2011/12/20
清掃登山や遠征などのヒマラヤに関連する記事です
マナスル・キャンプ2より映像が届きました。 こちらは後篇です。前編と合わせてご覧ください。 ...
野口健より キャンプ2の映像が届きました。 こちらは前編です。後編もありますので、ぜひ、ご覧ください。 野口健事務所...
野口より、本日16時30分に電話連絡ありました。 無事、キャンプ2に到着できました。 野口・平賀・シェルパ、皆元気なようです。 音声ファイルはこちらから 野口健事務所 ...
5月7日午前10時40分、 キャンプ1の野口より電話連絡ありました。 天候も回復したので、本日、キャンプ2を目指すとのことです。 音声ファイルはこちらから 野口健事務所...
野口健、キャンプ1にて2日目を過ごしています。 悪天候のため、キャンプ2に出発できずにいるようです。 ビデオ内にて、「今日は7日・・・」と言ってますが、6日の間違いです。 ...
5月5日、野口隊、キャンプ1のテントより、野口のコメントが届きました。 外はかなりの大雪、嵐のようです。 音声ファイルはこちらから 野口健事務所 ...
我々がサマ村におりてからマナスル上部では遭難が相次いだ。まずはイタリア隊の隊員がキャンプ2で我々の酸素ボンベを使用したが残念ながら死亡。イタリア隊から我が隊のシェルパに「遺体をベースキャンプまで下ろしてほしい」との要請を受けたが、熟慮を重ねて上でその要請を断った。これに対し批判はあるかもしれない。しかし、我々も5月に入ったら山頂アタック体制に入る。キャンプ2から遺体を下ろす作業は極めて困難かつ雪崩多発地帯を横切らなければならない。我が隊のシェルパを危険にさらすわけにはいかない。また山頂アタックを目前に控えている我がシェルパの体力的な消耗具合を考慮すれば受け入れられない。また、イタリア隊は隊員が10人以上いながら二人のシェルパしか雇用しておらず、つまり事実上シェルパレスに近い形態を自らがあえて選択したわけで、事故が起きた際には自身の隊員(独自)による活動が当然求められる。もし仮に遭難者が生存していれば、もはやそんな事も言っていられず、どうであれ至急レスキューしなければならないが、すでに亡くなっている。ミイラ取りがミイラになってはいけない。 また理解出来ないのが最終キャンプに緊急用の酸素ボンベにマスクを用意していなかったこと。無酸素登山であろうが緊急事態を想定し用意するべきではなかったか。その結果、上部キャンプにて他の隊(野口隊)の酸素ボンベを使わざるを得なかったのは厳しい表現になるかもしれないが、明らかに初歩的なミスであり失態である。そして強風が吹き荒れる中、すぐに下山しないで最終キャンプに留まり続けたこと。遺族の心情を思えば一刻も早く遺体を下ろさなければならないが、登山活動はあくまでも自己責任。その覚悟と自覚が必要だ。冷たいようですが山で生きるとはそういうこと。 ここまで偉そうに指摘しながら自身が遭難したら誠にだらしない。もし仮にマナスルから戻らないことがあれば、その時は「お前はだらしないじゃないか」と厳しくバッシングしてください。明日は我が身であるから彼らの遭難事故をきっかけに自らの気持ちをしっかりと締めなおさなければならない。 4月29日にアタックした他の隊も登頂ならず。シェルパらの情報(未確認情報)によれば、隊員一名が凍傷にてレスキューされたとのこと。同日アタックしたまた別な隊の一名も一時行方不明となりクレパスに落下したかと心配されたが足の指を凍傷に侵されながらもなんとか救助されたとのこと。 その中(28日)、登頂を果たしたのは韓国隊のキムさんとソーさん。このプサン出身の韓国隊はマナスル峰、ダウラギリ峰、アンナプルナ峰の8000M級の三山をワンシーズン(約2ヶ月間)で登るという計画をたて、このマナスルも3回目のアタックで登頂。彼らの決して挫けないネバーギブアップ精神、まさに驚異的な精神力に同じ登山家として敬服、また尊敬します。上部キャンプでキムさんが一人黙々とアイゼンの爪をやすりでガリガリと磨きながら、一言「アイアム、影武者」とニヤリ。そして今度はフォークを、磨くふりをして「アイアム座頭市」と。 親交深めた韓国隊のみなさんと なかなかのギャクセンスと、これからアタックするのにこの精神的な余裕さに彼らはやれるなと確信を抱いていた。登頂翌日、早速サマ村まで降りてきて一緒に祝杯をあげ、30日にはヘリでカトマンズに飛んで行った。数日休んでからダウラギリ峰に向けてキャラバン開始とのこと。残り二峰。無事に生還してほしい。プサンでの再会を誓い合った。 現場を視察する 我々はサマ村で休養を取りながらマナスル基金によって建設中の学校を見学。外壁に使用する石は既に集められ、また窓枠やドアなどが手作りで作られていた。重機などの機械は一切ないこの山幹部で建物を建てるのがいかに大変か、彼らの作業を眺めながら改めて感じていた。とっ、同時に「何とか年内に間に合わせてほしい、頑張ってくれ!」と心の中で叱咤激励していた。来年はもう一棟、宿舎を建てたい。このサマ村の子供たちだけではなく周辺の村の子供たちも含めたい。一人でも多く。 窓枠を作る職人たち 30日はマレーシアからやってきた医師団が村人の診察を行っていた。村の子供たちの多くが慢性的な下痢であった。栄養失調や水の汚染が原因とされている。村の川の周辺にトイレがあり、また上流ではゴミが川に捨てられている。マナスル挑戦後、再びサマ村にて村人との一斉清掃を行うが、改めて水の保護の必要性を彼らに伝えたい。そして学校建設と同時にごみの焼却施設の設置も念頭にいれ計画を広げていきたい。それにしてもこの僻地まで足を運んでいる医師団の先生方には感謝。日本ではちょっとした地方ですら医師不足になっているときく。都市部の大病院に医師が集まり、地方には行きたくないとの要因もあげられているらしいが、本来の医師としてのあるべき姿とは、などとお節介ながらもついつい考えてしまった。麻生総理の医者についての例の問題発言?に対し、私は、むべなるかなといった印象を抱いている。いつの日か、このサマ村にも日本人医師による診察が行われることを切に願い、またその光景を想像しながら実現させたいとイメージだけは勝手に膨らんでいた。 医師による診察風景 診察を待つ村人たち あと二日しっかりと休み5月2日にはベースキャンプに戻りたい。 2009年4月30日 サマ村にて 野口健...
4月25日、再び上部キャンプへ。今回の目標はキャンプ2(6400M)での宿泊、つまり荷揚げと高度順応だ。しかし、出発前夜に我が隊のシェルパから「このまま山頂アタックしないか」と提案。マナスル登山が開始して、未だ2週間たらず。「それはまだ早い。体が高所にまだ慣れていない。このまま突っ込むにはリスクが多い。もう少し高所順応したほうがいい」と意見させて頂いたが、シェルパ頭のダワ・タシが「キャンプ1とキャンプ2の間を登り降りするのは雪崩のリスクがある。キャンプ2で二泊して低酸素に体を順応させてからそのままキャンプ3(7500M)に向かって翌日に頂上にアタックしたほうがいい」と。言うのは簡単だけれど4月中に8000Mの世界はまだまだ寒い。強風が吹き荒れれば手足の指などすぐに凍傷にやられる。下手をすれば指切断となる。しかし、我が隊は無酸素ではなく有酸素隊だ。酸素ボンベの助けがある。いささか乱暴かもしれないが、キャンプ2に二泊し、そこで強引に順化活動を間に合わせ、そのまま山頂アタックすれば、何度も昇り降りを繰り返すよりも体力的な消耗も少ない。また確かに雪崩のリスクも減る。またヒマラヤ遠征は肉体的、精神的な苦痛に対して粘りが必要とされるが、その時の体調によって粘れる時と粘れない時がある。今回は長期戦よりも短期の方がいいのではと一瞬心が揺らぎ、シェルパの申し出に「それも一つのアイディア」とし、「YES」とも「NO」とも断言せず「状況によって判断すべし」とした。 ベースキャンプでの食事風景 朝食でラーメンを食べる 25日、キャンプ1泊。相変わらず眠りにつくとズキズキと頭が痛む。高所順応が今一つスッキリしない。26日、キャンプ2へ。この日は早朝から風が強く天候が不安定。午前10時には雪が降りだし、ただでさえ荷揚げで荷が重いのに一歩一歩が憂うつになる。それでも4時間足らずでキャンプ2に到着。シェルパ達はそのまま山頂アタックに入ると思い込んでいて「明後日はアタックだ」と盛り上がっている。すぐに「今回、アタックするとはいっていない」と告げたら「えっ?」と顔をしているので、もう一度「それも一つのアイディアだ、といっただけで必ずしも行くとは言っていないよ」と、そうしたらキョトンとしながら「はぁ~そういうこと・・・」とどうやら私の指示は回りくどいようで微妙な真意は伝わっていなかったようだ。 キャンプ2への道 雪の中、キャンプ2へ進む キャンプ2は雲の上 それでもNOと断言しているわけではないので「明日の朝、体調が良ければアタック体制に入るの?」と聞いてくるので「その可能性はある」とだけ伝えた。要するに迷っていたのである。寝袋の中で「迷ったまま突っ込んでいいのか」と自問自答していた。最終キャンプから酸素ボンベを使用するかといってもこの短期間で突っ込むのはいささか乱暴すぎる。それにどうせキャンプ2の夜も頭痛に苦しめられるだろうと、そうなれば山頂アタックは厳しいだろうと思っていた。ようするにアタックしない理由をどこかで探していた。しかし、これがこれがキャンプ1まで頭痛に苦しんでいたのが嘘のように頭がすっきり。6000Mを超えてからのほうが体調が良いではないか。とっ言う事は・・・。 氷壁を回り込んで登る キャンプ2にて キャンプ2 テントからの景色 荷揚げする我が隊シェルパのニマ・カンツァ しかし、夜中から風が激しくなり一時間もしないうちにテントが雪で埋まってしまう。そしてとにかく寒い。テント内でもマイナス15度まで下がった。外では強風が荒れ狂い、その風をまともにくらえば体感温度はさらに下がるだろう。「山頂アタックは次回かその次のタイミングにしよう」と当たり前と言ったら当たり前だが、分かっていても時に迷ってしまうもの。僕もまだまだ甘いというか、これだからいつまでたっても二流の登山家でしかないと妙に納得。 雪でテントが埋まっていく キャンプ2 テントからの景色 キャンプ2に到着後バッタンキューの平賀 ちゃんとシェルパを説得しなきゃと、そして朝を迎えシェルパ達に「この風のなか、最終キャンプに向かうのはリスクがある。それに時期がいささか早い。5月に入ってからアタック体制に入ろう。したがって今日はベースキャンプに降りる」と今度は明確に伝えた。てっきり反対意見がでるかと思いきやシェルパが「この風で登るのはクレイジーだ。テントも吹き飛ぶ。早くベースキャンプに降りよう」と下山のための荷造りをしながらケロッとしたものだった。みな早く登ってカトマンズに帰りたいのだ。ただ焦っちゃいけない。一か八かに賭けて突っ込まなくて良かったと胸を撫で下ろしていた。「ベースキャンプで数日間休もう」と、また「気分転換含めサマ村まで降りて休養するのも悪くない。ちょっと、ここんところ煮つまっていたからな」と平賀カメラマンと話しながら降った。 ベースキャンプに向かって降りる ベースキャンプ裏では一日中、滝のような雪崩が発生した この時、まさか本当にサマ村に降ることになろうとは思いもしなかった。しかも事件として。 無事にベースキャンプに生還しお茶を飲んでいたら野口隊のコックであるペンバがサマ村の村人二人に連行?されサマ村へと降っていった。「なに、なに?」とダワ・タシに事情を聞いたが突然のことで誰も事情を把握できていない。ただ、よくよく聞けば「ペンバが冬虫夏草を密漁した疑惑」とのこと。「なんじゃそれ!」とさらに聞き取り調査を行えばペンバがベースキャンプ付近でどうやら散歩をしていて、その様子をみた村人が期間限定(年に一月)でしか捕ってはならない冬虫夏草をペンバが捕っていたと理解し拘束しに来たのだ。ダワ・タシに「ペンバのやったことは本当か?」と聞けば「彼はやっていない。歩いていただけだ」とのこと。それで「ペンバはどうなっちゃうの?」と聞いて驚いたのが罰金5万ルピー(約8万円)と鞭打ちの刑とのこと。この「鞭打ちの刑」に心底驚いた。イスラム国家や北鮮じゃあるまいし、まさかこのネパールにそのような野蛮な処罰方法があるとは思いもしなんだ。 ベースキャンプについたままで疲れていたが、そんな事は言っていられない。ダワ・タシとペンバ奪還のため急いでサマ村に降る。夕方、ヘロヘロになりながらサマ村到着。途中、至る所に花が咲いており、2週間ぶりの土に感動していた。やっぱり土はいい。ペンバには悪いがしばしお花とたわむれていた。 久々のお花に感動 夜、20時、お寺にてペンバ事件に関し村人と話し合いが行われた。私がその場に行くと村人の表情からは「あれっ!野口隊のシェルパだったのだ!」と驚きと戸惑いが読み取れたが、こっちも本気である。11年間私を支えてきたペンバを助けなきゃいけない。他の登山隊のサーダ(シェルパ頭)も加わり我が方に約20人の援軍をつけた。しかし、なんでまあ~サマ村で学校建設が始まった矢先に彼らと争わなきゃならないのか、真っ青な顔をしているペンバに「お前はやっていないな」と厳しく問い詰めたが彼は最後までやっていないとキッパリ。それならばサマ村の村人であろうが、自分のスタッフを信じ戦わなければならにと腹を括るしかなかった。 まず村人に対し「ペンバが冬虫夏草なるものを捕ったという明確な証拠を示して頂きたい」と注文をつけた。それに対し「証拠はない」とのこと。「証拠なしに何故に拘束したのか」「それではペンバが冬虫夏草を捕った瞬間を目撃したもの、またその事実を証明できるものは前へ出てきてもらいたい」「疑惑の根拠は?」と。結局、誰もペンバの疑惑を証明できない。我が方も一歩も下がれない。どうやらペンバが下を向きながら歩いていたのを目撃した村人が密漁していると勘違いしたようだった。 「冬虫夏草」盗掘疑惑についてのミーティング > 左が村人・右が野口隊側 途中から村人同士が口論となり、村の長老が「冬虫夏草を捕ったのも確認しないまま村の若い者がペンバを呼び出して申し訳なかった。野口隊のシェルパとは知らなかった。この事で学校建設を中止しないでほしい」と、やはり村人は私のシェルパと知ってバツが悪そうであった。もちろん、それに対しては「これと学校はあくまでも別件。学校建設は心配しないでほしい。ただ、私のスタッフを拘束するのならばそれなりにちゃんとした根拠を示して頂きたい」と最後にそう注文をつけてペンバは無事に釈放された。上部キャンプでは高山病で頭が痛く降りてきたら楽になるかと思いきやペンバの冬虫夏草事件の方が遥かに頭が痛んだ。最後は村人と握手して仲直りできたのが救いであったが、いやはや、なんとも疲れました。 せっかく降りて来たのでここサマ村で数日休みベースキャンプに戻る予定。今日、残念な情報が入る。我々がキャンプ2で強風によって下ることを決断していた頃、山頂を目指してキャンプ3に向かっていたイタリア隊が悪天候で身動きとれなくなり隊員一名が死亡。キャンプ2にデポしてある我が隊の酸素ボンベを救急用にイタリア隊に提供したが間に合わなかった。残念ですがこれもまた山です。 2009年4月28日 サマ村にて 野口健...