マッキンリーに登頂した私の次なる目標は、南極大陸最高峰ビンソン・マシフ(4897メートル)となった。「南極大陸」。この言葉の響きを聞いただけでもゾクゾクと冒険心をくすぐられる。そして、植村さんの最後の夢の大陸でもあった。 植村さんが北極点やグリーンランド横断、北極圏12000キロの旅、といった偉大な冒険を成し遂げたのも、全ては南極大陸への思いからであった。そして念願の南極大陸に足を踏み入れるが、植村さんのサポートをしていたアルゼンチンがイギリスとフォークランド戦争を起こし、その影響で植村さんのサポートは中断された。一度は南極の冒険を諦めたかのように思われたが、冬季マッキンリー単独登頂に成功させる事で、なんとか南極に最後の望みをつなげようとし、そのマッキンリーから帰ることはなかった。植村さんが最後まで思い続けた南極大陸とは...。植村さんを思えば思うほど、私は南極への夢が膨らんでいくのが分かった。
南極行きを決めたが、そうは簡単にはいかない。調べて見るとビンソン山に登るのにざっと400万円はかかる。南極行きを決意した私は、スポンサー活動を始めた。ちょうどその頃、高校時代からの友人、大木崇君から連絡があった。「野口、最近どうしてるんだ」「うん、南極のためにスポンサー活動しようと思っているんだけどね、なかなかよく分からなくてね。まあ頑張るよ」「野口、今度家に来れば。お父さんに相談してみれば...」。 大木君のお父さんの充さんは、ソニー株式会社の広報センター本部長(現在は常務)であった。さっそく、翌週に大木君の自宅に南極遠征の計画書や過去に自分が連載された新聞紀事を持参してお邪魔した。充さんとは英国時代にお会いしたことがあったが、やはりお願い事になると緊張した。それでも一から自分の夢や、どうして山に登り始めたかを時間を忘れて話した。 充さんは、いつまでも続きそうな私の話に嫌な顔もせずジッと耳を傾けていた。そして息切れするかのように私の話が終わると「よく分かった、来週にでも会社に来て下さい。君には可能性がある」とだけ言った。私は思わずははー一っと頭を下げたくなった。 翌週、カチンコチンに緊張しながら五反田のソニービルに足を運んだ。五反田の駅からちょっとした坂道を15分程歩くと道の両サイドにソニーのピルが建っている。たいした距離ではない。それなのに駅からソニーピルまでがどれだげ遠く感じたか。呼吸を整えなければ歩けないほどに緊張していた。マッキンリーでクレバスに落ちた時も怖かったが、この時ばかりは都会なのに生きた心地がしなかった。7大陸最高峰に最年少で登りたいといってもしょせんは私の夢にしか過ぎないのだ。それなのに、人様が一所懸命働いている会社にいって、「私の夢の実現のため、協力してください」と、どんな顔をして言えぱいいのか。そんな事を考えながら五反田の駅からトボトボとソニービルまで歩いた。 会社の受付で「あの、私、亜細亜大学の野口と申しますが、広報センターの大木本部長様とお会いすることになっています」と緊張しながら面会を申し込むと「少々お待ち下さい」と5分程待たされ、大木さんの秘書の橋本明子さんが私を案内してくれた。もちろん、橋本さんとも初対面である。ハンカチで汗を拭ぬぐう私に笑顔で「大木さんからは野口君のお話をよく聞いていますよ」と声をかけてくれた。私はその笑顔に思わず見とれてしまった。それは素晴らしい笑顔だった。気がつけば、いつしか緊張感から解放されていた。いやはや男とはなんて現金なものか...。
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大木さんと一緒に宣伝部部長の河野さんを尋ねた。大木さんは一所懸命、私の事を説明し、最後に「野口君をよろしく」とお願いまでしてくれた。その間、私はジっとしているだけであった。そして河野さんが「分かりました。こちらでやらせて頂きます」と私におっしゃった。実績のない私に協力をしてくれる!まるで夢のような信じられない出来事に嬉しさを飛び越えて、驚きを隠せなかった。 帰り際、大木さんは「君にはスター性を感じる。私は君が必ずやり遂げると信じている」と励ましてくれた。また「けっして無理はしてはいけない。結果は最終的にでればいいんであって、焦っては、成功するものもしなくなる。スポンサ一がついたからといってカんじゃダメだ。南極に行っても、必ず生きて帰ってきなさい」とアドバイスしてくれた。あまりにも暖かい言葉に涙が出そうになった。私はいつでも沢山の人々に支えられている。本当に幸せ者だ。 南極遠征隊には亜細亜大学山岳部の先輩の吉田純二さん、同級生の秋山慎太郎が加わる事になった。吉田さんは。英語力を評価され一芸一能人試で亜大に入学、秋山は私同様に山登りで亜大入りした。南極遠征隊のメンバーは全て一芸一能組となった。それだけでもどこかで仲間意識が芽生える。遠征準備が着々と整う中、私は植村直己さんの奥さんの公子さんを訪れた。マッキンリー登頂後、お付き合いのあった植村冒険記念館の方から紹介して頂いたのである。植村さんの最後の夢であった南極大陸にこれから行ってきますと報告に上がった。公子さんは私に「あの人は一体何だったんだろうね。あれだけ南極に行きたくて苦労したのに、結局行けなくて。あの人は一体何だったんだろうね」と言った。 植村さんは南極のアルゼンチン基地を南極大陸横断のスタートラインとして訪れているが、1982年にぼっ発したフォークランド戦争が影響し、結局基地内から出られないまま帰国している。南極にいながら、何一つ成し得なかった植村さんの無念を公子さんは見届けている。公子さんの言葉を聞きながら、時代の移り変わりで南極に行ける自分の幸運を思い、また、植村さんに申し訳ないと感じた。植村さんの分も頑張らなければ...。 南極大陸へは、南米大陸最南端の町、チリのプンタアレナスからC130という軍用機で飛ぶ。しかし、南極の天候が悪く、田舎町のプンタアレナスに約1週間程足留めを食った。する事もなく、毎日チリのワインを飲んで気持ち良くなっていた。アルゼンチンでもワインをたくさん飲んだが、南米のワインは肉料理に抜群に合う。私は南米のワインがすっかり好きになってしまった。 そんな気の抜けた毎日を送り、「どうせ今日も飛ばないよ」とのんぴりしていたら、突然飛行場から連絡が入った。南極の天候が回復したので、急いで来てほしいと告げられ慌ててパッキングをした。そして慌ただしく我々を乗せたC130が南極へ向けて飛んだ。5時間程飛んだだろうか。ふと小さな窓から下をのぞき込むと、黒々とした海に真っ白い南極大陸が浮かびあがっていた。初めて見た白い大陸、南極はまるでショートケーキのようだった。 内陸に入るにつれ海が遠ざかり、眼下が一面真っ白になると、大陸というよりも雲海の上にいるかのようだった。高度を徐々に下げ著陸態勢に入るが、もちろん滑走路なんかない。エンジン音が変わったと思ったら、突然ドシンと榔体にショックがかかり、そのままガガガガーと跳ねながら着陸した。私は思わず祈ってしまった。何故ならば、プンタアレナスで南極で着陸に失敗してひっくり返った飛行機の写真を見ていたからである。また、1週間程前には小形飛行機が南極半島で墜落し、乗組員全員死亡がした事故が起きたばかりであった。 |
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飛行機から降りると、私は思わずハァーと息を飲んだ。360度、地平線である。近くには何もない。100m程遠くにパトリオットヒルズという民間団体が設けた基地があり、ビンソン・マシフや南極点を目指す冒険家がここに集まる。中には南極点ツアーがあり、ここから、飛行機で極点へと飛ぶ人もいる。とにかく世界中から人が集まってくる。施設は驚くほど立派で、巨大テントにはベットもあり、食堂テントはまるで町のレストランのような料理が毎日並ぶ。大好きな赤ワインもたらふくあり、陽気なヨ一ロッパ人は酔いながら鼻歌を歌っている。緊張感などどこにもありはしない。 我々も外国人達に日本の文化を知ってもらおうと、ちょっとした土俵を作り空き時間に相撲を取った。名付けて「南極場所」。欧米人の大半が相撲を知っており、喜んで参加した。我々には日本人の意地があるから負けられないと必死に応戦したが、海兵隊あがりのような巨大なアメリカ人には勝てない。こちらも必死で、最後は立ち合いの時に手をパンと相手の顔の前で叩く「猫だまし戦法」まで披露したが、やはり勝てなかった。小兵の舞の海関の気持ちが痛いほど分かった。相撲は大きければ強いというものでもないと力説したばかりに格好が悪かった。 数日間この基地に滞在し、南極の地に体を慣らした。極端に乾燥しているせいか寒さがそれ程応えない。この基地からビンソン・マシフのBCまでは小型機で移動するが、小型機が次弟に山間部に近付いていくとジワジワと緊張感に包まれた。2時間程飛んだのだろうか。パイロットが「あれがビンソンだ」と指をさした。山岳地帯の中でひときわ大きくそびえている。美しい、これが私の第一印象だ。ヒマラヤのようなゴツゴツとした迫力や厳しさはないが、その分だけ汚れを知らない、なだらかな真っ白い頂きに女性的な優しさすら感じた。私はすっかりビンソン・マソフに惚れこんでいた。 小型機がテント数張りのBCに無事着陸し、その日のうちにC1へと向かう。英国人ガイドのスティーブが(半強制的に)同行してくれる事となった。事故防止のためにガイドを付けてほしいと、我々を南極まで運んだ民間会社に説得されたのだ。私達がよほど頼りなく見えたのだろう。 そしてここBCからは、あのマッキンリーでも泣かされたそりを使用する。私はまだマッキンリーでそりの経験があるからいいが、秋山や吉田さんは初めてだ。なかなか歩行のスピードが上がらず、皆が奴隷のような気分を味わう。南極の氷河はあまりにも広く、距離感がつかめない。何時間歩いても、何も景色が変わらない。チリでワインをたらふく飲んでいたことも影響したのかもしれない。体がやたらと重い。6時間程歩いたとき、ガイドのスティーブンが「今日はそろそろこのあたりにテントを張ろう」というので時計を見たら、すでに夕方になっている。そうか、南極の夏は太陽が沈まないから夕方でも明るいのだ。私はスティーブンに言われるまでは、まだ午後の2~3時頃かと思っていた。それにしても初日は皆が疲れ、ぐっすりと眠った。 翌朝、6時に起床し、C2を目指した。今日もまた、ひたすら氷河を歩く。目標物がない場所を先頭で歩くのは精神的にもクタクタとなる。一体いつまで歩けば目的地に到着するのかさえ検討もつかない。そんな時、突然我々が歩いている雪面がピシーッと大きな音を立てた。私は全身の血が凍りついた。瞬間的にマッキンリーでクレバスに落ちたことが頭を過ぎた。ただ、南極はマッキンリーよりも湿度が低い為、クレバスに雪が被さっていてもなかなか崩れない。我々はヒドンクレパスであろう雪面の上を、触れてはいけないもののようにそっと歩く。生きた心地がしない。ただ、この緊張感からか、疲れが吹き飛ぴスピ一ドがあがる。 この日は予定よりも2時間程早く目的地に到着。ここC2までは山登りというよりも、極地特有の平地をひたすら歩くコースだ。しかし,C2からは急な斜面が始まり、いよいよ本格的な登山が開始する。今のところ、天気はよい。このままいけば、あと2日間もあれば山頂にたてる。そんな、お気楽ムードが漂い始めていた。 |
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そしてC3へ向かう日の朝がやってきた。ダラダラと歩いてきたここ数日間と違い、今日からは滑落という危険な要素が加わる。気を引き締め、午前7時にC2を出発。もちろん、皆がロ一プで繋がり、一歩一歩慎重に登る。そして今日からはそりをデポし、可能なだけザックに詰め込んだため、背中の荷が40キロは越えた。南極の寒冷地にいながら、汗が額を滴り落ちる。 歩いていると、突然ローブがビーンと引っ張られた。後ろを振り返ると秋山の姿が見えない。あれっと見ていると、真っ青な秋山の顔がクレパスの中から這い上がってきた。その時の秋山の顔は、まるでこの世のものではないという有り様だった。彼にとっては、始めてのクレパス落下だったのだ。ロープで繋ぎ合っているので、さほど危険はないが、場合によっては他の人までがクレパスに引きずりこまれるケースもある。我々は秋山のクレパス落下でより一層、登山に集中した。 歩き始めて6時間後、C3に到着。その頃、ガスが沸き始め、次第に天候が怪しくなっていった。明日、天候さえ許せば山頂アタックなのだが...。 夕食を摂り、そろそろ寝ようかという時、ついに恐れていたブリザードが我々のテントを襲った。テントを横殴りの強風が叩き、今にもふっ飛ぶそうな程、パタパタとテントが騒ぐ。トイレのため、テントのジッパーを開けようものならぱ、たちまちテント内に雪が吹き込んでくる。気が付けば、テントの半分が雪に埋まり、テント生地が雪の重みで裂けそうになっていた。じゃんけんで負けた人がテントの外に出て、スコップで掘り起こさなければならない。寝ている場合ではなかった。この段階で明日の山頂アタックはなくなった。 信じられないことに、このブリザードが延々と3日間は続いた。狭いテントの中に3日間も閉じ込められれば、心底うんざりする。秋山とも吉出さんとも、会話すらしたくなくなる。ちょっとした事でもイライラしてくる。食事の食べ方一つとっても気にしだすときりがなくなる。そして最も怖かったのが、食料が底をつき始めた事だ。途中から一日一食になった。いつまでブリザードが続くか分からない。もし1週間も続けば、確実に食べ物も燃料もなくなる。そして不安の中で迎えた4日目、突然カラっと晴れ渡り、慌ててアタックを開始した。しかし、相変わらず風が強く、歩行は困難であった。 秋山と吉田さんはオーバブーツを履いていなかったため、しきりに足が痛む、凍(し)みると嘆いている。あまりの寒さで顔も歪む。口の回りが冷え過ぎて動かなくなり、話すにも口がかじかんで動かない。山頂は遥か遠くに見える。この強風の中、果たして山頂までたどり着けるのか。不安であったが、ここまできたらやるしかない。南極などそう来れるものではないのだ。 山頂直下の稜線に出た途端、体が強風のため数メートル飛んだ。そこからはまるではうようにして山頂を目指し、アタックを開始してから約6時間、念願の山頂を足の下にした。皆で声を掛け合うが、かじかんだ口からは言葉がなかなかでない。山頂からの景色は360度、真っ白な大陸であった。南極ならではの景色であったが、寒さのあまり冷静に景色など眺められなかった。 山頂では植村さんの本を埋めようと思い、荷物にいれていたがそんな余裕はなかった。代わりにビンソン・マシフのBCにこっそりと埋めた。この南極が終われば、いずれチョモランマ(エベレスト)に行かねばならない。いつまでも精神的にこの植村さんの本に頼っていたら、私などは世界最高峰で通用しないだろう。自分に厳しくするため、後ろ髪を引かれる思いで停学時代から常に行動を共にしてきた本を埋めた。そして、南極で私が書いた日記の最後のぺ一ジにこう書き加えた。 「植村さん、エベレストは何がなんでも登ります」と。 |
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