2011/12/20
清掃登山や遠征などのヒマラヤに関連する記事です
2009年4月22日、武道館にてコスモ石油とTOKYO FM主催による「コスモ アースコンシャス アクト アースデー・コンサート」が行われ歌手の絢香さんが出演。そのコンサート会場とここマナスルのベースキャンプとで衛星中継を行った。キャンプ2から降りてきた次の日で朝からヘロヘロ。平賀カメラマンが朝から中継のテストを行い頑張ってくれた。ヒマラヤからの中継もだいぶ慣れたがそれでも無事に繋がり本番が終了するまではハラハラドキドキ。なんせ強度に寒い所なので電池の消耗が激しく落ちたり、低酸素なので発電機が動かなかったりと直前まで必死。前回のマナスルでの中継も直前に真横で雪崩が発生しアンテナに雪がかぶり中継が一時ストップしたこともあった。まあ~場所が場所ですから色々あります。 アースデーコンサートで中継の様子 アースデー・コンサートとヒマラヤからの中継はこれで8回目(エベレスト6回・マナスル2回)。そして今回は絢香さんとでした。今まではヒマラヤからの中継のみで日本サイドの出演者とお会いしたことがなかったが、それが今回はなんとも嬉しく、また驚いたい事に2月に東京で行われた私の講演会に絢香さんがいらっしゃった。 それをきっかけに次は3月14日に絢香さんと浦安市・明海小学校で6年生の児童約90名と一緒に苗木を植えようという主旨のもと、当日は、朝から強い雨と風が吹くという悪天候にも関わらず決行された。雨の中、嫌な顔ひとつせず子どもたちと一緒に手を泥だらけにしている彼女の姿がなんとも素敵でした。特に感動的だったのが最後、子どもたちが私たちに歌を歌ってくれたくれたのだが、それに感動した絢香が近くにあったピアノを演奏しながら子どもたちに歌い、それを聞いている女の子が涙を流していた。 その絢香さんとこのマナスルで中継を結ぶ。当日は朝から雪が降り全身が芯から冷え切っていたが、絢香さんの声を聞きながらあの学校での出来事を思い出したら心が温まっていた。出会いとは実に素敵なものです。このような機会を与えてくださったコスモ石油の小宮山さんにも感謝です。 さて、こちらは明日から再び上部キャンプを目指します。まずはキャンプ3(7300M)を目指し、そこから先はまたその時の状況によって判断しますが、ただ、雪崩のリスクを想定すれば、そうあまり昇り降りを繰り返したくもなく、さて、どうなりますでしょうか。ちゃんと無事に帰国して絢香さんのコンサートに行きたい。それでは淡々と行ってきます。 出発前夜に愛用のピッケルを磨く 2009年4月24日 マナスル・ベースキャンプにて 野口健...
キャンプ1の朝 サマ村の僧侶による安全祈願の翌日から晴天。キャンプ1手前まで登り鈍っていた体を少し動かせ幾分か気分的にも楽になった。そして4月19日、いよいよキャンプ1(5700M)へ向けてベースキャンプを出発。進行方向右側の斜面にデブリ(雪崩の跡)がいくつもあり、そのデブリの上を通過しなければならず、いまにも落っこちてきそうなべったりした雪の斜面をチラ見しながら進むしかない。キャンプ1手前の斜面では前日にロシア隊4名が雪崩に流されたデブリがきれいに残っていた。デブリの横に複数の人が走ってレスキューに向かってであろう足跡がいくつも残されてあり、その時の緊迫した空気が再現されているかのようであった。 ベースキャンプからキャンプ1へ向け出発 雪崩の瞬間 雪崩の跡(デブリ) その現場付近から富士山クラブ森の学校に衛星電話を入れる。なにしろこの日はNPO法人富士山クラブ創立10周年記念で関係者や会員など約200人が富士山に集合し清掃活動を行っていた。清掃後、森の学校に集まっている所に私が衛星電話で会場とトークするというわけだ。私なりに一生懸命喋ったつもりだが、息が「ハァーハァー」と、また酸欠の影響なのか、脳の回転が遅いようで自分でも何を喋っているのかよく分からず。ただ、富士山クラブを支えてくださった多くの皆さんに心から心底、感謝していました。そして日々現場でゴミと格闘している舟津氏はじめ富士山クラブのメンバーと一緒に活動を続けてこられたことを誇りに感じている。10周年記念イベントであるにも関わらず自分が富士山にいられないことがとても残念ですが、こうしてヒマラヤという遠い地にいても、日本の皆さんと気持ちは同じ。どうか、これからも富士山クラブをよろしくお願いします。 キャンプ1はまだかなぁ~ もうすぐでキャンプ1 ベースキャンプを出発して約5時間、無事にキャンプ1入り。しかし、天候が再び崩れ雪。テントの中でじっと過ごすのだが、なんせ寒い。歯を磨くのだが、口に入ってくる凍てついた大気で歯がキーンと沁みる。寝袋の中でマン丸になりながら眠りについたら今度は頭痛で目が覚める。高山病さんがいらっしゃったのだ。ベースキャンプですら4日間連続して頭痛。 キャンプ1到着 キャンプ1からのマナスル峰 通常、私は4000mの標高では高山病にはかからないのだが。まあ~高山病はその時の体調によってかなり左右されるもので、今回はかなり苦しめられています。高山病の頭痛は激しく苦しい。風邪による頭痛の痛みとは異なり、分かりやすく説明すれば脳の中心が爆発し両耳の穴、または鼻の穴から脳みそ、脳水が噴水の如く噴き出すようなもの。つまり、めっちゃめっちゃ痛いわけです。バファリンをかじり痛みを殺すのだが、あまり飲みすぎると今度は胃を痛める。特に寝ている時に酸欠に陥りやすい。なぜなら寝ている時は呼吸のペースが落ちてしまうので、寝ている時に高山病になり頭痛で目が覚めるのは日常茶飯事。したがって数時間おきに目を覚まし、頭をプルプルと振って様子をうかがう。そして呼吸を整え全身を確認し不具合がなければ眠るのだが、今度は呼吸が止まっている自分に気がついて「うわぁ!」と飛び起きる。そしてしばし「ゼーゼー、ハァー、ハァー」と目ん玉が飛び出しそうなほど息が荒れる。 極寒のキャンプ1 極寒ゆえに歯まで凍りつきそう 「ガンガンガン」と頭痛が来る度に相手をしていたら、奴らがつけあがるだけだろうと、しばらく「ガンガンガン」を無視する。しかし今度は「コンコンコン」と奴らが脳をノックしてくる。それでも無視していたら「野口さん、いるのは分かっているんですよ!はい、野口さん、はやく開けてくださいよ、ほら、ほら」とまくし立ててくる。まったくもって達が悪い連中で「お前らは借金取りかぁ」とその執念深さにこちらが先に白旗を上げてしまう。 そしてやっとこさ眠りについたと思ったら今度は「ドドドー」と爆音に飛び起きる。寝ぼけながらB29による夜襲かと唯一武器になりえるピッケルを探しながら身構えるが雪崩の音だ。テントから顔を出しどこで発生したか探すのだが真っ暗闇で分かるはずもない。やれやれと再び寝袋に潜り込みウトウトしだすとまた「ドドドー」とまるで迫撃砲が着弾したかのような爆音。振動がテントにまで伝わってくるので、そう遠くない場所だろう。私はこのマナスルほど雪崩多発地帯を知らない。高所の夜は実に忙しいのだ。 マナスルとモーニングティー 「マナスルは雪崩の山」と韓国隊のキムさんが話していたが本当に雪崩の山。平賀カメラマンとも「もし俺らがここでやられるとすれば雪崩だろう」と話し合っていた。山頂を目指すのならば、一時足りとも雪崩の恐怖から逃れやしない。なにしろベースキャンプにもやってくるのだから。 ただ、これも考えようであるが、ヒマラヤのチベット、ネパール国境付近にあるナンパラ峠では中国の国境警備隊が越境しようとしているチベット人を女子供であろうが、いとも簡単に狙って撃ってくるが、雪崩はあえて我々を狙うわけではなく、雪崩が流れる場所にたまたま居るか、居ないかである。そう考えれば自然よりも人間のほうがよっぽどおぞましく怖い。 一歩一歩登るしかない 4月20日、頭痛と雪崩の爆音のため、ほとんど寝られないまま朝を迎える。頭は痛かったがテントからの景色にハッとさせられカメラを取り出しパシャリと収めていた。しばしその美しい世界に酔いしれていた。私ももとは写真部出身。あの朝日とピッケルの写真もいいでしょ。これでもなかなかの腕前なんですよ。この日は一日キャンプ1周辺をノンビリと歩いたり、また平賀カメラマンと下らない話をしたりと比較的優雅に過ごした。それにしても男二人、暇つぶしに話す内容とやら、いやはや、なんとも卑猥なものです。 龍さんのピッケル 標高6000Mにおいても平賀カメラマンのGPSうんちくは続く 4月21日、やはり頭痛と雪崩の音で寝不足。しかし、いつまでもキャンプ1で過ごしても仕方がないので重たい腰に鞭をうちキャンプ2を目指す。アイスフォール地帯はいつ巨大な氷の塊が崩れて落ちてくるか分からないので、ハラハラドキドキさせられるが、そのうち緊張するのにも疲れ果て、そして「来るなら来やがれ!俺は逃げも隠れもせんぞ!」と逆切れ。逃げるくせにね。まあ~人間なんてそんなものです。 キャンプ1からキャンプ2へのルート 前へ前へ キャンプ1から雪崩多発地帯を横に横切らなければならない個所があり、ここばかりは気をつけようもなく、来るときにはちゃんと来る雪崩コースであり、我々が通貨している最中にやってくれば二人ともあっという間に飲み込まれ終りとなる。「おい、平賀、ここは上を見ないで何も考えずに急いで通過しよう」と声をかけたら彼もそれなりに緊張している様子だったので、もう一度振り返り「おい、平賀!もしもの事があったら次は靖国で会おう」と伝えたが、しかし奴はキョトンとした表情のまま「???」と無反応。私と彼とでは世代が違ったのかもしれない。いずれにせよキャンプ1~キャンプ2間はいつでもどこでも雪崩が起きうる。そしていずれも気をつけようがない。確実に雪崩に遭遇しない手段があるとするのならばマナスルに近づかないこと、それしかない。マナスルと203高地がだぶってしまうのは気のせいか。 表現の違いはあるものの、お互いにしっかりとその事に関し覚悟していた。 クレパス地帯を超える キャンプ2到着 いくつもの氷壁、ブロックを越え、またクレパスを飛び越え、着実に一歩また一歩とキャンプ2へと登り続けた。そしてキャンプ1から3時間15分でキャンプ2(キャンプ2)に到着。思っていたよりもよいスピードにシェルパのカジも「ボラサーブ(隊長)、これならいけるよ」と、まあ~それほどでもないが、ただここに来るまでの道中を共にしたカジからすれば、あの状況からよくここまで回復したなぁ~と心底感じたに違いない。なんせ、本人がそれを一番感じ、また驚いているのだから。ベースキャンプ入りしてから一週間でキャンプ2まで到達できたのは我ながら満足。 ベースキャンプに下る(左に平賀 右に野口) 吹雪の中の下山 もうすぐでベースキャンプだ・・・ 天候が再び怪しくなり急いで下山開始。17時頃、雪に降られながらもベースキャンプまで戻ってきました。「満身創痍」まさにこのマナスル挑戦にはこの言葉が似合う。久々に必死な自分の姿にあの学生の頃にエベレストと格闘していた頃を思い起こした。初心に戻れると思えば、またあの不調にも意味があったわけです。全ての事に意味があると解釈し明日からまた精一杯生きていきたい。 朝日に照らされるマナスル峰(キャンプ1から) 2009年4月22日 マナスルベースキャンプにて 野口健...
あれっ、雪が止んだ!そう、サマ村の僧侶が安全祈願を行ってくれた直後に雪がピタリと止んだ。4月18日、朝から晴天。久しぶりの爽やかな朝。そして久しぶりにゆっくりと雪を意識しないで朝まで眠ることができた。 「淳、今日はここまで。ベースキャンプに降りるぞ!」 後ろにマナスル峰 朝、テントから顔を出し真っ青な空を確認し、すぐに「お~い!淳!起きろ!今日は歩くぞ!」と平賀カメラマンのテントに向かって大声を出していた。なにしろずっとジッとしていたので体がなまって仕方がない。うっぷんも溜まっていたのかもしれない。また体を動かさずに同じ姿勢でじっとしていると腰痛になる。キャンプ1手前まで気持ちよく氷河の世界を楽しんだ。昨日までの悪天候が嘘のようだった。ただ、急激に温度が上昇していたのと、昨日までのドカ雪と、雪崩が発生しやすい状況だったので斜面には近づかなかった。したがってキャンプ1手前2時間ほどの場所で引き返した。その直後、ロシア隊の4名がキャンプ1直下の場所で雪崩に流されたとのこと。幸いな事に自力で脱出でき助かったが、しばらく雪崩には要注意。 一歩一歩、この繰り返し 先はまだまだ遠い 雪の砂丘 明日は雪の状況を見ながらキャンプ1を目指す。キャンプ1に宿泊し、次の日に余力が残っていればキャンプ2手前まで高度を稼ぎたい。 明日は山梨県の森の学校で「富士山クラブの10周年記念イベント」が開催されますが、舟津氏から「マナスルから電話ちょうだい」とお願いされているので、なんとなんとキャンプ1に登っている最中に衛星電話をかける予定。「ハーハー」言いながら電話しますが、怪しまないでね。 2009年4月19日マナスルベースキャンプにて 野口健 平賀カメラマンのサングラスを鏡に日焼け止めを塗る 後ろにマナスル峰...
相変わらず夜は雪下ろし、雪かきで熟睡できず。昨夜もあまりの雪にテントが潰れてしまうのではないかと不安な一夜でした。朝は雪がやみ少しだけ青空が見え歓声が上がる。太陽が出ているうちにシェルパのダワタシと一緒に洗濯。とっ、その時、突然、レスキューヘリがベースキャンプに飛んできた。聞けばサマ村で一緒に過ごしていたイタリア隊員が足を負傷し救助されたのだ。ヘリに乗せられ、あっという間にカトマンズに向けて去っていく様子に「いいなぁ、あいつは命拾いしたなぁ~一時間もしないうちにカトマンズかぁ~」といったような声が聞こえてきたような気がしたが、なんのことはない、情けないことに声の主は自分であった。 ベースキャンプ全景 洗濯屋のけんちゃん? そして昼はお隣の韓国隊を招いて昼食会。キムチ鍋の元を日本から持ってきていたのでキムチ鍋をご馳走したら「日本人に韓国料理をご馳走になるなんて!」と大そう喜んでくれた。ヒマラヤに来る度に韓国隊と仲が良くなる。李さんともエベレスト清掃で一緒に活動したり、気がつけば96年のチョーオユー登山からずっと韓国隊とのお付き合いが続いている。それにしても韓国隊の勢いは凄まじい。この春もネパールにある8000メートル級の山、全てに韓国隊が入っているとか。8000メートル14座全てに登頂した韓国人登山家は3名(ちなみに日本人はゼロ)。そして韓国隊は若手が目立つ。日本では山岳部離れが進み、ここヒマラヤにおいても日本隊といえば60歳以上がメインとなっている。それはそれで凄いことですが、やっぱり若手が極めて少ないのが寂しい限りです。日本人と韓国人とではガッツが違う。「気合い」という表現は日本ではもう古いのかもしれないが、今の日本にこそ必要な言葉ではないだろうか。 韓国隊とのお食事会 龍さんのピッケルと共に 午後に突然、サマ村からお坊さん二名がこの雪道の中、ベースキャンプに上がってきた。わざわざ、我が隊の安全祈願のために。雪が降る中、ブルーシートで屋根をつくり安全祈願が行われた。千数百メートルを登ってくるのはさぞかし大変であっただろうに、本当に頭が下がる思いだった。サマの村人は本当に親切だ。これでカトマンズを含めると3回目の安全祈願。日本を発つ直前に靖国神社でも安宣祈願を行ったし、やるべきことはやった。 ベースキャンプでの安全祈願 ベースキャンプの周辺では雪崩のドドドーとまるで爆音のような音が一日中響き渡っています。今もテントに打ち付ける雪の音を聞きながらこのブログの原稿を書いています。これがマナスルなのでしょう。焦ったところで、どうにかなるわけでもなし、まあ~気長に構えるしかないです。こうゆう山で焦りは禁物。下手に突っ込むと雪崩で持っていかれてしまう。流れが変わるまでジッと待つ。忍耐力が必要となりますが、こんなこともあろうかと日本から小説など本を何冊も持ち込んでいるので天候が回復するまでは気長に本でも読むことにします。日本にいてはあり得ない時間の過ごしかた。考えてみたら好きなヒマラヤでのんびりと読書、これ最高の贅沢じゃないですか。さてと、トルーマン・カポーティの「冷血」でも一気に読むとしますか。 2009年4月17日 マナスル・ベースキャンプにて野口健...
4月14日、やっとこさベースキャンプ入りを果たし、喜んでいたのもつかの間、その夜から永遠と雪・雪・雪。時より雲の合間からマナスル峰が顔を表すのだが、それも一瞬のこと。マナスル峰は積雪量が多いのは最初から分かっていたことだが、それにしても、いやはや・・・。テントの中でゆっくりとくつろいでいたらいきなり「シャー」とまるでシャワーか滝に当たっているかのような音に慌ててテントを飛び出すと雪というよりも霰(あられ)に近いのかなぁ~。そして30分もしないうちにテントが雪の重さで潰れかかるので雪下ろしにテントの両サイドの雪掘り。一段落してテントに戻り「ふぅ~」とテルモスからお茶を出して飲みほし、寝袋に潜り込み体を温めているうちに再びテントが雪で押しつぶされていく。「クソー」と再び雪かき再開。トホホ、一晩中、この繰り返しです(涙) 過酷極まるマナスルの洗礼 翌朝、我が隊のテントを確認したらみな無事であった。「コールマンよ、よくぞ耐えてくれた」と我がテントを撫で撫でしていた。気の毒な事に他の隊はテントを潰していたりした。 いやはや、あ~あ・・・ 雪下ろしに追われる 先に山に入っていた韓国隊と昼食を共にしながらここ最近のマナスルの天候を聞いたら凄まじかった。彼らは3週間ほど前からマナスル登山を開始していたが、キャンプ1、キャンプ2に設置したテントが雪に埋まってしまい、辺り一面を掘り続け数時間してようやく埋まっていた自分たちのテントを発見したがテントポールがグニャグニャに曲がり、そして部分的に折れていたとのこと。ベースキャンプから先は腰まで雪に浸かり、キャンプ1まで10時間以上を費やしたとか。そして4月8日にベースキャンプの真横で雪崩が発生し国際隊のテントが数張り押しつぶされ、30メートル離れている韓国隊のテントも雪崩による爆風で飛ばされかけたと。幸いな事に被害はテントだけで済んだと、ただ心底、雪にうんざりしている韓国隊隊員の表情を眺めながら「これは雪との厳しい戦いとなるなぁ~。おい、淳、それなりにしっかりと覚悟しよう」と平賀カメラマンと腹をくくるしかなかった。韓国隊のキムさんの「マナスルでは1972年に韓国隊が雪崩で15人も犠牲者をだした。マナスルは雪崩の山だ。お互い気をつけよう」の一言に空気がズシリ。 眠れない永い夜 なにが辛いかと言えば、夜中であろうが、30分おきに雪下ろしをしなければならず、眠ってしまわないように本を読みながらテントの中で待機する。本は小林マネージャーに勧められた「冷血」。展開は最初からゾクっとする暗さ。この天候にピッタリ? 雪かきの合間に本を本を読む 2009年4月16日 マナスル・ベースキャンプにて野口健...
午前8時、サマ村出発。サマ村に一週間滞在しゆっくりと休養できたおかげで体調も一時の比べると幾分か良い。村中から村人(ポーター)が集まり総勢53人、一人30キロをベースキャンプまで運び上げてくれた。途中から完全に雪道となり、サクサクと快適に進む。あの灼熱地獄のキャラバンが嘘のようだ。やっぱり私の体は寒冷地仕様になっているようです。4000メートル超えた辺りから冗談も飛び出した。昼食は平賀カメラマンお決まりのベビースターラーメンを二人で分け合って食べる。14時過ぎ、ベースキャンプ(4670M)に到着。 4000メートル超えたら元気が出て来たぞ マナスル全景 もうちょっとでベースキャンプ ポーターが集まる 僕も担ぎたいよぉ~ ひょうきんなポーターさん 我々の荷を運んでくれたサマ村の村人 平賀くんとベビースターラーメンを頂く ただし、一気に1300メートルの標高を上げるのもなかなか乱暴でベースキャンプについてから平賀カメラマンとしばらく頭がボケーと集中力もなく、この原稿を書くのも精一杯。明日になればもう少し高所順応ができているかな。これから数日間、ここベースキャンプで低酸素に慣らしてキャンプ1を目指したい。いよいよヒマラヤ登山開始です。 ベースキャンプ到着! 雪景色のベースキャンプ 寒い寒いベースキャンプ 2009年4月14日 マナスル・ベースキャンプにて野口健...
1月14日、午前4時、アイランドピーク最終キャンプを出発!ダワタシ・シェルパ、ニマ・タシ・シェルパ、平賀淳カメラマン、そして私と合計4人。アイランドピークは私にとっても思いで深いピークで、私が初めてヒマラヤの頂に登ったのはこのアイランドピーク。1993年の4月で、同年6月にマッキンリーに挑戦し登ったのだが、その直前にアイランドピークで高所順応をかねてトレーニングを行っていたのだ。あの時は若干19歳。若かったなぁ~ いつの間にか35歳になってしまいました。 アイランドピーク・ベースキャンプを目指して アイランドピークに向かって一歩一歩進む あの時はアイランドピークの最終キャンプで高山病に苦しめられ一睡も出来ず、頭痛と吐き気で、バファリンとパンシロンを同時に飲んでいた記憶がある。そして山頂直下の両サイドがスパッと切れ落ちているナイフブリッジにビビり、歯がカタカタと音を立てて震えていた。経験と共に高度感には慣れてくるものだが、あの頃はまだ高所恐怖症だったのかもしれない。 極寒のアイランドピーク そして極めて印象的であったのが、極度に緊張すると、男性のあの部分、つまり「息子殿」でありますが、稜線上でおしっこをしたくなり、引っ張り出そうと探してみるものの、いつもの定位置にいない。寒さでポトリと落ちてしまった?と思いきや、後ろの方に回り込んでいてチョコンと、まるでドングリのように縮こまっていた。よく犬が怯えると、腰が引けシッポを丸める、いかにも貧弱で気弱なポーズをとりますが、吾輩の息子殿もまさしく「それ」であった。「なんだ!その情けない姿は!それでもお前は俺の息子か!」と怒鳴っていたものの、こちらもこちらで緊張のため歯をカタカタといわせていたので、まったくもって説得力がなかった。結局、カエルの子はカエルってことなのでしょうねぇ~。 とにかく最初のアイランドピーク登頂は大変でした。登頂後、フラフラになりながら最終キャンプにたどり着いたら、テントが撤収されていてない。ゴロンと横になりたかったのに・・・。ベースキャンプまで下ればポーターがお茶を沸かして待っていてくれているのだろうと、それだけを楽しみにベースキャンプまで下ったら、なんとベースキャンプまで撤収されていた。「なんたるポーター連中だ!」と一人ブチ切れているのだが、どんなにブチ切れたところでタクシーが迎に来るわけでもない。歩いて登った分、自身で歩いて降りるしかないのだ。これが山登り。喉もカラカラに、フラフラになりながらチュクン村のロッジに到着。我々を置き去りにして、とっとと下っていたポーター達の姿を探してもいない。おかしいなぁ~とキッチンを覗いたら、なんとチャン(ドブログ)を飲んでベロベロに。そして僕の顔を見つめるなり、「ボラサーブ(だんな様)、サミット(登頂)おめでとう!ボラサーブのサミット、とてもハッピーさ。こうしてチャンで祝っているところ」とよくもまあ~シャーシャーと・・・。だいいち、登ったかどうか確認する前に下って行ったのに、登頂祝いなど出来るはずもないじゃないか!とムッとしたが、しまいにはシェルパダンスまで披露し全身でハッピーさを表現してくれるのには参った。嬉しそうな彼らの表情を眺めていたら「まっ いいかぁ~」と気がついたら一緒にチャン飲んで踊っていた。いやはや、そんなものです。 アタック前夜、テント内にて読書 午前4時山頂アタック開始 あれから16年、あの時の出来事を1つ1つ思いだしながら、こうして再びアイランドピークの頂を目指している。シェルパのダワタシは98年のエベレスト挑戦時からずっと一緒。エベレストに6度登頂しているベテランシェルパだ。ニマ・タシは勢いある若手シェルパ。それにしても、厳冬期のヒマラヤは寒い。またこの日は風が強く頬っぺたがチクチクと痛い。指先も感覚がなくなり、手を擦り温めた。「早く太陽よ!出てくれ!」と祈る気持ちで日の出を待ち望んでいた。午前6時30分、ようやく待ちに待った太陽が。氷壁を一手一手確実に登り、最後の稜線に出たが、今度はローツェ南壁方面からの冷たい風が容赦なかった。強風でロープが中に浮いてしまうほどで、顔面が寒さで引きつってしまい言葉が発しづらい。アイランドピークの最後の稜線は両サイド、スパンと切れ落ちているので平賀カメラマンに「転ぶなよ。アイゼンひっかけるなよ。落ちたら落ちるぞ!」とアドバイスにならないアドバイスをしていた。なにしろ登るだけで大変なのに撮影が加わればなおのこと。しかも平賀カメラマンが凄いのは写真撮影にビデオ撮影のダブル。これを両方確実にこなすカメラマンはめったにいない。 山頂直下の稜線をつめる 平賀カメラマンとダワタシ・シェルパが氷壁を登り終え稜線に到着した アタック中に眼下にイムジャ氷河湖が見えた。この2年間、急激に拡大してきたイムジャ氷河湖の存在を世界に訴えてきた。時に一昨年の「第1回・アジア・太平洋水サミット」に向けてネパール・ブータン・バングラディシュに出かけ直接、首相や担当大臣にサミットへの参加を呼びかけた日々を思い出していた。考えてみれば清掃活動も温暖化による氷河融解問題、それからシェルパ基金にマナスルでの学校建設と、僕の活動はヒマラヤから始まっている。ヒマラヤを中心に事が回っている。 アイランドピーク上部から見えるイムジャ氷河湖 午前9時過ぎ、アイランドピークに登頂!登頂を知らせようと衛星電話から事務所に連絡を入れたが、寒さで口の動きが鈍く声を出すので精一杯でした。アイランドピーク自体はけっして難しいピークではないけれど、こうした小さな挑戦でも1つ1つを大切にすることが大切。大きな山であろうが小さな山であろうが、同じようにしっかりと山と向き合うこと。それがなによりも大切な事です。 アイランドピーク山頂でダワタシシェルパとニマタシシェルパ 山頂から魚眼レンズで撮影・後ろはロンツェ峰 こちらも山頂から魚眼レンズ撮影。バッグにアマダブラム峰がみえる アイランドピークの頂で私は次の目標をしっかりととらえていた。この春、再びヒマラヤで大きな挑戦が控えている。今度こそ、「頂きに」という気持ちがある。30代半ばにもなれば、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」とのバランスを求められるもの。前回は「やらなければならない」であったので、今回は「やりたいこと」に専念したい。 疲労した体にこの塩分補給が実に効く。私もいつからか虜に・・・ ...
ヒマラヤ登山のような高所での活動に必ず必要なのが高所順応。一気に標高を上げればどんなベテラン登山家でも高山病にやられてしまう。いわゆる低酸素障害です。エベレストでもよく慌てて山頂を狙って急激に登りポクッといく人を見かけたりする。急いで登れば命取りとなる。少しずつ登り、時に何往復もしながら、登ったり、下ったりと、この繰り返しで低酸素に体を慣らせていく。だからエベレストに登るのにザット2ヶ月間は必要となるのです。 さて、今回のアイランドピーク挑戦はその順応する時間が極めて限られていた。これは完全に僕の初歩的なミスでしたが、日本出発が遅れた分、予備日がほとんど無くなってしまった。そして追い討ちをかけるかのように悪天候でエベレスト街道の玄関口ルクラ村行きの飛行機が一日遅れで飛んだこと。自然は人間に合わせてくれないのだから、時間的に余裕をもって挑戦しなければならないのに、40回ほどヒマラヤに通ってきた奢りなのか、気の緩みなのか、「まあ~なんとかなるよな」的な気持ちであったのも確か。この大いなる勘違いによって仲間の何人かが命を失い、また僕自身もギリギリのところでなんとか九死に一生を得て生還したことがあった。一概に言えないけれど、山の事故の大半は人災だと思っている。えてして判断ミスによって事故が起こるからだ。つまりは究極の自己責任が求められる世界です。 おい!平賀!寒いから早く撮影してよ! おっ!この渋さ、高倉健さんに近づいてきた! アイランドピークを目指すキャラバン中にこれらの事を1つ1つ思いだし、「あ~俺も勘違いヤローだ」とちゃんと自覚できた事が唯一の救いだった。時間の余裕がないなか、通常、順応の為に二泊するナムチェバザール村を一泊にし、変わりにクムジュン村で一泊。そこからパンボチェ村へ。4300メートルのディンボチェ村には連泊し、二日目は裏山のナガゾンピーク(5100メートル)に登るつもりであったが、便秘がひどく下剤を飲んだら今度は効きすぎて止まらなくなり、脱水症状となったのか、立ちくらみなど具合が悪くなり、一日一人寝袋の中でお腹を摩りながら横になってはトイレに駆けつけていた。 これで貴重な高所順応の機会を1つ潰してしまった。この便秘ですが、かれこれ3年ほど前から始まり、徐々に重症となり、ついに自力で排便するのが困難となった。そこでコーラックさんと出会いここまでなんとか生き延びてきましたが、便秘というものは実にシンドイです。 「腹の中に居るのは分かっている。観念して出てきなさい」とトイレの中で踏ん張りながらお腹に向かって声を上げるのだが「シーン」と立てこもっている。「無駄な抵抗はやめなさい。あなた方は完全に包囲されている!」ともう一度忠告する。それでも進展がない場合、最終手段としての実力行使。コーラック部隊を投入させるのだ。半日後には腸がグルグルと音を立て、立てこもり犯をギュギュとねじりながら粉砕する。この腸のギュルギュル攻撃の震動は凄まじく、時に唸り声を上げてしまう。立てこもり犯との交戦が続き、そこでついに壊滅された立てこもり犯がいてもたってもいられずついに投降するわけだが、この攻防の繰り返しは大変です。特に高所では体力の消耗が激しい。限られた高所順応日が一日潰れてしまった。 そしてアイランドピークまでのキャラバン最後となるチュクン村へ。朝一、ディンボチェ村を出発し11時過ぎチュクン村到着。昼食をとり、すぐにチュクンリー(5500メートル)という裏山に登る。最初で最後の高所順応登山である。ここで最低限の高所順応を済ませたい。一歩一歩登りながら後頭部が重たくなっていく。ただ、山頂付近に到達した時の、あの目の前にドカンと現れるローツェ南壁の威圧感にしばし圧倒され頭痛を忘れていた。平賀カメラマンが張り切って「野口さん、撮影しますよ!」と、「その岩の上に立ってください」と一人元気。風が強く寒くて仕方ない。「おい、淳、もう寒いから下ろう」と。それでも「余裕のあるうちに抑えておいた方がいいですから。ハイ、あっちの方を眺めてください。あっ!いいですねぇ」といつもの調子である。ついつい乗せられてモデル気分である。豚もおだてられれば木に登る。まぁ~そんなものなのかもしれない。 チュクンリー山頂で撮影するふりをする平賀カメラマン やはり、足は長かった チュクンリー登山を終え、チュクン村の山小屋に戻ったら韓国人の団体客がダイニングを占領していた。30~40人はいたであろうか。驚いたのが中学・高校生の修学旅行とのこと。修学旅行でエベレスト街道までやってくる。日本ではあり得ないだろう。大韓航空が週2回カトマンズまで飛んでくるようになったのが影響しているのだろうが、エベレスト街道は韓国人トレッカーだらけ。韓国人トレッカーは黒い衣服を好み皆が皆、全身黒ずくめで、その集団を見たシェルパ達は「カラスの群」と表現していた。 韓国人トレッカーには若い人が多い。日本人トレッカーといえばオーバー60。中高年を越えたいわゆる高齢者が目立つ。75歳でもエベレストに登る時代だから、また特に日本の高齢者は足腰が強い。さすが戦後の日本を立て直しただけあって精神的にもタフです。 渋めに演出してみましたが、似合いますか それはそれで大変結構なことですが、問題は日本の若者たちです。男だか女だか分からない男が増えた。ナヨっとしていて、ピンタの一発でも食らわせようものなら泣き出しそうな男が多い。そして実に内向的。世界を見ようとしなくなっている。最近では世界を旅するよりも国内の温泉宿に泊まり一日中温泉に浸かってポケーとしている学生諸君が増えたとか。温泉旅館の女将さんが「私たちはそのような学生をポケー族と呼んでいますが、学生さんのお客さんが増えました。本当に一日中、温泉でポケーとしているんですよ」と話していた。 まあ~どうでもいいような話ですが、ただ1つ懸念すべきは学生含め若者たちから、エネルギー、独自性なるものを感じなくなっていました。それでいて口だけはペラペラと達者。小学生に「将来何になりたいの?」って聞けば「公務員がいい。だって倒産しないもん」と即答される時代だから無理もないのかもしれないが・・・。ヒマラヤにやってくる韓国の子どもたちが私にはとても逞しく見えたと同時に、うかうかしているうちに日本はあらゆる面で周辺諸国に追い越されてしまう、いや、もうすでにそうなりつつあることに危機感をひしひしと感じていた。 日本の子供たちにもヒマラヤを経験させたい。人生観が変わるだろうなぁ~と韓国の子供たちを眺めながら感じていた。 次回はアイランドピーク登頂についてレポートします。...
アイランドピーク山頂にて 平賀カメラマンと 1月10日、クムジュン村(3790m)~パンボチェ村(3958m) 1月11日、パンボチェ村~ディンボチェ村(4350m) 1月11~12日、ディンボチェ村ステイ 1月13日、チュクン村(4743m)~アイランドピーク最終キャンプ(5500m) 1月14日、最終キャンプ午前4時出発~アイランドピーク午前9時登頂~チュクン村13時30分着~ディンボチェ村16時30分着 1月15日、ディンボチェ村・午前9時20分~ナムチェバザール村17時20分着 明日はルクラ村に下る。 アタック前夜 夕食風景 アイランドピーク アタック中 アイランドピーク稜線上にて 登頂コメント 「さすがに厳冬期のヒマラヤは寒かった。今回の遠征は日数的に余裕がなく、限られた時間内に高所順応をなんとか間に合わせ登頂できた事が良かった。アイランドピークは決して難しいピークではないが、それでもこうして1つ1つ着実に結果を残せた事に意味があると思います。このアイランドピーク登頂が次の冒険に繋げたい。野口健」 「今回の登山遠征の撮影では、気象条件に恵まれ、これまでにないロケーションを記録することができた。特に、眼下に迫る8000M峰のローツェは圧巻で、遠方には、マカルー、昨年の春、登頂を果たしたメラピークが眺められるなど、ヒマラヤのまさにパノラマの景色に、ここまで辿りつけたことの喜びを噛みしめることができた。と同時にアルピニスト、野口健さんの凄まじいまでの登頂記録をぜひ、ホームページで堪能してほしい。平賀淳」 アイランドピーク山頂直下 ...
いつも野口健の応援をありがとうございます。 1月14日の現地時間(ネパール)午前9時に野口健と平賀淳カメラマンがアイランドピーク(6168m)に無事登頂しました。 登頂時の音声メッセージを公開しました。 是非お聞きください。音声メッセージはこちらから。 アイランドピーク(6168m) なお先ほど、無事に下山し、本日中にディンボチェまでおりる予定との報告が入りました。 野口健事務所...