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  いよいよキャラバン開始 ヒマラヤで考えること


 1月6日、天候が回復しルクラ便が飛んだ。一日の待機で済んでラッキー。中には一週間ほど待機するケースもある。次の問題は帰りの1月18日、ルクラからカトマンズに降りるフライトだ。ここで足止めを食っちゃうと1月21日の帰国予定日が危うくなる。なにしろ1月22日には九州で講演会が待っているのだ。何が何でも帰らなければならない。1月18日に晴れる事を祈る。

いよいよルクラ村へ

 今回は日本出発が遅れたので時間的な余裕がまったくない。6日からキャラバンを初めて15日までにはアイランドピークに登頂し、17日までにルクラ村まで下ってこなければならない。これもヒマラヤ行きを躊躇し出発を遅らせた私の責任。せめて平賀淳くんを巻き込まないように気をつけたい。

ルクラ村到着



エベレスト街道にはいくつもの吊り橋がある

 6日はパクディン村泊。7日はシェルパ最大の村、ナムチェバザールに到着。やはり運動不足なのかな、体が重たい。アイランドピークにアタックするまで体を軽くしておきたい。このような時に痛感するのは日々のトレーニングの重要性だなぁ〜。もう若くないんだし、もっとまめに体を動かさないと。分かっちゃいるんだけれど、この繰り返し。「反省だけなら猿にでもできる」なる言葉はよく耳にしますし、その通りなのだろうと思います。ただ、ここで1つ疑問が発生。そもそも論として猿は本当に反省するのだろうか・・・?

 例えば、「触ったら痛かったからもう触らない」というのは果たして反省という概念なのだろうか?反省というよりももっと感覚的なものじゃないかなぁ〜と。反省というのは思考的な要素が絡んで発生するような気がしてならない。だとするならば猿は本当に反省するの?
なにもヒマラヤで考える事でもあるまいか。

ナムチェバザール村に到着

 ナムチェバザール村では相棒のアン・ドルジ・シェルパと再会。彼の山小屋にお世話になる。昨年は彼と一緒に合計4ヶ月間ほど氷河湖の調査を行った。

「日本人はエベレストの氷河が急激に溶けている事に対して無関心ですが、ヒマラヤは世界で最も高い場所です。人間の体に例えれば頭になります。もし頭が高熱に侵されたら体全体の調子が悪くなるでしょう。それと同じでエベレストが温暖化によって熱くなっているのは地球全体の異変です。日本人にもけっして他人事ではないはずです」とはアンドルジの言葉である。私は「第1回アジア太平洋水サミット」「環境大臣会合特別シンポジウム」の場で、またIPCCのパチャウリ議長や福田総理(当時)にこのアンドルジの言葉をそのまま伝えた。

 また彼は毎年、夏には日本の山小屋で研修を行いネパールの山小屋においても日本同様に環境配慮型山小屋運営を目指している。



アン・ドルジさんとの再会

 若かった頃の石原慎太郎氏に目元が似ていて、我々の間では「ヒマラヤの慎太郎」と呼ばれている。そういえば、ルクラ村に住んでいるナワン・ユンデン・シェルパの奥さんが小沢一郎氏に似ていて、こちらは「ヒマラヤの一郎」と呼ばれている。「奥さん」というのがいかにも悲劇的?ではありますが、いずれにせよこちらの慎太郎、一郎は本家と違って?仲が良い。

街道沿いの親子

 ネパール入りしてからとにかく良く寝ています。おかげでだいぶ復活してきました。三十路を過ぎると一にも二にも睡眠。睡眠さえ取れていればなんとかなるもの。昨年の秋ごろからの寝不足がきつかった。日々のスケジュールをこなしながらその隙間で原稿書きに追われた。1つは文藝春秋に掲載された「僕のレイテ遺骨収集記」。内容が内容なだけに100%本気をだしました。一方的な感情論になってしまっては逆に読者が引いてしまう。かといってデータだけでは現場で感じたあの世界が伝わらない。そのバランスが実に難しかった。私なりに精いっぱい書かせて頂きました。ただし、あの現場を文章によって100%そのまま再現できたかといえばNOであり、現場に勝るものはないと痛感させられました。

 そして次に追われたのが今年の2月7日に日経新聞から出版する新書の原稿だ。日経新聞で2年間連載させて頂いた記事をまとめ、さらに原稿用紙で200枚近くを書き加えた。これがなかなか大変で、講演会場までの移動中(新幹線や飛行機の中)、出張先にホテル、打ち合わせと打ち合わせの間、とにかく使える時間を全て使って書ききった。最終的な締め切りが12月27日でなんとかギリギリ間に合わせる事ができた。

 原稿を収めたら心底ホッとしたのか、解放されたのか、その日はポケーと一日脱力感に襲われた。忙しさを言い訳にしたくなかった。また、「ヒマラヤ氷河の融解による氷河湖決壊問題」や「戦地に取り残された御遺骨の実情」から「ツバルの海面上昇問題」「難民問題」「漂着ゴミ問題」などこの数年間、世界各地で感じてきたことが自身の中で過去の出来事になる前に、また書き残せるうちに、現場で見てきた事を形に残して伝えるのが義務であろうと、使命感に燃えていたのも事実。故に大変でしたが、充実していた日々でもあった。ただ、仕事以外の限られた時間の全てを次ぎこんだためブログ更新まで手が回らなかった事をお詫びします。

 原稿を収めてから慌ててヒマラヤ遠征の準備を開始。せっかく久々に日本で正月を迎えたのに初詣も叶わず、また紅白歌合戦も見られなかった。赤、白のどちらが勝ったのかな?



マニ車を回す 回すとお経を読んだことになる

ラマ教のお経が彫ってある岩

 エベレスト街道に入って二日目になりますが、昨年の北京オリンピック直前と比較すればだいぶ穏やかになりました。あの北京オリンピックはやはり異常事態であった。なにしろ、中国は形振り構わずネパール側に圧力をかけ、公安などをネパール側に越境させこのエベレスト街道に配置させたとシェルパ達が怯えていた様子を我々はその現場で目にしていた。エベレスト(ネパール側)のベースキャンプにまで中国大使館の館員が監視を目的に張りつき連日のようにエベレスト上空には軍用機が音を立てて旋回していた。すべては中国の聖火隊がエベレスト山頂に聖火を上げるためにだ。

 ベースキャンプではフリーチベットと書かれた旗を持っていただけで強制的にエベレストから追放されたアメリカ人登山家。そして中国隊がチベット側から登頂に成功するまでは反対側ネパーからですら6000m以上を超えてはならないとお達しがあり、もし6000m以上に登れば射殺すると6400mにあるキャンプ2には武装した軍隊までが派遣されていた。たかがオリンピックの聖火隊如きでありながら、エベレストで起こっていた全ての事が異常事態であった。

 ここまでやるのかと、中国の覇権主義には心底驚き、危機感と同時に怒りが沸々と煮えたぎるのを明確に自覚していたが、あれから少し時間がたってみて、振り返ってみれば、受け取り方が少し膨らんだ。中国による対外強硬路線は「対国外政策」というよりも、「対国内政策」であったのだろうと。

 特にチベット問題が盛り上がればチベットに限らずウイグル、また内モンゴルなどに飛び火していくだろう。中国が最も恐れたのはそこではないか。したがってあれだけ国際社会から非難されようが中国は一切緩むことなくチベットを弾圧し多くのチベット人を殺し投獄した。中国に逆らって独立運動などしようものならばこうなるぞ!と見せしめ的な要素がなかったか。

 また究極な格差社会が招いている人民の不満をどのように抑えていくのか。岡本行夫氏は「中国では農民として生まれたら最後、社会保障も医療保障も失業保険もない。都市への移住の自由もない。9億人の農民の犠牲の上に、4億人の都市住民の繁栄がある」と中国の格差社会について語っておられたように、中国は外から見れば覇権主義が象徴するような巨大な国力、強さを抱かせるが、実は蓋を開けてみれば極めて不安定な内政事情を数多く抱えている。

 北鮮やロシアも度々使う手法ですが、強い中国を示すことで中国共産党の正当性を人民に伝え維持していこうとの狙いではないだろうか。つまり以前のように中国共産党が人民をコントロール出来なくなっている証かもしれない。中国はルーマニアのチャウシェスク政権の如く内側からのエネルギーによって変わっていくのかもしれない。あのエベレストでの中国の行いが中国の行き詰まり、焦りを現しているとするのならば、中国は時間の問題で変わるかも。そう思えば怒りに燃えた昨年のエベレストの出来事にも微かな希望、可能性が見え隠れしてくる。



ブログ執筆中

 ちょっとプラス思考すぎたでしょうか。ヒマラヤの夜は永い。ついつい様々な事をグダグダと考えてしまう。考える時間がたっぷりとあるから、このブログの原稿もその分だけやたらと長く、またくどくなる。明日からクムジュン村、もしくはパンボチェ村まで上がりますが、今回は衛星通信機材を持ってこなかったので、ブログのアップはナムチェバザール村まで(ナムチェバザール村にはインターネットカフェがあるので)。ただし衛星携帯電話はあるのでアイランドピークに登頂しましたら事務所に連絡しますのでブログ・HPにてお知らせ致します。

 それでは、明日からは思考を切り替え、最大限、気をつけながらアイランドピークの頂を目指してきます。アイランドピークの登頂を次の冒険に繋げるためにも。

2009年1月7日ナムチェバザール村にて 野口健