2011/12/20
清掃登山や遠征などのヒマラヤに関連する記事です
*写真をクリックすると拡大します。 高所順応のため、ディンボチェ村に二泊した。残念な知らせが入りアイランドピークに登っていた日本隊のキッチンボーイがベースキャンプにて病死したとのこと。高山病でしょう。高所に慣れている地元スタッフでも体調を崩したまま高所に上がれば危ない。ディンボチェ村(4350m)からロブチェ村(4930m)に向かっている最中に我々がこれから登るロブチェピークが現れた。今回で4回目の挑戦。ロブチェピーク(6119m)登山の前にまずトレッキングピークのカラパタール(5545m)に登り高所順応を行う。カラパタール登山は明日。 トゥクラの丘にはエベレストなどで遭難された方の遭難碑が並ぶ。遭難碑を前に「山で死んでいけない」と自分に言い聞かせながらお参りしてきました。午後4時過ぎ、ロブチェ村に到着。カメラマンの平賀淳くんは酷い下痢に悩まされ、歩いてはポトポト落としながら大変そうでした。逆に僕はいつも通りの便秘。日本から下剤を持ってくるのを忘れお腹パンパン。下痢の淳君が羨ましい。夜はさすがに5000m弱だけあり、呼吸が落ち着かず夜はなかなか寝付けない。高所は何回来ても一から高所順応をやらなければならない。一気に標高を上げれば間違いなくコロリとあの世にいってしまう。そろそろ日本のお風呂が恋しくなってきたかな?まだ早いか。明日はカラパタール登山! ...
2006年最後の日(12月31日)、我々はクムジュン村(3780m)で村人と共に清掃活動を行っていた。同行カメラマンの平賀淳君と「日本ではもうお正月。紅白歌合戦だよ。俺達はヒマラヤでゴミ拾い。まあ~俺ららしいか」と慰めあっていた。しかし、嬉しいこともあった。ナムチェバザールではなかなか村人が参加してくれなかったが、クムジュン村は続々と参加者が集まってくる。冬のシーズンをカトマンズで迎える村人も多くシーンと静まり返っていたが、それでも20人以上の男女が参加してくれた。エベレスト清掃活動にはクムジュン村からも多くのシェルパが参加していただけに清掃活動には理解し共感してくれた。日本人トレッカーの女性二人も参加してくれました。約350キロのゴミを回収し村の焼却炉で燃やした。 僕はこのクムジュン村が大好き。ここにシェルパの家と同じような岩小屋でも建てて年に一ヶ月ほどゆっくり過ごすのが夢です。娘の絵子さんも夏休みになったらクムジュン村で村の子供達と裸足になって駆け回ったほうがいいに決まっている。家族はクムジュン。そして私は出稼ぎ労働者として日本で過ごし年に一回家族に会いにクムジュンに帰る。これ、なかなかのプロジェクトですが、そのように家族を説得するのか至難の業。私の密かな夢としていつか実現させたいものです。 クムジュンでの清掃後、村の若者達に呼ばれ相談があるというのでなんだろうと思ったら若者の一人が「クムジュン村で青年会を作りたい。そのクラブで村のごみ拾いなど環境問題について取り組みたい。アドバイザーになってほしい。一緒に協力してほしい」とこれはとても嬉しい相談だった。もちろん引き受けたが、1つ注文をつけた。クムジュンにはエベレストを初登頂されたエドモンド・ヒラリー卿が建てた立派な学校があるが、その子供たちを対象にした環境教育もプログラムに入れてほしいとお願いした。大人たちだけでゴミを拾っても意味がさほどない。環境問題は教育だ。彼らも「ぜひ学校に相談して実現させたい」と快く了解してくれた。徐々にではあるが、永年続けてきた清掃活動も直実に地元の人々に伝わりつつある。 谷口けいさんは一足先に日本に帰り、シェルパ達は女の子の家に出掛けていったきり帰ってこないので、仕方なく?年越しは淳君と二人ワインを飲んだ。それにしてもネパールのテレビでもフセイン元大統領の死刑執行の様子が報じられていたが、目隠しさせることもなく、首に縄をかけられたフセイン元大統領の姿にショックを受けた。死刑執行直前までカメラにさらされ、後ろでは黒いマスクで顔を隠している人たちがフセイン元大統領を茶化し罵っている様子に武士の情けはないのかと怒りすら覚えた。東京裁判ではないが、あれではただの復習劇。 ベトナム戦争で我々(西側諸国)が応援していた南ベトナムの兵士が北ベトナムの兵士を路上で射殺したショッキングな映像が世界中を流れ、南ベトナムを応援していることに多くの人が疑問と憤りを感じたように、イラクの新政府の野蛮なやり方に違和感を覚えたのは私一人でないだろう。復讐は新たな復讐しか生まない。ユーゴスラビアのミロシェビッチのように国際刑事裁判所で裁けなかったのか。死刑制度のない国際刑事裁判所ではなく、仮にフセインを死刑にすることでブッシュ米大統領が低迷する支持率を高めようとしていたのならば愚かなことだ。フセイン元大統領の絞首刑執行直前の映像をヒマラヤで見てしまい、せっかく淳君とめでたくヒマラヤで新年を迎えようとしているのに、ついつい怒りの演説をしてしまった。いずれにせよ、イラク内でフセイン元大統領を裁いたことで復讐の連鎖にさらなる勢いがつき、今後のイラクの将来に暗い影を落とすだろう。 私ですが、昨年夏から10キロほど体重を減らし、正直体調を崩したままネパール入りしましたが、ヒマラヤでの清掃キャラバンが始まってからみるみると体調が良くなっていくのが分かる。体重もヒマラヤ入りしてから3~5キロほど戻ったと思う。せっかくシャープになった顔がまたぷっくりしてきた。よく寝、よく食べ(食欲完全復活)、よく歩き、そしてなによりもストレスレス。ヒマラヤでの生活が本来の私にとっての正しい日常なのかもしれない。淳君からも「けんさん、肌つや良くなってきましたよ」と指摘された。それにしてもヒマラヤの空は真っ青。真っ青な空と雪の真っ白な雪。そして夜は満点の星空。 清掃活動はいったん中止し、春のチョモランマ登山の訓練のため1月7日にロブチェピーク(6135M)の登頂を目指します。清掃活動はロブチェピーク登頂後、再び開始します。 ...
2007年がスタートしました。昨年はマナスル清掃活動を無事に成功させ、そして富士山は富士山クラブと連携し全国から4800人の参加者が集まり、ゴミ回収量は80トンを超えました。小池環境大臣(当時)も樹海での清掃活動に駆けつけてくださり、また静岡、山梨両県警も不法投棄取締りを強化しパトロールを開始。富士山での清掃活動を始めてから7年目。細々と行ってきた清掃活動も今や全国的に知られるようになり、富士山での活動を見本にしようと私のところには多くの団体、また地方自治体から連絡が入ります。「富士山から日本を変える」をスローガンに富士山クラブと取り組んできたこの7年間に一切の無駄はありませんでした。コツコツと地道に活動を続けてきて本当に良かった。大切なことは続けること。昨年も多くの仲間、スタッフに助けられ充実した結果を残せた年でした。 しかし、残念な事もありました。7月に父と慕っていた橋本龍太郎氏が突然の死去、9月には祖父のような存在でした花田左右平氏の死去、10月にはシェルパのプルバがヒマラヤ登山中に雪崩による遭難死、11月には母、容子が3年間もの闘病生活についに力尽き亡くなりました。胸にポカンと穴が開いたような脱力感、孤独感に襲われましたが、時間は止まってくれない。どんなことが起きようが必ず明日がやってくる。残された者はその遺志を受け継がなければならない。人生には生きる覚悟もあれば死ぬ覚悟もある。その重みを充分に感じ、また与えられた使命を背負って生きていく事を決意した年でした。 今年の目標はまず10年ぶりにチョモランマ(エベレストのチベット側からの名称・99年に登頂したのはネパール側から)の頂を目指します。97年に始めて挑んだチョモランマ。無残に敗北しベースキャンプで「いつか必ずリベンジする」と誓ったチョモランマ。 そして今年はチョモランマ、富士山同時清掃活動を展開します。遠征期間の前半にチョモランマ山麓のチベット人の村からアドバンスベースキャンプ(6400m)までを清掃。そして後半は山頂アタックに専念させていただきます。自身の夢に命を懸けるほど贅沢はありません。再びチョモランマに挑戦できる幸福に感謝し、初心に戻り我武者羅に8848mの世界最高地点を目指したい。 そして次に昨年末に立ち上げたマナスル基金ですが、発表と同時に多くの方々から援助を頂きました。お蔭様で夏にはマナスル麓のサマ村の学校に寄宿舎を建設できる見通しがつきました。マナスル基金を思いついてから、改めてエベレスト初登頂のエドモンド・ヒラリー卿の偉大さを感じました。ヒラリー卿は1953年にエベレストに初登頂されてから今日まで50年以上も、シェルパの村々に学校や診療所を建設、そして植林まで活動を続けています。 それに比べ1956年にマナスルに日本隊が初登頂しましたが、私達は一体何をしてきたのでしょうか。50年前に貧しかった日本社会、その時に日本隊がマナスルに初登頂し日本中が湧き記念切手まで発行され、なかには「これで終戦は終わった」と表現した方もいたようです。昨年、マナスルで日本隊によって捨てられた日本語のゴミを回収しながら、本当にこれでいいのだろうかと悩みました。私達はヒラリー卿の生き方から学ぶべきことがあまりにも多い。ヒマラヤ、そして登山隊を支えてくださった地元の人々への恩返しは、50年経った今からでもけっして遅くはない。 そして国内での活動ですが、今までエベレストや富士山で清掃活動を行ってきたのは問題提議としての意味合いも含まれてきました。清掃活動を続けながら次の課題にも挑戦しなければならない。環境問題の相手は人間社会。それだけに複雑です。表面的には多くの方々が環境保護活動に共感しますが、その裏では熾烈な抵抗もあります。その人間社会の中心に環境問題を取り入れるにはどうするべきか、課題や超えなければならないハードルはいくつもある。その1つ1つに取り組んでいきたい。「美しい日本を作ろう」といった言葉をよく耳にしますが、日本はそもそも美しい国でした。私は美しい日本を取り戻したい。その為にも「富士山から日本を変える」をスローガンにさらに前へ前へと進みたい。...
カトマンズで床屋に行く予定であったが、バタバタしていて結局髪の毛を切れないまま清掃トレッキングが始まった。しかし、耳周りなど、髪の毛が長いのが気になり、気持ち悪くて仕方がない。ナムチェバザール村に床屋がないものかと探してみたら2件あったが、床屋の主が冬は寒いとカトマンズに下っており閉店。「ちゃんと働けよ!」とブツブツと愚痴りながら宿に戻ったら谷口けいさんが「健さん、私が切ってあげる!マナスルではドクターケイとして小西さんの歯を治したのだから髪の毛ぐらい切れるよ」と自信満々。「けいさん、歯と髪の毛とではちょっと違うと思いますが・・・」と謙虚に意見させて頂いたら「そんなことないよ。男でしょ!ジタバタしないの!ハイ、今から散髪始めるよ!」といつの間にか手に大きなはさみとくしを持っていた。ドクターけいがバーバーけいに変身し、散髪がスタート。 初めての散髪経験のわりにはけいさんは、なんの躊躇もなくはさみを髪の毛の中にいれバッサリと切っていく。もう僕はとても不安。そんな僕の気持ちなど悟る様子など微塵もなく、本人はとても楽しそう。「ハイ、健さん終わったよ。うん、大成功」と20分ほどで終了。 鏡を覗いてみたら左耳の上がちょっと剥げており、「ここ変じゃないかなぁ~」とケイさんに再び意見させていただいたら「そうかなぁ~ でも大丈夫、そのうちまた生えてくるから」だって・・・。ただ、お蔭様でスッキリしました。何事も経験。それにしてもけいさんの度胸はすごい。っていうかあまり考えていないのかなぁ? ...
12月26日、エベレスト街道で清掃活動をスタート。ルクラ村~ナムチェバザール村~クムジュン村を清掃しながらの清掃キャラバン。特にナムチェバザール村はシェルパ族にとってのメッカ。シェルパ族最大の村だ。このナムチェバザールで清掃活動を行いながら、村人に何ゆえにゴミを拾うのか、活動を通じて理解されていけば、ナムチェバザール村から他の村々に広がっていくだろう。「富士山から日本を変える」のシェルパ社会版だ。 ルクラ村から清掃しながらトレッキングを開始したが、野口隊(総勢18人)が歩きながらゴミを拾う様子をすれ違う村人が不思議そうに眺めていた。嬉しかったのが日本人のトレッキングツアー客が「頑張ってくださいね!私達も拾いますから!」と声をかけてくれたことだ。実は清掃トレッキングツアーを募集していたものの、なかなか参加者が集まらずツアー自体がキャンセルになっていただけに(私の人気がないのか、または正月明けといった時期が良くなかったのか、それとも清掃トレッキング自体に違和感があったのか分かりませんが)偶然出会った日本人トレッカーが応援してくれたのは慰めになりました。 28日からナムチェバザール村で清掃開始。村人に「一緒にゴミを拾いませんか?」と声をかけるものの、「日当はいくら?」と聞かれガックリ。「自分の村を掃除するのだからお金は払えない」と返事すれば「それならば参加しない」とあっさり。ひなたぼっこしている若い男性二人に声をかけてみたら、「忙しいから」と言うので「ひなたぼっこしていて、なにに忙しいの?」と再質問してみたら困った顔しながら「忙しい」と繰り返していた。そして最後に「村のほうにゴミの処理費を払っているのだから我々はゴミを拾う必要はない」と本音を漏らした。 次に遊んでいる子供達にも参加を呼びかけたら驚いたことに「ゴミを拾うところをお父さんに見つかったら叩かれる。それにゴミ拾いは私達のやることではないのよ」と話してきた。ネパール社会は階級社会です。階級によっておおよその職業が決められる。「シェルパ族の階級ではゴミを拾わない」との事らしい。したがって親にゴミを拾うところを見つかれば「はしたない」と叱られるのだろう。 子供達に「ゴミを拾うことは格好悪いことじゃない。格好良いんだよ」と伝えても相手にされず、ケラケラ笑うので内心「何様だ!」とムッとし、「じゃあね!サヨナラ」と別れようとしたら、さっきまで僕を馬鹿にしていた子供達が突然ゴミを拾い始めたのだ。子供達は素手のまま汚れたゴミをつかみ私のゴミ袋に入れてくれる。村の大人たちは参加してくれなかったが、子供達が動いてくれた。時折、キョロキョロしながら親に見つからないか心配そうな表情をしていたのが可愛そうだったが、彼らの勇気ある行動に心から嬉しかった。日本でも同じ。大人はなかなか動こうとしないが、子供達は一緒に動いてくれる。 ルクラからナムチェバザールまでの4日間で約300キロのゴミを回収したが、なによりも嬉しかったのが、子供達が参加してくれたことだ。村中の人々が自主的にゴミ拾いを始めたマナスル山麓のサマ村と違いナムチェバザール村はエベレストの玄関口だけあって多くのトレッカーや登山隊を訪れるためにシェルパ社会の中でも最もお金持ちが多い。したがって「ゴミ拾いなど貧しい人がやるものだ」といった驕りを感じたりもしたが、まずは始めの第一歩。富士山での清掃活動も8年前は数百人も集まらなかったのに、今年は4800人が全国から集まり富士山クラブと共に約80トンものゴミを回収したのだ。ここナムチェバザールでも活動を続ければ可能性がある。そう希望を感じ、明日からは清掃活動をクムジュン村に移す。 ...
7 月 1 日午後 3 時過ぎ、富士山で清掃中の私に訃報が届いた。橋本龍太郎氏が多臓器不全と敗血症性ショックのため死去された。龍さんと始めての出会いは 2000 年 6 月、エベレスト清掃活動を終えて帰国した直後にさかのぼる。実はエベレスト清掃登山に出かける直前に山岳会の先輩でもある龍さんから一枚のハガキを頂いていた。そこには「 1973 年にエベレストに行きましたが、その時は前年の隊の捨てたもので随分助かりました」と書かれてあった。エベレスト清掃登山を発表をした頃で、エベレストに日本語のゴミが多いと発言し、一部の山岳関係者からしかられていただけに「ゴミに助けられた」という龍さんの言葉の裏になにかあるなと思った。 清掃登山に対してクギを刺してきたのだろうと、それならば売られた喧嘩なら受けて立とうとエベレストで橋本隊が捨てたボンベを回収し、帰国と同時に橋本事務所に持ち込んだ。「先生がエベレストに忘れたものを持ってきました」とボンベを差し出したら、裏に表示された製造年月日を確認し、真っ赤な顔をされながら眉間にグッとしわを寄せにらんできたので、これは怒るぞと身構えたら、「これは確かに我が隊のゴミです。参りました」と深く頭を下げられた。それから積極的にマスコミに「私のゴミを野口君が拾ってきた」と話し、週刊誌などに「エベレストにゴミを捨てた元総理」とバッシング的な記事を書かれたが、それでも「このような問題は公にしたほうがいい。私が叩かれればこれからの日本隊はゴミを捨てにくくなる」と話していた。 後で分かったのだが、橋本隊のメンバーが下山中にボンベを空にして遭難しかけた時、捨てられたボンベを発見しそれを吸いながら生還したとのこと。文字通りゴミに助けられたわけで私の勘違いであったが、何より龍さんの潔さに驚き感服した。 それから龍さんとのお付き合いが始まった。テレビで見る龍さんは近寄りがたい雰囲気を放っていたが、私と話すときはいつも熱血漢で義理堅い方だった。そしていつも日本の将来を気にかけていた。政治屋が多い中で龍さんは根っからの政治家だった。いつしか龍さんを親のように感じ心の支えにしてきた。 龍さんと一緒に過ごしてきた中で印象的な出来事がいくつもあった。ネパールでは龍さんが支援してきた小児科病院に同行したが、病院の中では周りに記者がいないことを確認すると、全身がチューブだらけになっている赤ちゃんを抱えながら目を真っ赤にし「助けなければいけない」とポツリと言っていたが、病院を出る時に記者に囲まれたら突然憮然とし記者を寄せ付けずに車に乗り込んだ。「なんでいつもそうなんですか」と本人に確認したら、赤「あくまでも個人で支援してきた病院だ」とピシャリ。その辺りの政治家ならば、赤ちゃんを抱っこしているところを写真にとらせ、いいことしているだろうとパフォーマンスするだろうが、彼はそういう行為をもっとも嫌った。 2003 年の衆議院選挙での出来事。応援演説に駆けつけたが、地元の県議が「橋本先生は倉敷(選挙区)に貢献してくれる。まだまだ道路も作らなければならない。橋本先生が地元に仕事を持ってきてくれる。」と支持者相手に演説ぶっていたが、最後に張本人の龍さんがその県議の目の前で「私は必要で無いものは作りません」とピシャリと言い切ってしまった。会場には土建関係者だと一目見て分かる人たちが大勢いようと龍さんには関係なかった。そして長々と国際情勢の中で日本がどのように立ち向かっていくのか、おそらくその会場にいた人たちにはさほど興味がないような国家論、政策を訴えていた。正直、よくこれでこの人、勝ってきたなぁ~と不思議であり龍さんにいとも簡単に拒否され明らかにムッとしているその県議の顔がおかしかった。後に岡山県在沖の土建関係者が「龍太郎は地元の事を大切にしなかった。橋本ロードも橋本ブリッジもない。地元よりも福祉ほうが大切だったのだろう。地元じゃ婦人のほうが人気あったよ」と漏らしていた。不器用な人だったが僕はそんな龍さんが好きだった。 政界を引退し自由の身になりこれから一緒に富士山の清掃活動など行おうと話し合っていた矢先の訃報。最後に龍さんにお会いしたのは 4 月上旬。別れ際に「これを持っていけ。」と龍さん愛用の木製のピッケルを手渡された。「俺はもう使うこともないだろう。後はお前に任せるよ」と初めて耳にする弱音に「頂くわけにはいきませんが、今度一緒に山に登るまではお預かりします」と持ち帰った。来年、私はこのピッケルで大好きな龍さんとともにエベレストの頂を目指す。 ...
先日、「おとこたちの大和」という映画を観た。その中で私が最も印象的だったのが、最後片道の燃料しか積まず沖縄へ最後の航海に出陣する直前に軍曹が大和で共に戦い負傷し入院中の戦友に今生の別れを告げようと挨拶しにいくが、いざ大和に乗り込むと、その入院中の仲間が病院を脱走し大和に乗り込んでいたのだ。軍曹が「せっかく助かった命。なぜ大和に戻ったんだ!」と怒れば「一緒に闘ってきた。俺だけ取り残されたくない。一緒に死のう」と涙ながらに訴えるシーンがあったが、私は病院を抜け出し大和に乗り込んだ彼の気持ちがよ~く分かった。 3 人もの犠牲者をだしたエベレスト清掃登山を終え、もう 2 度とヒマラヤには戻らないと冒険から離れた時期があった。しかし、ヒマラヤのシーズンを日本で迎え安全地帯にいると今頃、仲間たちがヒマラヤで死闘の戦いを繰り広げているだろうと彼らの姿を想像してしまう。彼らは自分たちの意思でヒマラヤに挑戦しているわけで、べつに私には関係ないと自分を説得するものの、平和な日本で過ごしていることへの罪悪感か、逃げ出してしまった事への後ろめたさなのか分からないがこそこそしてしまう。そんな生活が 2 年間続いた。山を忘れようと海に潜ってみたり旅に出かけてみたが、頭からヒマラヤが離れなかった。 今年の4月から5月までマナスル清掃活動を行った。ヒマラヤで最も積雪量が多いとされるマナスルは多くの登山家が雪崩で命を落としてきた。大和の水兵たちが何ゆえに死ななければならないのか、自問自答していた。私は彼らのように死を前提に行動していないが、それでも命を賭けるだけの意義を探し出そうとする。ふと気がついたことがある。私と彼らとの決定的な違いがある。兵士達は自身の意思とは関係なく戦地に派兵された。出陣の時には万歳三唱でお国のためと盛大に送り出されたかもしれないが、いざ、死を目前にすればどうであれ死にたくないものだ。死を正当化し、受け入れる作業はさぞかし孤独だっただろう。それに比べ自身の意志で命を賭けることができる私は幸せ者だ。 ...
5月20日、コスモ石油の広報室長、鴇田さんが、はるばる遠路、マナスルのベースキャンプまで来てくれました。 19日、午前7時半、カトマンズよりヘリコプターが到着。サマ村でも3500m強の標高があるのですが、サマ村からベースキャンプまではさらに1200mの標高差。快晴の到着日でしたが、サマ村をぶらぶらしたりキッチンで薪をくべたりと一泊をノンビリとサマ村で過ごしていただき、高所順化をしていただきました。20日、午前7時半からベースキャンプへ出発。この日はあいにくの雨ミゾレ。悪天候の中を、私達がベースキャンプへ来た日よりもとても早いペースでベースキャンプに登ってきました。野口隊長がベースキャンプ手前まで迎えに行くと、雪とガスで真っ白な中、ひときわ目立つ鮮やかなオレンジのウェアの鴇田さん。出会いがしら、ふたりはがっちりと握手を交わしました。 鴇田さんにとって初めての4750m(もちろん富士山が今までの最高峰)。それも日本からほぼ直行のような強行スケジュールで来られたので、21日、野口隊長、平賀カメラマンと共に、再びサマ村へと下りていきました。 鴇田さん到着と時をほぼ同じくして、キャンプ2から、小西さん田部井さん達がおりてきました。 谷口、阿久津は下山のための荷物のパッキングに追われた一日。帰国する実感が湧いてきました。 5月22日 午前6時47分 ベースキャンプマネージャー 阿久津千尋...
5 月 21 日、野口隊のマナスル上部での活動を全て終了しベースキャンプを撤収。 22 日にはマナスル登頂を断念した田部井さん、平木さんも撤収。マナスルに残り山頂を目指すのは小西さんと 3 名のシェルパ達。一ヵ月半、共に挑んできた小西さんとの別れは辛かった。無酸素登頂というあえて過酷な条件を自らに課し挑み続ける小西さんの生き方から学ぶべきものが多かった。小西さんのマナスル登頂予定は 5 月27~2 9 日。無事に生還されることを心から願っています。 サマ村への下山中、ベースキャンプにはけっしてなかった緑が現れた。土に草木、そして花。どれも新鮮で匂いに植えていたのか、嗅覚が敏感。それら命の匂いに敏感に反応ししばし犬のようにクンクンと嗅ぎ続けた。名前は分からないが黄色い花がやけに鮮やかで、目に沁みた。やはり土のある世界は素晴らしい。土の上を歩きながら誰一人失うことなくマナスル清掃活動を終了できた幸運に感謝していた。マナスルでは不眠症に悩まされていたが、サマ村の夜は安堵感からか朝まで一度も目を覚ますことなく眠れた。寝る前のビールが効いたかなぁ。 ...
大荒れに荒れた昨日のマナスル。昨夜6時過ぎにグルジア人登山家のギーアとロシア人登山家にセルゲイが無事にベースキャンプに戻ってきた。ギーアとは96年のチョーオユー登山の時に知り合い、それ以来からの親友だ。エベレスト清掃登山には3回参加してくれ、僕のよき理解者でもある。そのギーアが今回で6度目の挑戦で見事5月17日、マナスルに無酸素で登頂。ギーアがアタック中もずっと無線交信しながらベースキャンプで見守っていたが、彼の下山中から天候が急変しそれから無線交信が途絶えていただけに、心配でした。16日にはケイさん、17日にはギーア、もう体がもたないよ。そのギーアがベースキャンプに生還したときはお互い抱き合って再会を喜び合った。仲間の生還は嬉しい。今日のマナスルは昨日の嵐が嘘のように穏やか。今朝、サマ村にコスモ石油の鴇田広報室長がヘリで到着。明日、ベースキャンプに向かって昇ってくる予定です。応援の為にわざわざ日本から駆けつけてくださいました。これは凄いことです。明日、鴇田さんとの再会楽しみ。23~24日に行われるサマ村一斉清掃にご一緒されます。 最終キャンプに閉じ込められていたオーストラリア人、ドイツ人はただいま下山中。5月下旬にマナスル登頂を目指している小西さんはキャンプ3からキャンプ2に下りている最中。田部井さんはキャンプ2にて待機です。 本日で野口隊のマナスル上部での活動は全て終了。22日にサマ村に下り、25日にカトマンズに戻ります。27日にカトマンズで記者会見を行い、30日に帰国予定。あともう...