2011/12/20
清掃登山や遠征などのヒマラヤに関連する記事です
「エベレスト清掃活動 ダワ・スティーブンとの絆」 (ゴラクシップ~エベレストBC~ディンボチェ村) (写真はクリックしたら大きくなります) 4月20日、5年ぶりにエベレストのベースキャンプ入り(ネパール側)を果たす。ベースキャンプの入り口付近でネパールの警察と軍の関係者が警備を行っていたが、警察の方は我々がいままで行ってきたエベレスト清掃活動の事をよく知っていて軍の関係者に「ノグチはいままでも何度もエベレストを清掃してきた。ネパールのために一生懸命やってくれている」などと説明してくれた。その警察の言葉もあって「ビデオ撮影も中国隊が登頂するまでは原則禁止だが清掃活動に関しては認める」との事であった。有難い配慮であったが、そもそもエベレストのベースキャンプに警察や軍が監視している事が異常であり、また彼らも政府の決定によりベースキャンプに派遣されてきたわけで気の毒な任務であるが、私にはどうしてもこの聖地に対し中国の傲慢さが招いた異常事態に納得ができないでいる。その警察の方が私の目を見ながら視線で「申し訳ない」と伝えてきた。その表情はいかにも辛そうだった。そう、みな苦しんでいるのだ。 先にベースキャンプ入りしていたネパール山岳協会会長のアンツェリンさんの長男のダワ・スティーブン(24歳)と合流。彼がICIMOD(国際総合山岳開発センター)に呼びかけエベレストの清掃活動や氷河の調査を行う「エコ・エクスペディション」を企画。ベースキャンプに氷河の融解による氷河湖の拡大や決壊などの写真、パネルを展示しているのも彼のアイディアだ。彼の父、アンツェリンさんとは11年間の付き合い。ネパールでの私の最大の理解者でありパートナーだ。私がここまでエベレストでの清掃活動を続けてこられたのもアンツェリンさんのおかげだ。ヒマラヤからカトマンズに戻るとよく自宅に招いてくださった。当時まだ子供だったスティーブンによくエベレストの話をした記憶がある。そしてエベレストの清掃活動が始まり、今度は冒険談からごみの話を彼によくしていた。そしてその彼が大人になり「ケン、今度は私の番だ。これからは私がエベレストのごみ拾いをやる」と今年からエベレストの清掃活動を始めた。 ベースキャンプ内にて氷河の融解について展示してある テレビの取材班がスティーブンにインタビューしていたが彼の「ケンは私の先生であり、兄弟だ。子供の頃からケンにエベレストのごみの話を聞いていた。だから私は清掃活動を始めた。ケンがネパールのためにアクションを起こしている。本当に感謝している。次は私たちがアクションを起こす番だ」との言葉に思わず目頭が熱くなった。幸いなことにサングラスをかけていたので悟られずに済んだが。彼が私のことを「兄」と呼んだ。いつの間にか私の弟は立派に育ち私の起こしたアクションを受け継ごうとしていた。その弟と初めて一緒にエベレストの清掃活動を行った。人の生涯などいつ尽き果てるか分かりやしないが、こうして受け継がれていけば永遠ではないかと、そんな事を感じながら一緒にごみを拾っていた。スティーブンの存在が私を少し自由にしてくれた。 ダワ・スティーブンとごみを運ぶ エベレストのベースキャンプ・後ろはアイスフォール ベースキャンプで3~4時間ほど活動を行いディンボチェ村へと下った。 BCでの清掃活動を終えディンボチェ村に着いたのは20時を過ぎていた。12時間行動。さすがに疲労困憊 ベースキャンプ付近にて モレーンを歩くが砂利の下には氷河があるのがよくわかる 帰り際、何度もベースキャンプを振り返っていた。氷河湖の調査のためにエベレストを離れなければならない。これも私にとっては今やらなければならないことだ。しかし、スティーブンや他の多くの仲間達(シェルパ)がエベレストで命を賭けて闘っているのに背を向けて下るのはなんとも苦痛であった。心の中で「俺は再びエベレストに戻ってくる」と叫んでいた。 2008年4月20日 ディンボチェ村にて 野口健 「エベレスト・ベースキャンプ清掃結果」 清掃日時 2008年4月20日 11時~13時30分まで 清掃場所 エベレスト・ベースキャンプ(ネパール・クンブ地方) 清掃参加人数 15人 主催 (野口健事務所・ICIMOD(国際総合山岳開発センター・エイシアントレッキング) 空き缶・ガスボンベ・衣服・テントの残骸・墜落したヘリの残骸(2003年5月にベースキャンプにヘリが墜落した)など約250キロを回収 ...
「富士山清掃活動について」 (写真はクリックしたら大きくなります) 4月19日、富士山・エベレスト同時清掃活動が行われる予定であった。しかし、北京五輪の悪影響でネパール側も中国隊(聖火隊)がチベット側からエベレストに登頂するまでは衛星通信などの使用が禁止されたため、同時清掃は実現できなかった。19日、若村麻由美隊長のもと富士山では清掃活動が行われ、我々はベースキャンプ手前のゴラクシップにて待機。そして富士山サイドが清掃活動を終えてからゴラクシップから衛星生中継を行った。同時清掃が実現できなかったことがとても残念であったが、しかし、若村隊長と中継が繋がり160人以上もの参加者が富士山で汗を流してくださったこと、そして嬉しかったのが富士山清掃にネパール人、中国人が参加してくださったこと。 山小屋の一室でひそかに行われた中継 特にチベット動乱、中国政府によるチベット人弾圧に対しての発言を繰り返していただけに私は中国人に嫌われているのだろうと覚悟していただけに、その中国人が富士山清掃に参加してくださったことに正直驚いた。私のメッセージは「中国人批判」ではなく、「中国政府」に向けたものであったが、デリケートでまた感情的になりやすい問題ゆえにその辺りがいっしょくたになりやすく危惧していただけに中国の方の参加には心底ホッとさせられた。少なくとも彼らには思いは通じた。清掃活動を通じ政治と違った部分での交流ができれば素晴らしい。 富士山清掃隊長の若村麻由美さんと衛星通信中 この出来事で同時清掃活動が実現できなかったモヤモヤは消えたわけではなかったが、しかし救いとなった事には違いない。若村隊長も3年連続の富士山清掃隊長ありがとうございました。おかげで日本の事は安心して任せヒマラヤでの活動に専念してこられました。 そして現場の富士山クラブの皆さん、清掃活動後のごみの再分別や最終処理など人目に付かないところでのご苦労、頭が下がります。ヒマラヤから感謝しています。そして多くの参加者の皆様、富士山のためにせっかくの休日を返上し清掃活動を行ってくださったこと、ありがとうございました。我々、ヒマラヤ組はどれだけ励まされたことか、明日精一杯、エベレストのベースキャンプで清掃活動を行ってきます。富士山・エベレスト同時清掃活動とはならなかったですが、大切な事は気持が1つになるということです。若村隊長を通じて参加者のみなさまの気持ちが確かにヒマラヤに伝わってきました。本当にありがとうございました。そしてナマステ! 2008年4月19日 ネパール ゴラクシップにて 野口健 ...
夕日で赤く染まるエベレスト 月光に燃えるエベレスト 黄金に輝くヒマラヤひだ 闇に沈むヒマラヤ群 夕日に染まるエベレスト群 カラパタール目指してロブチェ村を出発!前方に見えるのはプモリ峰 5545Mのカラパタール山頂を目指して 後ろにエベレストがドーンと構えている プモリ峰と北斗七星 カラパタール山頂からのエベレスト ...
「カラパタール(5545M)登頂!」 撮影:平賀淳 (写真はクリックしたら大きくなります) 4月18日、14時25分、平賀カメラマン・藤原ディレクター・小野塚カメラマン・パサン・ラム・シェルパ、二名のポータ、そして私は無事にカラパタール峰に登頂した。トレッキングピークかもしれないが、世界の王者エベレストを目前にその迫力、威圧感に圧倒されっぱなしであった。もう何十回もここからエベレストを眺めてきたけれど一度たりとも同じ景色はなく、飽きることもなく、そしていつもエベレストから全身にエネルギーを頂いてきた。やっぱり山に登るっている瞬間がなんとも好きだ。これだけの大自然の中に包まれていると、巷での人間社会の争いなど、なんともちっぽけにまた哀れに感じる。せめて登っているときぐらいは様々な問題から解放されたい。せっかく私の心の故郷であるヒマラヤの大地に抱かれているのだから。カラパタール峰の山頂で「俺はやっぱりヒマラヤが好きだ!ここが俺の居場所だ!帰ってきたぞ!」と叫んでいた。 4月18日 カラパタール峰麓のゴラクシップ村にて 野口健 アン・ドルジさんと一歩また一歩登る トゥクラの坂を登り切り一休み プリモ峰が迫ってくる カラパタール峰に登頂した瞬間!左奥がプリモ峰、右奥がエベレスト 感動の瞬間を写真に収める 俺はヒマラヤに帰ってきたぞ カラパタールでの記念写真 相棒・平賀カメラマンと 同行した藤原ディレクター(左)と小野塚カメラマン(右) (次回の写真集は風景編です) ...
「富士山・エベレスト同時清掃活動」の開始日が近づいているにも関わらずエベレストに関して明るいニュースはない。エベレストのベースキャンプはチベット動乱の影響でネパール軍が駐在し、また噂によれば中国軍も含まれているとのことで、どこまで活動ができるのか。そしてベースキャンプでは衛星通信機などの使用を禁止するとのお達しがネパール政府からあり、いずれにせよベースキャンプからの中継は残念ながら中止せざるを得ない。場所を変更して行う。 またある情報として中国の公安が国境を越えてエベレスト街道(ネパール側)に複数入ってきているとのこと。そしてチベットから逃れてきているチベット人を探し出しているとのこと。また「チベット解放」などと書かれた旗を掲げないように監視しているとのこと。「特にケンは気をつけた方がいい」と忠告を受けたが、もし事実ならば「そこまでするのか」と怒りまた中国に対し大いに失望する。 そして、今日、カトマンズからの連絡で北京五輪の影響で中国の聖火隊がエベレストに登頂する予定の5月10日までネパール国内でチャータヘリ(カーゴは除く)の使用を禁止(ヒマラヤの遊覧飛行含む)するとの情報が入った。もし事実となれば我々はローアバルンからチャータヘリでマナスルの麓サマ村まで飛びそこからツラギ氷河湖を目指す予定となっていたが、大幅に予定が変更となる。 もう間もなく日本でも聖火リレーが行われるようですが、これほどまでに中国の実態が明らかになり、また血が流れているにも関わらず、それでも「聖火リレーは光栄なことです」などとニコニコと笑いながら聖火リレーに参加すれば、それこそ滑稽でしかない。 私の衣服にはスポンサーのワッペンが多く目立つのでベースキャンプ周辺では着用しない方がいいのではとアドバイスを頂いたが、さてどうしたものか。せっかく大好きなヒマラヤで過ごしているにも関わらず気持が晴れない。早く平和なヒマラヤに戻ることを祈りつつ、日本社会にも大きな責任があることを最後に付け加えたい。 2008年4月17日 野口健...
「チュクンリー峰(5550m)に登頂!」 人生初めての経験をした。寝ていたら山小屋の表から平賀淳くんの声が聞こえてきたと思ったら真横の窓が開いた音がし、あれっと思ったら、いきなりドカッと背中に人が乗っかってきたかのような重みに襲われた。うつ伏せに寝ていたので振り返ることもできず、また呼吸が重く声も身動きもとれない。淳君が窓から侵入し僕に乗っかって来たのかと、でもこんな夜中になぜ?「淳、痛いよ」と声を出そうとしたがでず。顔の横にあったヘッドランプを取ろうとしても手が動かず。左手が辛うじて動き淳君の足をつかみつねってみたが動かない。何分続いたのだろうか?急に重みがなくなり、体が動いたので起き上がり前方を見たら二人が窓からスーとでていく後姿だった。そして山小屋の前の中庭にその二人が立ち話をしている。暗いので顔が見えないが、驚いたのがその一人がオレンジのダウンジャケットで胸の部分にスポンサーのワッペンらしきものがいくつも付いている。つまり私のジャケットだ。そのとなりは真っ黒いジャケット。ヘッドランプで照らしてみようと寝袋からでて彼らのほうを照らしたらスーと消えてしまった。一体、なんだったのかとしばし呆然と寝袋の上に正坐してしまった。これがいわゆる金縛り?でもなぜ私の姿がそこにあったのか、そしてその私の横にいた真っ黒いジャケットの彼は誰だったのか?そういえば淳君が黒いジャケットを着用していた。淳なのか?不思議な経験でした。 おかげでその後に一睡もできず早起き。昨夜、高山病で苦しんでいた藤村氏が心配で彼の部屋を覗いた。夜中は辛かったようだが、それでも少しずつ回復。藤村氏のチュクンリー登山は念のために止めることにしたが、麓のチュクン村まで登れた。 私と問題の平賀淳君とテレビクルーのカメラマン、小野塚さんと私の3人でチュクンリー登山を開始。途中、イムジャ氷河湖がよく見渡せた。ヒマラヤの中に1つ巨大な氷河湖の姿が異様でもあった。確かに大きい。14時過ぎ、山頂に登頂。雪が強風と共に顔に叩きつけ痛かったが、それでも登頂した喜びを満喫していた。 チュクンリー登頂 圧巻のヒマラヤたち 真中に見えるのがイムジャ氷河湖 明日はイムジャ氷河湖に向かう。チュクンリーから下山し山小屋にいる藤村氏と合流。だいぶ回復しており明日は一緒にイムジャ氷河湖に行けそうです。良かった、良かった。 チュクンリーからの景色 それにしても、あれは一体なんだったのだろうか?わからない。 2008年4月15日 チュクン村にて 野口健...
「ナガゾンピーク峰(5100M)登頂」 高所順応のため、ディンボチェ村(4360m)の裏山であるナガゾンピーク(5100M)に登頂(同行者・野口・平賀・藤村・藤原・小野塚・アンドルジ・シェルパ)。 ナガゾンピーク登頂 ヒマラヤ登山は高山病との戦い。一気に標高を上げれば確実に高山病にやられてしまう。登っては下り登っては下る。その繰り返しで少しずつ低酸素に体をならす。 この日はディンボチェ村から5000mを超えるナガゾンピークに高所順応の為に登る。ヒマラヤ初となる藤村氏は高山病で頭痛に苦しめられていたが、それでもナガゾンピークに登って頂いた。登ることによって下山後は楽になる。はずだった・・・・。ディンボチェ村に下山後、様子がおかしくなり、「う~ん」と唸りながら、いつものあの強気な顔(野口健事務所の飯島秘書官と呼ばれている)が嘘のようにしおらしく、また珍しく弱気でもあった。初の高山病にさぞかししんどかったようです。明日はチュクン村(4743m)。 またチュクンリー峰(5550m)も行う予定です。 下山後の藤村氏 2008年4月13日 チュクンリー村にて 野口健 ...
パンボチェ村の川を越えた真向かいの山の斜面が大きくえぐられている。アマダブラム(6856M)の麓からスプーンでえぐられたような溝がイムジャ・コーラ(クーンブ氷河・ローツェ氷河から流れてくる川)まで続きまるで大地の傷口のように痛いたしかった。ガイドのアンドルジさんは「1975年ごろにナレー氷河とミンボーの氷河の間の湖が決壊した。その時の土砂がチュルンツェ川を下ってイムジャ・コーラに流れ込んだ。この川の下流の方で確か3人だったか亡くなった」「私が住むナムチェバザールの下の村でジョルサレ村の橋がその時の洪水で流され流通がストップして、米や塩や砂糖などしばらく手に入らなかった。小学校の頃だったよ。よく覚えている」 パンボチェ村から見る洪水跡地 その洪水の時にパンボチェ村にいたナムカさん(67歳)は「洪水の時にこの村にいたさ。そりゃ怖かったよ。小さな池が決壊してその水がもう一つの池に入ってまた決壊したんだよ。死ぬかと思ったよ。氷河がどんどん溶けているんだよ。でも、パンボチェ村は川岸にある村と山の上にある村と二か所に別れていて、私が住んでいるのは山の上の方だからまだよかったけれど。でも、小さな湖の決壊でこれだけ大きな土砂崩れがあったのだから、上流のイムジャ氷河湖が決壊したらエベレスト街道はひとたまりもない。ホースを使ったりして早くイムジャ氷河湖の水を抜いてほしい。今のままのイムジャ氷河では安心して生活できない。早く水を抜いて」と流暢な日本語で訴えていた。 ナムカさんにミンボー(洪水)について話を聞く (左より、アンドルジさん、ナムカさん、野口) 4月12日、パンボチェ村からディンボチェ村へ向かう。途中、クーンブ川を渡りディンボチェ村に向かうが、そのドリム橋が2007年9月11日に洪水により破壊され流されていたため、その復旧活動が行われていた。 昨年の洪水現場で復旧作業が行われていた 橋の復旧作業を視察 工事している作業員は「夏になればまた氷河が溶けたり地面が緩んで洪水が起こるだろう。だから以前の橋よりも高い所に作る」と話す。昨年の夏、このエベレスト街道の至る所で橋や山小屋が洪水や土砂崩れによって流された。シェルパたちにとって夏はモンスーン(雨季)のため登山隊やトレッカーも訪れない。農作業など本来のシェルパの生活を送り、そしてゆっくりと家族との生活を楽しむ大切な時期。しかし、今ではその夏も洪水の恐怖におびえる日々となってしまった。 橋の復旧作業現場の様子 現場の様子を撮影する野口 2008年4月12日 ディンボチェ村にて 野口健...
「パンボチェ寺院の高僧、ゲシュラの声」 龍さんのお墓参りを終えパンボチェ村を目指す。ルクラからスタートしたヒマラヤ・トレッキングだが悪天候の日々。トレッキング中の雨は心底めげる。ガイドのアンドルジさんは「2週間ぐらいずっと天気が悪い。去年に比べたら暖かいなぁ。雨が多いよ」とつぶやいていた。テレビのクルー(テレビ東京・カンブリア宮殿)も同行しているが、「いまだに一度もエベレストが見られていない」とぼやいていた。龍さんのお墓参りも寒かった。 パンボチェからディンボチェまでの道 パンボチェ村に向かって歩いている道中にネパール人3名がごみを拾っている。極めて珍しい光景に質問してみたらSPCC(Sagarmatha Pollution Control Committeeエベレスト国立公園の汚染を監視している機関)のメンバーがナムチェバザール村からエベレスト・ベースキャンプまで清掃しながら登るとのこと。 SPCCスタッフへインタビュー SPCCに13年間務めるリーダのダンバードル・バニヤさん(32歳)は「年に3回、こうしてエベレスト街道を清掃しながら登っているとのことだが、ベースキャンまで荷を担ぐポーター達はルクラ村よりも低い所から季節労働者としてエベレスト街道に上がってきているので、地元意識が無いのでごみを捨てて汚れてもまったく気にしない。我々の前じゃごみは捨てないけれど、見えないところでは捨てている。また観光シーズンはトレッカーもペットボトルを捨てている。もう1つの問題はロッジ(山小屋)が急激に増えた事によってごみが増えたね。以前は地元の村人がオーナーだったけれど、最近は町の人がエベレスト街道にロッジを建てている。彼らも自分たちの村じゃないから平気でごみを捨てる。人が増えすぎたのが問題です」と話す。 SPCCメンバーと パンボチェ村に到着し翌朝、旅の安全祈願のためにお寺に訪れた。パンボチェ寺院はかつてイエティー(雪男)の頭の一部があり、トレッカーにとっての観光名所にもなっていたが、そのイエティーの頭は盗まれ今はない。ただある学者がそのイエティーの髪の毛を調べてみたところ、なんのことはないカモシカの毛だったとか。しかし、村人はあれはイエティーの頭だと信じて疑っていないとのこと。 600年の歴史をもつパンボチェ寺院の高僧、ゲシュラさん(76歳)にチベット動乱についての感想をお聞きしましたが、「う~ん」と短い沈黙の後に1つのお経をあげ、「これは400年前の僧侶が書いたお経です。人の土地や物を奪ったり、自分だけ裕福になろうとすると、結果的に災いが自分に跳ね返ってくる。これがチベット仏教の考え方です」とおっしゃられた。言葉を1つ1つ選びながら慎重に、しかし私にはゲシュラさんがなにを私に訴えたかったのか、言葉は少なかったですがそれだけに充分すぎるほどに伝わってきた。 安全祈願のためゲシュラーを訪ねる ゲシュラーに近年のヒマラヤ温暖化についてインタビュー チベット動乱後、ネパールでもチベット解放を訴えた多くのチベット人、ネパール人が逮捕されてきた。それだけにゲシュラさんも言葉を選んだのでしょう。こちらエベレストのネパール領においても、中国の聖火隊がチベット側から山頂に上がるまでは、ベースキャンプでの無線機や衛星電話などの通信機材は一切使用禁止、またキャンプ2以上は登ってはならないなどと中国の圧力はネパール側にも越境している。4月19日に予定している富士山・エベレスト同時清掃活動の衛星中継も通信機の使用が禁止されれば実現できないかもしれない。ネパール山岳関係者に確認をとっても中国からの圧力でネパール政府もあたふたしており流動的で誰も把握しきれていないとのこと。その彼に「こちらは、ネパール領ではないか。ネパールの主権は一体どうなっていのか」と、そうしたら「ケン、確かにそうかもしれないけれど、中国から見たらネパールなど像がアリを踏むようなものだ。ネパールは中国にも逆らえない」と悲しげに話していた。チベット側のみならず北京五輪による影響がネパールにまで及んでいた。 4月12日 パンボチェ村にて 野口健...
「龍さんとの再会」 クムジュン村~タンボチェ村~パンボチェ村 ナムチェバザール村、クムジュン村で二泊ずつゆっくりと休養したおかげでかなり復活。 ヒマラヤの空気が体に合うのか体がみるみると元気になっていく。3月はツバルにセブ島と南国生活が続いたが、やはり暑いのは苦手。寒ければ着込めばいいが、暑いのは皮膚をひんむいても暑い。キーンと寒いヒマラヤの空気が実に気持ちいい。 パンボチェ村に向かう途中、タンボチェ村にある龍さん(橋本龍太郎元首相)のお墓に立ち寄った。エベレストが見渡せるタンボチェ村の丘に龍さんのお墓がある。この一年間で3回目の訪問。私ひとりだとさすがに「またお前が来たのかぁ~うるさい奴だ」と龍さんに言われてしまいそうなので、今回はゲストを連れてきた。龍さんを7年間支え、また龍さんの最後の秘書を務めた藤村健氏だ。今は私と一緒に仕事をしている。特に第1回アジア太平洋水サミットや次のG8環境大臣会合記念特別シンポジウムに向けて取り組んできたパートナーだ。龍さんが繋いでくれた縁。藤村氏はお墓に手を合わせながら7年間の出来事を1つ1つ思い出していたのか、悔しいかな、二人の間には私などとても入り込めない空気が漂っていた。 龍さんが亡くなって約2年。あまりにも突然の出来事でしばらく胸にポカンと穴が空き隙間風がピューピューと音を立てながら通り過ぎていくような孤独感に襲われていた。それでも、どんな時でも人は生きていかなければならない。残された者は先人の遺志を引き継いで。 龍さんのお墓 生前の龍さんとエベレストや富士山の清掃活動や、今まさに活動を行っているヒマラヤの氷河の融解についてよく話し合っていた。政界を引退されこれから一緒に活動を行いたいと思っていた矢先の訃報。政治家でも学者でもない私が水サミットなどの運営委員を引き受けてヒマラヤ流域国の元首級と会談を行い、氷河の融解問題に取り組んでいこうと呼びかけたのは明らかに領域を超えていた。それでも活動を続けてきたのは龍さんの「君のようなしがらみのない現場の人間が現場から声を上げることに意味がある」とのお言葉があったから。それでも不安になると青山墓地にあるもう一つの龍さんのお墓に出かけては不安であると告白していた。そんな時でも龍さんは慰めてくれるわけでもなく「そんな弱気の君に何が出来るのかな?もう来なくていい!」と何度怒られたことか。その度に「なにくそ!」と自分に鞭を打ったものだった。ヒマラヤの氷河問題もアジア太平洋水サミットでなんとか取り上げ頂き、次の洞爺湖サミットにも引き継がれていくでしょう。 短気な龍さんには「いつまで時間をかけているんだ!」となるかもしれませんが、我々は精いっぱい背伸びしながらも、またこうして氷河の現場を歩きながら訴えています。さほど知られていなかったヒマラヤ地域の氷河の融解問題もついに官邸にまで声が届きました。 龍さんとの出会いは私の人生を大きく変えた。色々な思いでがありますが、出会えて本当に良かった。 別れ際「龍さん、また来ますね!」と、そうしたら「はい、はい、ご自由に」といかにも龍さんらしいお言葉が返ってきた。藤村氏もやっとヒマラヤの龍さんと会えたと晴れ晴れしていた。私も藤村氏も龍さんから与えられた課題はとてつもなく大きい。「お前たち!なにやっているんだ!」と怒られながらも前へ前へと進んでいきたい。 2008年4月11日 野口健...