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アフガニスタンへ向けて(後編)


 6月22日、我々取材班はアフガニスタン第二の都市ヘラートに到着。へラートで最も快適とされているホテルにチェックインしたが、もちろんクーラなどない。裸電球がぶら下がっているだけの薄汚いその部屋の中にいるだけで汗が滴り垂れる。パンツ一枚で床に着いたが全身からはジトーと汗が流れる。窓を開けようと思いもしたが、夜の町は小石が吹き飛ぶほどの大風。そして真っ暗闇の路地裏から、助けを求める声なのか、悲鳴なのか、ときたま叫び声が聞こえてくる。風に吹き上げられた砂埃で夜空の月光もぼんやりとくすんでいる。ここはアフガニスタン。充分すぎるはど地の果てにやってきたことを実感していた。

 翌朝、へラートから車で一時間ほどウズベキスタン国境方面に向けて車で走った。我々が向かったのはカマール・カロック村。アフガニスタン入りした我々が目にしたのは干からびた川の周辺に点在している村々。カマール・カロック村も2本の川が交差した中州の部分にあるのだが、今ではその川も干上がっている。カマール村に着い我々にカマール村長が村の状況を話してくれた。
「5年前まではこの川は水で溢れていた。この辺り一面芝生が生えていた。そこには畑もあったんだ」
と指を差す先は完全に砂漠と化した砂地であった。そして次に村長が我々を案内したのが干上がった井戸。村の至る所に井戸を掘っている形跡があるが、しかし5年前までたっぷりあった水がいくら掘っても出てこないという。井戸の底に土色に濁った水がかすかに残る。その限られた泥水をすすりながら細々と生きているカマール・カロックの村人。
「いつからか山に雪が降らなくなったんだ。そして川の水が枯れたんだ。井戸もね・・・」
「この半年で子供達が16人、死んだ。我々はどこに行くこともできない。ここで死を待つだけだ」
「お金がなくても生きていけるけれど、水がなければ生きていけない」
「なにが一番怖いですか?」
と質問すれば、やはり
「このまま川に水が戻らない事だ」
と遠くを眺めた後に
「もうここには何もないよ」
とポツリと呟いていた。
 そして村長は村はずれの高台に我々を案内してくれた。カマール村を一望できるその高台は墓場であった。遺体の上に砂利を被せるだけの簡単な墓だから体の大きさが分かる。その大半が一歳前後の子供達だろう。小さな小さな墓が無数あった。川の水が干上がってから子供や老人達が赤痢やコレラに犯され死に続けているのだ。

 その午後、次に我々が向かったのはマセラック難民キャンプ。難民キャンプに到着し歩き始めたら難民キャンプの子供達が我々を囲みつかみかかってくる勢いで、その人数たるやもう僕も身動きが取れなくなるほどで、現地スタッフもこれは危ないと判断し、車の方へ非難。慌てて車に乗り込みいったんその場を離れたが、離れていく車に子供達がいつまでも走りながら追いかけてくる。その表情は笑ってはいるものの、眼光は飢えてる狼のようなきつさがあった。その光景からは悲惨な難民キャンプの現状が窺えた。再び、マセラック難民キャンプに近づき、難民の方々の声を聞いた。アフガニスタンのあちらこちらから集まったマセラック難民キャンプ。多い時には数百万人いたそうだ。その大半が戦争難民ではなく、生態難民であった。温暖化の影響とされている旱魃の被害で自分らの村を捨てて逃げてきたのだが、このマセラック難民キャンプでも水は充分にない。
「この難民キャンプでは毎月80〜100人の子供達が死んでいるんだ!」
「世界は我々を見捨てたのか!」
と我々に強く抗議する男性。どの人に聞いても5〜6年前から川の水が干上がったと指摘する。地球温暖化の影響がこうして幼い子供達の命を奪いつづけている。

 日本で生活している我々には地球温暖化という言葉をよく耳にするが、しかし、五感で温暖化を感じているだろうか?そしてどれだけ危機感を抱いているのだろうか?先進国が生産と浪費に明け暮れながら栄えている間にそのしわ寄せがアフガニスタンの人々の命を奪っているとすれば、これは我々先進国の責任は極めて重大だ。アフガニスタンの人々の犠牲の上に我々の発展があるのかと思ったら、どのように死に行く子供達に声をかけていいのか分からなかった。死を直前にした弱り果てた子供を抱えながら僕に悲惨な現状を訴える父親に自分の無力さを痛感した。我々にとって環境問題は被害者でありながら一方では加害者なのだ。加害者という事を自覚しながら自身の生活スタイルを考えていかなければならない。

 アフガニスタンから帰国した三日後に今度は氷河の後退を調査する為にスイスに向かった。機内の中で危険なアフガニスタンの旅を振り返っていた。この混乱したタイミングでアフガニスタン行きは正直、正しい判断であったのか最後の最後まで大きな疑問を抱いていた。

 GOという判断が出された以上はやむを得ないと覚悟を決めたこの仕事。何事もなくアフガニスタンから戻れたのは、エベレストから無事に戻ったのと同じくらい嬉しかったい。いやそれ以上だったかもしれない。しかし、僕はもう一度アフガニスタンに行きたい。この目でもっともっと現地に住む人々の姿を見たい。日本も明日は我が身だと、危機感のない日本社会に地獄と化したアフガニスタンの現象を伝えていきたい。

子供達の墓 老人と話す僕
2002年7月15日
野口健