2011/12/20
清掃登山や遠征などのヒマラヤに関連する記事です
キャンプ2でサーダのダワタシが 「ケンさん、チョンリンジがチョオユー(8201m)で2週間前に死んだ」 と突然の悲報に驚かされた。チョンリンジはダワタシの親戚にあたり、我が隊でも昨年のチョモランマ清掃登山ではシェルパとして参加してくれていた。実績もあり、体力的にも他のシェルパを圧倒していた彼だったが、昨年のチョモランマでは顔色が土色になり、目が充血し、いかにも体調不良でグルジア人医師のズーラに診察してもらったら肺水腫の可能性があると診断され、遠征期間の大半をベースキャンプで過ごしていた。僕に何度も、 「ケン、上に上がらせてほしい」 とお願いしてきたが、 「ダメだ、ドクター・ストップがかかっている。今回は気にしなくていい。」 となだめたが、本人は自分が活躍できないのが悔しかったのだろう。悲しそうな表情をしていた。彼には 「カトマンズに戻ったら病院にいってね」 と伝え、その後カトマンズで一週間ほど入院したと聞いていた。 この春は他の登山隊のシェルパとしてチョオユーに行き、上部キャンプへの荷揚げの最中に、ルート上で座ったまま死亡している姿で発見。死因は不明とのこと。遺体はカトマンズに運ばれ、葬儀はすでに行われたようだ。 チョンリンジにはデンドゥという弟がいた。96年、チョオユに共に登頂し、2000年のチョモランマ清掃登山では最もゴミを回収したシェルパだ。しかし、2000年8月、彼も突然病に倒れ還らぬ人となってしまった。その二ヵ月後、やはり僕を支えつづけたラクパというシェルパも突然死している。相次ぐ、シェルパの死。ネパールに来るたびにシェルパ達の死を耳にする。命を削りながらヒマラヤで働くシェルパ達。チョンリンジやデンドゥ、ラクパの死は、我々登山隊の犠牲だ。長年ヒマラヤに登りつづけている彼らの体はボロボロだ。登山隊側のシェルパへのアフターケアーが求められている。この2001年エベレスト清掃登山が終了すれば、カトマンズでシェルパ達のドクターチェックを実現させたい。シェルパ達を使い捨てにしないためにも、シェルパらの健康管理は各登山隊の義務にするべきじゃないだろうか。 僕自身の反省から、5月下旬のカトマンズでの記者会見で「登山隊のシェルパへの健康管理の義務」を訴えていきたい。 ...
5月14日、キャンプ3周辺の清掃活動を終え、15日は最終キャンプ(サウスコル8000m)へと向かう。天候は朝から不安定で雪に強風、ベースキャンプでは昨夜から大雪に見舞われたらしく、 「野口さん、天候大丈夫ですか!」 と何度か連絡が入る。グルジア隊員のギーアはこの日にローツェ峰にアタックを開始し、悪天候でのアタックに心配する。 午前6時30分、キャンプ3を出発。ローツェフェースをトラバースしながら、高度を少しずつ8000mへと上げる。酸素ボンベを担ぎ、酸素吸入しながらの登山だが、それでも息が切れる。今日中にサウスコルを清掃し、キャンプ2まで下らなければならないので、急がなければならないのだが、体はなかなか動かない。時より吹く地吹雪に気分が萎える。村口・渡辺・野口・シェルパ1人の計4名でもくもくと登る。63歳の渡辺さんの足取りは驚くほど軽い。僕と村口さんが置いて行かれてしまう。すごい63歳だ。 キャンプ3を出発してから3時間ほど経ったのか、雲の上にでた。その途端、さっきまで寒かったのが一気に灼熱地獄! 太陽光線が足元の氷から照り返され、顔面の皮膚がジリジリと焦げ付くような熱さに襲われる。極度の寒さに暑さ。その繰り返しに体が拒絶反応おこす。サングラスは曇り、よく前方が見えない。また、酸素マスクが大きすぎて、足元もよく見えず、視界が良く効かない状況での登山にストレスがたまる。 午前1時、サウスコル到着。3年ぶり、3度目のサウスコル。8000mはすぐ目の前。昨年はチョモランマで体調を崩し、7000mが最高到達高度であっただけに、今年は目標のサウスコルまで来られたことが、素直にうれしい。 先に到着していたシェルパから2体の遺体があると報告を受けていた。99年、エベレストアタック前にサウスコルに来たときに我々のテントのすぐ裏に17年前に遭難死したシェルパの遺体が横たわっていた。3年前と同じようにその遺体があり、我々は検討した結果、遺体回収を困難と判断し、サウスコルの端に埋葬することにした。 シェルパの遺体に僕のシェルパが石を投げつけ、つばを吐きかけている。驚いて、 「何しているんだ!」 と彼に聞けば 「悪い霊を追い払っている。遺体を触る前には、こうして石を投げるんだ!」 との返事。クライミング・シェルパにとって山での死は他人事ではない。遺体に石を投げるのも、彼らなりの死に対する必死の抵抗のように感じられた。遺体に無数のロープが結び付けられ、4~5人で遺体を引っ張る。ガレ場だけに、石や岩に遺体がぶつかり、なかなか引っ張れない。また、酸欠も手伝い、遺体を引っ張っている僕自身が遺体になりそうなほど、息が上がってしまった。 サウスコルの端までなんとか、遺体を移動したら、そこでまた別の遺体を発見。頭部のみ白骨化した遺体。シェルパの話では92年に遭難死したインド人の遺体だとか・・・。サーダのダワタシは92年インド隊がサウスコルで遭難した際、たまたま別の登山隊のサポートでサウスコルにいた。ダワタシは夜中に、泣き叫ぶインド人の声を聞いている。救助に向かおうと思っていたら、インド隊員がダワタシのテントに救助を求めてきた。その10分後、インド隊のほうから、 「すでに仲間が死亡したから救助はいらない」 と連絡が入る。インド隊はよく早朝、登頂を諦め、遺体を放置したまま下山していった。 午後10時、ダワタシがテントから顔をだし、ふと遺体のあるほうに視線を移したその時、彼は思わず悲鳴を上げてしまったという。なんと、死亡したはずの、インド人の両腕が動き出したというのだ。なにかを探しているかのように、両腕が空をつかもうともがいていたのだ。シェルパ達は怖くなり、遠回りしてサウスコルから逃げるように下山した。仮死状態だったのか、インド人は死亡していなかった。その後、そのまま放置され、10年たった今、そのインド人は遺体として発見された。頭部はカラスに突付かれたのか、完全に白骨化していた。その白骨化した顔面の表情からは無念さがにじみ出ていた。今まで何度となくヒマラヤで遺体を見てきたが、このインド人の遺体ほど恐怖を感じたことがなかった。 シェルパとインド人の遺体の上から石を載せ、埋葬をすませた。1つ間違えれば死の世界がいとも簡単にやってくるヒマラヤの世界。いかなる状況に追い込まれようとも、最後の最後まで生き延びるための努力を怠らないのが冒険だ。埋葬された遺体に手を合わせながら「生きてこそ」冒険の意味があると自分に言い聞かせていた。 一時間ほど、サウスコルに滞在し、キャンプ2へと向けて下山を開始した。午後6時45分、フラフラになりながらキャンプ2に到着。グルジア隊員のギーアは午後4時にローツェに登頂。しかし、下山中に悪天候に見舞われ、ほとんどギーアとの無線連絡が通じず、捜索隊派遣の打ち合わせまで行われた。キャンプ2でも午後8時過ぎには吹雪となり、我々は、無言の無線機の前で待機するほかなかった。 午後9時30分、ギーアから 「最終キャンプに戻った」 と連絡が入り、一安心したが、実はギーアが僕らを安心させるために嘘をついていた。実際は最終キャンプに戻ったのは午後11時45分であったのだ。極めて危険な状況で無事に生還したギーア。ヒマラヤ登山の厳しさを嫌というほど実感した一日であった ...
一歩一歩山頂を目指して進む 登頂後、ベースキャンプにて 野口・村口・渡辺の3名が午前7時、キャンプ3へ向かう。エベレスト登頂が5月15日~17日に各登山隊が設定したためか、我々以外に他の登山隊員の多くも同じくキャンプ3を目指す。この日は快晴無風。氷壁に取り付いた我々に容赦なく紫外線が襲いかかる。暑い、ひたすら暑い。 氷に囲まれながらなぜ、これほどまでに暑い思いをしなければならないのか。しまいに頭がクラクラし、気分が悪くなってしまった。 帽子を脱ぎ、頭に雪をかけ冷やすが所詮、気休めでしかない。暑さに体がまいり、座り込んでいたら、下から他の登山隊員が追いついてきた。 ワンピースのダウンジャケットを着用しているので、サウナ状態なのだろう、その彼も暑さに疲れ果てたよう。。汗だくでグッタリしている。しばらく、一緒に休み、そしてテクテク歩き、また休む。その繰り返し。 「あなたは、どこの登山隊ですか?」 と彼に聞かれ 「エベレストの清掃隊だよ」 と返事したら 「あ~知っているよ!凄いことやっているね!」 しばらくして、彼は、話し出した・・・。 「僕は癌患者なんだ。2箇所に癌をもっている。医者に残り半年の命だといわれた。残された時間になにができるのか、色々考えた。それで、エベレストにきたんだ。エベレストに登って小児癌で苦しんでいる子供たちに癌でもエベレストに登れるんだと、勇気付けたいんだ!帰国したら子供たちが病院でまっている。」 と、晴れやかな表情で僕に語りだした。 「けど、アメリカの病院にいるときよりも体調がいいんだよ!」 と・・・。 僕は驚いてしばらくなにも言い返せなかった。癌に侵されながら7000メートルの氷壁を登っている。けっして、足どりは軽くないが、一歩また一歩、彼は確実にエベレストの山頂を目指して前へ前へと進もうとしている。そして、彼の表情は自分の過酷な運命をまるで楽しんでいるかのように、輝いていた。 悲壮感を一切感じさせない彼の強さに僕は圧倒された。 「小児癌の子供たちに夢を与えたい」 という彼の使命感が、彼をそこまでたくましくさせているのだろうか。 彼と別れた後、僕はキャンプ3周辺のゴミ清掃活動を行った。7300メートル地点での清掃活動で、五体満足な僕はこれぐらいで、 「苦しい。」 と泣き言をいうわけにはいかない。彼の戦いに比べたら僕のやっていることは、ごく当たり前のことにすぎない。 時に、このエベレスト清掃活動が苦しいと愚痴をこぼすことがある。自分の弱さを痛感する瞬間だ。彼は小児癌の子供たちに勇気付けたいと言っていたが、小児癌の子供たちだけじゃない。僕自身も彼からエネルギーをもらった。いかなる状況に追い込まれても、絶えず前向きな彼の姿に人間のすごさを感じ取った。 5月16日、午前9時30分、彼はエベレストの頂にたった。小児癌の子供たちに夢をと願う彼の使命感が過酷なエベレスト登山に勝利をおさめたのだ。 戦う男の美しさを僕はこの目で確かに見た。 ...
5月12日、午前6時30分、キャンプ2へ向けてベースキャンプを後にする。何度となく繰り返されてきたアイスフォール越え。でも、今度が最後。ベースキャンプを出発してから2時間ほどたったところで、突然、先を進んでいた村口さんの声が無線に飛び込んできた。 「野口、とれるか! 野口、とれるか!」 緊迫した声に、何事かと思い、 「ハイ、野口です。どうかしました?」 と答える。村口さんの 「無事か!大丈夫か!」 との応答に、 「なにかあったんですか~?」 と聞けば、 「アイスフォールが崩壊した。お前のいる辺りだぞ」 「ハイ、了解しました! 気をつけます」 と取り合えず返事した。それから5分も歩かないうちに、平らだった場所が落ち込み、目の前のルートが無くなっているところに着いた。 村口さんが慌てていたアイスフォール崩壊の現場であった。あと、5分、早くベースキャンプを出発していたら、氷柱群の下敷きになっていた。 僕の先を歩いていた韓国隊員の李さんの姿が見えず、無線で 「李さん!李さん!」 と呼んだものの応答がなく、村口さんに 「そちらから李さんの姿が見えますか!確認お願いします!!」 とお願いするが 「李さんの姿は確認できないっ!!」 確認できないまま、悶々と時間が過ぎていく。どれだけ時間がたったのか、 「野口!李さんの姿、確認したぞ!」 と、村口さんの声が無線に飛び込んできた。良かった。肩の力がスーと抜けていくのが分かった。 後でキャンプ2に着いた時、李さんから聞いた話だが、氷河が崩れる音がしたと同時に李さんは走り出し、李さんの20メートル後ろが爆音と供に崩壊したそうだ。危機一髪、李さんは命拾いした。アイスフォールはよく「ロシアンルーレット・ルート」と呼ばれるがその由縁を痛切に実感した。 ルートを失った我々はしばらく、アイスフォール工作隊が到着するのを待っていた。およそ、50分ぐらいたっただろうか、突然、ドドドドドーと爆音が響き渡り、前方やや左の壁から雪崩がこちらに向かってくる! 「ここまで、来るか!? 大丈夫か!?」 と声に出してしまったが、なにぶん、アイスフォールの中で走ることもできない。幸い、雪崩は我々の元までやってこなかったが、人生、一寸先は闇だ。 その夜はキャンプ2でぐっすり眠りこけた。やっぱり、心身ともに疲れ果てていたんだな~ ...
愛する野口さんを待つ、ニマ・オンチュウ 帰りを待つ、シェルパ達 焼きそばを作って待つペンバ 野口さんに焼きそばを運ぶ 遥かなるギーアを想うズ~ラ 今、昨日5月16日に、サウスコル(8000m)から、野口さんらが無事帰ってきました! 日本にも、このホームページで無事ベースキャンプに降りてくる報告をいまか、いまかと心配されていた方がたくさんいらっしゃると思いますが、実はベースキャンプでも、インターネットと無線という違いこそあれ、ほとんど同じ状況、心境かもしれません。 ベースキャンプと野口さんとは、基本的に朝、昼、夕の一日三回に定時に無線連絡をすることにしていましたが、行動日程や天候などの影響で、必ずしも定時に交信できるとは限りません。また、ベースキャンプとキャンプ2は無線機用のアンテナを立てているので交信不能なことは稀ですが、行動中に野口さんが使うハンディータイプの無線機では、標高が高かったり、降雪があったりするとベースキャンプからは交信ができなくなります。そんな時は、キャンプ2にいるスタッフを中継したり、少しでも電波状況がよいところへ野口さんがわざわざ移動してベースキャンプと交信します。こちらから野口さんの声が聞き取りづらい時には 「すいません。聞こえません。どうぞ」 と、言うのですが、寒い中、空気の薄いところで野口さんが電波状況のよいところを探しているところを想像すると心が痛みます。 また、キャンプについた時は別ですが、行動中は集中力の妨げになると危険なので(車の運転中に携帯電話の使用が法律で禁止されてるのと同じ理由ですね)、よほどのことがないかぎり、こちらからは交信できません。 唯一できることは「・・・待つ」こと。 幸い野口さんは、まめに連絡を入れてくれる性格のようで、長い時間、音信不通にならなかったので助かりました。といっても、3~4時間おきの連絡がですが・・・。 いつ無線が入るか分からないので、通信スタッフらと共に機材テントに詰めていたのですが、待機中に読みかえそうと思っていた「百万回のコンチクショー」は5日間で10ページしか読み進められませんでした(笑)。 ベースキャンプで野口さんらの帰りを待っているのは、私たちだけではありません。 ベースキャンプにいるシェルパらは、アイスフォールを降りてくる隊員やシェルパを望遠鏡で見つけると、安全なところへ降りてくるまで数時間もの間、交代でずっと見ています。 その報告を受けて、キッチンスタッフは、到着時間に合わせて飲み物や食事を用意します。野口さんはベースキャンプに戻ると「焼きそば」のほかに「つるっとしたもの」をいつも所望するので、キッチンスタッフは「焼きそば」のほかに日本から持ってきた「うどん」や「ゼリー」を作ってくれます。コック長のテンバは、ベースキャンプの気温や天候を考慮して 「今日の天候だと、ケンは冷たいうどん、温かいうどん、どっちがいいかな?」 と。そんなキッチンスタッフは、ベースキャンプについて久方ぶりにキッチンテントに来た野口さんが料理に口をつけるのを離れたところから厳しい表情でじっと見ていて 「あーうまい。ベースキャンプは天国だー」 と言う野口さんを見て、にっこりと笑います。 グルジア隊員のドクター・ズ~ラの待ち方は、尋常じゃありません(笑)。彼は、具合の悪くなった隊員やシェルパを診るために、私と同じくいつもベースキャンプに待機しています。隊員やシェルパが上部キャンプにあがっている時も、心配そうに山を眺めていますが、同じグルジア隊員のギーアがいったん上部キャンプにあがると大変です!! 彼のテントは、無線機のある機材テントとすこし離れた所にあるのですが、10分、いいえ5分おきぐらいに機材テントに来ては 「いま、ギーアはどこにいるのか?」 と、聞いてきます。さすがに5分では状況はあまり変わりません。しかもギーアは、頻繁に連絡を入れる性格ではないようです。しかたないので、ズ~ラがテントに来るたびに私は、たいてい前回と同じく 「○時○分にキャンプ○についたと連絡がありましたよ」 と、答えます。すると、 「May be(たぶん)いまごろ、○○○についたかな~」 「May be 疲れてるんだろ~な~」 そして、 「・・・Life is always may be・・・」 と、つぶやき、泣きそうな顔をしながらテントを出て行きます。 ある時、通信スタッフの 「国の奥さんと、ギーアとどっちが大事なんですか?」 という質問に 「今は ギーアだ!!」 と、間髪いれず答えていたのが印象的でした。 そんな彼ですから、ギーアが無事帰ってきたときは、本当に嬉しそうです。けれども、ギーアはそんなズ~ラに構うことなく、隊員やシェルパに上部キャンプでの出来事のマシンガントークです。そんなギーアをやはり嬉しそうに黙って眺めているズ~ラ、男同士ですけど、素敵なカップルだなーと誰もが感じるはずです。 野口さんの清掃登山活動の目指す頂上は、非常に高いものですが、ホームページで応援してくださるみなさんも含めて、少しでも彼の荷を軽くできたのならば、幸いです。 帰国したら、「・・・待つ」だけではなく、自分でも頂上を目指してみたいと思いました。 2002年5月17日 ベースキャンプより 谷口けい ...
集められたゴミを入れておくテントのなかで・・・ 缶詰のゴミ。中身が入っているものも・・・ 食料のパッケージ。プリントされた文字から、どこの国のものか一目瞭然です 調理などに使うガスカートリッジ ルート工作に使われるはしごなどの残骸 ルートに張られたフィックスロープのゴミ スイス隊のゴミのなかから発見された、昔の湯たんぽ(?)らしきもの 重量、個数ともに多いのが酸素ボンベ。なかにはまだ酸素が入っているものもあります 今、野口さんは、サウスコルのゴミ回収に向かっていますが、今回はこれまでに、ベースキャンプに集められたゴミについてレポートしてみたいと思います。 前のレポートでもご説明しましたが、野口隊には集めたゴミを収容するゴミ・テントがあります。ベースキャンプ周辺、キャンプ2、キャンプ3、サウスコル(キャンプ4)で回収されたゴミが種類ごとに分別されて入れられています。大人が5人充分に寝られる広さがあるゴミ・テントは、すでに3分の2ほどゴミで埋まっています。エベレストのゴミは、登山に欠かせない装備と生活に必要な食料などのゴミに大別できます。 生活関係のゴミでもっとも目立つのが、缶詰です。ときどき中身が入ったものもあります。食べられそうもありませんが・・・。缶詰は比較的年代の古い隊ものが多く、新しい隊になるほど、レトルトパックなど食料品のパッケージが目立つようになります。 缶詰もパッケージも商品名などの文字から、どこの国のものかが容易に判別できるのですが、野口さんのおっしゃる通り、日本、韓国のものがダントツで多く見つかったのは残念でなりません。アメリカ、イギリスなど英字で書かれたものの総数よりも日本のゴミが圧倒的に多いのはだれの目にも明らかです。 その他には、調理器具や調理に使うガスカートリッジ、食器、ビン、電池などがあります。 登山装備では、アイスフォールを渡るために使われるはしごの残骸やロープなどが見つかりました。これは、どこの国、隊のものと断定することが難しいゴミで、その年ごとに参加した隊で責任を持って回収しなければいけないのだなーと思いました。 一方、高所登山で使われる酸素ボンベは年代や隊名が書いてあるので持ち主が明確にわかります。高所で空になった酸素ボンベを降ろすのには余力が必要で、登頂する以上に大変なことだとは思いますが、「残していいのは思い出だけ」「とっていいのは写真だけ」そして、足あとすら残すことが問題になっている現代ではやはり、持ち帰ることが必要だと思います。 登山装備のゴミには、ほかにテントや寝るときに下に敷いて使うマットなどが見つかっています。 先日、サウスコルに向かって出発した野口さんらを見送った帰りにアイスフォール帯周辺で私もゴミ拾いをしました。 さすがに酸素ボンベは落ちていませんでしたが、缶詰や食品パッケージ、引きちぎれたロープなどがあちらこちらに散らばっていました。缶詰ひとつ拾うのにも、かたーい氷を砕いて取り出す必要があって、息は切れるし、想像以上に疲労しました。捨てるのって簡単ですが、拾うのは本当に大変です。すこし、ゴミを捨てた人を恨んでしまいそうです。 だけど、ベースキャンプに帰ってきてこのことをシェルパのニマ・オンチュウに話したところ 「低いところ(ベースキャンプ周辺)の氷はソフトだから、イージーね! キャンプ3はぜんぶ、ブルーアイスで硬いからベリーハードよ!」 と、私達の苦労は上部キャンプに比べると、全くたいしたことないのでした(笑)。 酸素の薄いところでのゴミ回収は、ベースキャンプにいる私でも想像できないほど大変な作業です。一歩足を上に進めること、ピッケルを振るってブルーアイスを砕くこと、ゴミを回収するための一つ一つの行動が命を削ります。野口隊が無事、「TOP OF THE WORLD」の清掃をしてベースキャンプに戻ってきてくれることと、高所での彼の荒い息遣いや咳が、日本をはじめ各国にあるゴミを無くす「風」になることを信じてやみません。 2002年5月14日 ベースキャンプより 谷口けい ...
野口は今年最高地点(サウスコル 8000m)での清掃活動へと向かいました。ここにベースキャンプとの無線交信の内容をご紹介します。 5月12日 12.00 本日、朝5.00に起床して、キャンプ2へ向かった野口よりキャンプ1より無線連絡が入りました。 「あーどうも 野口です。やばかったよ~。あと、10分、いや5分かな、もし早く登っていたら、氷柱の崩壊でお陀仏だったよー。撮影で時間かかってよかったー。キャンプ1に着いたのでこれから飯にしまーす」 野口がアイスフォールを越えている最中、すこし上部で、崩壊と雪崩が起きました!が、幸い野口のいる場所までは被害がなかったようです。この崩壊、雪崩でルートの工作、変更を余儀なくされましたがその後、キャンプ1に無事到着したもようです。しかし、クッキングスタッフが作ってくれたお弁当は、ベースキャンプに忘れてしまったようですが・・・ 5月12日 17.00 野口はキャンプ2へ無事到着した模様です。 「アイスフォールでの崩壊は、誰も被害に遭わず運がよかったなー。これから、最後の清掃活動ですが、ほんとうに最後にならないようにさらに気を引き締めてに励みます。」 前回に比べ、体調はよいとのこと。キャンプ2でグッスリ眠れることを祈っています。 5月12日 9.00 本日13日、野口は朝7.00にキャンプ3へ向けて出発しました。高度順化がうまくいっているようで昨晩はグッスリ眠れたようです。本日の天候もいままでにないくらい非常によく体調も良いようで、速いペースでキャンプ3へ登っているそうです 5月13日 17.00 本日キャンプ3へ向かった野口より無線連絡が入りました。明日いよいよ、サウスコルでの清掃で 「意気込みは?」 と、たずねたところ 「意気込みなんて言っている余裕ないよー」 と!天気が非常によいのはいいのですが、強い日差しと、無風で暑さにまいっているようです。また、カキコミの内容を伝えたところ、巨人が首位にたったことを非常に喜んでいたのが印象的でした。 5月14日 10.00 本日、野口は7.00にキャンプ3から、サウスコルに向けて出発。ベースキャンプは大雪ですが、上部はまだ雪が降っていなかったもよう。9.00、上部キャンプでも雪が降り出したようです。10.00 現在、ベースキャンプの雪も小ぶりになり野口は雲の上にでて、サウスコル手前およそ2時間の地点にいるそうです。体調は良好とのこと。 5月14日 13.00 サウスコルに向かった野口より、不定期にBCへ無線連絡が入っております。12.00に、サウスコル手前にいた野口は13.00にサウスコルに無事到着。シェルパ、インド人各1名の遺体を発見したそうです。死体を降ろすのは不可能なため,キャンプサイトから離れたところに埋葬するとのこと。 5月14日 15.00 サウスコルでの清掃(埋葬)を終えて15.30 キャンプ3に帰ってきました。天候は落ち着いているようですが、非常に暑いようです。非常に疲れた声で 「今日は最高のダイエット」 と、言っておりました。キャンプ2にいる隊員に 「ゼリーみたいなさっぱりしたものが食べたいなー」 と、申しておりました。疲れているそうですが、体調は良いとのこと。 5月14日 20.00 18.45無事、キャンプ2へ戻ってきました。 「今日は厳しかったー。これでベースキャンプに降りれたらおわったなーって感じだね。今回はできすぎです。特にシェルパががんばった!!いやーながかったなーこの冬は・・・。」 「まだおわってないけど、だれ一人大きなけがもなく、3年間連続でできてることを考えると、僕は恵まれてるなー」 「明日、ベースキャンプに降りるのはちょっとむりかなぁ。」とのこと。 5月15日 18.00 昨日、5月14日にサウスコルでの清掃(埋葬)を終えた野口ですが、本日、ベースキャンプにもどる予定でしたが昨日の疲労が激しいため、安全をとってキャンプ2でレストすることになりました。 先にシェルパと共に下りてきたビデオテープには、疲労しきって降りてくる野口の映像が映っていましたが今日、18.00の交信では 「あ~ うまく映ってた? ちょっと演技が上手すぎたかな?」 と、咳もしないで元気な様子。明日5月16日、朝7.00ごろにキャンプ2を出発し、ベースキャンプにお昼前に着く予定です。ベースキャンプでは、また、焼きそばを作って待つことにします。 2002年5月12-15日 現地隊員報告 ...
上部キャンプへ目指す 5月4日、午前8時、シェルパ5名と共にキャンプ3へ向けてキャンプ2を後にした。しかし、お決まりの寝不足で頭は冴えず、さらに酸欠とあってシェルパのスピードについていけない。だいたい、シェルパ達の歩く速さは尋常じゃない。6000メートル地点にいながら、まるでハイキングコースを歩いているかのように、スタスタ歩いている。 「なにも考えていないんじゃないのかな~」 と僕には彼らの身体的また精神的構造がよく分からない。とにかく、凄い奴らだよ。 高畑隊員は登山経験がまだ浅いので、キャンプ3へつながる氷壁の取りつきまで、同行しキャンプ2へと戻っていった。本人はキャンプ3まで行きたいと希望していたが、自分の能力以上の領域に突入するべきじゃないと、言い聞かせ、高畑隊員も納得してくれたようだ。村口隊員やシェルパ達の指摘の通り、キャンプ2の上部にあるローツェフェースと呼ばれる高さ1000メートル以上のこの氷壁は98年や99年の時とは姿を変え、ガリンガリンに凍りつき、アイゼンの刃がなかなか氷壁に食い込んでくれない。 また、張られたフィックス・ロープもいたる所が痛み、打ち込まれたアイス・スクリューも半分以上が露出している。そこに他の隊の隊員たちが10人以上も一本のフィックス・ロープにぶら下がり、頼りないロープがその重量に耐えられるのか、僕には恐怖だった。もし、フィックスロープが切れたらそのまま1000メートル下の氷河に叩きつけられ全滅するほかない。運に任せるには、あまりにも代償が大きすぎる。 「野口、考えるな!切れるときは切れる。切れないときは切れない!それだけだ!」 と自身に言い聞かせるが、説得力がなさすぎる。それでも、進むしかなく、最後は諦めの心境だった。 3時間ほど登ったのか、キャンプ3に張られていたテントの残骸群が見えてきた。今日の目的は以前キャンプ3に張りのこされたテントの回収だ。 村口さんから 「テントの残骸が30張り以上はあるぞ!」 と報告を受けていたのだ。しかし、そのテントの残骸群が見えてからがなかなかたどり着かない。ベースキャンプには 「あと30分程で、キャンプ3に着きます」 と言っておきながら、結局、1時間30分かかってしまった。100メートル登るのに1時間以上かかったのだ。高度は7300メートル。その高度に順化できていない身にはこたえる。 そして強風が始まり、寒さの為に指先の感覚が無くなった。先に着いていたシェルパ達がもくもくとテントの回収を行っているが、氷の下に埋まっているテントを取り出すのは至難の業だ。 ピッケルで氷を砕きながら、少しずつテントを引っ張りだすのだが、1張り回収するのに、1時間ほどかかった。さらに急斜面であるから、我々がそのまま滑落してしまわないように、ゴミが散乱する場所にフィックス・ロープを打ち込み、そこに体を確保しながらのゴミ撤収作業だった。 おおよそ、1時間30分。5張りのテントを回収し、ザックに詰め込んだ。下山中は疲れが出たのか、足がなかなか前に出ず、フラフラしてしまった。 同行したニマ・オンチュウも 「全身が痛む」 と体調不良を訴え、2人して体を支えながら氷河上に座り込み、キャンプ2に戻ったのは4時30分ごろだった。エベレストに2回登っているニマ・オンチュウが 「今回はどうしたのかな~ 体がおかしいよ」 と嘆いていた。高所登山を続けてきた負担だろう。時に休まなければならないのが高所登山。体の細胞を殺しながらヒマラヤに登り続けるシェルパ達。ニマ・オンチュウの不調は僕の責任でもある。罪悪感を覚えながら、ニマ・オンチュウと 「俺らももう年かな~」 と冗談を言い合うしかなかった。その夜、いつも以上に呼吸が苦しく、翌朝、高畑隊員に「健さん、昨夜うなされていましたよ!大丈夫ですか?」 と心配された。高所は楽じゃないよ。 サウスコルまで上がっていたシェルパ達13人がキャンプ2に戻ってきた。彼らの中には1人でサウスコルから13本の酸素ボンベを担ぎ下ろしたシェルパがいる。約35キロだ。 彼らの活躍には目頭が熱くなった。苦しいはずなのに、1つも嫌な顔をしない。それでいて、 「ケンさん、大丈夫」 と心配してくれるから、もう僕としてはたまらない。彼らに負担をかけすぎじゃないのか。 「しばらく休んでくれ」 と言えば、 「ケンさん、問題ないよ。これからももっとたくさんのボンベ下ろすからね!」 と笑顔でこたえてくれる。そして、 「ここはネパールの山。綺麗になるのうれしい!」 とつづく。僕は彼らに頭を下げたい気持ちで一杯だった。 6日、5日間ぶりにベースキャンプに戻った。空気が濃い。そして暖かい。キャンプ2からリクエストした焼きそばをキッチンスタッフのペンバが作っていてくれた。あの焼きそばの味を僕は忘れないな~ 咳は相変わらず止まらないが、それでも久しぶりに安心して横になれる。雪崩の音などもう気にならない。今はただただ、ゆっくりと休みたいだけ。 キャンプ3での清掃活動 ...
腹痛のためにキャンプに3行くのが一日延期。寝られない、腹が痛い、寒い、ちょっと歩けばすぐに息が切れる。なかなか快適に過ごせない6400メートルのキャンプ2。そして咳の復活。咳き込みすぎて食べたものがそのまま口から噴出してしまう。夜中にはキャンプ2のすぐ背後にある南西壁からの落石音、またヌプッェの方からは雪崩の爆音、エベレストはどこにいっても賑やかだ。キャンプ2の朝食は日の差し出す8時15分から。キャンプ滞在のクックがお粥を作ってくれる。隊員のほとんどは食欲がなく、なんとかお粥を喉に流し込むのが精一杯。その中でも唯一、食欲があるのが韓国隊員のチェさん。チェさんは食べ物に対する執着心が人一倍強く、いつもキッチンをにらみながら、なにが出てくるのか厳しくチェックする。クックにとっては、手ごわい相手だ。 前日の強風で、キャンプ2にて他の隊のテントが破壊されたと村口カメラマンから連絡いただいていたので、我が隊はどうなっているのか、心配でしょうがなかった。しかし、我が隊の損害はノースフェースのテント2張のみで、メインのコールマンのテントはみな無事であった。さすがにコールマンのテント。また嵐の時にキャンプ2を守ってくれた5人のシェルパ達の功績も大きい。ありがとう! キャンプ2で、まず朝からはじまる作業は水作り。水作りといっても、もちろん水道があるわけじゃない。氷を砕いて集め、その氷を袋に詰めテントに持ち帰り、コッフェルに入れられたその氷を火器で溶かし、水を作るのだが、氷から水を作るのに永遠と時間がかかる。そうだな~1リットルのお湯を作るのにざっと20分以上はかかる。しかし、6000メートルを超える高所では1日5~6リットルぐらいは水分補給したい。キッチン担当のシェルパ達は朝から水作りに追われるのだ。人が生きていくためには地道な作業にいくらでもある。 日中は猛烈に暑いキャンプ2も、夕方日が暮れれば猛烈に寒くなる。テントの中で寝袋の中に潜り込み、午後6時のベースキャンプとの無線交信を待つ。上部での悲惨な生活の中で唯一楽しみなのがこのベースキャンプとの交信。谷口隊員がいつものように楽しそうな声で 「キャンプ2の健さん、どうしていますか!」 と、こちらからすれば、 「どうもこうもなく、悲惨なだけですよ!」 「そちらベースキャンプは楽しそうでいいですね!」 と嫌味の1つも言いたくなる。しかし、その後がいい。 「今日、「カキコミメッセージ」に寄せられたメッセージ読み上げますね」 とくる。 「健さん、巨人が7連勝ですよ!」 とカキコミ仲間達がキャンプ2で苦しんでいる僕の為に日本の気になる情報を流してくれている。カキコミ仲間の1人、のり子さんが風邪をひいてしまった事までキャンプ2でわかるんだから、インターネットの力の凄さを思い知ったと共に、僕にはたくさんの仲間がいるんだと、猛烈な寒さの中でも心の中は確かに暖かかった。 いよいよ、明日はキャンプ3だ。村口カメラマンやシェルパ達の報告では、キャンプ3への氷壁がガリンガリンに凍りつき、アイゼンの刃が氷に刺さらず、不安定な体勢のまま登山を続けなければならず、極めて危険との事。気をつけなければ・・・。 あいかわらず、寝れない夜を迎えた。 ...
キャンプ2までの順化を済ました我々は、キャンプ1を通過し、一気にベースキャンプからキャンプ2へと向かった。キャンプ2手前で温度が上昇し、厳しい照り返しも手伝って氷河上は灼熱地獄となり、高畑隊員とふらふらになりながらベースキャンプから8時間かけてキャンプ2へとたどり着いた。極度の寒さと極度の暑さ。これじゃ体がもたないよ! そしてさらに大きく開いたクレパス。クレバスを渡るために使うハシゴは、3本から4本、5本とその数を増やしていく。氷柱群もさらに傾きかけ、その下を通過しなければならないのだから、緊張感がさらに増す。いつまで続くのか、このロシアンルーレット生活。 キャンプ2の夜はやはり寝られない。横になっているだけで、胸の圧迫感を感じ、思わず寝袋のジッパーを開け、上半身を起こしてしまう。ひどい時には、呼吸をしていない自分に気がついて目を覚ますことさえある。 夜中体を起こし、寒いので火器に火をつけ、手を温めながら時計とにらめっこしながら、「早く朝よこい!」 とうなってしまう。横の高畑隊員のテントからも、唸り声が聞こえてきて、 「あいつも苦しんでいるな~」 と仲間の様子に一安心!? 村口カメラマンと渡邊玉枝さんは5月3日にベースキャンプに下りていった。村口カメラマンには98年の2度目のエベレスト挑戦で初めて撮影していただき、その後も6回のエベレスト遠征中、4回共に行動していただいている。 あの、ネスカフェのコマーシャル映像も村口カメラマンがチョモランマ側の7900メートル付近で撮影してくださったものだ。今回は、野口清掃隊の撮影プラス、エベレスト女性最高齢登頂を目指す渡邊玉枝さん(63)のサポートでエベレスト入りしている渡邊枝さんはすでに2座の8000メートル峰に登頂し、チョオユ(8201メートル)では当時女性最高齢8000メートル峰登頂記録を樹立されている。 何度か、アイスフォール超えを共にさせていただいたが、63歳とは思えない強健ぶりに驚かされた。村口さんも 「玉枝さんについて歩くの大変だよ~歩くの速いんだもん。」 と漏らしていた。我が隊のシェルパからも 「あんなに強い日本人女性ははじめて見た!」 と歓声が上がるほど、彼女は強い!世界最高齢女性エベレストサミッタが日本からでそうだ!渡邊玉枝さんの情報、これからこのホームページ上でも紹介したいと思います。 キャンプ2について2日目、キャンプ3を目指す予定だったが、夜中から胃が痛み出し、結局1日スライドしてしまった。前夜の夕食後に冷えたコーヒゼリーを食べてしまったのがいけなかったのか? 韓国3人組みは午前8時にキャンプ3へ向けて出発。その日は一日じゅうテントの中で静かに暮らした。 そんななかで先日、キャンプ3から滑落し死亡した英国人の遺体をキャンプ2付近のクレパスに埋葬したとの情報を耳にする。キャンプ2は遺体を回収できる場所だ。埋葬といっても、永遠に分解されることなく残ってしまう遺体。氷河の移動でクレパスに埋められていたはずの、遺体が再び露出することもある。 年々増えつづける遺体が今日ではエベレストの環境保護というテーマで問題視されているにも関わらず、「放置」されていく遺体に僕はすっきりしない。8000メートルを超え、回収困難な、また不可能な場ではやむを得ないが、充分に回収できる地点での遭難者の遺体はその隊が責任をもって回収するべきではないか。 遭難事故を起こした公募隊のシェルパは 「『英国の遺族に連絡したら、クレパスに埋葬してほしい』との返事だったので、そのように処理した。」 と話していた。遺族の方々のお気持ちも分からないわけではないが、しかし、エベレストは別にその遭難者の私有地でもなければ、墓地でもない。例えば、私が富士山で仮に遭難し、私の家族が 「健は富士山が好きだったので、遺体はそのまま放置してください」 と、夏の登山シーズン中に登山道のすぐ脇に私のミイラが横たわっていたら、年間30万人もの登山者がどのような気持ちにさせられるだろうか・・・。 実際にエベレスト登山中に目にする遺体の数々に、登山者側から 「なんとか回収してほしい」 と指摘されだし、ネパール山岳協会から 「野口隊には遺体の回収を期待する」 とのコメントまでだされる始末だ。96年に8000メートル付近で遭難された難波康子さんのご遺体は翌年にシェルパらの手によってベースキャンプまで下ろされた。その以前にも、1993年、ネパール人女性初のエベレスト・サミッターになったパサン・ラムシェルパ二も南方付近(8500メートル)で遭難死したが、仲間らによって回収された。8000メートルを超える困難な場での遭難でも回収されてきた経緯がある。 親しい身内がエベレストでなくなり、 「あの人はエベレストが好きだった。好きなエベレストで死んだのだからそのままにしてあげて」 は、今の時代通用しないのではないか。回収できる場での「遺体放置」はあまりにも無責任だと、私にはそう思えてならない。 僕の名前は 野口健 カメラマンの村口徳行さん サミットを目指す渡邊玉枝さん ...