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國井修×野口健

第2回 國井修×野口健

國井修×野口健

2013/09/26

第2回 國井修×野口健

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プロフィール 國井修(くにい おさむ)

1962年10月20日、栃木県大田原市生。学生時代にインドに留学し伝統医学(アユルベーダ)とヨガを学ぶ。1988年自治医科大学卒業。公衆衛生学修士(ハーバード大学)、医学博士(東京大学)。内科医として病院や奥日光の山間僻地で診療する傍ら、NGOを立ち上げ、国際緊急援助や在日外国人医療援助に従事。1995年青年版国民栄誉賞ともいわれる「人間力大賞(TOYP)」外務大臣賞とグランプリを受賞。ペルー大使公邸人質事件でも医療班として参加。国立国際医療センター、東京大学、外務省などを経て、2004年長崎大学熱帯医学研究所教授。2006年より国連児童基金(ユニセフ)に入り、ニューヨーク本部、ミャンマーを経て、2010年より内戦中のソマリアで子どもの死亡低減のための保健・栄養・水衛生事業を統括。2013年1月には世界エイズ結核マラリア対策基金(通称、世界基金)の戦略投資効果局長に就任。これまで世界110カ国以上で活動をしている。

二人の出会い

野口) この3年間、毎年夏にアフリカ遠征をしています。目的は登山だったり、洪水現場・エネルギー施設・スラム街・難民キャンプ・少年兵矯正施設・ゴミ最終処分場などの視察だったりと多岐にわたっているのですが、2011年にナイロビに行った際、知り合いに現地で活躍している日本人に会いたいとお願いをして呼びかけて頂いた一人が國井先生だったんです。当時、國井先生は国連児童基金(ユニセフ)に所属するお医者さんで、世界各地の僻地や紛争地での医療活動を行っておられました。その中でも、ソマリアの難民キャンプで働く先生の話は衝撃的でした。現場は極めて治安が悪く、防弾チョッキをつけながらの仕事。身の危険があるにもかかわらず、淡々と話される國井先生にはただただ驚かされました。

國井先生) そうでしたね。友人から野口健さんと食事をしないか?と誘われ、行ったのが切っ掛けでした。もちろん野口さんの事はマスコミなどを通じて知っていましたが、それは表面的なもので、実際にお会いしたのは2011年の夏が初めてです。野口さんは山登り以外にも、富士山の清掃活動や温暖化の問題等、環境問題を入り口に、様々な活動に問題意識を持ち行動されている。それは「見る事は知る事、知る事は背負う事」という言葉にも代表されていると思いますが、それらの話を聞いた時、私とは全く分野は違いますが、考え方や価値観など、多くの共通部分を感じました。

野口) 有難うございます。僕も、先生にはまたお会いして、刺激をもらいたいと思っていました。だから、ご帰国の度にご連絡を頂ける事を大変感謝していますし、今日も、あまりお時間の無い中で恐縮ですが、宜しくお願い致します。

國井先生) こちらこそ、宜しくお願い致します。

医者を目指した切っ掛け

野口) 先生はなぜ僻地での医療を続けているのでしょうか?医者になった切っ掛けなども含めてお聞かせください。

國井先生)母親が赤十字の看護師だった事もあり、幼少時代から医療現場の話はよく耳にしていました。

ある日、鎮痛剤も効かず、医者、看護師、そして家族にも見放された末期癌の老婆が痛みに耐えかねて病室で首つり自殺をした話を聞かされたことがありました。

この話は子供ながらにショックで、この時、身も心も病んでいる患者を助けたい、医者になりたいと思いました。

そして、月並みかもしれませんが、シュバイツアーやマザーテレサにも影響を受けました。アフリカ大陸や貧困にあえぐインドなどで死に直面している人たちに手を差し伸べ治療を施す彼らの姿に感動し、憧れました。自分も医者になってアフリカなどで人々を助けたい、と。

野口)なるほど。そこが國井先生の原点だったんですね。先生のご経歴を見ると大学は自治医科大学医学部卒とあります。失礼ながら防衛医科大学は聞いたことがありましたが、自治医科大学とはどのような学校だったのでしょうか?また、卒業後はどのような経緯で今の職に就かれたのでしょうか?

國井先生)そうですね。意外に、知られていないかもしれません。自治医科大学は栃木県下野市にある私立の大学です。元々は自治省(現総務省)が設置した学校法人で、各都道府県から2、3人(当時)が選ばれ地域医療を担う総合臨床医を養成する学校です。入学金や修学資金は必要ありませんが、卒業後に各自治体が指定した僻地を中心とする場所で9年間(注:在学期間の1.5倍なので留年すると延びる)の義務年限という勤務義務が生じます。また、在学中は貸与金として当時月に5万円も頂けるのですが、先ほど申し上げた、義務年限に従事すれば返却しなくても良い制度になっています。

私の場合は地元の栃木県から自治医科大学に入り、卒業後は栃木県職員として大学病院での初期研修を受けたのちに県庁の指示に従って、済生会宇都宮病院を経て、鬼怒川温泉のさらに奥にある栗山村国保診療所所長として僻地医療に従事しました。その後は本来なら後期研修となるのですが、フルブライト奨学金をもらえることになったので、アメリカのハーバード大学公衆衛生大学院に1年間留学し、戻ってからは自治医科大衛生学教室の助手等を務めさせて頂きました。

この間、NGOを通じて途上国の緊急援助などに年に2週間程度は従事していましたが、もっとじっくり国際協力に関わりたいとの思いが強くなりました。栃木県と交渉した結果、世界の僻地医療に従事する人間がいてもいいだろうと、当時の国立国際医療センター(厚生省・厚生労働省管轄)国際医療協力局派遣協力課へ出向させてもらいました。ここは医療専門家を国際協力や邦人保護が必要な途上国へ派遣する場所です。1996年橋本龍太郎内閣時に起きたペルー日本大使公邸占拠事件では医療班として現場を訪れましたが、バングラデシュの洪水や竜巻災害の緊急援助から、病院建設や感染症対策の技術協力まで様々な経験をさせてもらいました。そういえばJICAの公衆衛生プロジェクトでブラジルにも1年間いました。

その後は、東京大学大学院医学系研究科国際地域保健の専任講師、外務省経済協力局調査計画課の課長補佐としてG8九州・沖縄サミット「沖縄感染症対策イニシアチブ」の管理・運営、ODAの保健医療分野全般の政策などを務めました。外務省勤務が終わると、長崎大学熱帯医学研究所でスマトラ島沖地震・インド洋津波後の感染症流行対策プロジェクトなどに従事しました。そしてユニセフのニューヨーク本部でシニア保健戦略アドバイザー、ミャンマーでユニセフの保健栄養事業部長、さらにソマリアで保健・栄養・水衛生事業部長として勤務しました。2013年3月からはエイズ・結核・マラリアの三大感染症撲滅を目指す国際機関、世界エイズ結核マラリア対策基金(本部:ジュネーブ)戦略投資効果局長になり、世界140カ国以上で感染症による死亡をひとりでも多く低減するための事業戦略立案や評価、効果的な支援の方法の検証などを行っています。

野口)すごい経歴ですね...。

僻地医療をされていた方が、いきなりハーバード大学に留学したり、県に掛け合ってアフリカでの国際協力を僻地医療の解釈の中にいれたりと。色々なところで沢山の経験をされてきているんですね。

國井先生)いろいろ学びたい、いろいろ経験したい、と思っているうちにこうなってしまいました。あまり考えたり悩んだりしないで、好きなこと、面白そうなことを直感で選んで、だめもとでやってみよう、まずはトライしてみよう、と前に進み続けていたような気がします。

野口)先生のその行動力が未来を切り開いているんですね。ただ、素人感覚で言うと、普通、お医者さんというのは都市部や大学病院などで勤務をしたり、最先端の医療機器を使って仕事をしたいと思うものではないのでしょうか?

國井先生)他の方々の事は良くわかりませんが...。私の場合は栃木県北部、大田原市生まれで、自然に囲まれて生活していたせいか、今でも都会より田舎の生活の方が好きです。

また、大学生の時に日本の僻地医療の現場を訪ねたことも自分に大きな影響を与えました。そこは豪雪地帯で5月になっても道沿いには2m以上の雪壁が残るような地域で、当時は乳児死亡率が途上国並みで、脳卒中で多くの人が急死するような僻地でした。そのような村を10年足らずで乳児死亡率0、脳卒中死亡者も激減させた医師に会いに行きました。彼が実践したことは、自ら地域を廻り、村人と語らう中で、そこにどんな健康問題があり、その要因がどこにあり、人々が何を求めているか、を把握する。そして、医師が主導するのでなく、住民が自ら主体となって健康づくりを進めることで先ほどのような結果を出していました。その医師の飾らぬ人情味溢れる人柄と内に秘められた熱き思いと強いな意志に感動を覚えるとともに、もっと日本の僻地を知りたいと思いました。色々な僻地を廻って感じたことは、病院や診療所で「待つ医療」でなく、地域に出て住民と一緒に語り合いながら行動する医療のダイナミズム、面白さでした。これらを通じて、日本に限らず世界の僻地で人々の健康を守りたいという自分なりの理想が少しずつ形成されていったのだと思います。

難民キャンプを訪れて

野口)昨年2012年8月に初めてケニアのカクマ難民キャンプを訪れる機会を得ました。國井先生はユニセフでも働かれていましたから、世界最大のダダーブ難民キャンプをはじめ世界中の難民キャンプなどの現場を見られてきたかと思います。私が現地に行って驚いたことは、難民キャンプ内では保護・支援されても、難民キャンプを一歩出るとサポートされないケースが多いという事実でした。また、基本的に難民は難民キャンプ内、またはその周辺で経済活動を行ってはいけない。であるならば若い人たちのモチベーションはどうなるのだろうか?また子どもや青年たちの多くは難民キャンプ内で生まれており、祖国を知らないまま難民キャンプで育っているわけで、果たして彼らの祖国の情勢が仮に安定したからといって祖国で社会復帰できるのだろうか?と思いました。

國井先生)アフリカではなくミャンマーからバングラデシュに避難した難民キャンプの事例ですが、難民を受け入れたバングラデシュも世界最貧国の一つでした。農村の人々の生活は貧しく、病気も多い。子どもや妊産婦の死亡率も非常に高い。ところが隣国から突然やってきた難民には食糧、水、医療などの援助が与えられるのに、地域の住民にはなんの援助も届かない。たとえ、難民キャンプの入り口前で地域住民が野垂れ死にそうでも、キャンプ内にある診療所では基本的に治療してもらえない。難民登録をされたものだけに与えられる特権を目の当たりにした時、何ともやるせない気持ちになりました。ただ、周辺地域にまで援助の手を伸ばすと収拾がつかなくなる。どこで線引きをするか?最近では地域住民も含めて、包括的に援助を進める傾向にありますが、難民支援にはこのような問題が横たわっていました。

*ダダーブ難民キャンプ(設営地:ケニア東部)とは
ケニアとソマリアの国境付近にある世界最大の難民キャンプ。1991年に起こったソマリア内戦から逃れてくる難民を受け入れる為に設立された。2011年の飢饉(通称:アフリカの角飢饉)以降、難民の数は増加を続け、設立20年が経過した現在は約47万人が暮らすキャンプである。

*カクマ難民キャンプ(設営地:ケニア北部)とは
ケニアとスーダンの国境付近にある難民キャンプ。1992年に設営された頃は2万2千人だったが、今では南スーダン、ソマリア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、コンゴ、エチオピア、スーダンなど13ヶ国、8万5千人を超える多国籍難民キャンプである。

*難民とは
難民条約で「人種、宗教、国籍、政治的意見や、または特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人々と定義されている。また、他国に逃れた人々を難民と呼ぶのであって、国内に留まっている人々に対して「難民」という表現は使わない。国内の場合は「難民」ではなく「避難民」と表現されている。

日本に求められている国際援助の在り方

野口)これは龍さん(橋本龍太郎元総理)から聞いた話ですが、小泉純一郎内閣時(2003年12月29日)にアメリカのベーカー元国務長官がブッシュ大統領の特使として日・中・韓をまわりイラクの債権放棄の要請をしたことがあったと。龍さんは、「当時の小泉・ブッシュの良好な関係を考えると、日本がODAの一環として有償資金協力等で貸し付けていた41億ドル(*当時およそ4400億円)が何のためらいもなく放棄する事になる。それは日本としてどうか」と感じ、元国務長官と小泉総理が会談をする前に、元国務長官と会談をし「イラクには鉱物資源などの天然資源が豊富にある。だから債権放棄はしない。何年かかっても構わないので資源等で債務を返却すべきだ」と話をしたと伺いました。結果的には、元国務長官と小泉総理との会談で債権放棄となるのですが...。この話を聞いた時、果たしてイラクの国民は日本がどれだけの事をしたのかを理解していたのか?これはほんの一例だと思います。

國井先生)ODAは日本にとって重要な外交手段の一つと考えられています。日本は開発途上国の経済成長・復興、地球規模の課題の解決に貢献する事で、国際的な評価や信頼、発言力を高めてきました。橋本元総理の狙いは債権放棄というよりはむしろ、アメリカに対して「日本は言えば従う簡単な国ではない」という日本国としてのメッセージをホワイトハウスに伝えたかったのではないでしょうか。

ただ、残念ながら現在の日本の経済状態は、潤沢な資金があり開発途上国に対して十分な資金協力が出来る時代ではなくなってしまった。そこで、過去に貸し出していた債権の放棄という形での貢献も重要な開発援助の手段となったのだと思います。

野口)ここ3年間毎年アフリカに行っていますが、毎年感じる事があります。それは、アフリカ各国で日本は様々な貢献をしているのに、その多くは一般的に知られていないということ。先ほどお話ししたカクマ難民キャンプへの支援も、アメリカに次いで日本が二番目だそうです。これらについても、現地の人々はもちろんのこと、日本のほとんどの人々が知らない。そして、それとは対照的なのが中国。支援をすることを最大限アピールし、アフリカで道路を造るなどの援助において中国の影響力が非常に強いように感じられました。言い換えれば、それらを入り口に、アフリカの資源を虎視眈々と狙っているようにも見えました。
援助をアピールするという事を控えめにする日本。それは日本人の美徳かもしれませんが、しかし「伝える」事もまた大切な事だろうとしみじみ感じました。

國井先生)そうですね。「沈黙が美徳」というのは世界的には通じない。さらに、日本では、現場に日本人がいることが「顔の見える援助」で、世界なアピールにもなると考えている人がいますが、それだけでは足りない。確かに、日本人が現場にしっかり足をつけて、親身になって現地のことを思い、現地の人々と一緒に悩みながら、信頼関係を作りあげていく姿は現地の人々から高く評価されています。しかし、日本人を送り込む資金があれば、他にその資金を使って欲しいという声も現地では聞かれます。同じ資金でどれだけ現地をよくすることができるのか、真剣に考え、それをきちんと現地や世界に伝える必要があります。
さらにこれからの時代は、国際社会における成果重視の潮流に対応しながらも、それだけで果たしていいのか? 成果がすぐに出なくても、長期的な視野でその国に必要なことは何かを、その国と一緒に考えてながら援助をすること、そしてそれを世界にアピールすることも大切だと思っています。

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野口)これも、龍さんから聞いた話ですが、中国の水利部長(=環境大臣)が「我が国も日本の援助のおかげで経済発展し、今ではアフリカ諸国などへのODAも出せるようになってきた。ただ、我が国が日本と違うのは、無償資金協力は一切しない。有償で貸し付け、もし返却が難しい場合は天然資源等で返してもらう」要は、「天然資源等が無い国には貸し付けや支援はしませんよ」と表だって大臣が話していると。これを聞いた時に、日本はこのままで大丈夫だろうかと感じました。

國井先生)中国の事例がどのように世界で評価されていくのか、関心をもってみています。ただ、私はその国が自主性、自立性、継続性を持つには、無償資金協力のみならず、現地とWIN-WIN関係を作れる日本の企業などと一緒に支援を進めるのも悪くないと思っています。特に経済開発というのは、援助だけでは限界があります。サービスも只でもらうより、自分でお金を払ったほうがその重みを感じる。最終的にはそのサービスを自分たちで創生し、管理・運営しようとの意識も強くなります。もちろん、保健医療や水衛生、教育といった人の基本的人権を守る支援については、経済や利害を無視しても後進国については無償で支援すべきです。したがって、この辺のバランスや戦略が今後重要となっていくと思います。

野口)國井先生は、時にお金を出す側の政府で働かれたり、また、支援される側のNGOで働かれたりと、非常に稀有な存在だと思います。これがどちらか一方での経験しかなければ、非常に偏った意見になる気もしますが、両方の立場を理解しているからこそ、お互いの良い部分、悪い部分が見えてくるのではないでしょうか?

國井先生)確かに稀有というか、「変わってる」とよく言われます(笑)。ODAを提供する側(外務省)、さらにそれを受けて現場で活動する側(国連)に立って感じたことは、日本はODA配分における「選択と集中」が重要だと言いながら、実際にはそれがなかなか出来ないということ。日本のODAはスキーム毎に細分化され、多くのセクターに支援をしているので、それぞれの国で日本全体としての貢献が見えにくくなる。それをわかっていてもなかなか改善できないのは、日本特有の意思決定のシステム上の問題かもしれません。日本は資金の使えるスキームや資金の規模、さらにこれまで何をやってきたか、どのような人的資源があるか、などから方向性やプロジェクトが決められることが少なくないように感じます。よく言われる省庁などの組織の垣根がハードルになっているのも理解しています。おそらく、多くの人が日本の援助課題を共有していると思うのですが、なかなかそれを大きく変えることができないようです。

野口)よく縦割り行政と言われていますが、国際的にみても日本の省庁間のハードルはそんなに高いのでしょうか?また、縦割りが原因で、支援をするにあたり計画から実行までの期間が他国と比べてどうなのでしょうか?

國井先生)省庁間のハードルが高い、縦割り行政というのは特に日本だけの問題ではありませんね。どこの国でもそれは共通の課題だと思います。そのために、米国や英国では米国開発援助庁(USAID)や英国援助庁(DFID)など、援助に関する戦略・計画作りからプログラムの実施・評価に至るまで、総合的に管理・調整できる機関が作られています。日本でも同様の機関の必要性が叫ばれながらなかなか実現していません。いずれにせよ、日本国内の省庁、実施機関、NGO、コンサルタント、研究機関、企業など、オールジャパンで開発援助を進めるべきとの意見が大半ですので、その具体的な仕組み作りが重要だと思います。以前に比べて、その連携体制はよくなっているとの印象ですが、さらなる努力が必要だと思います。

野口)先生はNGOでも働かれていましたが、現地には沢山のNGOがあるかと思います。他のNGO同士の関係はいかがなのでしょうか?

國井先生)緊急援助に従事するNGOの連携ではジャパン・プラットフォームが動いており、NGOの連携促進に貢献するNGOもいくつかできており、昔に比べるとかなりその連携・協力体制は進んだと思います。ただ、連携・協調にあまりメリットを感じていないNGOも少なくないので、何らかのメリットや仕組みを作らないとうまく進まないと思います。

野口)橋本内閣以降、ODAが毎年のように削減されていますが、これらに関して、現場での反応は如何なのでしょうか?

國井先生)確かに現場で働いていると、これだけニーズがあるのになぜ削減するんだ!という思いはありました。毎年のように削減される予算に対して、日本のODAに関わっている人の元気がどんどん無くなっていく...。でも、考え方を変えれば、まだこんなに援助に使える資金が残っているんだから、それをどのように使えば有効活用できるか?現地で効果を示せるか?僕はこれが重要だと思いました。私が今、働いている世界基金は考え方が欧米流なんです。「これだけのお金を投資するのだから、これだけの人の命を助けなければならない、ひいてはこれだけの経済効果をもたらすことができる」という成果を世界に示さなければならない。ドナーとなっている欧米の政府からは特に、そのような要求が世界基金に突きつけられますし、我々事務局もそれに向けて最大限の努力をします。だから毎日が闘いのようですけどね(笑)。日本の国民も国際協力に自分たちの税金がどのように使われ、どれだけの人々を世界で助けているのかにもっと関心を持ってほしいですし、援助を計画・実施している人たちは、援助額が減ったからといって萎縮せず「日本はこれだけの事をやった!これだけの成果を出した!」と胸を張ってほしいですね。もちろん、世界では多くの人々が助けを必要としていますから、日本にはODA額の増額を期待していますけれど...。(笑)

野口)先ほどのお話にもありましたが、お金が減ったのであれば、分散させず一極集中が出来れば効率的かとも思いますが、現場はそれぞれのニーズを抱えているので、なかなか難しそうですね...。

国際協力の在り方

國井先生)国際協力とは、一方的に他国に対して援助をするというものではなく、我々も現場から学ぶ事が沢山あるのだと思います。東日本大震災の時には海外での経験・ノウハウを被災地で活かすことが出来ました。現場で感じた事は、日本はこれだけ資源が豊かなのに、なぜ自国で起こった災害に対してこの程度の緊急支援しか出来ないのだろうか?もっと多くの日本人が途上国の緊急支援から学んでいれば状況は違ったかもしれないと...。日本は物質的に豊かで、全てが揃い守られた中で生活をしている。だから、そうではない状況下で、どのように迅速に優先順位を決めて行動すべきか?次々に起こる課題、増大するリスクにどのように対処すべきか?分からなくなるのかもしれません。特に、東日本大震災後には官官、官民、民民などの連携が必要になりましたが、日ごろやり慣れていなければ緊急時の実施は難しいものです。しかし、東日本大震災後に被災地に約2ヶ月滞在していて、日本人の素晴らしさも再確認しました。海外に長くいて、外から日本を見ると、その良さも見えてくるものです。

野口)「国際協力」という言葉は簡単ですが、最前線の現場に留まり活動を行うのは言葉では表せないほど過酷なものなのだと思います。あるJICAの職員の方から「一時は国際協力という言葉に憧れ、また使命感を持って多くの若者が募集をしてきたのですが...。最近の若者はボランティア・国際貢献・国際協力という事に関心を示さなくなり海外青年協力隊への申し込みも減った」と伺ったことがあります。しかし、私がネパール、バングラデシュ、ブータン、ケニアなどで、出会った協力隊の隊員は皆、目をキラキラさせながら自分たちの「使命」「やりがい」を語っていました。私はよく母校で後輩たちに青年海外協力隊などの活動を紹介しつつ、世界の現場で汗を流すことの重要性を訴えています。若い子たちには是非、世界中の現場からアクションを起こしてほしいですね。

最後に

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野口)國井先生の著書「国家救援医 私は破綻国家の医師になった」の冒頭にソマリアの大干ばつによって400万人以上が飢え、毎日数千人が近隣国に難民として流出するというくだりがありますよね?その中で、

―「支援が滞れば数ヶ月で75万人が死亡すると推定された。しかし逆に言うと、援助を迅速に届ければ救える命が75万もある」私の仕事は、支援すれば助かるこれからの命を助けること。―

と書かれていました。これを読んだ時に、考え方を変えるだけでこれだけの命が助かるという國井先生の言葉が非常に心に残りました。

國井先生)本当を言うと、僕はユニセフが好きでそこを辞めたくなかったんです。世界基金に行った最大の理由は自分の能力をさらに活かすことができて、より多くの人々を助けることが出来るかもしれない、と思ったからでした。現場でなくとも、中枢で作った戦略が世界140カ国以上で数百万人を助ける仕事になる、という醍醐味に惹かれました。

野口)それともう一つ、心に残った言葉があります。「日本にいては見えないものが見え、日本の常識では理解できないものが理解できた」「国際社会を知る事で日本の強み、弱みを知り、そこから日本を元気にしていきたい」。

國井先生)海外に行ったからこそ愛国心が強くなったのかもしれませんし、外から日本、そして日本人を応援したいと思います。

野口)私も海外暮らしが長かったので、海外で日の丸を見た時には何とも言えない思いを持ったことを覚えています。今日は長時間にわたり有難うございました。

若い子どもたちへ一言、お願い致します。

國井先生)夢は単純で純粋な方がいい。その夢に対する思い込みが強いほど、自身を動かす力も強い。私は、物覚えや理解力が悪く、勉強もあまり好きではありませんでしたが、「医者になりたい」、「アフリカで働きたい」という夢を小さなときから抱き続けてきたおかげで、結果的に勉強や努力が苦にならなくなりました。夢や情熱を強く抱くと自身の能力以上の力が沸き出てきます。夢をあきらめないで!転んでも前に進んで!!

国家救援医 私は破綻国家の医師になった 國井修著(角川書店1,470円)

http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC/dp/4041100763

産経新聞書評倶楽部(2012年10月20日)にて、國井先生の書籍の書評をさせて頂きました。是非ご覧ください。

https://www.noguchi-ken.com/NEWS/Media/newspaper/post-450.html

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