2011/12/20
清掃登山や遠征などのヒマラヤに関連する記事です
冬のエベレスト街道はシーズンオフでトレッカーや登山隊も少なくとても静かです。ちょっと風が強く寒いですが、人間っていう生き物はちゃんと環境に適応するようになっているんですねぇ。ヒマラヤではよく仲間たちに「けんさん、寒さに強いですね」と驚かれる。確かに7000mぐらいまでは薄いダウンジャケットで登ってしまうことがある。別にやせ我慢しているわけじゃないですよ。しかし、これが日本に帰ってくるとストーブの前から離れられなくなる。特にコタツが大好きで一日中マン丸になって入っていたい。そしてこれがまたよく東京で風邪をひくんです。 左奥のピークがエベレスト なかなか決まってますねぇ 「ヒマラヤで大丈夫だった人がどうして東京でそんなにしょっちゅう風邪をひくの」と言われたりしますが、そんなこと聞かれたって意識的に、または意図的に風邪をひいているわけじゃないので分かりません。ただ1つ言える事は日常生活にはいくらでも避難場所がある。寒ければ室内に逃げ込んでしまえばいいのだ。故に寒さに対して腹をくくれない。覚悟を決められない。だからすぐに風邪をひくんじゃないかなぁ~と。気持の問題でしょうか。 ヒマラヤ遠征が始まってしまえば暖かいところが少ない。特にテントの中は火器を使用して時は暖かいもののすぐに酸欠になるので火を止める。火を消した瞬間にキーンと冷える。標高にもよりますが、テント内でもマイナス10~20度まで下がったりします。朝起きたら寝袋の口の周辺が吐く息によってバリバリに凍っていたりする。寝袋の中でマン丸になっていても寒いものは寒い。時に体を擦り、またモジモジと寝返りをうっては体を温めるものの限界がある。ヒマラヤ遠征がスタートし前半はその寒さに堪えますが、一月もするとどうあがいても暖かいところがないわけで、つまり寒さに対して諦めてしまうんでしょうね。寒さを受け入れるしかないわけです。自然の中で生きていくということは受け入れるということです。 冬のヒマラヤは大気が不安定 シェルパ族最大の村・ナムチェバザール 日ごろ、私たちは人間の都合に合わせて生活している。時に自分の都合であったり、相手の都合であったり。その調整の日々が日常生活です。しかし、相手が自然となると決してこちらに合わせてくれない。いかなる状況下に於いても人間が自然に合わせなければならないだ。登山に於いては自然と戦うという気持ちは落とし穴となる。 よく欧米人の中には自然に対して「制覇」だとか「征服」だといったような表現をされる方を見受けしますが、自然は制覇するものでも征服するものでもないし、そもそもそんな大それた事などできません。ヒマラヤの大自然の中にいると人間の存在がいかに小さいかが分かるものです。それだけに人間同士がチビチビと争い、戦争を繰り返している姿が滑稽にさえ感じるものです。 撮影しながらテクテクとゆっくり歩く けっこう足が長い? 今日はナムチェバザール村からクムジュン村へ移動。明日はパンボチェ村を目指します。平賀カメラマンは「ケンさん、エベレストがよく見えますよ!今日は撮影日和ですね」とハイテンション。撮影しながらゆっくりと登るのでこれが高所順応にいい。一気に登ればどんなにヒマラヤ登山のベテランであろうがポクっと逝ってしまう。慎重に標高を稼がないと危ない。 久しぶりにエベレストと再会した瞬間に「あ~俺は帰って来たぞ!」と思わず大きな声を出していました。やっぱり僕にとってエベレストは特別な聖地。昨年はこの聖地を踏みにじられた。だから本気で怒っていた。 最低でも一年に一度は里帰りしないと落ち着かない。このエベレスト街道にももう40回弱訪れています。よく美人は三日で飽きると言われますが、エベレストは何十回見ようが一切飽きない。飽きないどころかその度に新たな発見があります。これは凄いことです。 余談ですが、僕には「美人は三日で飽きる」と言われている意味が全く分かりません。許されるのならばいつまでも眺めていたいものです。たまに街中で眺めすぎて不審者扱いされスタッフに「野口さん、もっとさりげなく見てくださいよ」と注意されたので仕方がなく、指の間から眺めていたらもっと怪しかったそうだ。かといってサングラスかけて見るのは潔くないし。見たいものは堂々と見たいわけで、見るなといわれたらもっと見たくなってしまう。あ~困ったものです。 そして今日の記事のタイトルであります「ベビースターラーメン」ですが、平賀カメラマンは「ベビースターラーメン」命でいつ何時においてもベビースターラーメンを持ち歩いている。カメラよりもベビースターラーメンを手に持っている時間のほうが長かったりして。どれだけ好きかと言うと、わざわざエベレストの山頂にまでもってきて、山頂でポケットから取り出しているので、「こんな所で食べるつもりか!」と驚いてみていたら、なんと自分で自分にカメラを向けてベビースターラーメンと一緒に記念写真を撮っているではないか。一緒に登った相方の僕よりも先にベビースターラーメンと記念写真を撮る彼の精神構造を分かりかねたが、ただ1つだけ分かったのは彼がベビースターラーメンを心から愛しているということである。確かに平賀カメラマンからよく分けて貰って頂くが、あの昔から一切変わらない味は飽きなくていいですね。いつの間にか僕までベビースターラーメンが好きになり気がつけば自身で買うようになっていました。 ベビースターラーマンと平賀カメラマン 今日はそんな平賀さんとベビースターラーメンをヒマラヤバックに愛のツーショットを撮影してやりました。なかなかの腕前でしょ。これでも中学・高校生時代は写真部です。卓球部に写真部に、そして大学からは山岳部、これ完全に裏街道まっしぐら? 2009年1月8日 クムジュン村にて 野口健...
1月6日、天候が回復しルクラ便が飛んだ。一日の待機で済んでラッキー。中には一週間ほど待機するケースもある。次の問題は帰りの1月18日、ルクラからカトマンズに降りるフライトだ。ここで足止めを食っちゃうと1月21日の帰国予定日が危うくなる。なにしろ1月22日には九州で講演会が待っているのだ。何が何でも帰らなければならない。1月18日に晴れる事を祈る。 いよいよルクラ村へ 今回は日本出発が遅れたので時間的な余裕がまったくない。6日からキャラバンを初めて15日までにはアイランドピークに登頂し、17日までにルクラ村まで下ってこなければならない。これもヒマラヤ行きを躊躇し出発を遅らせた私の責任。せめて平賀淳くんを巻き込まないように気をつけたい。 ルクラ村到着 エベレスト街道にはいくつもの吊り橋がある 6日はパクディン村泊。7日はシェルパ最大の村、ナムチェバザールに到着。やはり運動不足なのかな、体が重たい。アイランドピークにアタックするまで体を軽くしておきたい。このような時に痛感するのは日々のトレーニングの重要性だなぁ~。もう若くないんだし、もっとまめに体を動かさないと。分かっちゃいるんだけれど、この繰り返し。「反省だけなら猿にでもできる」なる言葉はよく耳にしますし、その通りなのだろうと思います。ただ、ここで1つ疑問が発生。そもそも論として猿は本当に反省するのだろうか・・・? 例えば、「触ったら痛かったからもう触らない」というのは果たして反省という概念なのだろうか?反省というよりももっと感覚的なものじゃないかなぁ~と。反省というのは思考的な要素が絡んで発生するような気がしてならない。だとするならば猿は本当に反省するの? なにもヒマラヤで考える事でもあるまいか。 ナムチェバザール村に到着 ナムチェバザール村では相棒のアン・ドルジ・シェルパと再会。彼の山小屋にお世話になる。昨年は彼と一緒に合計4ヶ月間ほど氷河湖の調査を行った。 「日本人はエベレストの氷河が急激に溶けている事に対して無関心ですが、ヒマラヤは世界で最も高い場所です。人間の体に例えれば頭になります。もし頭が高熱に侵されたら体全体の調子が悪くなるでしょう。それと同じでエベレストが温暖化によって熱くなっているのは地球全体の異変です。日本人にもけっして他人事ではないはずです」 とはアンドルジの言葉である。私は「第1回アジア太平洋水サミット」「環境大臣会合特別シンポジウム」の場で、またIPCCのパチャウリ議長や福田総理(当時)にこのアンドルジの言葉をそのまま伝えた。 また彼は毎年、夏には日本の山小屋で研修を行いネパールの山小屋においても日本同様に環境配慮型山小屋運営を目指している。 アン・ドルジさんとの再会 若かった頃の石原慎太郎氏に目元が似ていて、我々の間では「ヒマラヤの慎太郎」と呼ばれている。そういえば、ルクラ村に住んでいるナワン・ユンデン・シェルパの奥さんが小沢一郎氏に似ていて、こちらは「ヒマラヤの一郎」と呼ばれている。「奥さん」というのがいかにも悲劇的?ではありますが、いずれにせよこちらの慎太郎、一郎は本家と違って?仲が良い。 街道沿いの親子 ネパール入りしてからとにかく良く寝ています。おかげでだいぶ復活してきました。三十路を過ぎると一にも二にも睡眠。睡眠さえ取れていればなんとかなるもの。昨年の秋ごろからの寝不足がきつかった。日々のスケジュールをこなしながらその隙間で原稿書きに追われた。1つは文藝春秋に掲載された「僕のレイテ遺骨収集記」。内容が内容なだけに100%本気をだしました。一方的な感情論になってしまっては逆に読者が引いてしまう。かといってデータだけでは現場で感じたあの世界が伝わらない。そのバランスが実に難しかった。私なりに精いっぱい書かせて頂きました。ただし、あの現場を文章によって100%そのまま再現できたかといえばNOであり、現場に勝るものはないと痛感させられました。 そして次に追われたのが今年の2月7日に日経新聞から出版する新書の原稿だ。日経新聞で2年間連載させて頂いた記事をまとめ、さらに原稿用紙で200枚近くを書き加えた。これがなかなか大変で、講演会場までの移動中(新幹線や飛行機の中)、出張先にホテル、打ち合わせと打ち合わせの間、とにかく使える時間を全て使って書ききった。最終的な締め切りが12月27日でなんとかギリギリ間に合わせる事ができた。 原稿を収めたら心底ホッとしたのか、解放されたのか、その日はポケーと一日脱力感に襲われた。忙しさを言い訳にしたくなかった。また、「ヒマラヤ氷河の融解による氷河湖決壊問題」や「戦地に取り残された御遺骨の実情」から「ツバルの海面上昇問題」「難民問題」「漂着ゴミ問題」などこの数年間、世界各地で感じてきたことが自身の中で過去の出来事になる前に、また書き残せるうちに、現場で見てきた事を形に残して伝えるのが義務であろうと、使命感に燃えていたのも事実。故に大変でしたが、充実していた日々でもあった。ただ、仕事以外の限られた時間の全てを次ぎこんだためブログ更新まで手が回らなかった事をお詫びします。 原稿を収めてから慌ててヒマラヤ遠征の準備を開始。せっかく久々に日本で正月を迎えたのに初詣も叶わず、また紅白歌合戦も見られなかった。赤、白のどちらが勝ったのかな? マニ車を回す 回すとお経を読んだことになる ラマ教のお経が彫ってある岩 エベレスト街道に入って二日目になりますが、昨年の北京オリンピック直前と比較すればだいぶ穏やかになりました。あの北京オリンピックはやはり異常事態であった。なにしろ、中国は形振り構わずネパール側に圧力をかけ、公安などをネパール側に越境させこのエベレスト街道に配置させたとシェルパ達が怯えていた様子を我々はその現場で目にしていた。エベレスト(ネパール側)のベースキャンプにまで中国大使館の館員が監視を目的に張りつき連日のようにエベレスト上空には軍用機が音を立てて旋回していた。すべては中国の聖火隊がエベレスト山頂に聖火を上げるためにだ。 ベースキャンプではフリーチベットと書かれた旗を持っていただけで強制的にエベレストから追放されたアメリカ人登山家。そして中国隊がチベット側から登頂に成功するまでは反対側ネパーからですら6000m以上を超えてはならないとお達しがあり、もし6000m以上に登れば射殺すると6400mにあるキャンプ2には武装した軍隊までが派遣されていた。たかがオリンピックの聖火隊如きでありながら、エベレストで起こっていた全ての事が異常事態であった。 ここまでやるのかと、中国の覇権主義には心底驚き、危機感と同時に怒りが沸々と煮えたぎるのを明確に自覚していたが、あれから少し時間がたってみて、振り返ってみれば、受け取り方が少し膨らんだ。中国による対外強硬路線は「対国外政策」というよりも、「対国内政策」であったのだろうと。 特にチベット問題が盛り上がればチベットに限らずウイグル、また内モンゴルなどに飛び火していくだろう。中国が最も恐れたのはそこではないか。したがってあれだけ国際社会から非難されようが中国は一切緩むことなくチベットを弾圧し多くのチベット人を殺し投獄した。中国に逆らって独立運動などしようものならばこうなるぞ!と見せしめ的な要素がなかったか。 また究極な格差社会が招いている人民の不満をどのように抑えていくのか。岡本行夫氏は「中国では農民として生まれたら最後、社会保障も医療保障も失業保険もない。都市への移住の自由もない。9億人の農民の犠牲の上に、4億人の都市住民の繁栄がある」と中国の格差社会について語っておられたように、中国は外から見れば覇権主義が象徴するような巨大な国力、強さを抱かせるが、実は蓋を開けてみれば極めて不安定な内政事情を数多く抱えている。 北鮮やロシアも度々使う手法ですが、強い中国を示すことで中国共産党の正当性を人民に伝え維持していこうとの狙いではないだろうか。つまり以前のように中国共産党が人民をコントロール出来なくなっている証かもしれない。中国はルーマニアのチャウシェスク政権 の如く内側からのエネルギーによって変わっていくのかもしれない。あのエベレストでの中国の行いが中国の行き詰まり、焦りを現しているとするのならば、中国は時間の問題で変わるかも。そう思えば怒りに燃えた昨年のエベレストの出来事にも微かな希望、可能性が見え隠れしてくる。 ブログ執筆中 ちょっとプラス思考すぎたでしょうか。ヒマラヤの夜は永い。ついつい様々な事をグダグダと考えてしまう。考える時間がたっぷりとあるから、このブログの原稿もその分だけやたらと長く、またくどくなる。 明日からクムジュン村、もしくはパンボチェ村まで上がりますが、今回は衛星通信機材を持ってこなかったので、ブログのアップはナムチェバザール村まで(ナムチェバザール村にはインターネットカフェがあるので)。ただし衛星携帯電話はあるのでアイランドピークに登頂しましたら事務所に連絡しますのでブログ・HPにてお知らせ致します。 それでは、明日からは思考を切り替え、最大限、気をつけながらアイランドピークの頂を目指してきます。アイランドピークの登頂を次の冒険に繋げるためにも。 2009年1月7日ナムチェバザール村にて 野口健...
(クリックしたら写真が大きくなります) この度はエベレスト街道周辺で氷河湖の視察を行ってきたが出来る限り多くの村人から声を集めてきた。確かにイムジャ氷河湖などの実態は多くの学者によってそれぞれが発表し様々な指摘がなされてきたが、私を含めその関係者のみなさんは地元民ではない。したがってよほど運が悪くない限り氷河湖が決壊する時にその場に居合わせることもないだろう。仮にイムジャ氷河湖が決壊したとしても自らの生命財産を失うわけではない。逆に学者の先生方にとっては氷河湖が決壊すれば活躍の場が増えるのかもしれない。 しかし、村人は違う。仮にイムジャ氷河湖が決壊すれば、エベレスト街道沿いの村々の多くも、あのサバイ湖決壊によって辺り一面がひどくえぐられ跡形もなく流されてしまったように、いやそれ以上に残酷に、そして一瞬にしてこの世から姿を消すだろう。 我々(学者の先生方も含む)はあくまでも安全な場所からやってきて、それでイムジャ氷河湖を含めた氷河湖の拡大が及ぼす決壊の危険性であり、想定される被害、また決壊させないための対応策についてあれこれ訴えているに過ぎず、「他人事」と言ってしまえば「他人事」なのである。 いつでもどこの世界でも同じ事が決まって繰り返されるのだが、氷河、温暖化関係など学者の先生方、また様々な関係者と接してみると、私の主観かもしれないが、この限られた世界の中にもいわゆる対立の構造が見受けられたりする。限られた世界ゆえになおさらなのかもしれないが・・・。しかしそんな事は被害を受けるかもしれない「当事者」からすればまったくもってどうでもいい話で、とにかく早くアクションを起こしてほしいのだ。 前回の記事にも書いたように、もし私たちの住み家の頭上に今にも決壊しそうな巨大な氷河湖があればまた違った展開になるのかもしれない。大切な事は少しでも当事者の気持ちに近づくその努力だ。その為の「現場」だと私は感じている。 昨年8月、トゥクラ村での洪水で経営していた山小屋が流されてしまったディキ・シェルパ(44歳)に話を聞いた。92年に初めてヒマラヤに訪れた頃から私はこの小さな山小屋を定宿にしてきたが、昨年12月に久々にトゥクラ村に訪れた時に山小屋もろ共その周辺の地面までが削られてなくなっている光景にしばし呆然とまた絶句してしまった。ガイドのアンドルジ・シェルパに「あの山小屋のおばさんは!」と確認したら「彼女は助かって今はペリチェ村に住んでいる」と無事を確認しホッとしたが、しかし長年にわたり彼女が築いてきたあの山小屋を失い今はどうしているのだろうかと気がかりであった。 トゥクラで洪水被害にあったディキさん その山小屋の主であったディキ・シェルパは我々のインタビューに、 「昨年の夏に水と砂が一緒になって(いわゆる土石流のことだと思われる)何度も流れてきて、私の目の前でロッジが流されていった。なんとか逃げることは出来たけれども少しのお金と少しの衣服だけしかロッジから運び出せなかった。私には子どもも土地もない。私にとってあのロッジが全てだった。今はペリチェ村で喫茶店を借りてポーター相手に商売しているけれど、とても厳しいよ。私は全てを失ったけれど、でも、いつかまたロッジを建てられるようになるまで諦めずに頑張るさ」 と気丈に振舞ってくれたのが唯一の救いでもあったが、頬はすっかりと痩せこけ眼には涙が溜まり疲労困憊されているのは明らかであった。 そして対照的であったのがディンボチェ在中のソナムイシ・シェルパさん(60歳)だ。 「イムジャ氷河湖が決壊したらこの村は10分もしないうちにみんな流されてしまう。最近、外国人(日本人のことだろうと思われる)が決壊した時の警報器を設置したと聞いたが、そんなものになんの意味があるのだ!警報がなって逃げだせたとしても家も財産も全て失ったらその先どうやって生きていけばいいのか。この村にも若い人が少ない。爺さん,婆さんばかりよ。今からもう一度働いて家を建てることなどできるわけない!犬のように動物ならば体一つで生きていけるかもしれなしが私たちは人間だ。洪水で家が流されるぐらいならば一緒に流されて死んだ方がましだ!政府はまったく無関心だ。温暖化も私たちのせいではない。一体誰に訴えればいいのか。そこの積まれた石を見てごらん。若いシェルパ達が新しい家を建てるために運んできたが、洪水が起きてしまったら全て流されるからしばらく様子を見ているんだよ。誰かがイムジャの水を抜くかも知らない。イムジャが安全になったら家を建てるんだと。それまで石は積まれたままさ。いつになったら家が建つのか、それともその前にこの村が流されてなくなってしまうのか。私はお金がないから危なくてもこの村に残るしかないよ」 ディンボチェ在住でソナムさん と約30分以上にわたって焦りから来る危機感なのだろう、また怒りをどこにぶつけていいのかも分からないのだろう、その蓄積された不満が一気に我々のカメラに向かって大爆発した。彼はしきりに「警報器はなんの意味もない」と訴えていたが、それはあくまでも極論であって私の解釈では「警報器のみでは意味がない」ということなのだろう。 それはそうだろう。警報器はあくまでも緊急事態(決壊時)に一刻も早く決壊を村人に知らせる手段であって決壊そのものを防ぐものではない。したがって「緊急避難」としての「警報器」と同時に必要不可欠となるのが決壊させない対策である。その為には氷河湖の湖水を抜くのか、または氷河湖の壁面が崩れないように砂防技術などによって強化し決壊しないようにするのか、様々な方法があるのだろう。 このクンブ地方の山旅で改めて感じたのが速やかな氷河湖の決壊対策に関する調査と同時に可能な限り早い段階での例えば「水抜き作戦」などといったアクションである。現場の緊迫感を早く日本に伝えたい。5月8日はカトマンズからヘリでマカルー方面にあるローアバルン氷河湖に向かう。 決壊を恐れ建設をみあわせた資材だという 2008年5月5日 カトマンズにて 野口健...
(クリックしたら写真が大きくなります) 5月3日、最後の峠を越えやっとこさルクラ村に戻ってきた。約一ヵ月間、歩きっぱなしであった。いやはや、なかなか堪えた。途中、ルクラ村の手前にシャクナゲなどのお花が至る所に咲いており、まるでお花畑であった。久しぶりに見る色が新鮮でしばらく見とれていた。赤にピンクに黄色に緑に、そして香り。岩と氷の世界から命あふれる世界に戻ってきた安堵感に包まれ幸せであった。しかし、気になったのがこの時期にしてはいささか早咲きであるとのシェルパの一言。 ああ、そういえばエベレストのベースキャンプも4月中旬であったにも関わらず氷河が溶けだし至る所で水が流れ川となっていたのを思い出した。今頃、どうなっているのだろうかと心配。アイスフォールの一部が崩壊しシェルパ3名がクレバスに滑落し負傷したとのニュースも聞いている。三浦隊のみなさんはお元気だろうかと心配しながらも大ベテランの三浦さんに限っては大丈夫だろうと、ただ今年ばかりは自然現象よりも北京オリンピックの悪影響でそれ以外の部分でさぞかし精神的にもスケジュール的にもご負担になっているに違いないと気の毒でならない。 *三浦雄一郎さんのエベレスト遠征の模様はこちらに詳しく紹介されています。 自然現象よりも人間社会のほうがよほど怖く、またたちが悪い。なにしろエベレスト街道には中国から私服に化けた公安、または情報機関などのいわゆる工作員ら約50人が潜んでいるとのこと。そしてベースキャンプにも中国大使館員と思われる人物がテントを張り監視活動を行っていた。メラピーク登山最中にもダークグリーンに塗られた軍用機がエベレスト上空を何度も旋回しているのを目撃した。 やれ5月10日までベースキャンプから上部に上がってはならないだとか、信じられない事に登山隊付きの医師までもが「ベースキャンプから退却せよ」とのお達しがネパール観光省からあったとのこと。そして山頂を目指していたアメリカ人登山家が「フリーチベット」(チベット解放)と書かれた旗を持っていただけなのにエベレストから追放されてしまったとか。なにゆえに中国は越境までしてネパールにそこまで圧力をかける必要があるのか。そこまでしてなにを隠したいのか。中国はチベット問題を「内政干渉」と表現されるが、ネパールで行っている行為はどのように説明されるのだろうか。内政干渉どころかネパールを完全に支配下におき属国扱いしているではないか。 「言論の自由」が一切許されない、まるで戦時中の日本の憲兵による、またはナチのゲシュタボのような異常な監視体制化下の中で山頂を目指さなければならない全ての登山隊がまことに不憫でならない。聖火リレーを走った日本人選手の中に「スポーツと政治は別ですから」とのコメントがあったそうな。いかにも綺麗な「正論」でしょう。しかし、もしチベットでの悲劇を目の当たりにしたら、その「正論」が通用しない世界があることを知るに違いない。なにしろ「ヒマラヤ登山」という「スポーツ」が中国の政治によって弾圧されているのだから。 春の美しい花に見とれながら、しかしその上空を旋回する軍用機に人間の愚かさを感じ、また人はいつの時代も同じ過ちを繰り返すものだと、ヒマラヤの大自然はそんな人々の姿をさぞかし滑稽に感じていることだろう。 2008年5月3日 ルクラ村にて 野口健...
(写真はクリックしたら大きくなります) メラピーク登頂の翌日(4月30日)我々はタンナ村まで下った。98年9月3日、午前5時にタンナ村のすぐ上部にあるサバイ氷河湖(地元名タン湖)が決壊しタンナ村の一部が流され、また一面が緑の放牧地がその面影を残すことなくまるで軽井沢の「鬼押し出し」のような死の土地に変わり果てていた。 サバイ湖決壊時の写真(ラクパ・ギャルゼン・シェルパさん撮影 ) 決壊前に何度も訪れた事のあるタンナ村。先にも書いたように一面が青々として牧草地で、特に夏は放牧用の村として知られている。私が行き来していた時期は今と違ってロッジなど一軒もなく、夏はヤク使いからヤクの新鮮なミルクにバターをとっては頂いていた。またジャガイモ畑が村中にあり、観光地となったエベレスト街道とは違いシェルパのリアル・カルチャーを感じられるほのぼのとした世界であったが、メラピーク登山が注目させるにつれ外国人トレッカー、登山隊が増え今ではルクラ村からメラピークのベースキャンプ(カーレ)までまるでエベレスト街道を連想させるかのように至る所にロッジが建てられている。 サバイ湖決壊時にタンナ村で避難したラクパ・ギャルゼン・シェルパさん そのタンナ村の上部にあるサバイ氷河湖の上部にある氷河が溶け、湖面に崩れ落ち湖水を圧迫しその威力で水位が上がると同時に湖の岸壁を押し破り決壊したとのこと。タンナ村から見ると、ちょっとした丘のような山の奥にサバイ・ツォがあったが、決壊と共にその山が真っ二つに割れたようにV字形に削られ、そこから水と一緒に土砂が12時間以上にもわたって何度も繰り返してタンナ村に襲いかかってきた。 サバイ湖全容 土石流はタンナ村を襲った 決壊した場所を指さす 後ろが98年に決壊した時にできたV字型の傷痕 爆音と共に岩が擦れる時に発する異臭に驚き慌てて家を飛び出したラクパ・ギャルゼン・シェルパさん(30)は「12時間ほど時間をかけて何度もゆっくりと土石流が流れてきた。音が大きくて怖かった。また岩が擦れる臭いが臭くて吐き気がした。私の兄のロッジが目の前で流されていくのをただただ黙って見守るしかなかった。兄は全ての財産を失いルクラ村に戻ったが生きる希望を失ったのか心の病に侵され未だに社会復帰できていない。引きこもり状態で家族を養えていない。一日も早く元の兄に戻ることを祈るばかりだ。私もジャガイモ畑をもっていたが今は土砂に埋まっている。この地では二度とジャガイモ畑はできないだろう。温暖化の影響で氷河が溶けだし氷河湖の決壊がネパールでも増えていると聞くけれど私たちにはなにもできない。運命として受け入れるだけ」と嘆いていた。 翌日、タンナ村を離れ下流約5キロのコテ村まで下ったが川岸の道程も土砂とともに巨大な岩が押し流されてきており、歩行困難な状態であった。改めて水の破壊力を思い知らされた。新聞報道によればサバイ氷河湖の貯水量は1700万立方メートル。エベレスト街道上部にあるイムジャ氷河湖に至っては現在直径一キロ、深さ約90メートルにも達し、約3580万トンの水を貯水している。日本人に分かりやすく説明するのならば東京ドーム32個がすっぱりと入るとのこと。一目にサバイ氷河湖よりもイムジャ氷河湖のほうが遥かに巨大なことが分かるだけに、もしイムジャ氷河湖が決壊すればサバイ氷河湖決壊時の被害(死者2名・橋が5つ流された)では済まされない事など一目瞭然である。ただ、不幸中の幸いはサバイ氷河湖の下流にも大きな村もなく人的被害は極めて限定的であったこと、数万人が生活し行き来するエベレスト街道での上流での決壊となればその被害は想像しただけでもゾッとさせられた。 サバイ湖に流れ込む氷河、この氷河の一部が崩れサバイ湖に 落ちたことによりサバイ湖は決壊した サバイ氷河湖決壊は水の破壊力を改めて私たちに知らしめた。この自然の合図に対し私たちは謙虚に受け止めそして敏感に察知し、そして大胆な決壊対策としての早急にアクションを起こさなければならないだろう。私とも関わりのあるカトマンズに本部があるICIMODO(国際総合山岳開発センター)が仮にイムジャ氷河湖が決壊すれば下流7・5キロのディンボチェは決壊から14分に土石流に襲われ、さらにこの湖から14キロあるパンボチェ村には21分後に土石流がやってくると発表していた。エベレスト街道の玄玄関口であるルクラ村までは一時間で土石流が届くと指摘する日本の学者の先生方もいる。 タンナ村からコテ村に下る途中の光景。洪水、土石流の影響で川岸が大きく削られ、また地面もえぐられ巨木が倒れ見るも無残な姿だった。 決壊したサバイ湖からは30キロ下流まで土石流が流れた。 かつてこの辺りは放牧地であった いつ決壊するかも分からない氷河湖。「野口健は危機感を煽りすぎだ」と指摘する日本の専門家の方々がいらっしゃるようですが、もしその方々のお住まいの頭上にいつ決壊するか分からない巨大な氷河湖を抱えていても同じ気持ちになるのだろうか。私はこの旅で多くの村人の声を集めてきたが、みな異口同音「地球温暖化はシェルパのせいではない。氷河湖の水を抜いてほしい。早く安心して生活がしたい」であった。怯えて過ごす人々の生活を目の当たりにし待ったなしの状況であると自身に言い聞かせ、この現場の声をどのようにG8環境大臣会合、洞爺湖サミットに届けられるのか、現場を知っている人間の責任でもあり声を上げる義務があるのだと、明日から再び新たな現場を目指す。 丘の上からタンナ村を撮影。後方は決壊したサバイ湖 2008年4月30日 タンナ村にて 野口健...
8年ぶりのメラピーク登山。28日にメララ峠を越え最終キャンプへ。メララ峠からは広く長いメラ氷河を一歩、また一歩進む。気の長くなる行程だ。峠だけあって風が強く、まただだっ広いので霧になり視界がなくなると方向を見失いやすい。このメラ氷河をなんど歩いてきたことだろうか。今回で6回目となるメラピーク。 山頂直下 メラ氷河を登る最終キャンプを目指す 98年6月に秋のエベレスト再挑戦を控え最終トレーニングとして亜大山岳部の長尾とメラピークに登っていた。下山時に2度ヒドンクレバス(表面に雪が被さっていて見えないクレバス)を踏み抜いて落ちた。幸いな事にロープを付けていたので宙ぶらりんとなり、なんとか這い上がり助かったが、落下した際に、あごを氷に打ちつけ瞬間的に意識を失った。しばらくあごが痛くて歩く振動さえ苦痛だった。 夕焼けに沈むマカルー峰 標高を上げるにつれ、宇宙が近づいてくるのがわかる そんなことよりも辛かったのがカトマンズに戻った時に日本に連絡した時のこと。私がメラピークに登っていた頃、エベレストでは歴史的な大量登頂の記録が更新され日本でもニュースとなっていた。その時の秋に私のエベレスト再挑戦(二回目)が予定されていたが、同行取材する事になっていたテレビ局のディレクターから「これだけエベレストに大量登頂するとニュースとしての価値がなくなる。同行取材は難しいかもしれない」との一言にショックを受けていた。今となってみればディレクターのあの一言は「そりゃ~そうなのかもしれないな」と理解できないこともないが、当事者としてまだ23歳の若造には冒険をもっとピュアに受け取ってもらいたいと、一人カトマンズでやけ酒をあおっていた。ただ、紆余曲折ありながらも秋のエベレストにそのディレクターの姿はあった。にも関わらずまたしても登頂ならず。散々、振り回し迷惑をかけしてしまった。 太陽を背に歩を進める 山頂からの絶景(中央奥にエベレスト、左奥にマカルー) 95年のメラピークも色々とあったものだ。一緒に登っていたテンバ・シェルパの娘のラムさんに恋し、テンバに相談したら「それなら一緒になれ」とメラピーク登頂後にルクラ村に戻り式を挙げた。本人も慌てたがそれ以上に慌てていたのが私の両親だった。父の方は「まあ~俺もそうだったからなぁ~カエルの子は結局はカエルってことだな」と、ただ、母親からは「家を出て行きなさい!」と事実上の絶縁勧告だった。 その後、2年たってラムさんとは破局を迎えたが、今では彼女の二児の母。私の母は一昨年、他界してしまった。母は厳しかったが、今ではあの厳しさが愛情だと、心底、心から感謝している。素敵な母だった。 前回(2000年)のメラピークではラムさんの弟のニマと再会し一緒にメラピークに挑戦しているのだから、色々とあるものです。そのニマがメラピークのベースキャンプで他の外国隊のポータと喧嘩し、やられそうになり、連中が短刀をもっていたので、また私もこういうことは嫌いなほうじゃないので、ピッケルを手に参戦。短刀対ピッケルとなり、慌てた周りのシェルパ達が仲介に入り事なきを得たがもしあのまま誰にも止められることもなく本気でやりあっていたら一足先にあの世に行っていたか、それともカトマンズの牢獄生活をおくっていたかだろう。しかし、その騒動の後に、ニマと二人でシェルパ達に「迷惑をかけました」と謝りながらも目があうとニコッと笑い、ラムさんとの破局などで離れかけていた距離を一気に取り戻せたような、男と男の絆なのか、また互いに「しでかした」共犯ともいえる妙な一体感に包まれなんとも嬉しかった。 我々の前を行く登山隊 一歩一歩、慎重に進む 考えてみればメラピークは92年の初挑戦の時から激しかった。ルクラ村からザトルワラ峠を越えなければならないのだが、我が隊が先に腰までのラッセル(雪かき)を行いルートを切り開いたにも関わらず真後ろから金魚のフンのごとくピタッとついてきたイギリス隊(イギリスの陸軍隊)がテント場についた瞬間に私のシェルパがテントを設営しようとしていたら「ここは我々の場所だ!」とテント場を横取りしようとした。相手からすれば19歳の日本人一人のシェルパ達。軽く見たのだろう。私のシェルパと連中の間で一悶着起きそうだったので、やれやれと間に入ったら、いきなりそのイギリス人が私の胸ぐらをつかんで「ファック」だのなんだと吠えてきた。軍人だけあって大柄で、私などとても勝ち目などないが売られたケンカ、逃げるわけにもいかず、どのようなトラトラトラ(奇襲攻撃)を仕掛けるかと思いきや背後にいたデンディーがスーと音を立てずに近づいてきたと思ったら手には短刀、そして短刀を手にしたほうの手を腰にあて体重をかけたまま相手(イギリス人)に突っ込もうと突撃態勢に驚いたそのイギリス男が「オー・ノー・ノー」を叫び怯み私の胸ぐらから手を放しひっくり返るように尻持ちをついた。私もデンディーの本気モードにこれはヤバいと彼を止めたが間一髪だった。 メララから登山ルートを確認 メラピーク峰 それにしても短刀一本で尻持ちをつき怯えきっているイギリス男の姿に果たしてこの男に国防の一端を任せられるのかと人様のお国事情で余計なお世話かもしれないが心配になったものだ。後でデンディーの「本当にやろうとしたの」と聞いたら「もちろん、ケンがシェルパを守ろうとしたのだから」と一言。寡黙な男であるが、それ以後私とデェンデイーはいつも一緒、セットとなった。男と男との関係はいかにも単純で時に野蛮だが、ピンチな時に体を張って助け合った時に初めて確かな絆が生まれるもの。それにしても、ニマとの件にしろ、デンディーの件にしろ、やはり若かった。若さゆえの危うさもあったが、私の大切な青春の一ページに違いない。 メラピークに登頂した瞬間 シェルパたちと山頂で記念写真 8年ぶりにメラピークに登りながら「本当に色々あったなぁ~」とヒマラヤ、またシェルパとの関係、どちらも私にとっての原点がここメラピークにある。2008年5月29日、午前9時、メラピークに登頂!山頂からはチョオユー、エベレスト、ローツェ(ローツェシャール含む)、マカルー、カンチェンジュンガと8000M峰5座が見渡せる圧巻の景色。メラピークの山頂で抑えかけていた冒険心に再び火がつこうとしている事を客観的に自覚している自分、そして「それでよい!」と容認している自分がいた。 2008年4月29日 メラピーク登頂後、カーレ (メラピーク・ベースキャンプ)に下る。カーレにて 野口健 クレバスに気をつけながら登る アタック中の撮影は過酷だ。頑張る平賀カメラマン...
「メラピーク登山へ」 (写真はHPからも大きく見られます) ローアバルンへのコース中にあるWest colの状況が良くないとのこと、またスペイン隊のポータの遭難死など様々な情報が集まり、氷河を越えてローアバルンに向かうのを断念し、メラピーク峰(6470M)登頂、そして95年に決壊したサバイ氷河湖の視察に目標を変更。ローアバルン氷河湖とツラギ氷河湖はサバイ氷河湖視察後に空路で目指す事になった。色々と葛藤もあったが、これでよい。 野口隊一同、目標をメラピークに変更し進む メララ(5413M)の峠を目指して霧の中を進む パンツポカリ湖畔にテントを張り、休んだ後にホングコーラ(ホング氷河から流れる川)を二日ほど下り、メラピークのあるメラ氷河にでるメララ峠(5413M)を目指した。ホングコーラの川沿いを歩くのだが、まったくの無人地帯にとても静かでまた長閑であった。エベレスト街道は人・人・人、であり、またエベレスト・ベースキャンプでは軍と警察の監視に辟易していただけに、この無人地帯の裏エベレスト街道?に心底癒されていた。ホング氷河から流れ出る水は真っ白に濁り、硬質でそのまま飲むとせき込むが、横のPeak41(6648M)の麓の地面から湧き出る水は透きとおり美しい。 メララでテントの設営を行う 澄んだ川に癒される(氷河湖からの水ではなく山から焼きだした水なので透きとおっていて美しい) ホングコーラ、氷河湖から流れる水はこのように白く濁っている 過去にメラピーク峰には5回ほど訪れているが、いつもルクラ村からゼトラ峠を越えてメララに上部キャンプを設営しているが、今回は反対側からの挑戦。ホングコーラも私にとっては初めてのコース。明日はメラピークの最終キャンプにテントを張り、29日にメラピーク登頂予定。登頂後、メラピークのベースキャンプであるカーレに下る。 メララ付近から雲の中のメラピーク山頂を眺める。いよいよ、明日からメラピーク登山! パンツポカリ湖畔を歩く コングミ・ディンマの丘 このメラピークメララは私にとってはとくに思い出深い山だ。92年に初めてヒマラヤに訪れ挑戦したのがメラピーク。あのときに19歳だった私も今や34歳だ。時間が経つのは残酷なほどに早いものだ。そしてあの時に出会ったデンディー・シェルパとはあれからずっと一緒。95年、彼の弟であるナティーをパンガ村での雪崩事故で失う悲劇も経験した。あの事故がきっかけでシェルパ基金が設立され、いまでは14人ものシェルパの遺児たちがシェルパ基金によって学校に通っている。今回ももちろんデェンディーと一緒だ。 永年の友、デンディーと テント内での夕食・この日はカレーにネパール餃子 久しぶりにヒマラヤの原点であるメラピークに登りこの16年間を振り返りたくなった。 それでは、次の更新はメラピーク登頂後です。おやすみなさい。 2008年4月27日 メラピーク・メララ付近にて 野口健...
「アマラプチャ峠越え」 ローアバルン氷河湖を目指しまずはアマラプチャの峠を越えなければならない。25日、チュクン村から峠越えのベースキャンプにテントを張り、翌日の峠越えに備えるが、23日にメラピーク(6470M)登山を終え、アマラプチャ峠を越えようとしていたイタリア隊の隊員一名が峠の直下で遭難死していた。状況からして疲労凍死、または高度障害かと思われる。我々の目の前でポーターによって遺体が運び降ろされたが、改めて山の怖さを感じていた。また、ブルンツェ峰を目指していたスイス隊が反対側からアマラプチャ峠を越えて降りてきたが、キャンプ1付近でクレバスが大きく口を開き撤退を余儀なくされたとのこと。 荷を運ぶポーター 緊張の合間の休息 イタリア人の遺体が運ばれる 我々のルートもまずはアマラプチャ峠を越え、次にブルンツェ峰のキャンプ1があるウェストコル(6143M)を越え、その次にシェルパニコル(6146M)を越え、マカルーBCを下ってローアバルンを目指すのだが、その二か所目の峠が通過できないとの情報に驚いた。複数の登山隊がブルンツェ峰に挑戦中とのことだから、明日以降さらに情報収集しようとシェルパ達と話し合って寝袋に入ったが落ち着かない夜を過ごした。 アマラプチャ峠越えの日は幸いなことに晴天無風。順調に高度を稼ぎ核心部では岩と氷のミックスになったが、適度な緊張感に心地よかった。岩をつかむその感覚に脳幹が刺激され、またその冷え切っている岩肌にぞくっと精神が高ぶり体中の血流が勢いを増しているのを自覚しながら一手一手集中していた。 アマラプチャ峠を目指して 荷物の移動にひと苦労 もう少しで峠越え アマラプチャ峠到着!右下にパンツポカリ(氷河湖)が見える アマラプチャ峠の上部にて またアマラプチャ峠からの景色がなんとも素敵で平賀カメラマンのレンズが私の一言を狙っていたが言葉に表現できなかった。小一時間ほどこの絶景を眺め反対側へと下り始めたが、氷河の状況が安定してなくルートが不安定であった。日中に氷河が溶け、そして夜中に凍りついたためか表面が硬く、またパリッと割れやすかった。我々はいいが、苦戦したのが、ポーター達だ。重い荷を担ぎ上げたかと思えば、今度は氷柱を下るときには荷物をロープにくくり付けて下ろさなければならない。その繰り返しだ。 峠の核心部 峠を越えて反対側へ下る 懸垂下降で下る平賀カメラマン アンドルジさん峠を下る パンツポカリ(ネパール語で五つの湖)まで下り湖畔にテントを張った。イギリス隊と遭遇し、その疲れ果てた様子に「なにかあったな」と尋ねてみたら、スイス隊と同じ場所で撤退したとのこと。至る所にクレバスが大きく開きまた氷河の状態はブルーアイスだとのこと。ガリンガリンに凍りつきポーターが歩くのは極めて危険だとのこと。そして残念な事に24日にブルンツェのキャンプ1付近で(ウェストコル)でスペイン隊のポーターが落石にやられ死亡したとのことであった。イギリス隊の彼は「ウェストコルは極めて危険。昨年の写真を見たがまったく違う山のようだ」と疲れ果てていた。 パンチポカリ(氷河湖) 美しいパンツポカリ(氷河湖)にうっとり 西日にて照らされるパンツポカリ 我々が越える予定の3つの峠のうち二か所でこの数日間のうちに死者がでてしまった。場所が場所だけにさほど驚くことでもないが、我々にとって致命的な事はクレバスによってウェストコルが通過できないことだ。特に重たい荷を担ぐポーターにかかるリスクは計り知れない。断じて事故を起こすわけにはいかない。この度は陸路でのローアバルン行きを諦め、5月10日以降にヘリによる空路で目指す事にする。 したがってそれまでは95年に決壊したサバイ湖(氷河湖)の視察を行う。そして久々にメラピーク(6470M)の登頂を目指す事になった。さっそくカトマンズに連絡し入山許可書を申請することに。北京五輪の影響で中国隊(聖火隊)がエベレストに登頂するまでネパール側はヘリがチャータできなくなり予定が変更し、そして氷河の状況により再び予定変更。なかなか予定通りにはいきませんが、まあ~そんなものです。ビスタリ、ビスタリ(ネパール語で「ゆっくり」の意味)の精神で。 2008年4月26日 ホングコーラにて 野口健...
水が流れるベースキャンプ 4月20日にエベレスト・ベースキャンプで清掃活動を行ったが、私が最も驚いたのが、まだ4月中旬であるにも関わらずベースキャンプの至る所で川ができていることだ。私の経験では5月中旬から氷河が溶けベースキャンプに川が流れまたあちらこちらに水たまりができる。その度にテントの位置をかえていたのが遠征期間後半の5月中旬であった。しかし、5年ぶりにエベレストのベースキャンプ(ネパール側)に訪れてみたら、もうすでにアイスフォールから水が流れ大きな川となっていた。またベースキャンプの至る所でモレーンの下の氷河が溶けだし水がジワリジワリと湧きあがっていた。ガイドのアンドルジさんも「これはおかしいね。今の時期にこんなに水が流れていたら一か月後はベースキャンプは大変なことになるね」と話し、ダワ・スティーブンも「昨年も氷河が溶けだすのが早いと感じていたけれど今年はもっと早い。これだけ高温になってきたということだろうが、ベースキャンプから上部のアイスフォールの崩壊や雪崩が心配。昨年も雪崩の事故があったが、今年は昨年以上に注意しなければならない」と心配していた。 アイスフォールから流れくる大量の水 ベースキャンプの真ん中を流れる川 アイスフォールの取り付きで清掃活動を行ったが、5年前には氷で覆われていた場所が露出しており、当時、見つけることが出来なかったごみを発見。アイスフォールに墜落したヘリの残骸であったり、また回収された缶詰の製造月日がなんと1962年であったりと、氷の下から出てくるわ出てくるわ。 1960年代のテントシューズ?とのこと 1962年製造と記されていた缶詰 昨年の夏、エベレスト街道沿いはこのクーンブ氷河が急激に溶けだしたことによって洪水が相次いだと指摘されている。この時期に昨年以上に氷河が溶けだしているということは、今年の夏に再び悪夢が訪れるかもしれない。ベースキャンプでごみを回収しながら、ごみ以上に大きな問題があるとひしひしと感じていた。川の流れるせせらぎはまるで春の到来を知らせてくれているような、何も知らなければのどかな音なのかもしれないが、今の私には地球の悲鳴にしか聞こえない。 このテントも近々、引っ越さなければならない 2008年4月22日 ディンボチェ村にて 野口健 ...
「エベレスト清掃活動 写真集」 撮影:平賀淳 (写真はクリックしたら大きくなります) 「エベレスト・ベースキャンプ清掃結果」 清掃日時 2008年4月20日 11時~13時30分まで 清掃場所 エベレスト・ベースキャンプ(ネパール・クンブ地方) 清掃参加人数 15人 主催 (野口健事務所・ICIMOD(国際総合山岳開発センター・エイシアントレッキング) 空き缶・ガスボンベ・衣服・テントの残骸・墜落したヘリの残骸(2003年5月にベースキャンプにヘリが墜落した)など約250キロを回収 やはり目についた日本語のごみ 溶けだした氷河の下から大量のごみを発見 清掃のため移動中の野口 氷柱群の中、ごみを運びながらごみを探す アイスフォールの取り付き付近で清掃を行う 1962年製造の缶詰を発見 ...