりの登山のあり方があるはずだ。
「前へ前へ」
この気持ちさえ失わなければ僕にはやれる気がする。いつ終わるか分からない僕の登山人生。その瞬間が訪れ時に
「あの挑戦は素晴らしかった」
と心から思える登山をしたい。

 

 


 9月4日、午前7時カトマンズからチベットとの国境の町、ザンムーへと向かった。

 バスに遠征隊の荷を詰め込み悪路に揺られながら5時間、国境に到着。ここからチベット側から迎えに来ているトラックに荷を積み替えるのだが、村人がその荷を背負うと、バスの前に行列が出来てしまった。ポータとして荷を運べば収入になるということで、それはそれは荷物の取り合い合戦が展開。我々はその迫力に圧倒されっぱなしで、ただただ見ているよりなかった。無事にチベットとの国境越えを果たしたものの、迎えに来ているはずのトラックがいない。待つこと、2時間やっとトラックが迎えに来たが、雨が降っていたので荷台にシートを被せ我々登山隊員とシェルパもそのシートの下に潜り込んだが、排気ガスが入ってきて、呼吸困難どころかガス中毒になりそうになり、めまい、吐き気に襲われた。40分ほどで宿泊地のザンムーに到着したがみなフラフラ。ザンムーは大雨地帯でいつ来ても湿気ジトジト。ホテルの壁もカビだらけ。シーツも枕もカビの匂いで鼻がツーンとしみる。陰気な町なんだな~ 

 9月5日、次の目的地ニャラムに向かおうとするが、ホテル前の道は渋滞で車が動かない。聞けば上のほうで土砂崩れが発生し、道が寸断させているという。復旧作業を行っているとの事だが、我々が乗り込むはずのジープはその土砂崩れ現場の反対側で我々を待っているというので、そのジープまで歩くことになった。

 途中、道が寸断された場所がまるで滝のように水が流れ、しょうがないので靴を脱ぎバシャバシャと渡った。下水道が混じっているんじゃないかと思うような悪臭のする水で途中何度も
「オェっ!」
とした。この中国・ネパール友好道路は友好と名をつけるにはあまりにも酷い状態だ。毎年、ここを通過する時は暗い気持ちにさせられる。

 午後5時ごろ、ザンムー着。3600mほどあるため、やはり寒い。早速ダウンジャケットを取り出した。夜は高山病なのか頭痛に苦しめられた。3600mでの高山病はおそらく過去に経験したことがないだろう。そしてお決まりの下痢。寝られない永い永い夜を過ごした。 9月6日、高所順応のためにザンムーにもう一泊する。朝から頭が痛い。
「う~ん、テンションが下がっちゃうね~」
 朝食後、裏山に登った。4000mまで登ったが体がやけに重い。そして厄介な腰痛。2~3年ぶりの腰痛。おそらく7月下旬から急激に始めた走りこみのせいだろう。なかなかトレーニングできず焦ってしまったのがいけなかったな。初歩的なミス。明日からベースキャンプ。3日間ほどベースキャンプに滞在するので、その間に体調を整えたい。今夜は眠れるかな~

 


 カトマンズ入りした翌日からネパール山岳協会の会長であり、シェルパ基金のネパール代表のアンツェリン氏と打ち合わせを行った。アンツェリン氏はエベレスト清掃活動においても最大の理解者だ。彼の協力無くてはここまでエベレスト清掃活動やシェルパ基金は順調に進まなかっただろう。年々このエベレスト清掃活動が世界に知られることにより欧米人登山家からも嫌がらせが激しくなってきた。実際に
「野口隊のゴミがエベレストに大量に散らばっている」
とネットで世界中に情報を流している輩もいる。日本の山岳専門誌までその彼のコメントを取り上げていたりしている。そんな時もアンツェリン氏は
「ケン、ネパールのみんなはケンのやってきたことをちゃんと理解している。だから気にしないで!」
「ネパールのメディアからも いつケンがネパールに来るんだ! と問い合わせがくる。みんな、ケンが来るのを待っているんだよ」
と慰めてくれる。そしてネパール山岳協会と観光省からその意味不明な情報を流したウェーブや雑誌に抗議文をだし、僕の事を守ろうとしてくれる。

 シェルパ基金に関しても日本人山岳関係者からアンツェリン氏の元へ抗議が寄せられたがそれでも怯むことはない。共に戦ってくれる僕の仲間だ。

 今年の春にヒマラヤで亡くなったチョンリンジの遺児2人が入学した全寮制の学校に見学に行った。カトマンズ郊外の高台にその学校はあった。モンスーンのドシャ雨の中、ジープで30分ほど揺られながらたどり着いたが、空気も良ければ学校も清潔で、勉強するには理想的な環境だ。早速、校長先生とお会いし、各クラスを見学させて頂いた。授業中、こっそりと覗いてみたが子供達の元気さに圧倒された。皆、目をキラキラさせながら俺が先だと言わんばかりに手を挙げて答えようとしている。子供達がちゃんと子供の顔をしている。
「いた!」
チョンリンジの子供が慣れない手つきで一生懸命、エンピツを握ってノートに書き込んでいる姿に思わず自分の子供を見ているような嬉しさがこみ上げてきた。目があったらはにかみながら、クスクスと笑ってくれた。幸せそうな2人を見ながらシェルパ基金作って本当に良かったと、心から実感した。それにしても、2人を眺めていたら、こんなに可愛い子供達をおいて先に死ななければならなかったチョンリンジの無念さを感じずにはいられなかった。彼は登山中に具合が悪くなり岩陰で休んでいるうちに息を引き取ったのだ。
「シシャパンマ登山から無事戻ってくれば、また、遊びに来るね!」
と、2人と別れた。あの子達の笑顔とチョンリンジの顔が僕の中で交互に浮かび上がってきた。共にエベレストで戦った僕の仲間の死と、その子供達。今度は僕がチョンリンジに恩返しする番だ。カトマンズ市内に戻る車の中でこのシェルパ基金を持続させることが、シェルパに助けられながらヒマラヤに登ってきた我々登山家の使命だと、心に強く誓った。

 


 エベレストから戻ってきてからホッと一息つく間もなく目まぐるしく動き回った。

 8月の最後の仕事を終え、ヒマラヤ行きの準備に取り掛かるだけとなったその頃から、なにか緊張の糸が切れたかのように力が抜け、脱力感なのか、なにも手につかず、そのうちに食欲がなくなり、あれっと気がついたら酷い下痢に襲われた。それ以外にも不運が続き、ヒマラヤ行きがずれ込んでしまっていた。

 関西国際空港からロイヤルネパール機に乗り込み、シートに座ったとたんに意識不明。ネパールまでの8時間はほとんど記憶にない。久しぶりに深い深い眠りにつけた。何故かシチリアが夢に出てきたのはまるで現実の出来事のようにはっきり覚えている。僕が、シチリア行きの飛行機に乗り込もうとするのだけれど、どうしたのか僕だけが乗れないままその飛行機は目の前で飛んでいってしまった。他の手段でシチリアに向かおうとするのだが、やはり妨害されてしまう。シチリア、シチリア、と頭を抱えていたら、ロイヤルネパールのアテンダントに
「シートベルトを締めなさい」
と起こされた。着陸態勢に入ったのだ。窓からモンスーン季で緑が青々としているカトマンズの田園を眺めながらシチリアに思いをよせていた。
「シチリアか~不思議な夢だったな~」
 カトマンズでは先にネパール入りしていた高畑隊員と合流。高畑隊員はベースキャンプ・マネージャとして僕の無酸素チャレンジをサポートしてくれる。主にベースキャンプでの通信や、無線係を務める。僕が遅れたぶん、高畑隊員は先にヒマラヤ出発へ向けてカトマンズで準備していてくれたのだ。おかげで9月3日にはチベットへ向けて出発できる。エベレストから暖めてきたシシャパンマ登山がいままさに始まろうとしている。ワクワク、半分。不安、半分。

 今回はエベレスト清掃登山とは違い総員5名の小さな小さな登山隊。シェルパはニマ・オンチュウとクリシチナ・タマンの二人。コックはペンバ。キッチンボーイはデェンデイ。皆、永年にわたって僕を支えてくれた仲間達だ。そしてベースキャンプ・マネージャは高畑隊員。この理想的な環境で8000峰無酸素チャレンジができることに感謝。

 そして今回のもう1つの目的は始まったシェルパ基金の現地スタッフとの打ち合わせ。シェルパ基金の顧問である黒水恒男さんと基金の副理事長であり、また僕の叔母でもある野口公子さんの2人もカトマンズまで一緒にきてくれた。持続させなければならないこのシェルパ基金。ネパールのスタッフとの密なコミュニケーションは大切だ。日本にいては見えてこないことが沢山ある。実際に現場の空気を吸ってもらいながら、なにがこの基金に求められているのかを感じとることが一番大切。どんなに物事頭で考えてみても実際に五感で確かめない限り僕は先に進めない。物議をかわしているこのシェルパ基金。しかし、自分の存在を賭けて必ず持続させる。

 これから2日間、カトマンズでヒマラヤ登山の準備やシェルパ基金の打ち合わせを行い、いよいよチベットへ向かう。99年のエベレスト登頂以来のヒマラヤ8000m峰の登頂を目的としたチャレンジ。ギリギリの世界でどこまで自分の、生命力や勘が残っているのかを確かめてみたい。

 

 



 

暗門の滝を上から望む(2001年撮影)
暗門の滝のガケ部分(2001年撮影)

 8月下旬、僕ら「晴れたらイイねッ!」の仲間たちは「暗門の滝」から工藤さんに案内されて白神の森へと入っていった。台風の影響で朝から曇り空。そして、午後からどしゃぶりの雨に・・・。

 はるか上部から水が流れ落ちる暗門の滝のすぐ脇から白神山地の奥へと入っていくのだが、ここからは道らしい道はなくなる。斜面を登る際にロープを使いたくなるほど、足元が不安定だ。

 そして、雨水がさらに足場を悪くしていた。まず、千夏さんが登り、万が一に備えてサポートに入る。彼女が無事に書く深部を通過し、次に登ってくる渡辺さんに目をやったら、しっかりした足取り
「さすがー」
と、感心し、
「楽しいでしょっ!」
と、声をかけたら
「楽しいっスね!」
と返事が返ってきた。と、その瞬間、彼の足が斜面に飲み込まれたようにすぅーっとながされ、頭より大きな岩が音を立てて滝つぼに落ちていった。渡辺さんの体も落石と共に斜面を滑り落ちる。あっという間の出来事で、僕はどうしようもないままに、渡辺さんとお互いに目を合わせたまま、二人の距離だけが遠のいていった。

 しかし、一本の木が落ちていく渡辺さんを止めてくれた。慌てて木に引っかかった渡辺さんの元に降りて、彼の体を引き上げた。そしてその場で二人して大笑いした。いや、笑うしかなかったのかもしれない。
「もし、あの木がなければ・・・」
と、想像するだけでもゾっとした。ロープを使用するべきだった。僕の判断の甘さを痛感させられた。

 そして、アクシデントはまたやってきた。工藤さんは他の人たちのガイドの仕事が決まっていて、2日目からは地元大学の探検部の学生が案内してくれることになっていた。

 しかし、朝からバケツをひっくり返したような大雨にうたれて、寒さで大坪さんをはじめ何人かの仲間たちの顔から生気がなくなっていくのがわかった。そんななかで僕らはマタギ道を見失ってしまった。雨の中、沢から尾根に上がる地点がわからず、さまよい続けた。僕を先頭に沢から尾根に上がったがやはり、わからなくなり、元の沢に戻ろうと急斜面を下ることにした。沢に先に下りて、千夏さんが降りてくるのを待っていたその時、彼女の体が滑り落ちてきた! 
「ボコッ!」
と、鈍い音がし、慌てて動かない彼女を引き起こしたものの、岩に胸部を打ちつけた彼女の表情はこわばっていた。

 しかし、カメラが回っているのに気づいたのか
「巨乳を打ってしまいました~」
と冗談を飛ばす。そのまま痛みを隠そうと明るく振舞っているのだが、あの音から判断するに肋骨を痛めているに違いない。自分の目の前で千夏さんに怪我をさせたこともショックだったが、みんなに気を使わせまいと痛みをこらえる姿は僕の目に焼きついた。彼女の強さ、優しさを見た。

 その後もなかなかルートが見つけ出せずにいたずらに時間だけが過ぎていった。沢の水量が増え、水が濁りだした。探検部員と手分けをしながらルート探しに必死になる。この時の雨は焦りとショックで一際冷たく感じた。
そんな時に。渡辺さんが
「こっちじゃないですかね~」
とさりげなく指を刺したほうに登って足跡を発見!

 予定時刻を大幅に遅れながら、なんとかテントを設置。雨はいっこうに降り止まず
「このまま明日も雨なのかなー」
と、不安で仕方ない夜をすごした。実はこの日が僕の誕生日、白神山地で僕は29歳になりました。

 翌朝、恐る恐るテントから顔を出したら、うっすらと空が見える。
「晴れた! やっと晴れた!」
最終日にやっと神が味方してくれた。千夏さんの表情にも笑顔が見えた。

 クマゲラの森についたときにみなさんがなんとシャンパンで僕の誕生日を祝ってくれた。
「ポンッ!」
と、森にこだましたコルクを抜く音。僕の最も大切な場所で大切な人たちとこうして自分の誕生日を祝ってもらえたことに感謝、感謝。いままで好き勝手生きてきたけど、来年はいよいよ三十路。これからは自覚を持って次のステップに進まなければならない。

 この白神のすぐ後に。ヒマラヤの8000m峰無酸素登山のチャレンジが控えている。正直、不安だし、自信もない。しかし、あえてこの自信のないことに挑戦してみたい。今の僕にどれだけ生命力が残っているか、ギリギリの世界で自分自身を試したい。色々な思いを込めて僕はヒマラヤに行く。

 直前に素敵な誕生日を迎えられたこと、そして千夏さんの
「連れてきてくれてありがとう」
の言葉、僕は生涯忘れないだろう。またしても、僕は白神の地で癒されたのだった。

 



 僕がもっとも好きな場所のひとつ、それは白神山地。

  エベレストに登頂してから僕は何度か白神の地に足を踏み入れている。それまでの僕の登山は山頂を目指すスタイルで、半ば義務感にもにた感覚に背中を押されて上を目指していた。しかし、エベレストに登頂して、僕の中にある変化が・・・。

 そのことに気が付かせてくれたのがこの白神山地の森との出会いだった。
2001年7月に地元青森テレビのロケで、僕は初めて白神山地を訪れた。白神山地の上空をヘリコプターで飛んだりもした。途中、ヘリコプターのドアを開けたら、機内が甘い香りに包まれ驚いた。初めて嗅ぐブナの匂いだった。一時間ほど白神山地の上空を飛びまわったが、人工物がどこにも見当たらない。空から眺めながら、
「早く、この森に入りたい」
と、興奮していた。そして、又鬼(マタギ)の工藤光治さんとの出会い。取材前に
「マタギの方に白神山地を案内してもらいます」
と聞いたときは正直、不安を感じていた僕だった。
 僕の中でのマタギは「クマ猟」のイメージ。鋭い眼光で、ヒゲもじゃもじゃのガッチリした大男だと勝手に連想していた。

 しかし、初めて工藤さんにお会いしたときには、優しい目をしていて僕の不安は一瞬で払拭された。ちょうど工藤さんの目はヒマラヤに住むシェルパ達と同じ目をしていた。
「この人が本当にマタギ?」
と、思ったほどだ。

 それから工藤さんとは縁あって何度か白神山地を歩いた。工藤さんに案内される白神山地は「マタギ道」と呼ばれるまるでケモノ道のような草や木で多い茂ったところや沢を利用して移動する。驚いたことに工藤さんはそんな目印のない奥深い森の中を地図を持たずに自由に歩いている。聞けば
「地図なんか見ていたらクマを逃がす。一度見た風景は木の一本一本まで忘れない。それがマタギってもんだ」
との返事。森の中を自由に生きているマタギの姿が眩しく見えた。

 そんな白神山地に、何度か通うようになって、ある時ふと、気が付いた。
「そう言えば、山頂に立っていない! ずっと森や沢の中。それでいて心身満たされている。この包まれたような安心感はなんだろう・・・」
都市にいれば、色々と雑音も耳に入る。環境問題への取り組みの前に立ちはだかる人間社会の壁。理解されないことの戸惑い。時に見え隠れする迷い、自信のなさ、無意味なさ、無意味な防衛本能、逃げたいと思う気持ち。そんな時に僕を救ってくれたのが、白神山地の自然ときれいな目をした工藤さんの存在だった。

 今回の白神山地は、フジテレビの「晴れたらイイねッ!」のロケ。2001年11月に大坪千夏さんと八ヶ岳に登ってから、「屋久島」「富士山」と僕らの旅は続いてきた。そして、今回の白神山地。どこも僕にとっては特別な場所であり、その場に大坪千夏さんをはじめ素敵なスタッフの方々訪れることは、いろんな発見があり、楽しみであり、いつも癒されてきた。仕事のスタッフというよりも仲間と言ったほうがいいかもしれない。そして、前回の富士山からは新たに渡辺和洋アナウンサーが加わった。竹を割ったようなスカーッと気持ちのいい男だ。特に山の中で見せる彼の表情は生き生きしていて心底楽しんでいるのが、見ていてわかる。僕がまだ高校生の頃の登山では
「きっとこんな表情をしながら山に登っていたんだろうなー」
と、渡辺さんの表情を眺めていたときに思った。そして、僕もこの白神山地で初心を取り戻せる気がしていた・・・

後編につづく

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