2011/12/20
清掃登山や遠征などのヒマラヤに関連する記事です
(写真はクリックしたら大きくなります) ナムチェバザール村からターメ村方面に向かう途中に1995年にオーストリア政府によって建設された水力発電所がある。ナムチェバザール一帯の村々はこの発電所から送電されている。ターメ村手前の丘の上に貯水池があり、そこから地下に埋められているパイプを通って205メートル下流に落とすときの水力で発電する。発電量は二機で600キロワット。 タモーにある水力発電所 水力発電所内 地元シェルパによれば「この発電所のおかげで村に電気が来て生活が変わった。それまでは、木を伐採して暖をとったり、食事を作ってきた。しかし、電気のおかげで薪を使う量が減った。」また、電気を使うことによって、ロウソクを使うことが無くなり、視力の低下も防げるとのこと。 今回なぜ、水力発電所を視察したかというと、例えば氷河湖の水を抜く時に、その抜いた水を使って発電することができれば、エベレスト街道の上部(4000m以上)の未だ電気の無い村々に送電ができやしないか?氷河の水を抜くプロジェクトを、日本の企業などが参画して、水力発電所を建設することによって排出権取引のような仕組みが出来やしないか?氷河湖の水を抜く事業はかなりの資金がかかるだろう。企業とのタイアップ等によって実現可能になってくるのではないだろうか?などと、素人ながらにイメージしてしまう。 視察後、昨年夏のクンデ村で起きた土砂崩れ現場向かった。詳しくは昨年12月のWEBに紹介しています。関連WEBページ「クンデ村の土石流」 水路 現場では、昨年訪れた時には見られなかった、水路が出来ていた。土砂崩れ跡地は雨期になると川になりやすい。川の水が土砂を運び、新たな土砂崩れをうむ。水路を作ることによって、地面が削られず新たな土砂崩れを防ぐということなのだろう。 ただ、昨年の土砂崩れによって致命的な事が起きていた。それは、大量の土砂が畑に流れ込み、一面砂に覆われていた。昨年の12月に土砂崩れによって住居の一部が破壊されたミンマ・ドマさんと再会。ミンマ・ドマさんは砂に埋まれた自分の畑を指さしながら「もうこの畑では農作業ができない」と、嘆き途方に暮れていた。 クンデ村で土砂崩れの被害を語るミンマ・ドマさんとの再会 クンデ村の土砂崩れによる傷跡(1) 一面覆われている砂が、風や雨季の雨水により広がり、砂が砂を呼びいわゆる砂漠化現象が引き起こされていくだろう。事実、部分的には既に砂漠化が始まっていた。ヒマラヤ地域では、このような事が各地で起きている。ゆえに、水力発電等により木の伐採が減少し、そして植林活動を行うことによって土砂崩れ対策につながっていくのではないだろうか。 砂で埋まってしまった畑に呆然とする 砂に覆われた畑 2008年4月10日 クムジュン村にて 野口健...
(写真はクリックしたら大きくなります) 毎回、同じように繰り返すのが日本からヒマラヤにやってきてトレッキングが始まると決まって風邪をひく。スタッフの藤村氏から頂いた風邪なのかもしれないが、ナムチェバザールで一日寝込む。また藤村氏の風邪は頑固で何度もうつされてきたが、なかなか治らないことで有名。しかし、野口健事務所は例えヒマラヤにいても無休、お仕事です。平賀淳カメラマンは撮影した写真などの整理。藤村健氏はG8環境大臣会合特別記念シンポジウムに配布する冊子の作成。そして僕はHP、そして5月に新書を出版するがそのあとがき書きなど。 ナムチェバザールの山小屋でお仕事 シェルパ基金の子どもの家族との出会い 学生の頃は今ほど通信機材がそろっていなかったので、ヒマラヤ遠征中に日記は書いていたものの、ゆっくりと本を読んだり仲間たちとお話したりとノンビリしていたが、今では衛星通信機器の充実によって便利になったものの、そのおかげでヒマラヤに逃れてきても逃れきれないのがなんとも皮肉。 エベレスト街道キャラバンスタート 99年に一緒にエベレストに登ったアンダワ・シェルパと再会して エベレスト街道を登っていくのだが、各村で仲間たちとの再会がなんとも楽しい。92年から毎年、訪れてきたヒマラヤは今回で38回目。それだけに仲間が多い。再会してはその時の遠征団の話で盛り上がる。ただ、一つの悩みは決まって「チャンを飲め」と地酒を出される。「まだ移動中なので」とやんわりと断ろうものならば「何言っているの!ケンなら酔っぱらっても山の1つや2つは越えられるでしょう!」とさらにヒートアップ。おかげでベロベロに酔いながら目的地に向かって歩きはじめる。そしてまた違う仲間と再会。「ケン、一杯飲んでいけ!」と始まる。おかげで目的地になかなかたどり着けない。昨日は目的の宿に着いたのは夜の7時半。 マニ車を回す野口・藤村 休憩中 4月5日からトレッキングを開始したが、毎日のように雨やみぞれ。今日も午前中だけ晴れ午後から曇り。乾季であるはずのこの時期に毎日のように雨に降られる。おかげでお花はきれいに咲いているが、温暖化の影響だと指摘する専門家もいるように、地元のシェルパ達も気候変動の影響ではないかと懸念している。 仲間達との再会 4月8日、ナムチェバザール村でガイドのアンドルジ・シェルパと合流。4月9日はタモォー村近辺にあるオーストリア政府によって1995年に建てられた水力発電所の視察を行う予定。その水力発電所のおかげでナムチェバザール村・クムジュン村・タモォー村、ターメ村に送電することができた。例えば氷河湖の水を抜き、放流するその水で発電が出来やしないか。そんな事をイメージしながら発電所の視察を行いたい。 4月8日 ナムチェバザールにて 野口健...
靖国神社 正式参拝の様子 昨年、「男たちの大和」という映画を渋谷で見た。死を目前にした若い水兵さんたちが、何故に自分は死ななければならないの かを自問自答する。そして様々な葛藤の果てに最後は国を守るため、また家族や愛する人たちを守るために、自分たちは死に場所を得たと、半ば強引に自身を納 得させながら航海に出る。 10代の若さで死を受け入れなければならなかった彼らの心中を思えば、さぞかし孤独や不安に苛まれ、また無念であっただろうと思う。もっと生きていたかっ ただろうに。映画の後半では、生き残った水兵さんが、戦艦大和で亡くなった戦友の母親の元に息子の死を伝えに行く。息子の戦死を伝えられた母親はショック のあまり、思わずその水兵さんに「なんで、あんただけ生きてかえってきたんだ!」と責めてしまう。水兵さんが「すいません、すいません」と土下座しなが ら、戦友の母親に謝るシーンがある。その残酷さに、私は涙を禁じえなかった。 また、戦艦大和に片道の燃料しか積まずに、沖縄へと最後の航海に向かう直前のシーンも印象的だった。ある軍曹が大和で共に 戦い負傷し、入院中の戦友に今生の別れを告げるために挨拶に行く。そしていざ大和に乗り込むと、入院中のはずの戦友が大和に乗り込んでいる。彼は病院を脱 走して大和に乗り込んでいたのだった。 その姿を見て軍曹が「せっかく助かった命、なぜ大和に戻ったのだ!」と怒りをあらわにし、問いただすと、彼は「一緒に闘ってきた。俺だけ取り残されたくない。一緒に死のう」と涙ながらに訴えたのだった。 私は、病院から抜け出して大和に乗り込んだ彼の気持ちがよく分かった。それは私自身がヒマラヤ登山や清掃活動を通じて抱いた感情と通じるものがあるからである。 1997年、初めてのエベレスト挑戦の際に、驚いたことがある。それはベースキャンプの至るところに散乱していたゴミだった。白銀の世界とばかり思っていた私は正直、面食らった。様々な国のゴミがあったが、日本のゴミも多かった。 そして欧州の登山家に「日本人は経済は一流だけど、文化、マナーは三流だ」と指摘された。目の前にある日本語が書かれたゴミを前に私は反論することが出来 なかった。実際には一部の登山家が捨てたゴミなのだが、日本人とひとくくりにされ、日本という国自体を侮辱した言い方に私は憤りを隠せなかった。ゆえに私 は、エベレストでの清掃を開始したのだった。 エベレストでの清掃活動は2000年から2003年にかけ4年間行った。8000メートルの世界での清掃は危険きわまるものだった。よく「ヘリコプターで ゴミを回収すれば安全だろう」と指摘されることがあるが、6000メートルを超えた地点では空気がうすく、ヘリコプターは8000メートルという高所まで 上昇できないのである。ゆえに人間が回収しないかぎりゴミはなくならない。あまりにも危険な挑戦だったが、時にはリスクをかかえてでもやるべきことがある と信じ、ゴミの回収につとめた。しかし長時間の高所での活動の身体的ダメージは簡単には回復しなかった。結果として3人ものシェルパ(ヒマラヤ山脈におい て登山の支援を主な生業としているネパールの高地少数民族)の犠牲者を出してしまった。私自身も入退院を繰り返した。 意義のある活動といっても命あってのもの。私はもう二度とヒマラヤには戻らないと決心した。日本で講演活動を行い、 シンポジウムに出席したり、海にもぐったり、旅に出てみたりもした。しかしヒマラヤ遠征のシーズンになると、今頃、仲間たちがヒマラヤで死闘を繰り広げて いるだろうと、彼らの姿を想像してしまう。彼らは自分たちの意思でヒマラヤに挑戦しているだけで、別に私とは関係ないと自身を説得するものの、平和な日本 で過ごしていることへの罪悪感や後ろめたさを感じずにはいられなかった。そんな生活が2年続いた。ただ人は騙せても自分自身は騙せなかった。 結局、再びヒマラヤに戻ることになった。昨年は日本隊によるマナスル峰初登頂50周年記念だった。その記念すべき年 に以前からゴミが多いと指摘されていたマナスル峰での清掃活動を展開した。ヒマラヤで最も積雪量が多いと言われているマナスルは、たくさんの登山家が雪崩 で命を落としてきた場所だ。危険地帯のマナスル峰での活動中、夜になるとテントの中で、あることに思いを馳せた。それは「戦艦大和の水兵さんが何故に死な なければならなかったのか」ということであった。私なりに自問自答を繰り返していた。死を身近に感じるヒマラヤでは死について、また生について、理屈では なく、感覚で感じることができる。 私は彼らのように死を前提に行動していないが、それでも登山や清掃活動に命を賭けるだけの意義を探し出そうとする。 そしてふと気がついたことがある。私と彼らとの決定的な違いがあったのだ。兵士たちは自身の意思とは関係なく戦地に赴かされる。出陣の時には万歳三唱で、 お国の為にと盛大に送り出されたかもしれない。でもいざ、死を目前にすると、どうであれ死にたくないものだと思う。死を正当化し、受け入れる作業はさぞか し孤独であっただろう。それに比べ、自身の意思で命を賭けることができる私は幸せ者ではないか。そう強く感じた夜があった。 「男たちの大和」という映画を見終えて、しばらく渋谷の街をブラブラと歩きながらそんなことを考えていた。すぐに家 に帰りたくない気分だった。町の到る所で、若者たちが道端にだらしなく座り込み、タバコを吹かしながら、なにやらゲラゲラと品のない大声で笑っていた。ナ ンパ(女の子を口説く行為)をしている子もいれば、酔っ払って喧嘩をしている子もいた。その多くが水平さんたちと同じ10代の若者たちだった。 荒んだ夜の渋谷を歩きながら、私はしばしその光景を眺め、戦艦大和のみならず、あの先の大戦で亡くなった多くの 方々に申し訳ない気持ちで一杯になった。彼らは何のために死ななければならなかったのか。彼らが自らの命と引き換えにしてまで守ろうとした日本。これがそ の日本の姿なのかと。とても天国の先人たちにこの光景は見せられないと感じていた。 戦後、日本は欧米に追いつけ追い越せと、懸命に働き、瞬く間に経済大国となった。ただ経済的な成功を手に入れた日本は、その後の羅針盤を見つけられずにいるように思える。 社会がある程度成熟してくると、戦時や戦後の復興といった一種の危機的な状況下のように国民が一丸となって目指すべき共通の目標を見つけることが難しくな る。規制がなくなり、個人の自由の幅が拡大した結果、国も個人も目指すべき方向がわからないというある種、贅沢な病に冒されているように感じる。また社会 の成熟は往々にして「死」を日常から切り離していく。日々、報道番組を通じて陰惨な事件や悲しい事件によって死は伝えられるが、あくまでもそれはメディア を通じたバーチャルなものでしかない。 近年、自ら命を絶つ若者が後を絶たない。特に昨年は10代の子供たちが苛めなどを苦に自殺の連鎖が起こった。自殺に 至るまでの経緯は私には想像もできないような苦悩の連続であったかもしれない。しかし、あえて書かせて頂くと、若くして命を絶つ彼らにどれほど死に対する リアリティがあるのだろうか。私はそこに死のリアリティ、換言すれば日常生活という名の「生」のかけがえのなさというものに対する感覚が欠如していると感 じる。 この春、再びエベレストの山頂を目指した。登山ルート上にはいくつもの遺体が横たわっていた。エベレストは1000 人以上が登っているが、同時に300人以上の方々が命を落としている。1つ判断を間違えればすぐに死の世界が待っている。8000メートルを越えた世界は よく「死の匂い」がすると表現される。最終キャンプ(8300メートル)で山頂アタックをかける直前は「もしかしたらもうこのテントには戻ってこられない かもしれない」と死の恐怖に怯える。しかしこのように死を身近に感じるときこそ逆に「こんなところで死んでたまるか、何が何でも生きるんだ」という強烈な 生への執着が湧き出てくる。 そんな時に、ふと頭を過ぎる光景は決まって日本での日常生活だ。例えば娘の泣き顔であったり、時には愚痴を言う妻であったり、ごくありがちな日常の風景で あるが、人が最後に求めるのはなにも特殊なものではなく「日常」なのだと気づかされる。 だからといって私は現代の若者に死のリアリティを実感するために登山をすすめるわけではないし、それが現実的ではないということも理解している。そうでは なく現代においても死のリアリティ、つまり日常のかけがえのなさ、命のかけがえのなさを感じる事のできる場所があるということを伝えたい。それは靖国神社 にある遊就館である。 私はよく靖国神社の遊就館を訪れる。そこには若くして亡くなられた兵隊さんたちの遺書がある。遺書には、若者が日本 という国のため、家族のため死を受け入れていく心の流れや、家族への感謝、愛がある達観した境地での静けさをもって書かれている。その静けさに私は逆に、 凄まじいまでの生への執着、まだ生きたいという強い想いを感じてしまうのである。 日本での終わりなき日常生活に疲れたとき、私は遊就館を訪れ、彼らの悠久の想いに触れる。すると様々な感情が湧いてくる。日本の国のために亡くなられた先人達の想いに触れるたびに、襟を正されるような気持ちになる。 そして、私も奇跡的に授かったこの命を、日本の国のために、捧げようという気持ちになるのである。私は今、「富士山 から日本を変える」というテーマを自らに課し、日々、活動している。日本の象徴である富士山が汚れている。ゴミの不法投棄や乱開発によって美しい自然が泣 いている。ただ富士山で起きていることは実は日本中で起きているのだ。私は日本の象徴である富士山を変えることによって、日本の自然環境保護に対する考え 方、接し方を変えていき、美しい日本を取り戻していきたい。そして先の大戦で亡くなられた先人達が天国で、少しでもその美しい日本をみて喜んでいただけた らと思うのである。 ...
ロルパ氷河湖での視察を終え帰路は徒歩で。エベレスト街道と大きく異なりロールワリング地方は外国人トレッカーなどの姿はない。年を通してもほんの 一握りの外国人トレッカーが訪れるのみ。したがってエベレスト街道のように豪華なロッジからパン屋さんにバーにイタリアレストランはない。そのかわりシェ ルパ達の本当の?姿がここではみられる。ヤクの放牧の様子であったり、また畑仕事であったり、そして外国人慣れしていない村人は英会話こそできないが、目 が合うと皆ニコニコと笑ってくる。そして我々一行が珍しいのか村人が集まってくる。片言のネパール語で話しかけると「キャーハハハ」と大笑い。みなとても 人懐っこい。 久々の緑に目をうばわれる野口 村の食道を出る野口、ご馳走様でした! おっかない粗末な橋にビビりながら渡る野口 そ してベティン村から約8時間下ってやっとシミガオン村へ。二件ある山小屋が二件とも冬季とあって営業していなかった。すでに夕暮れになっており、さて困っ たぞ!とダワタシ・シェルパが知り合いの家に泊めてほしいと交渉。そしてすぐに宿泊先が決定。村人はみなやさしい。民家にお邪魔することとなり、荷物を降 ろして囲炉裏の横に腰を下ろしたら、家の主の娘がすぐにミルクティーを振る舞ってくれた。目が合うとニコッと、その健気でまたシャイな笑顔にハッと吸い込 まれそうになってしまった。彼女の名前はカンディキ。不意打ちをくらったように、また鳩が豆鉄砲くらったように、おそらく僕は無意識のまま、茫然とその彼 女を見つめ続けていたに違いない。そんな露骨な視線に彼女は少し戸惑っていたのか、僕から目線を逸らしては、またこちらにチラッと目を合わせ、そしてまた 目を逸らす。その繰り返しがしばらく続いた。 シミガオン村でお世話になった民家 カンディキさんのお父さんはガイドとして多くの登山家を山に案内してきたベテランガイド。僕があまりにも娘ばかりを凝視していたので心配したのか、しきり にロルパ氷河湖はどうだったか?などと質問を繰り返してきたがなにを質問されても上の空。 平賀カメラマンも彼は彼でカンディキさんの妹のパリさんばかりに気を取られ、二人して冷静さを失っていたようだ。約 一ヵ月間に及んだヒマラヤの氷河を巡る旅にもうじき幕を閉じようとしてふと気が緩んだのか、彼女達がマキにフウーフウーと息をかけ、火を起こし、ミルク ティーを湧かしてくれている姿にどれだけ癒されたことか。昼間のマオイスト達とは天と地獄の差があった。ベティン村に到着するまでは疲れていたのか平賀カ メラマンと「もうしばらく山はいいよ!」と愚痴っていたのが嘘のように二人してハイテンションになってしまった。やはり女性は神様でしたぁ。 民泊した家の美女に囲まれてハッピーな平賀カメラマン! 夕食後、村人の歓迎を受け、そしてそのまま野外でのダンスパーティーがスタート。 シミガオンの村人から歓迎を受ける よくリズムが分からない現地の歌に合わせて、それでももうリズムなどお構いなし、好き勝手に盆踊りを披露。たらふく 飲まされたチャン(地元のドブログ・地酒)に酔いに酔い、実に気持ちの良いダンスだった。ダンス後、カンディキさんが「私は村の診療所でナース(看護婦) をやっています。咳は大丈夫ですか?」と高所で肺を痛め咳き込んでいる私を気遣ってくれまたまた感動!次回の野口隊には担当医としてカンディキさんが同行 する事になりました!これでヒマラヤでの健康管理もバッチリです。 シミガオン村でのダンスパーティに参加 カンディキちゃんとさらに盛り上がるダンスパーティー ミシガオン村のナース白衣の美女・カンディキちゃんと そしてシミガオン村では2001年のエベレスト清掃活動の時に同行したドルジ・シェルパとも再会できた。彼は1980年の植村直己さんが隊長を務めたエベ レスト冬季登山隊(日本山岳会による登山隊)にクライミング・シェルパとして参加。日本隊員の一人が7300M付近で亡くなり、その時のレスキュー中に手 の指の大半を凍傷にやられ失ってしまった。それでも不屈の精神でその後も第一線でヒマラヤ登山を続けてきたシェルパだ。エベレスト清掃活動でもベテラン・ シェルパとしてリーダーシップを発揮してくれた私の大切な仲間だ。 1980年の冬季エベレスト登山隊に参加し凍傷を負ったドルジ・シェルパさん 彼はよく短くなった指を擦りながら「植村さんは優しかったと言った。私を含め3人のシェルパが凍傷で指を失った。そ の内の一人は指を切断する時の麻酔が原因で死んでしまった。それから植村さんは私たちを支援し続けてくれたんだよ。日本からお金を送ってくれたし、ネパー ルに来た時も必ず私たちに声をかけてくれた。本当に優しいボラサーブ(隊長・旦那さま)でした。だから指を無くしても日本人を恨んではいないよ。本当に優 しかったんだから。それにほら、確かに指は短くなったけれど力は全然衰えてないよ」と僕の手を力強く握ってくれながら、植村直己さんのお話をしてくれる。 その手はとても温かい。僕はそんなドルジさんの手が大好きだ。 翌朝、カンディキさんや家族たち、そしてドルジさん、また多くの村人に別れを告げカトマンズへ向けシンガティー村へ 下ることとなりました。あ~せめてあともう一日だけでも、このシミガオン村で過ごしたかった。別れ際、バイバイと手を振りながら目頭が熱くなっている自分 に「俺もまだまだ若いなぁ~ そう!この感覚!そう、これが大切なんだよ!これが!」と声を掛けまた自身を慰めていました。また、会えるさ! ナマステ! 左から野口、ドルジさん、ダワタシさんと! ...
1月16日、ナワンチクリン・シェルパとダワタシ・シェルパの案内で標高4580㍍にあるロルパ氷河の視察を行った。UNEP(国連環境計画)また ICIMOD(国際総合山岳開発センター)の報告によると5年から10年の間にネパールにある2,323の氷河湖のうち20以上の氷河湖が決壊の恐れがあ ると警告していますが、その中でも特に決壊の危険性があるのが世界最大級のロルパ氷河湖だとのこと。(WWFの報告はさらに深刻でこのままの加速で氷河が 融解し続ければ2035年にはヒマラヤ山脈の氷河の全てが無くなる恐れがあると警告)。 地図でロルパ氷河湖の位置、拡大部 1996年に一度訪れた事があるロルパ氷河。8月の雨季、真只中とあって湖水は湖面にたっぷり。今にも溢れ出しそう で地元のシェルパ達と「これは危ないよ」と話していた記憶がある。ただし、あの頃は気候変動によって氷河が融解し氷河湖が急激に拡大している事実など考え てもみなかった。 ちょうどその頃、北海道大学の元助教授、山田知充先生がヒマラヤの氷河湖(主にイムジャ氷河湖、ロルパ氷河湖)を調査し、氷河湖の拡大や決壊の要因、可能 性などを調べ気候変動によるヒマラヤ氷河の融解、氷河湖の決壊の事実をいち早く世界に示していました。後に在ネパール日本国特命全権大使の伊藤忠一さん (当時)から「私がネパールで大使をやっている時に山田先生から氷河の融解について初めて報告がありました。外務省としてもJICAなどに氷河湖の調査を 依頼しましたが、ネパール政府からの要請がなく、調査以上の事は出来なかった。これからは調査から、具体的な対応策に移る時期ではないでしょうか」とお話 頂きました。ロルパ氷河湖に向かって一歩一歩と歩きながら当時のそんな出来事を1つ1つ思い出していた。あれから12年、当時はまさかこういう形でロルパ 氷河湖やイムジャ氷河湖と関わるなどと考えもしていなかった。分からないものです。 世界最大級の氷河湖「ロルパ」を眺める 水門と右端に駐在員用の山小屋 ロルパ氷河湖を写真に収める ロルパ氷河湖にて そのロルパ氷河湖との再会を果たしましたが、世界銀行の支援で2000年に水門が設置され、また夏の時期には水門の 管理、水位の調査など3名のスタッフが常駐するステーションが建てられていた。その水門によって水位が3㍍下がったとのこと。そのおかげか12年前には溢 れそうだった氷河湖がいまではだいぶ落ち着いている様子に見えた。しかし、ナワンチクリンさんは「今は冬ですから、夏になるとまた水位が上がるのです。水 門1つでは間に合わなくなる。また、氷河が崩れてその氷の塊が氷河湖に落ちてきたら、その勢いで一気にロルパ氷河湖は決壊するでしょう」と懸念していた。 ロルパ氷河湖 また98年にロルパ氷河湖から流れ出るロールワリング川には19カ所に決壊時に村人に知らせる警報機が取り付けられたが、村人の話ではマオイスト(ネパー ル共産党毛沢東主義派・いわゆる共産ゲリラ)が警報器に取り付けられているソーラーパネルの略奪を行っていて起動しないとか。 98年に世界銀行が設置した決壊を知らせる警報機 ロルパ氷河湖の現場でナワンチクリンさんに懸念材料の1つ1つを説明されたが、それでも私の受けた印象では水門によって水位がだいぶコントロールされていた。同じような水門をイムジャ氷河湖に設置できないものだろうか。 ナワンチクリンさんに水門の説明を受ける 立派な水門に関心と驚き 福田総理は1月10日に地球温暖化対策に取り組む開発途上国に協力するため、5年間で総額100億ドル(約1兆 1000億円)規模の支援枠組みを創設する方針を固めた。温暖化防止に臨む日本の意思を世界に示す狙いで、福田総理が通常国会の施政方針演説やスイスの世 界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)での演説で表明する見通しとのこと。日本との政策協議に合意した途上国に対し、円借款や無償資金協力などの政府開 発援助(ODA)を供与する方針です。その枠組みの中に気候変動によるヒマラヤ氷河の融解による氷河湖決壊対策を含めることができないだろうか。 ロルパ氷河湖を眺めながらそんな事を考えていた。その為にはまず必要不可欠なのは伊藤大使がおっしゃっ ていたようにネパール政府サイドの氷河湖問題に対する真剣な姿勢である。例えば海面上昇に苦しむツバルは、2000年9月5日に国連に加盟し、これを機に ツバルは元首自身が国をあげて、海面上昇による自国の危機を世界中にアピールするようになる。具体的には国連総会やドナー国(資金を出してくれそうな 国々)に直接訴えると共に、各国の担当大臣やメジャーな人物を招聘し、アピール大作戦を展開。昨年12月の第1回アジア・太平洋水サミットでも福田総理に 直接訴え、その結果、今年一月に鴨下環境大臣がツバルの視察に出かけている。昨年は石原都知事、一昨年は小池環境大臣(当時)もツバルに出かけている。そ のおかげで日本のマスコミでもツバルの海面上昇に関しては、日々大きく取り上げられ、多くの日本国民もツバルの存在、また海面上昇の被害を認識するように なった。 また2002年には高潮被害などが頻発したことに対して、ツバル政府は、地球温暖化による海面上昇で国土が水没の危機にあるとして、温暖化対策に消極的な 米国、豪州を相手に、国連の司法機関・国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)に訴訟を起こすなど、消極的な国々に対しても積極的に法の効力を最大限活用し世 界に訴え続けている。話題を欠かさないのが最大の武器だ。 それに比べネパール、またブータン含め氷河湖問題を国の最優先課題にしていないところが、最大のネッ ク。昨年、5月下旬にコイララ・ネパール首相に面会した際に「日本政府に氷河湖対策を要請してください」とお願いし、8月になってようやくネパール政府か ら日本政府に正式に要請があった程度だ。マオイストとの内戦に明け暮れ、長年に渡り、総選挙すら行われていないネパール。ネパールでの話題は氷河湖問題よ りも、いつ総選挙が行われるのかといった内政問題に終始。ブータンとて民主化の話ばかり。水サミット以外のあらゆる場でツバルのように世界に訴えて頂きた い。 ロルパ氷河湖の視察を終え、シミガオン村に向って下っている最中にマオイストの集団(5人)と出くわし た。我々一行の元に集まってきたマオイスト。腰には短刀を下げており、一瞬緊張したが、こちらには武器もなく手にしているのはストック。どう頑張っても勝 ち目はないので無駄な抵抗をするつもりもなく、逆に取材させてほしいと依頼したら意外にも了解してくれた。 マオイストのソンゴンさんへのインタビュー マオイストのソンゴンさん リーダ格のソンゴンさん(26才)は「我々はロルパ氷河湖に向かう。氷河湖が決壊すればこのロールワリング地方は壊滅的な打撃を受ける。日本人がロルパ氷 河湖を熱心に調査しているのは知っている。ネパールの為に行っており感謝している。あなたもロルパ氷河湖に訪れたのですね。ありがとう。マオイスト党は国 際社会からテロ集団だと指摘されているがそうではない。国際社会がロルパ氷河湖対策でネパール政府に資金援助をしているが、75%は彼らのポケットに入っ ている。ネパール政府を信用してはいけない。我々、マオイスト党が国際社会と連携して解決したい」とマオイスト集団の口からロルパ氷河湖について語られた のには心底驚いた。マオイストがロルパ氷河湖について語ったインタビューを取ったのはおそらく我々が初めてだろう。 それにしても寝袋もダウンジャケットも持たずに我々に「気をつけて帰ってください」と声をかけてくれたが、彼らこそ大丈夫だったのか心配になった。なにし ろ彼らと別れた翌日から天候が崩れ、山の上部では数か月ぶりの大雪に見舞われたからだ。この日、我々はシミガオン村まで下り、ドッと疲れたのか、私、そし て平賀カメラマンはひどく風邪をこじらせてしまった。しかし、意外にもシミガオン村では癒されることとなった。 ...
*1月14日(ルクラ村~ロルパ氷河湖空撮~ベディン村) エベレスト街道のトレッキング、イムジャ氷河湖の視察を終え、次の目的地ロルパ氷河湖へ、チャータヘリで向 かった。朝からカトマンズは濃い霧に囲まれヘリがルクラ村にやってきたのは午後12時を過ぎたころ。それからヘリに乗り込みロルパ氷河湖があるロールワリ ング地方へ。着陸する前にロルパ氷河湖の空撮をしたいので氷河湖上空を何周かしてほしいとパイロットにお願いしたが、ネパールも燃料代が日本並みに高騰 (1リッター80ルピー(150~160円))しているためか、かなりの高額を要求された。一瞬悩みもしたが、ここまできてケチってはいけない。世界中の 現場を訪れる為に日々日本で仕事をしているんじゃないかと自身を説得。 空撮の様子 ヘリでツォ・ロルパ氷河へ 13時、ルクラ村を離陸。途中、シミガオン村で帰りの燃料タンクを下ろし(重量が重いと5000Mを超える高所までヘリが上がれないため)たが、突然のヘ リ到着に村人が驚き集まってきた。エベレスト街道と違って外国人慣れしていない村人の様子が新鮮でもあった。シミガオン村を飛び立ち、約15分でロルパ氷 河湖が姿を現した。12年前の夏に一度訪れた事があるロルパ氷河湖。夏は氷河が溶けだし水位が溢れんばかりに一杯一杯であったが、今回は冬とあって湖面の 大半が凍りついていた。しかし、それでも世界最大級とあってその巨大さにしばし呆然と眺めてしまった。そして慌ててカメラ撮影を始めた。なにしろパイロッ トが、風が強いからすぐに戻りたいと言い出し、5周ほど飛んでもらえるのかと思いきや2周まで。安全第一、仕方あるまい。 ロルパ氷河湖上空からの撮影 ロルパ氷河湖上空2 ロルパ氷河湖は標高4580㍍。長さ3・5キロ、幅0・5キロ、水深132㍍(朝日新聞報道によると)。約50年前に氷河湖として誕生したとのこと。長年 にわたって私のヒマラヤ登山をサポートしてくれたダワ・タシ・シェルパ(42才)はロルパ氷河湖の下流約10キロにあるベディン村の出身。ダワ・タシがし きりに「イムジャ氷河湖も危ないかもしれないが、私の地元のロルパ氷河湖のほうがもっと危ないよ」と私に訴えていた。氷河湖の空撮を終えベディン村に着 陸。今日はベディン村に宿泊し、ここからは徒歩でロルパ氷河湖を目指す。 久々に地元に戻ってきて喜ぶダワタシ・シェルパ ベディン村ではダワ・タシ・シェルパの従兄にあたるナワン・チクリン・シェルパさん(52才)と合流。ナワンさんはネパール科学技術省からロルパ湖水を中 心にした氷河湖の水位や周辺の氷河の融解の状況、また雨量などの調査を依託され、また、名古屋大学や慶応大学の調査隊にも加わったことがある日本語が達者 なシェルパ族だ。昨年の朝日新聞の「地球異変」特集にも通訳兼ガイドとして取材に参加しているロルパ氷河湖のスペシャリストであると同時にベディン村のお 寺のお坊さんでもある方だ。 ナワン・チクリン・シェルパさん そのナワンさんにロルパ氷河湖の拡大について質問してみた。「私が子どもの頃はとても小さな池だった。子ど ものころはその小さな池の水に写る自分の顔を見て遊んだり、時には泳いだ事もあったなぁ~。しかし、いつからか急激に大きくなりだし、今では決壊の恐怖に 怯えるようになった。氷河湖の決壊が怖くて多くの村人がカトマンズ(ネパールの首都)に移り住んでいる。お金があれば移住もできるが、私たちのような老人 はお金がないからここにいるしかない。村には年寄りばかりが取り残されたよ。 ナワンさんら安全祈願 90年代の半ばにドイツやオランダから援助をしてもらって氷河湖の側面に穴を開けて水を流したがうまくいかなかった。そして2000年には世界銀行の援 助で氷河湖に水門をつけ、水位を5メートル下げようとしたが下がったのは3メートルまでです。まだまだ充分ではない。そして氷河が溶け続けている。このま まだと水位はまた上がるでしょう。今は1つしかない水門を複数にしないと夏は間に合わなくなる。もし、氷河湖が決壊すれば私の村(ベディン)は15分もか からずに洪水に流されてしまうでしょう」と話してくれた。 次になぜロルパ氷河湖が拡大しているのか?と質問をしたら「私はお坊さんです。ラマ教の教えでは人が悪いことをしたら神様が怒って自然災害を起こす。悪い ことしているからロルパ氷河湖が壊れそうなんだ」と答えたので、すかさず「ロールワリング地方の村人はそんなに悪行を重ねているのですか?」とあえて質問 をしてみた。 それに対して「いや、村人ではない。例えば中国人が近くの山の上にアンテナ(携帯電話などの通信用だと思われる)を建てているがあれが良くない。山の上は 神聖な場所だ。1980年には日本人が神様の山であるガウリサンガァール峰(神様の名前)に登った。登頂後、日本隊が帰った後にベディン村の周辺で洪水が 起きたんだよ」とお坊さんとしての意見を聞かせて頂いた。 次にネパール科学技術省にも所属されているナワンさんに「ラマ教の信仰的な意見は伺いましたが、ナワンさんは名古屋大学などの調査隊に加わってみたり、 また科学技術省に所属されています。氷河湖の融解について例えばCO2などの温室効果ガスの排出等が温暖化(気候変動)を招いているとの指摘、また科学的 な根拠をあげる学者の方が多いが、その科学的な根拠についてどう思いますか」と、宗教家であり、また同時に科学技術省といった名称通りに科学的な根拠に基 づく機関に所属する両面を持ち合わせるナワンさんに再度質問を繰り返した。 「う~ん」と困った顔をしながらも、「宗教も大半は正しいが時に間違える。科学も正しいかもしれないが、間違える時もある。宗教も科学も矛盾があるということさ」と、なるほど、なかなかの説得力でした。 明日はベェデイン村とその上流にあるナァー村で取材。そして16日にロルパ氷河湖にたどり着く予定です。 ...
アイランドピークからクムジュン村に降りてきて、村人からエドモンド・ヒラリー卿(88才)が今朝、ニュージランドにてお亡くなりになったと知らさ れ驚きました。クムジュン村とエドモンド・ヒラリー卿の関係は深い。ヒラリー卿は1953年にエベレストに初登頂された後、ヒラリー基金を設立。そして 1961年にクムジュン村にシェルパの子どもたちに教育の機会を与えたいと学校を建設。同時期に診察所をクンデ村に建設。また、伐採によって丸裸にされた ヒマラヤに森をと、植林活動も行ってきました。 クムジュン村でヒラリー卿訃報のニュースに驚く ヒラリー卿が建てたクムジュン村の学校を卒業したシェルパの子どもたちからはパイロット、医者、弁護士、教師、旅行会社経営者など幅広く人材を輩出してきました。そのクムジュン村でヒラリー卿の訃報を知らされた事がなにより印象的な出来事でした。 2003年にエベレスト初登頂50周年のイベントでネパールにいらっしゃったヒラリー卿とお会いした事があります。 その時に「エベレストで清掃活動を行っている、あなたの活動には心から感謝しています」とヒラリー卿からお言葉を頂いた事がつい先日の出来事のように感じ ています。 エベレストに登頂されてからずっと今日までヒマラヤの麓でシェルパの教育や医療、そして植林活動まで活動を続けてい らっしゃったヒラリー卿を私は心から尊敬しています。これはなかなか出来ることではありません。ヒラリー卿の貢献によってシェルパ達の生活は確かに豊かに なりました。どれだけ多くのシェルパ達に夢を与えてきたことか。そしてこれからも。 クムジュンのヒラリー卿が建てた学校 クムジュンにあるヒラリー卿が建てた学校 私がシェルパ基金を設立したのも、マナスル峰山麓のサマガオン村で今春から学校を建てることになったのも、ヒラリー 卿の影響です。ヒラリー卿から頂いたお言葉を胸にこれからもヒマラヤでの活動をしっかりと続けていきたいと心に誓ったクムジュンの夜でした。明日はクム ジュン村のお寺と学校で村人と共にヒラリー卿の御冥福をお祈り致します。 (追伸・アイランドピークに挑戦していたダワ・スティブン・シェルパはその後、アイランドピークの登頂を果たし下 山。ただ、手に軽度の凍傷をおっていた。あの悪天候でよく山頂まで達したものだと感心。「クレイジーな天候だった。死ぬかと思ったよ」とダワのコメント。 若さは凄いものです。) ...
1月9日、チュクンからアイランドピークのハイキャンプを目指したが、強風のためベースキャンプにテントを張ることになった。カラパタールに登頂し たころからレンズ雲や筋雲が目だっていたので、そろそろ天候が崩れるだろうと気にはしていたが、この日は朝から風が強かった。ベースキャンプ入りした時に は強風で歩くのもきつかった。 強風の中、テントを撤収 強風と共に雲がアイランドピーク 10日はベースキャンプから一気に山頂アタックかぁ~とちょっと気が重かったが、天候さえ見方してくれればやれないこともないと寝袋に潜り込んだ。アタッ ク開始は1月10日、午前3時となった。午前2時に起床、すぐにテントから顔を出し夜空を眺めてみたらチュクン方面から黒い霧が音を立てることもなくスー とこちらに流れてくるのが不気味で、かといってその時点でアタックを中止するほど条件も悪くなく、アタックするのか、しないのか正直迷ったが、迷った時は 止めようと決めているので午前5時まで待ってそこで判断しようと待機することとした。 悪天候ゆえに進むか撤退かの議論の様子 韓国隊は午前2時前にはベースキャンプからアタックを開始していた。シェルパのダワ・タシは「アタックしないか」としきり に勧めてきたが、「ピン!」と来ない時にはアタックしないのが私の流儀。午前5時、再び空を眺めたがどす黒い雲がさらにアイランドピーク周辺を覆ってい た。そしてアタック中止を決定。決定してから風がどんどんと強くなり午前7時にはベースキャンプは歩けないほどになっていた。午前8時ごろ、アタックして いた韓国隊の一部の隊員がフラフラになりながら撤退してきた。上部では吹雪になっていたとのこと。危険を感じた彼らはそこから引き返してきたが、それでも 他の韓国隊隊員とシェルパ、そしてダワ・スティブンの合計8人が山頂アタックを続行したとの知らせに驚いた。午前3時にダワ・スティブンに「天候が崩れそ うだからアタックしないほうがいいよ」と伝えていたが、韓国隊とともに山頂に向かっていたのだった。登山は最終的には自身での判断。冒険活動にはいつでも 自己責任が求められるもの。無事を祈るしかない。 我々は午前10時に強風の中、テントを撤収し、撤退。もう一日、待機して11日にアタックの可能性を残そうかとダワ・タシ と話し合ったが、14日にはルクラ村から世界最大級の氷河湖と呼ばれているツォ・ロルパ氷河湖(ロールワリング地方)にチャーターヘリで向かうことになっ ている。アイランドピークに登りたい思いと、ツォ・ロルパ氷河湖を視察しなければならないという気持ちの葛藤。したいことと、しなければならないこと。優 先させるは「しなけらばならないこと」。 砂嵐の中、撤退を決断 エベレストの清掃活動は、しなければならないこと。チベット側からエベレストに登りたいという気持ちが強かったが、清掃活動に目処がたってからにしようと 我慢してきた。そしてやっと昨年の春に念願のチベット側からの登頂を果たした。これは心底したかったことだ。しなければならないことの後に、したかったこ とを実現したので喜びもその分だけ大きかった。 アイランドピークBC周辺からのイムジャ イムジャ氷河湖 とくにヒマラヤの 氷河湖問題はアジア・太平洋サミットで訴えてきた。そして次は洞爺湖サミット。アジア・太平洋水サミットはNPO法人が主催だったので私のような民間人で も運営委員として加われたが、洞爺湖サミットはそうないかない。したがって洞爺湖サミット前までにどれだけ外野で訴えることができるか。その為にはツォ・ ロルパ氷河には是が非でも訪れてみたい。 韓国隊やダワ・スティブンの無事下山を祈りつつ、後ろ髪を引かれながらアイランドピークを背にディンボチェ村まで下った。 ディンボチェ村まで下りホッと一息 ...
午前9時40分、チュクン村目指してディンボチェ村を出発。発つ前にディンボチェ村でいつもお世話になっている「アマダブラムロッジ」の女将さん、 ダワ・ドマさん(50才)にイムジャ氷河湖について質問をしてみた。何故ならばICIMOD(国際総合山岳開発センター・本部はカトマンズ)の発表によれ ばイムジャ氷河湖(5010m)が決壊すれば彼女の住むディンボチェ村は14分後に洪水による土石流に襲われるとのこと。 1960年代にでき、現在は、東京ドーム32個分が すっぽりと入るまでに拡大したイムジャ氷河湖 ディンボチェの女将、ダワ・ドマさんと この度のヒマラヤトレッキングを始める前にカトマンズでICIMODのスタッフであるバシャンタ・シュレスタさん(40 歳)とアジア・太平洋水サミット以来の再会を果たしたが、昨年夏にICIMODが公表したイムジャ氷河湖が決壊した際の被害想定シナリオを説明されそれは 驚くべき結果だった。14分でディンボチェ村、21分後にはパンボチェ村、約一時間後にはルクラ村にまで大量の土石流が流れつくとのこと。 ダ ワ・ドマさんは「ネパールはずっとマオイストとの戦いを繰り返してきた。人々が争ってきたから神様が怒ってイムジャ氷河湖を壊そうとしている。この村には 20年前から住んでいるけれど、10年前から川の水が増えた。タンボチェ村のお坊さんがイムジャ氷河湖の湖畔にお守り(安全祈願)を埋めてくれた。だから まだ決壊していないのかもしれない。ディンボチェ村の多くの人はイムジャ氷河湖が危ないと話をしているけれど、私には正直よく分からない。それに危ないと 分かったとしても私たちはこの村に住むしかない。私にとって一番大切なのはトレッカー(お客さん)が泊まりにきてくれること。もし、イムジャ氷河湖が壊れ てしまえば、このディンボチェ村だけじゃなくて他の村も流されてしまう。そうしたら全てを失う。でもどうしていいか分からない」と話してくれた。 ネパール山岳会会長のアンツェリン・シェルパの長男、ダワ・スティーブン・シェルパさん(23歳)もイムジャ氷河湖の視察 に駆けつけてくれた。ダワさんは「シェルパ達は温暖化に対する正しい知識を持っていない。だから、相次ぐ自然災害は自分たちの行いが悪く神様が怒っている のだと考えている人が多い。ネパールの政府も氷河湖の融解問題には無関心。誰も視察にこない。もし、イムジャ氷河湖が決壊すればエベレスト街道沿いの大半 の村が流されてなくなるでしょう。そうなれば、困るのはシェルパ社会だけじゃない。エベレスト街道というネパール最大の観光地を失う事になる。ネパール経 済に与えるダメージは計り知れない。日本人はヒマラヤの氷河についてこれだけ心配してくれているのに、ネパール政府の動きがない」と訴えていた。ダワさん はICIMODと一緒にイムジャ氷河湖決壊時に村人にいち早く知らせる為の警報器を設置したいと考えている。そして今年の春にICIMODと連携しエベレ ストの清掃活動、イムジャ氷河湖を含め複数の氷河湖の調査を予定している頼もしい若者だ。 モニタニング装置 モニタニング装置 ダワ・スティブン・シェルパさんと クンブの峰々に沈む夕日 エベレスト街道へと続くイムジャ川 イムジャ氷河湖からのローツェシャール 久々に訪れたイムジャ氷河湖に2時間ごとにイムジャ氷河湖を撮影し気温や湿度などを自動観測するモニタニング装置が慶応大学(福井弘道教授・地球環境学)によって設置されていた。また慶応大学以外にも名古屋大学、日本大学、北海道大学がイムジャ氷河湖の調査を行っている。 イムジャ氷河湖からチュクン村に戻ったのは午後5時半。5000mを超えた現場はいつでも厳しい。しかし、この厳しい現場 には多くのメッセージが込められている。アイランドピーク挑戦後は、ルクラ村まで下りチャータヘリで決壊の恐れがある世界最大級の氷河湖「ツォ・ロルパ」 (ロールワリング地方)に飛ぶ。「ツォ・ロルパ」には96年に一度訪れた事がある。あれからどのように変化したか調べてみたい。明日はアイランドピークの ハイキャンプへ。アイランドピーク登頂予定は1月10日。明日からはアイランドピーク登頂に専念したい。 アイランドピーク(6168M) 夕日に染まるクンブの峰々 ...
今日は一日ディンボチェにて休養日。カラパタールに登頂してから一気にディンボチェ村まで降りてきただけあって疲れていたのか、10時過ぎまで熟 睡。起きたら顔がパンパンに浮腫んでいた。それにしてもネパール入りしてからの食欲が凄まじい。日本に居るときの1・5倍以上は食べている自分に呆れてい る。ヒマラヤダイエットしようと思っていたのにこれじゃ痩せないわなぁ。そして癖になったのが激辛のチリ(トウガラシ)。激辛のチリを片手にカレーライス を食べながらチビチビとそのチリをかじる。そしてひっくり返る。額から汗、そして鼻水を垂らしながら、それでもまたかじる。これがまた快感。富士山クラブ の舟津氏もそのネパールチリにはまった一人。舟津氏は「ネパールに来たのだから、ネパールを体感したい」とネパール人同様に一口でチリをかじる。それでい ながら「ギャー」と騒ぐ。変な人でした。 おかげで、朝、昼、夜と三食、毎日チリをかじり続けたおかげで極度の便秘に苦しんでいる私もコーラック(下剤)なしで済む。トイレから出てくる時はお尻が 熱くて熱くて、これがまたなんとも快感! ネパールのチリは食べて熱く、そして出して熱い。37回、ネパールに来ている私も新発見である。便秘に悩んでい る多くの日本人女性たちにネパールのチリをお勧めする。 三食チリと格闘する! これがネパール一辛いチリ! そして午後は洗濯。氷河から流れてくる冷え切った水に手を真っ赤にさせながらゴシゴシと汚れて衣服を洗う。日頃、洗濯機に頼りきった生活を送っている日本人には手洗いは不慣れだ。それに比べてシェルパ達は手早くもみ洗い、それがまた本当に奇麗に汚れがとれていく。 そういえば、何時だったか、何故か「洗濯屋のけんちゃん」(クリーニング屋のけんちゃん、だったかもしれない)とあだ名がついた事があった。それならば と、彼らの洗濯技術を盗もうと一生懸命真似てみたが、いやはや難しかった。結局は「清掃屋のけんちゃん」に落ち着きそうです。 洗濯屋のけんちゃん? ついに私も干されました 半けつシェルパ発見! 明日はチュクン村へ。そして明後日はアイランドピークのハイキャンプ(5500M) へ。登頂予定は1月10日です。 ...