2006年12月アーカイブ

けいさんの散髪

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カトマンズで床屋に行く予定であったが、バタバタしていて結局髪の毛を切れないまま清掃トレッキングが始まった。しかし、耳周りなど、髪の毛が長いのが気になり、気持ち悪くて仕方がない。ナムチェバザール村に床屋がないものかと探してみたら2件あったが、床屋の主が冬は寒いとカトマンズに下っており閉店。「ちゃんと働けよ!」とブツブツと愚痴りながら宿に戻ったら谷口けいさんが「健さん、私が切ってあげる!マナスルではドクターケイとして小西さんの歯を治したのだから髪の毛ぐらい切れるよ」と自信満々。「けいさん、歯と髪の毛とではちょっと違うと思いますが・・・」と謙虚に意見させて頂いたら「そんなことないよ。男でしょ!ジタバタしないの!ハイ、今から散髪始めるよ!」といつの間にか手に大きなはさみとくしを持っていた。ドクターけいがバーバーけいに変身し、散髪がスタート。

けいさん散髪 けいさん散髪


  初めての散髪経験のわりにはけいさんは、なんの躊躇もなくはさみを髪の毛の中にいれバッサリと切っていく。もう僕はとても不安。そんな僕の気持ちなど悟る様子など微塵もなく、本人はとても楽しそう。「ハイ、健さん終わったよ。うん、大成功」と20分ほどで終了。

けいさん散髪

 鏡を覗いてみたら左耳の上がちょっと剥げており、「ここ変じゃないかなぁ~」とケイさんに再び意見させていただいたら「そうかなぁ~ でも大丈夫、そのうちまた生えてくるから」だって・・・。ただ、お蔭様でスッキリしました。何事も経験。それにしてもけいさんの度胸はすごい。っていうかあまり考えていないのかなぁ?

清掃キャラバン開始

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 12月26日、エベレスト街道で清掃活動をスタート。ルクラ村~ナムチェバザール村~クムジュン村を清掃しながらの清掃キャラバン。特にナムチェバザール村はシェルパ族にとってのメッカ。シェルパ族最大の村だ。このナムチェバザールで清掃活動を行いながら、村人に何ゆえにゴミを拾うのか、活動を通じて理解されていけば、ナムチェバザール村から他の村々に広がっていくだろう。「富士山から日本を変える」のシェルパ社会版だ。


ナムチェ清掃 ナムチェ清掃


 
 ルクラ村から清掃しながらトレッキングを開始したが、野口隊(総勢18人)が歩きながらゴミを拾う様子をすれ違う村人が不思議そうに眺めていた。嬉しかったのが日本人のトレッキングツアー客が「頑張ってくださいね!私達も拾いますから!」と声をかけてくれたことだ。実は清掃トレッキングツアーを募集していたものの、なかなか参加者が集まらずツアー自体がキャンセルになっていただけに(私の人気がないのか、または正月明けといった時期が良くなかったのか、それとも清掃トレッキング自体に違和感があったのか分かりませんが)偶然出会った日本人トレッカーが応援してくれたのは慰めになりました。

ナムチェ清掃 ナムチェ清掃


  28日からナムチェバザール村で清掃開始。村人に「一緒にゴミを拾いませんか?」と声をかけるものの、「日当はいくら?」と聞かれガックリ。「自分の村を掃除するのだからお金は払えない」と返事すれば「それならば参加しない」とあっさり。ひなたぼっこしている若い男性二人に声をかけてみたら、「忙しいから」と言うので「ひなたぼっこしていて、なにに忙しいの?」と再質問してみたら困った顔しながら「忙しい」と繰り返していた。そして最後に「村のほうにゴミの処理費を払っているのだから我々はゴミを拾う必要はない」と本音を漏らした。


 次に遊んでいる子供達にも参加を呼びかけたら驚いたことに「ゴミを拾うところをお父さんに見つかったら叩かれる。それにゴミ拾いは私達のやることではないのよ」と話してきた。ネパール社会は階級社会です。階級によっておおよその職業が決められる。「シェルパ族の階級ではゴミを拾わない」との事らしい。したがって親にゴミを拾うところを見つかれば「はしたない」と叱られるのだろう。

ナムチェ清掃 ナムチェ清掃

 

 子供達に「ゴミを拾うことは格好悪いことじゃない。格好良いんだよ」と伝えても相手にされず、ケラケラ笑うので内心「何様だ!」とムッとし、「じゃあね!サヨナラ」と別れようとしたら、さっきまで僕を馬鹿にしていた子供達が突然ゴミを拾い始めたのだ。子供達は素手のまま汚れたゴミをつかみ私のゴミ袋に入れてくれる。村の大人たちは参加してくれなかったが、子供達が動いてくれた。時折、キョロキョロしながら親に見つからないか心配そうな表情をしていたのが可愛そうだったが、彼らの勇気ある行動に心から嬉しかった。日本でも同じ。大人はなかなか動こうとしないが、子供達は一緒に動いてくれる。

ナムチェ清掃 ナムチェ清掃


 ルクラからナムチェバザールまでの4日間で約300キロのゴミを回収したが、なによりも嬉しかったのが、子供達が参加してくれたことだ。村中の人々が自主的にゴミ拾いを始めたマナスル山麓のサマ村と違いナムチェバザール村はエベレストの玄関口だけあって多くのトレッカーや登山隊を訪れるためにシェルパ社会の中でも最もお金持ちが多い。したがって「ゴミ拾いなど貧しい人がやるものだ」といった驕りを感じたりもしたが、まずは始めの第一歩。富士山での清掃活動も8年前は数百人も集まらなかったのに、今年は4800人が全国から集まり富士山クラブと共に約80トンものゴミを回収したのだ。ここナムチェバザールでも活動を続ければ可能性がある。そう希望を感じ、明日からは清掃活動をクムジュン村に移す。


カンティ小児病院に訪れる 龍さんへの約束

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 カトマンズ入りし、サマ村のビルバードル校長とマナスル基金について打ち合わせを行いました。12月上旬にスタートしたマナスル基金はマナスル峰の山麓にあるサマ村に学校を建設(宿舎)することを第一段階の目標としています。サマ村に訪れる予定でしたが、雪で清掃活動が出来そうもないということと、往復約100万円かかるヘリコプター料金を学校建設に使ったほうがいいだろうとビルバードル校長と話し合い、具体的な協議はカトマンズで行いました。1月中旬にもジグメラマ(サマ村僧侶頭・事実上の村長)含めカトマンズにて協議を行うこととなりました。予定では6月中旬までに建設終了を目指します。

  24日、橋本龍太郎氏がネパールに訪れる度に必ず訪れたカンティ小児病院に伺いました。カンティ小児病院はネパール唯一の国立小児病院。以前、ロシア政府の協力により建設されましたが、規模が小さく、また充分な設備が整っておらず、病院に運び込まれる子供達は廊下にまで溢れたそうだ。そして治療が出来ないまま多くの子供達が亡くなっていったとのこと。そこでネパール政府が日本政府に援助を依頼。しかし、日本サイドの判断として他国が手を付けたものに関しては援助しないとのこと。ようするに人の手垢の付いたものには興味なしとのことだったのでしょう。その事を耳にした橋本龍太郎氏が「そんな馬鹿げたことはない!」とカンティ小児病院を視察し日本政府に働きかけ、92年に日本政府の援助によって300床の小児病院が建設された。それから龍さんは橋本基金を設立し治療費や入院費用を払えない貧しい人たちの支援に尽力されてきました。

橋本氏視察
「2002年1月 カンティ小児病院を視察する橋本龍太郎氏」

 2002年、龍さんとネパール入りした際に「野口君も見ておいたほうがいい」とカンティ小児病院に龍さんと同行しました。日本政府の援助があったものの、それは建設までで継続的なものではない。したがって例えば酸素生成プラント(酸素を作る機械)が壊れ使えないままとなっている。そのため、インドから酸素ボンベを購入しているのだが、年間約600万円かかってしまっている。

案内
 案内

「ヒマラヤン・ジャー二(旅行代理店)の大河原社長に案内されて」

  今回、私が訪れた時も心電、心拍、血圧モニターのセットが三つしかなく、集中治療室には3名の患者しか入れない状況だった。夏にはコレラ、赤痢など細菌伝染病に犯された多くの子供達がカンティ小児病院に運び込まれベッドが足りず廊下に寝かされている。なにしろネパール唯一の国立小児病院。ネパール全国から運びこまれるからそれはそれは大変。人手や医療器具の不足から毎年、助けられるはずの多くの子供達の命が失われ続けている。

カンティ小児病院
カンティ小児病院


 龍さんはチューブだらけの未熟児を手に目を真っ赤にしながら「助けなければいけない」「見捨てちゃいけないんだ」と涙ながらに訴えていた。日本政府の援助によってたくさんの命が助かったのも事実。しかし、継続的に活動を続けていかなければ意味がない。龍さんが橋本基金を設立し長年に渡り援助を続けてきたのもそんな気持ちからでしょう。脳内出血により医者にも見離され病室の端っこで誰にも見守られることなく一人死を迎えようとしている女の子を眺めながら龍さんの「見捨てちゃいけないんだ」という言葉がズシリと胸に響いた。龍さんは亡くなってしまったけれど、橋本基金に幕を下ろすわけにはいかない。シュレスタ院長に橋本龍太郎氏の遺志を受け継いでいくことを伝え病院を後にした。

カンティ小児病院
カンティ小児病院


11月24日、母・容子が亡くなった。がんを宣告されてから闘病生活が続いていた。一時、歩けないほど症状が悪化したものの、つらいリハビリを必死にこなし階段を上れるようになった。担当医師もその驚異的な回復力は1000人に一人だろうと驚いた。亡くなる直前に緊急入院し薄れていく意識の中で「もう一度リハビリして元気になる」と話していた母。厳しい状況の中、最後まで諦めていなかった。

 16年前に父が亡くなった母と再婚した。それまでは父と息子二人のだらしない生活が続いていたが、母がファミリーに加わってから生活がガラリと一変した。夜更かししようが、父と朝食を頂くのが義務となった。小学生の頃に両親が離婚、それから父との二人生活が続いており、どこかで友達感覚になっていた。それを新しい母に「お父さんに向かって使う言葉遣いではない」とピシャリ叱られた。もらい放題だったお小遣いもいきなりなくなった。落ちこぼれて、荒れていた私を一から教育しなおしてくれた。

 父が外交官としてイエメンに駐在していた時、第一次の湾岸戦争が勃発。イエメンはイラクを支持しており、国連サイドを支援していた日本に対する感情が悪化していた。そんなある日、自宅の一階に手榴弾が投げ込まれ、一階の一部が爆破された。母は二階にいて助かったが、その事件をきっかけにイエメンに駐在している日本人は相次いで帰国した。父は母に「危ないから帰国しろ」と告げたが「あなた一人残して帰国できません。妻として外交官夫人として残ります」と父とともにイエメンに残った。

 エベレストに2度失敗し、3度目のエベレスト挑戦が始めた時に母からの手紙がベースキャンプに届いた。「無理しないでね」とでも書いてあるのかと思いきや「いつまでも登れないようではダメ。ダラダラと挑戦していたらあなたはエベレストのストーカです。決着をつけてきなさい」とバッサリと書いてあった。驚いたが母らしい応援に目が覚めた。

 厳しい母でしたが、いつでも本気でした。そして全てに筋が通っていた。私の母になってくれた事に心から感謝しています。私も母のように強く生きていきたい。お母さん、ありがとう。

7 月 1 日午後 3 時過ぎ、富士山で清掃中の私に訃報が届いた。橋本龍太郎氏が多臓器不全と敗血症性ショックのため死去された。龍さんと始めての出会いは 2000 年 6 月、エベレスト清掃活動を終えて帰国した直後にさかのぼる。実はエベレスト清掃登山に出かける直前に山岳会の先輩でもある龍さんから一枚のハガキを頂いていた。そこには「 1973 年にエベレストに行きましたが、その時は前年の隊の捨てたもので随分助かりました」と書かれてあった。エベレスト清掃登山を発表をした頃で、エベレストに日本語のゴミが多いと発言し、一部の山岳関係者からしかられていただけに「ゴミに助けられた」という龍さんの言葉の裏になにかあるなと思った。

  清掃登山に対してクギを刺してきたのだろうと、それならば売られた喧嘩なら受けて立とうとエベレストで橋本隊が捨てたボンベを回収し、帰国と同時に橋本事務所に持ち込んだ。「先生がエベレストに忘れたものを持ってきました」とボンベを差し出したら、裏に表示された製造年月日を確認し、真っ赤な顔をされながら眉間にグッとしわを寄せにらんできたので、これは怒るぞと身構えたら、「これは確かに我が隊のゴミです。参りました」と深く頭を下げられた。それから積極的にマスコミに「私のゴミを野口君が拾ってきた」と話し、週刊誌などに「エベレストにゴミを捨てた元総理」とバッシング的な記事を書かれたが、それでも「このような問題は公にしたほうがいい。私が叩かれればこれからの日本隊はゴミを捨てにくくなる」と話していた。

 後で分かったのだが、橋本隊のメンバーが下山中にボンベを空にして遭難しかけた時、捨てられたボンベを発見しそれを吸いながら生還したとのこと。文字通りゴミに助けられたわけで私の勘違いであったが、何より龍さんの潔さに驚き感服した。

 それから龍さんとのお付き合いが始まった。テレビで見る龍さんは近寄りがたい雰囲気を放っていたが、私と話すときはいつも熱血漢で義理堅い方だった。そしていつも日本の将来を気にかけていた。政治屋が多い中で龍さんは根っからの政治家だった。いつしか龍さんを親のように感じ心の支えにしてきた。

 龍さんと一緒に過ごしてきた中で印象的な出来事がいくつもあった。ネパールでは龍さんが支援してきた小児科病院に同行したが、病院の中では周りに記者がいないことを確認すると、全身がチューブだらけになっている赤ちゃんを抱えながら目を真っ赤にし「助けなければいけない」とポツリと言っていたが、病院を出る時に記者に囲まれたら突然憮然とし記者を寄せ付けずに車に乗り込んだ。「なんでいつもそうなんですか」と本人に確認したら、赤「あくまでも個人で支援してきた病院だ」とピシャリ。その辺りの政治家ならば、赤ちゃんを抱っこしているところを写真にとらせ、いいことしているだろうとパフォーマンスするだろうが、彼はそういう行為をもっとも嫌った。

 2003 年の衆議院選挙での出来事。応援演説に駆けつけたが、地元の県議が「橋本先生は倉敷(選挙区)に貢献してくれる。まだまだ道路も作らなければならない。橋本先生が地元に仕事を持ってきてくれる。」と支持者相手に演説ぶっていたが、最後に張本人の龍さんがその県議の目の前で「私は必要で無いものは作りません」とピシャリと言い切ってしまった。会場には土建関係者だと一目見て分かる人たちが大勢いようと龍さんには関係なかった。そして長々と国際情勢の中で日本がどのように立ち向かっていくのか、おそらくその会場にいた人たちにはさほど興味がないような国家論、政策を訴えていた。正直、よくこれでこの人、勝ってきたなぁ~と不思議であり龍さんにいとも簡単に拒否され明らかにムッとしているその県議の顔がおかしかった。後に岡山県在沖の土建関係者が「龍太郎は地元の事を大切にしなかった。橋本ロードも橋本ブリッジもない。地元よりも福祉ほうが大切だったのだろう。地元じゃ婦人のほうが人気あったよ」と漏らしていた。不器用な人だったが僕はそんな龍さんが好きだった。

  政界を引退し自由の身になりこれから一緒に富士山の清掃活動など行おうと話し合っていた矢先の訃報。最後に龍さんにお会いしたのは 4 月上旬。別れ際に「これを持っていけ。」と龍さん愛用の木製のピッケルを手渡された。「俺はもう使うこともないだろう。後はお前に任せるよ」と初めて耳にする弱音に「頂くわけにはいきませんが、今度一緒に山に登るまではお預かりします」と持ち帰った。来年、私はこのピッケルで大好きな龍さんとともにエベレストの頂を目指す。

昨年9月、私宛に内田清司さん(44)からお手紙を頂いた。内田さんのお手紙は大学生だった頃に交通事故で脊椎を損傷し下半身麻痺になってしまったこと、寝たきりの生活の中で生きていく事の意味を思い悩んだ日々、そしてその中から1つの目標を見つけ挑戦していきたいと、といった事が書かれてあった。その夢とはヨーロッパ・アルプスのブライトホルン(4164 M )登山。入院中に病室に掛けられてあったアルプスの写真を眺めながら「自分もいつかあの美しいアルプスの頂に登ってみたい」と夢がスタートした。そして手紙の最後に「登山隊長として一緒にブライトホルンに登ってください」と書かれてあり、正直、驚き、また困ってしまった。なにしろ内田さんとは一面識もなく、また障害者を4000 M 峰に登らせることが果たして出来るのか、またそのリスクが大きすぎる。手紙を読みながら内田さんに会うべきか悩んでいたが、しかし、文章の最後の方に「日本は障害者が挑戦することに消極的」と書かれてあり、その一文で登山隊長を引き受けることを決めていた。

 エベレストでは毎年のように様々な障害者が挑戦する。盲目の方、両足が義足の方、末期癌の方など、彼らは健常者の登山仲間のサポートを得ながらそのハンディを乗り越えエベレスト登頂を果たしている。2002年には癌を宣告された同年代のアメリカ人登山家が残りの人生を賭け世界最高峰に挑んだ。片方しかない肺で苦しそうに高所で氷壁を登る姿から正直、登頂は厳しいだろうと感じていたが、ゼェーゼェーしながら「ケン、エベレストに登ってアメリカにいる小児癌に侵されて子供達に勇気と希望を与えたいんだ」との言葉を聴いたときには心から彼こそ真の冒険家だと尊敬し心から応援していた。そしてハンディを乗り越えエベレスト登頂を果たした。ベースキャンプで再会した時は抱き合って喜び合った。

 それに比べ日本では障害者による冒険は少ない。内田さんのお手紙にも周りの関係者から「責任が取れないから応援出来ない」と断れ続けている様子が書かれてあった。内田さんとの登山を成功させれば、日本でも障害者の方々が、後に続けと各分野で活躍するきっかけになるかもしれない。

 そしてこの登山隊にもう一人の仲間が加わった。内田さんの友人の高校生。進行性筋ジストロフィーを患う井出今日我君(16才)だ。進行性の病で最終的には心臓の筋肉まで衰えさせてしまう。医師からは「低酸素の高所では体に負担が大きすぎる。5年は寿命が短くなる可能性があることは覚悟するように」と伝えられていたようだが、それでも井出君は「一度の人生、思いっきり生きたい」と挑戦を決断。今日我(きょうが)という名前は「今を生きる」という意味。その名前通り、井出君は今を必死に生きようとしていた。

 8月にブライトホルン挑戦を決め、国内でのトレーニングと莫大な資金がかかるためスポンサー活動を開始。トレーニングは雪のないスキー場で内田さん達に橇に乗っていただき牽く練習を繰り返した。体力的に厳しいトレーニングだったが、最年長の井出君のお父さんが一番大きな声を出しながら汗だくになりながら橇を引き続けている姿に、この親子の冒険を見守りサポートしたいと心底感じていた。一方、スポンサー活動は苦戦していた。特に内田さんや井出君にとってはスポンサー活動もマスコミ対応もすべて始めて。どこから初めていいのか分からないようで、私も4月からヒマラヤ・マナスル峰への遠征に出かけてしまい協力できないでいた。ヒマラヤ登山を終え6月に帰国した時点でも遠征費の大半が集まっていなかった。内田さん達は借金をしてでも挑戦をすると話していたが、せめてサポートする登山隊隊員にかかる交通費などは自分達で集めようと遅れてスポンサー活動を始めたらコスモ石油の鴇田広報室長が「意味のある活動です。協力させてください」と困り果てていた私達を救ってくれた。

 おかげで8月2日に私達登山隊はブライトホルンのあるスイス入りした。しかし、毎日が大雨。地元ガイドは「今年は温度が高く氷河もクレパスだらけ。既にこの夏何人かクレバスに滑落している」と障害者を連れて行く登山活動に消極的だった。吹雪の中、訓練しようと2人を橇に乗せて引っ張るのだが、地元ガイドの一人が「リスクが高すぎる」と帰ってしまった。悪天候の中、登山開始が出来ず不安とイライラがたまり、内田さんたちのサポートメンバーからは「必ずしも山頂を目指す必要はない」「内田さんの体調が心配だ」などといった弱気な意見もでた。また私が日本から連れて行ったヒマラヤ経験者がズラリとならぶ登山隊員からは「内田さん達は現場まできてなにを迷っているのか。リスクがあるのは日本を離れる前から分かっていたはず。彼らが判断できないなら隊長であるあなたが判断するべき」といった意見がでるなど、登山隊が二つに分かれていた。しかし、私は隊長として登頂するまでのサポートはするが「ああせよ」「こうせよ」と言わないことに決めていた。初めての冒険で焦りや戸惑いがでるのは当たり前だ。ヒマラヤでも登山隊員同士の意見が別れ喧嘩することもある。その中で大切な事は内田さん達が決めた冒険であり、何ゆえに冒険しようとしたのか、自分達で原点に戻ること。原点を見失ったまま冒険を続ければ危険だし、そもそも何のために尊い命を賭けてまで行うのか意味がなくなる。毎晩、皆が納得するまで何時間でもミーティングを繰り返し、最終的には全員が全力を尽くし、到達した地点を「みんなの山頂」にしようと意見を統一させた。

 4日ほど悪天候で待機を余儀なくされ、山頂アタックは最終日までずれ込んだ。晴天とまでいかないものの雲の合間に空が見え、よし!最後のチャンス!とアタック開始と、われわれは内田さん、井出君と一緒に登山開始。しかし、午後が近づくにつれ風も強くなり、厳しい登山が続いた。4000 M を越えると橇を引いているほうも高度障害の影響が出始め、頭痛に襲われた。それでも一心不乱、みな必死に橇を引き続けた。そしてついに正午過ぎ、時間切れ。4000 M を越えた地点が我々の山頂となった。色々あったが、最後は皆が一つになれた。確かにリスクはあったが、健常者でも山では遭難することがある。リスクはなにも障害者に限ったことではない。そして内田さん、井出君が命を賭けてでも伝えたかった、障害を背負っても精一杯生きる姿がそこにはあった。

ヒマラヤ・私の里帰り

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 里帰りのつもりでヒマラヤに一月ほど戻ります。ヒマラヤでの生活は生還する為に精一杯必死になる。大雑把に表現すればそれだけなのかもしれない。最近、短気になってきたのか、せっかちが酷くなっている。なににイライラし、焦っているのか分からない。実態のない、また見えないなにかに追われているような気がする。なにかをつかもうとするものの、何も無い空気だけをつかんでいるような。なにかが足りていない。その何かが分からない。そんなタイミングでヒマラヤに帰る。私の原点であるヒマラヤに里帰りし、ゆっくりと頭の中を整理してきます。私にとってヒマラヤは故郷なのです。

 きっと蟹味噌しかない脳みそで色々と考えすぎるからオーバーヒートしているのかな。私のスタッフは出来の悪い私を支えなければならず大変です。本当に・・・。申し訳ないです。 

 明日、カトマンズ入り。明後日は橋本龍太郎さんが設立し支援を行ってきた小児科病院に訪ねます。カトマンズに小児科病院がなく、その事を知った龍さんが「橋本基金」を設立し小児科病院を立ち上げに協力しその後も毎年支援を行ってきました。私はその小児科病院に龍さんと一度だけご一緒させて頂きましたが、チューブだらけの未熟児を手に「助けなければならない」と目を真っ赤にされながら話していた龍さんの姿が未だにまぶたに焼き付いている。龍さんは亡くなってしまいましたが、この橋本基金、無くすわけにはいきません。私に何が出来るのか、今度は龍さんの病院に一人訪ねじっくりと考えてきたい。
 
 先日、初めて龍さんのお墓参りをしてきました。龍さんが亡くなってから初めて龍さんの近くに近づけました。全身で龍さんを感じてきました。不思議なものですが、龍さんが亡くなってからの方が龍さんの気持を感じ取れているような気がします。妄想なのかもしれませんが、よく龍さんとお話しています。遠くにいってしまった気がしない。今でも心の支えです。そして龍さんの事をもっと好きになりました。

橋本龍太郎氏のお墓参り
橋本龍太郎氏のお墓参り


 生きていてくれた時にもっともっとお話がしたかったとも思いますが、人にはそれぞれ時というものがあります。その限られた時間の中でどれだけ必死に生きるのか、私は龍さんの「例え火だるまになろうとも」という言葉通りの生き方をしかとこの目で見させて頂きました。出会えたことに心から感謝しています。本当にありがとうございました。

 現場には現場にしかない苦しみ、悲しみ、怒り、憤りがあります。そしまた温かみもあります。私は現場が好きです。これから一月、ヒマラヤの壮大な自然とそこに暮らす人々と接してきます。シェルパ基金も、またマナスル基金もそうですが、一方的に彼らのためだけにやっているわけじゃない。彼らのためにやっているようで、逆に彼らから学ぶべきことがとても多い。時に人は人を傷つけますが、ただ人は人によって助けられることもあります。基金を作って彼らを助けているようで実は私が彼らに助けられています。
それでは、行ってきます。ナマステ! 

今日で仕事収め

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 フゥー 今日の夜の朝日ニュースター(BC朝日)生出演で今年の仕事を無事に終えました。最近は余裕がなくてブログ書けずごめんなさい。まったくバタバタでどこで何をやってきたのか、頭の中で整理ができないほど歩き回り、話し続け、また多くの方々のお話しを聞き、いや~なかなか濃かった。今年は仕事面ではかなり充実した年になりました。富士山クラブとの富士山清掃活動では4800人が参加し約80トンのゴミを回収したとのこと。全国から参加して下った多くの皆さん、ありがとうございました。そして現場を守ってくださっている富士山クラブの皆さんもありがとうございました。そしてお疲れ様でした。おかげさまで富士山もだいぶ綺麗になってきています。
 
 僕は明日(21日)からネパール入り。24日ごろからマナスルの麓のサマ村で清掃活動、また学校の宿所建築の打ち合わせなどを行なってきます。5月にサマ村の村人にマナスル基金を設立するとお約束していただけに、しっかりと実現させてきたい。環境問題の核になるのはなんといっても教育です。そして村人の子ども達が教育を受ける事で将来の可能性を広くさせたい。学べる事は幸せなことです。よくネパールの山間部に行くと、現地の子ども達が「ペンをちょうだい」とおねだりしてくる。ペンをあげると一生懸命に字を書こうとする。しかし、多くの子ども達は学校に行っていないので字が書けない。彼らの名前を聞いて名前を字で書いて教えてあげると、心底嬉しそうに何度もまねして書き覚えようとする。勉強したくて仕方がないのだ。
 
 それに比べ、履修問題に大いに揺れた日本社会。勉強してしまった子ども達は「無駄に勉強して損した」と話すが、どうなんでしょうか。そもそも世界史ぐらい勉強しないで社会人になっていいのだろうか。まあ~落ちこぼれの私が言っても説得力ありませんが。先日、他の人から聞いた話ですが、電車の中で高校生と思われる2人が「日本とアメリカが戦争したらしいぜ!」「本当かよ~で、どっちが勝ったの?」なんて会話を大声でしていたとの事ですが、なんの為に多くの日本人が戦い亡くなっていったのか、犠牲になった方々には本当に申し訳がない。一昨日、靖国神社の遊就館に行きましたが、特攻隊隊員達が書き残した多くの遺書が展示してあり、一枚一枚を読んでいたら涙がでた。ある遺書には「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん」と手紙一面にびっしりと書かれてあり、死を目前にしながら母親にだけは死にたくないといった本音を伝えたかったのかなぁ~と・・・。たまに遺書を拝読しに行きますが、戦争を美化しているわけでも正当化しているわけでもありませんが、ただ二十歳にもみたない若者が日本を救おうと特攻していった事実を忘れてはいかない。
 
 歴史や世界の出来事から例えば戦争の悲惨さなど、また時に人の愚かさ、また偉大さを知る。そして大事なことは悲惨な事は繰り返さないこと。少なくともその努力を惜しまない事。学ぶ事は大切で幸せな事なんです。ネパールに行くと勉強したくても学校に行けない子供が多い。逆に日本では不登校や引きこもりの子ども達、ニートが社会問題になっている。贅沢病なのかな?その一言で片付けるほど単純な問題じゃないにしろ、自らチャンスを絶っているわけで一度の人生、もっと大切に生きたほうがいい。もったいないじゃないかと、最近、おじさんかしてきたのか、すぐに愚痴ってしまう。マナスルでちゃんとした学校を作りたい。教育こそ可能性だ。

 そして清掃キャラバンに、状況が許せば6000峰の登頂。久々のヒマラヤ厳冬期
登山。さぞかし寒いだろうなぁ~ 一応、これでもアルピニスト(3流以下ですが)ですから、頑張ってきます。それでは、久々のブログでした。おやすみなさい。

(ちなみに胃を壊していましたが、ガスターDがよく効きまして順調に回復傾向にあります。ご心配おかけしました)

マナスル基金設立

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マナスルの麓の村、サマ村の子ども達のためのマナスル基金を設立しました。
以下は、毎日新聞の取材からの抜粋です。

サマ村の子どもと野口健さん(右端)=本人提供 アルピニストの野口健さん(33)が、ネパール・マナスル山(8163メートル)のふもとにあるサマ村の子どもに教育の機会を提供しようと、「マナスル基金」を設立した。当面は、子どもが学校生活を送るための寮を来年夏までに建設することを目指し、約200万円を目標に市民や企業などに寄付を呼びかけていく。

 野口さんらは今春、マナスル山やサマ村で登山隊などが捨てたごみの清掃活動をした。その際、現地では多くの親が子どもを農作業などの労働力として期待し、学校に行かせようとしないことを痛感した。サマ村には就学期を迎えた子どもが約100人いるが、授業を受けているのは2~3割にとどまるという。

 野口さんは「教育は、子どもに将来の職業の選択肢を増やし、夢を与える。環境の大切さを教える教育も提供し、子どもを通してごみに無頓着な大人の意識も変えたい」と意義を語った。

サマ村1


サマ村2








問い合わせは野口健事務所(電話03・3426・2487)。
寄付金の振込先は、みずほ銀行市ケ谷支店普通口座8035335。
名義は特定非営利活動法人セブンサミッツ持続社会機構。【田中泰義】

毎日新聞 2006年12月12日 10時54分 (最終更新時間 12月12日 12時03分)

体調管理の難しさ

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 体のバランスが取れていないのかなぁ~ 胃を壊してから体全体の調子がとても良くない。今日もテレビ収録中に顔面に蕁麻疹がバァ~とでてメイクを塗りまくってなんとか消しましたが、ハァ~情けない。体重も10キロほど減った。確かに太りやすい体質なので気をつけていましたが、気がついたらズボンがブカブカで着られる服がなくなりスーツなど作り直しました。忙しい事は忙しいですが、この程度のスケジュールで「体調が悪いです」では甘えすぎ。世の中、もっと必死に生きている人が多い。体調をコントロールしながら挑戦を続けていかなければプロじゃない。忙しい中で休む努力を惜しんじゃいけない。ハァ~ まだまだ俺は甘いなぁ~ 情けなくなります。
 12月中旬からのヒマラヤでゆっくりと体を休めながら、また自分の世界に帰る事で心身安らぐかな。来年はもっと逞しい野口健になりたいと思います。反省!

胃カメラにあちゃ~

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 胃カメラ、もうしばらくはいいです。オエェ~と大声だしていたようです。あまりにももがくので鎮痛剤や意識を朦朧とさせる注射を打って頂き、後半はほとんど記憶にありませんが、いや~なかなか過酷なものです。ただ、お医者さんや看護婦さんは優しかったぁ~ 病院に行くたびに、特に入院中は看護婦さんに惚れてしまうのは僕だけじゃないでしょう。今日もやさしく背中をさすって頂き、あの優しいお手てに惚れてきました。「野口さん、大丈夫ですよ」って、天使だったなぁ~。人間、弱っている時に優しくされると・・・。久々に優しい女性と接し心底癒されてきました。しかし、しばらく痛みが続いていただけに、写真を見せて頂いたら胃の中に真っ赤なブツブツだらけ。しっかりと痛んでおりヒマラヤ遠征までの2週間、出来る限り治したいと思います。

 夜は京都入りしおやじとゆっくり食事しました。おやじは介護疲れがドッとでたのか酷く風邪を引いており、また中年の一人暮らしとあって規則正しい食生活がおくれていないようで、ちょっとやつれていたかなぁ~ 中年の男が突然一人になるとキツイものがあるようです。最近、熟年離婚が多いようで、定年退職したとたんに奥さんに捨てられてしまう中年男性が多く、生活観のない中年男性はそこから生活が乱れ飲んだ暮れ、コンビ二の弁当ばかりを食べるようになり、平均寿命がガクンと短くなるとある番組で特集をやっていました。明日、明後日 大阪、京都で仕事がありますので夜は親父に栄養をつけてもらう為に美味しい食事に誘う予定です。うなぎがいいかなぁ~。

 石原都知事が来年の都知事選に立候補を表明。最近、ご自身の出張費や息子(四男)の問題で叩かれていますが、私個人的にはもう一期、日本の為に頑張って頂きたい。あの出張費の問題ですが、石原さんご本人が過剰に高級ホテルに泊まりたいと主張するわけもなく、回りが過剰に気を使ったのでしょう。スタッフは今一度、ふんどしをギュッと引き締めたほうがいい。ついつい感覚が麻痺したのでしょう。それにしても、共産党は石原都知事を追及しながら生き生きしていましたねぇ~ 彼らにとってはまたとない反撃のチャンス。日ごろボロクソ言われているだけにその鬱憤もあったでしょう。また都議会で共産党が全国ニュースに登場するのは極めて貴重な機会。さぞかし張りきったことだと思います。ただ、石原都知事サイドにも原因があるわけですから、しっかりと気を引き締めて頂きたい。感覚の麻痺というのは怖いからね。本人も周囲のスタッフも気がつかないままズルズルいってしまう。それに出張費オバーとか息子を都の予算で海外出張させたとか、そのようなみみっちい話は石原さんには似つかわしくない。石原さんはもっとドーンと、格好よくなければいけない。従って連日の報道にガッカリした人も多かったはず。オバーした出張費ぐらい自身のポケットマネーからパッと支払えばいいし、また四男に関しては石原さんおっしゃる通り違法性はないでしょうが、やり過ぎでしょう。まだまだ石原さんの活躍が必要なだけにぐっと気を引き締めて頂きたい。
 それでは、お休みなさい。京都は雨でした。


役者デビュー?

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 「田舎に泊まろう」ロケの翌日から昨日まで、実はとんでもない事に挑戦していました。某テレビ局に「世界の偉人」とかいうスペシャル番組があり、日本人が選んだ好きな偉人100人の中から選ばれた偉人の人生を描いた短編ドラマがあり、なぜかその主人公役に選ばれ、人生で二回目のドラマ出演の為のロケが行なわれていました。ちなみに一回目は3年前ですが、NHKのあるドラマで野口健役で野口健が出演。これは演技と言うよりもそのままで良かったのですが、今回はある世界的な天才を演じなければならず、いや~大変でしたが、二日目からその偉人にすっかりなりきっている自分に驚き。1月7日に放送されますので、もし良かったらご覧下さい。ちょっと怖いけれど・・・。まだ公にできないので正式に決まり次第詳細をHPのほうでもお伝えします。

 明日は恐怖の胃カメラ。最近、ちょっと具合が良くなく、検査しなければと思いつつ病院にも行けず、やっと明日の午前中に検査が実現しますが、胃カメラ、苦手なんです。もうとても憂鬱。しかし、12月20日からヒマラヤですから、遠征前に直さなければならないですから、明日、頑張って検査してきます。夜は京都入りで、親父と久々にゆっくり寿司でも食べようかと思います。なにしろ、親父もずっとバタバタしていましたから、久々に親子2人でゆっくり食事でもしたいものです。
 
 それにしても日曜日の朝日新聞にいじめ問題についてのインタビュー記事が紹介されましたが、自分の顔写真を見て驚き。いったい何時の写真を使ったのかまったく記憶にない写真でしたが、ブクブクに浮腫み目を背けたくなるような醜い顔で、しかし、自分の顔である事は否定できず、驚き悲しかったです。あんな顔していた時期があったのかと、いや~驚いた。人は顔に出ますから、思い出したくもない時期に撮影された写真なんでしょうが、掲載される前に確認しなければいけませんね。反省。もうあんな表情にならないように充実した生き方をしたいと痛感した朝日新聞の写真でした。

「田舎に泊まろう」ロケに行ってきました!

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 母の葬儀を終え再び仕事モード突入。ただ2箇所での仕事に穴を開けてしまい大変申し訳なかったです。母が知ったら「仕事を引き受けた以上、どんな事があっても責任を果たしなさい!」と叱られるだろうなぁ~ ただ、葬儀の間も3箇所で講演会を行ないましたが、多くの方々の笑い声にどれだけ助けられたか。人の笑い声ってなによりも元気になります。感謝しています。
 
 30日は横浜の中田市長とトークショウを行ないました。初めてお目にかかりましたが、若くしてリーダシップを発揮されている市長としてずっとお会いしてみたい方であっただけに嬉しかったし、また刺激になりました。中田市長が「我々の世代が何とか踏ん張らないと日本は終わっちゃうよ。現場で働いているとそんな危機感をよく感じる。野口さんとも一緒活動して若者から社会を立て直していこうよ!」と熱く語っていて想像通りの方でした。同年代として連携して盛り上げていきたいと思います。1つの出会いから無数の可能性が埋めれます。素晴らしい事です。

 12月1~2日にかけてテレ東京の企画で「田舎に泊まろう」という番組のロケにある島に出かけてきました。この番組企画、驚くことにどこに行くのかも秘密にされ目的地についてもどこなのか島の名前も分からない。歩きながら島民の方に「ここの島の名前はなんですか?」と質問したり、なんといってもスタッフの方々は旅館泊ですが、私は民家に自分で交渉して泊めて頂かなければならないわけで、一切のやらせ無し。ガチンコで、島に上陸してからはスタッフは口も利いてくれず一人どこを歩くのか、どの民家にピンポンするのか、その全てを自分で行なわなければならず、過酷なロケでした。そう簡単にいきなり「泊めてください」とお願いしたところで「ああいいですよ」とはならないもので、苦戦しましたが、素敵な島、素敵な人々との出会い、本当に心温まり素敵なたびとなりました。12月17日夜7時からテレビ東京で放送しますので、ぜひご覧下さい。僕にとっては一生忘れない出会いだったなぁ~。また必ずあの島の人々に会いに行きます。それでは、皆様、おやすみなさい。

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