
マッキンリー山頂で、同じく単独登頂だった小西政継さん(右)と |
山に登る人で、小西政継さんの名を知らない人はいないだろう。ユーロッパの3大北壁(グランドジョラス・アイガー・マッターホルン)の、日本人冬季初登頂者である。山岳同志会という戦闘的集団を作り上げ、日本の山岳関係者の頂点に君臨していた人だ。また、世界的にも無敵の記録を作り上げていた。その小西さんが目の前にいる。私はカチンコチンに緊張し、とにかく「申し訳ないです。あの、横にテントを張ってもよろしいでしょうか。あの、本当に申し訳ないです」と、謝る事ではないのに、なぜかしきりに頭を下げていた。テントに入ってからもなぜか落ち着かない。
小西さんは植村直己さんとパートナーを組み、冬のグランドジョラス北壁に登った人だ。そして岩登りの苦手な植村さんに岩登りの特訓をした人だ。植村さんの本の中にも沢山登場してくるからよく知っていた。
最終キャンプはまた地吹雪に包まれた。気が付くと、テントの半分が雪に埋もれてしまい、押しつぷされそうになっている。スコップを持ってテントの外に出て、地吹雪のなか極寒で体が硬直しながらの雪かきは地獄であった。テントに戻り、全身が凍り付きプルプル震えていると、小西さんが口笛を吹きながら私のテントに来た。手にはコーヒを持っている。
「野口君、コーヒー飲む?」と、まるで日本のキャンプ場にでもいるかのように、快適そうな顔をしている。吹雪の中だから髪の毛は凍っているが、なんとも感じないのだろうか。私はここにいるだけで精一杯なのに...。コーヒーが大嫌いな私も、この時ばかりは一滴残らず頂いた。コーヒーを飲みながら小西さんが「植村はこういう極地の山が好きだったな」とつぶやいた。植村さんが眠るこの山に、何を感じているのだろうか。「野口君、一人なら一緒に頂上に行こうよ」「はい、よろしくお願いします」。こう返事をするのが精一杯だった。
翌朝4時、山頂アタックを開始した。ただ、風が強く決して天候は良くない。小西さんが先行し、私は大蔵隊のメンバーの後に続いた。北峰と南峰の鞍部デナリーパス(5560メートル)を越えたあたりから、地吹雪が始まり、途端に視界がなくなる。しかも猛烈な寒さで思考回路までが鈍くなる。
この日の登頂を諦め最終キャンプヘと下り始めたが、あまりにも風が強く歩く事さえなかなかできない。ガリンガリンに凍った斜面を、斜めにトラバースしながら下りるのだが、ふと下を見たら大きなクレバスが口を開いている。ここでスリップしたら、ハイさよならだ。植村さんもこのあたりで遭難したといわれている。
いつしか、大蔵隊のメンバーが視界から消えていた。先に下りてしまったのだ。私は1人、この凍りついた斜面にしがみついていた。怖くて動けない。寒さで手の感覚が無くなっていく。やばい、これはかなりやぱい。と、その時、霧の中から1つ影が現れた。先行していた小西さんが下りてきたのだ。
「いやー野口君、今日はダメダメ、また明日だね」と、またまた余裕たっぷりである。私が動けないのを知ると「野口君、こういう時はね、ピッケルの角度をもっとこうするといいよ」といって、ピッケルをさらに傾け、そして目の前をいとも簡単に通過していった。そのとたんに私の体のカも抜け、そのままスタスタと下りることができてしまった。自分でも驚いた。あれだけ恐怖で固くなっていたのに、小西さんの一声で楽に歩けてしまったのだ。やはり小西さんはただ者ではなかった。
最終キャンプに戻った時には強風も収まっていたが、寒さでほとんど寝れずに翌日を迎えた。6月17日、天候は久々に良い。よし!今度こそ登頂するぞ、と午前5時、最終キャンプを後にした。そして6時間後、私は小西さん、そして大蔵隊と共に憧れのマッキンリーの頂きに立った。辛い挑戦であったが、自分は常に生き生きしていた。生きていること全身で感じた。「お前は死ぬ」と言われながらも、無事に登頂し、生きて帰ってきた。下山後、私の頭の中は既に南極の事でいっぱいであつた。
マッキンリーをやれたんだ。南極もやれる。信念さえあれば、不可能な事はない。本気でそう思った。1つの夢の終りが、新たな夢を生み出す。私は幸せの絶頂の中にいた。
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