2010年4月、関西国際空港に近づき、搭乗機が旋回を始めると、眼下に巨大なビル群が立ち並んでいるのが見えた。ネパールの田舎町ポカラで育った18歳のウパカルにとって、それはまさに新世界だった。
岡山でお世話になる予定になっていたネパール人の身内は、約束と違って空港へ迎えに来てくれなかった。日本語は全く分からなかったが、なんとか自分で岡山行きの高速バスに乗車。ウパカルは、不安で押しつぶされそうだった。
しかし車内で出逢った優しい男性が、サービスエリアで飲み物を買ってくれ、降りる停留所も教えてくれた。これからこんな優しい人々がいる国で暮らすのだと思うと、嬉しい気持ちでいっぱいになった。
だがそこからの現実は、違っていた。
ウパカルは、他のネパール人6人と共同生活をする予定になっていた。しかしその場所は、6畳 2 間と台所しかない古い木造住宅。日当たりが悪く、カビの匂いが充満していた。
スペースの少ない鮨詰め状態で、とても「共同生活」と呼べるものではなかった。最年少のウパカルは台所にマットをひいて寝ることに。同居人たちは、深夜の弁当工場での過酷な労働に、いつもぐったりとしていた。
飲食店で働くネパール人の親戚は、日本語学校に行く手続きはしてくれていたものの、ウパカル自身が準備する「外国人登録カード」、「銀行の通帳」などの手続きは、全く教えてくれなかった。わからないことだらけで、一つ一つ同居している先輩達に確かめながら手続きを進めた。
これから学費を稼ぎながら日本語学校に通わなくては行けなかったので、親せきにバイトの相談をもちかけた。だが返ってきた言葉は、冷たいものだった。
「日本語も全然できないくせにバイトなんてできるはずがない。しばらくはうちの店の皿洗いをしろ! 夕食は食わせてやる」
語学学校では、ネパール人はウパカルたった一人。残りの十数人は中国人だった。
彼らは皆優しかった。いつも昼食を食べず、水ばかり飲んでいたウパカルを哀れんで、自分たちのおかずを分けてくれたりした。
授業を受けるには電子辞典が必須だった。だが、ウパカルにそれを買う余裕がない。先生の中には中国語を話せる人がいて、クラスメイトの良き相談相手になっていた。
その中で、ウパカルはどうしても疎外感が拭えなかった。
しばらくすると、身内から夜間の弁当工場へバイトに行くようにすすめられた。学校が終わると倉敷にある調理工場での力仕事となった。いつも重い疲労感があったが、学費を払い、生活をするためには仕方ないと思っていた。
だが弁当工場の給料の一部が、親せきに「仲介料」として流れていたのが分かった時は、やりきれなかった。他の仲間も憤慨していた。
皆で抗議することも考えていたが、親戚であるがゆえに、親たちに迷惑がかかるかもしれないと思うと泣き寝入りしかなかった。
ウパカルは、裕福な家系に生まれ、日本に来たわけではない。
彼の父は貧しい家で育ち、農作業の後、夜に勉強をし、何年も遅れて大学に入ったという。父にとって学ぶことは最高の喜びだった。そして地元の学校の教員になった。
「貧しさのために学校へ行けないなんてことはあってはならない」
そう父は、いつも口にしていた。授業料が払えない子供たちには、学費を立てがわりし、通わせてあげていたようだ。
さらに夜は、子供の頃学校へ通うことができなかった大人たちへ勉強を教えていた。そのように教員として奮闘しても、給料はひどく安かった。
ウパカルはノートや鉛筆を満足に与えてもらえなかった。もちろん外食はしたことがなく、玩具を貰った記憶もない。
だが父からは、最初から最高のプレゼントを貰えたと思っていた。それは「ウパカル」という名前だ。「福祉」という意味なのだ。
贅沢はできなかったが、家族と居られることは幸せだった。
地元の国立大学へ通っていたウパカルは、ある時、父に「先進国に行って学びたい」と話した。
父は自分が叶えることのできなかった夢をウパカルに諦めさせたくはなかったのだろう。毎日奔走して、日本へ行く手配をしてくれた――。
だから、日本で理不尽なことがあっても、それを父には言えなかった。
学校までのバス代を節約したいと思い、残しておいたトラベラーズチェックで自転車を買った。雨の日も、風の日も、雪の日も、それで小高い山の上にある学校へ通った。その自転車に乗ってふらっと岡山の自然や街を見に行くのが良い気分転換になった。
ある日、岡山駅前まで走り、噴水の横に座ると、目の前に大きなホテルグランヴィアがあった。青空にむかい、真っすぐに、キラキラとビルが輝いて聳えていた。入口では、海外からのお客様をホテルマンが向かえていた。自分の知らない世界の人々が、そのホテルの中にはいるのだ......。
2011年4月、観光学科のある倉敷芸術科学大学に入学した。ネパールの主財源は観光である。日本の観光を学んで、その知識をネパールに持ち帰りたいと思った。
寝ずに働けば学費もなんとかなるだろう。「死ぬ気で頑張ろう」と覚悟を決めた。
10か月のウパカル、お母さんと
15歳のウパカル、故郷にて。
実家にて、水牛で畑を耕す
水牛の餌やり
野口健が理事長を務める認定NPO法人ピーク・エイドでは、ネパールポカラ村の小学校支援を行っています。
みなさまのご支援、よろしくお願いいたします。