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寝袋支援プロジェクト , 東日本大震災

寝袋支援プロジェクト~再び被災地へ、そして次に見えてきたものは~

寝袋支援プロジェクト , 東日本大震災

2011/04/07

寝袋支援プロジェクト~再び被災地へ、そして次に見えてきたものは~

4月2日、再び被災地へと向かった。今回の訪問先は岩手県山田町陸前高田
市、気仙沼市。主な支援物資は寝袋が1376個(中国から800個、アメリカから
256個、フランスから50個、そして日本中から270個)。

気仙沼市では大規模な火災も発生。_800
 気仙沼市では大規模な火災も発生

 また前回3月23日に訪れた広田小学校(陸前高田市)の鈴木真紀子先生から
「ランドセルがあれば」との事でしたので、マナスル基金で集めたランドセル200個のうち100個を被災地に届ける事になった。
ヒマラヤ・マナスル峰の麓に学校を作ってきましたが、そのヒマラヤの子ども達に
日本のランドセルを贈ろうと長野県小諸市の子どもたちが200個のランドセルを
集めて寄付してくれていたのだ。この春のヒマラヤ遠征時に持っていく予定であっ
たランドセル。そこから100個を被災地へ。そして広田小学校には60個。残りの
40個は次のタイミングで他の地域に届ける予定。それ以外にもマフラー・文庫本・
漫画本・文房具・女性用下着・発電機・嗜好品など。富士山クラブからは富士山の天然水も。

津波の破壊力は凄まじい_800
 津波の破壊力は凄まじい

 10トントラック1台、4トントラック1台、ハイエース2台、エスティマ1台に支援物資を積み込み被災地の現場へと向かった。また各車両に予備用のガソリンタンクを積んだ。
何しろ被災地では極度のガソリン不足。その貴重なガソリンを我々が使うわけにはいかない。(東北道に関しては給油可)

 4月2日、午前11時東京発。途中、仮眠をとり4月3日午前3時半に紫波SAで芹澤小諸市長、富士山クラブの舟津さん達と合流。支援物資を運ぶトラックは前回同様に小諸市が提供してくださった。小諸市で環境大使を務めている関係から小諸市がバックアップしてくださったのだが、今回は芹澤市長も同行してくださった。
 何しろ、東京からも遠いのに、小諸市となればさらに遠い。それでも芹澤市長は「私も現場に行く」と、市長も現場主義。午前7時、岩手県山田町役場に到着しましたが、町役場の前はまるで戦争などで空襲を受けた跡のようだ。一面が焼け野原状態。2度目の現場入りに再び声を失う。津波が押し寄せた後、石油のコンビナートが破壊され町中に海水が混じった石油が。そして引火。

 山田町役場前。辺り一面が焼け野原となっていた。_800
 山田町役場前。辺り一面が焼け野原になっていた。

長野県小諸市の芹澤市長と。山田町役場にて_800
 長野県小諸市の芹澤市長と。山田町役場にて

 山田町、沼崎喜一町長は「私も家を失いましたが、弱音を吐くわけにはいかない」と自らが被災者でありながらも陣頭指揮を執っておられた。職員の多くも役場に寝泊まりし表情からは明らかに疲労感が伝わってきた。被災者のケアと同様に市町村の職員、または消防、自衛官などのケアも必要なのだろうと感じていた。彼らが倒れてしまっては元も子もない。特に長期戦となるこの大震災。サポートする側のケアも大切だ。

役場に宿泊している職員も寒くて寝られないとの声もあったので、寝袋600個を避難所用に。そして200個を町役場へ提供。町役場の方々は「私達はいいんですよ」と話されていたけれど、彼らに託されている役割、責任、そしてプレッシャーがどれだけ大きい事か。悲しみや怒りのやり場のない方々の感情が時に職員に向けられる事もあるだろう。せめて寝る時ぐらい少しでも暖かい夜を迎えてほしいと願っていた。

お寺の屋根だろうか_800 
 お寺の屋根だろうか・・・ 

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瓦礫の中にアルバムが_800
 がれきの中にアルバムが・・・

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 町役場を後にした我々一行が次に向かったのは山田高校。
 前回、陸前高田市に支援物資を届けた際、私のツイッターに山田高校の関係者から「山田にも寝袋を届けてください」とメールが入り、「今回は無理ですが次回は必ず届けます」と約束していただけに山田高校に到着した時には少しだけホッとしていた。
 車から寝袋以外の支援物資も下し、次の目的地である陸前高田市へ向かう準備に入った時に山田高校の先生から「もし可能でしたら避難所の人たちに声をかけてくれませんか」とお願いされた。私は正直、ドキっとしてしまった。なんて声をかけていいものか、分からなかった。
 何しろ、失ったものがあまりにも大きすぎる避難所の方々。家を失い、家族を失い、仕事も何もかも。なんて声をかけていいのだろうか、私には自信がなかった。頭が真っ白になったまま700人以上が生活している山田高校の体育館へ。

 しかし、体育館に入った次の瞬間に被災者の方々から拍手が沸いた。そして目が合うと笑顔も。私がイメージしていた避難所とは大きく違っていた。私の肩からスーと力が抜けていくのが分かった。

  そしてマイクを取りお話させて頂きましたが、私が一番使いたくなかった表現は「頑張ってください」だった。あの極限状態の中で生活していることが既に頑張っているのだ。頑張っている人にどうして「頑張って」と言えるのだろうか。「頑張って」という言葉は時に人を追い詰めることにならないだろうか。気が付いたら「皆さんはもうじゅうぶん頑張っています。あまり我慢しないで」と話していた。

 「頑張る」よりも「踏ん張る」。ツイッター上で見つけた言葉ですが、なるほどこちらの表現の方が正しい気がする。

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子ども達の笑顔に逆に元気をもらった_800
 子ども達の笑顔に逆に元気をもらった

この後も合計7か所の避難所を回りましたが、どの避難所でも共通していたのが支援物資を届けた際に「私達も大変ですが、もっと大変な人たちもいますから。私たちだけ頂くのは申し訳なくて。
そちらの方たちにも分けてください」といった譲り合いの言葉であった。

 海外メディアではこうような状況を「ほかの被災国でしばしば噴出する怒りやいらだちはほとんどない」(AP通信)「被災者は自分たちが置かれた状況を『我慢』という言葉で表現した」(米誌タイムズ)「ほかの国の大災害では殺し合いや略奪が起きるのに、日本人は避難所や商店で順番待ちの列を作っている」(タイのインターネットブログ)「日本人は例え親族が亡くなったとしても泣き叫んだりしない。我々が世界各地の被災地で見てきたものと違う光景だった」(中国の国際救急隊医務官)と報じ日本人の被災者のモラルを称賛している。

 確かに報じられた通り。世界の人々が驚くのも無理はない。しかし、あまり我慢ばかりしてほしくない。もっと「こうしてほしい」「あれが必要だ」と言ってほしい。我慢がばかりが先行すれば心のダメージに繋がる。時に我がままになることだって必要だ。

 避難所では一人でも多くの方々と直接お話しがしたかった。しかし、なかなかの移動距離で一カ所にゆっくりと滞在する時間がなかったが、それでも何人かの方々とお話が出来た。

 ある60代の男性は「野口さん、不思議なのです。私はサービス業をやっていて、お店も家も、お客さんも流されてしまった。何一つ、残っていないんですよ。でも不思議な事に悲しくないんですよ。まだ夢のような感じなのかもしれませんが。何だと思いますか、この不思議な気持ちは」と。私には答えられなかった。しかし、答えられなくてもいい。彼らの声を聞くことに意味があると思えた。私は被災にあった当事者ではい。理屈ならまだしも、「感覚的に当事者の気持ちになれるのか」と言われればそれは無理だ。当事者にしか分からない世界がある。しかし、少しでも近付く努力は必要だ。

 中学生の女の子たちはニコニコしながらも「自分の時間がほしい」と話した。50代の女性は「寝られないんです。寒かったり、音が気になって」と。また他の女性は申し訳なさそうに「耳栓とアイマスクがあれば・・・」と。それはそうだ。プライベートのない避難所では耳栓は必需品だろうし、比較的に暖かい昼間に寝たくても明るくては寝付きも悪いだろう。登山生活においても私は必ず耳栓とアイマスクを持っていく。なぜ、そこに気がつかなかったのだろうか。次回は耳栓にアイマスクだ。

 こうして様々な声を聞いた。この声は繋がる。

 山田高校を後にし、次は陸前高田市へ。前回訪れた広田小学校へ。ランドセル60個と子ども用の運動靴100足に文房具に玩具を届けた。ちょうど学校にはランドセルを失った子どもやこの4月からの新一年生がいたのでその場でランドセルを手渡した。恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはしゃぐその子の表情に、逆に我々が元気や勇気を頂いた。

 広田小学校にランドセルと届ける_800
 広田小学校にランドセルを届ける 

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 陸前高田市のセンターには寝袋約200個を届け最後の目的地である気仙沼へ。海岸線の45号線が繋がっていれば近いのだが、津波で所々が寸断され内陸側を走らなければならず時間がかかる。

 15時40分、気仙沼市役所着。寝袋300個をトラックから降ろし気仙沼市の菅原茂   市長と面会。震災時の様子、状況を事細かくお話頂いた。「野口さん、ご覧になって分かると思いますが、津波の被害は100か0なのです。津波が押し寄せ場所は津波で破壊された後に火災で壊滅的です。津波の被害がない所はほとんど無傷です。地震の揺れ自体ではほとんど被害がなかったのです」と菅原市長。

 気仙沼市も山田町同様に広範囲にわたって火災が発生したのだ。市内入口では燃えた車の残骸の後ろに陸に打ち上げられたままのタンカーの姿が。町に横たわるタンカーの姿が全てを物語っていた。

 震災後、私はずっと気になっていた事がありました。それは気仙沼市在住の畠山重篤さん。10年前にある表彰式で一緒になり、それがきっかけで畠山さんの著書を読んでみたり。畠山さんは牡蠣やホタテの養殖業を営んでいますが、ユニークなのが牡蠣の養殖に適している場所とは淡水と海水の交わっている所とのことで、20年前から豊かな海を取り戻そうと広葉樹の植林活動「森は海の恋人」を展開。美味しい牡蠣作りのための森作り。ご著書には「森は海の恋人」「漁師さんの森作り」「森が消えれば海も死ぬ」など森と海の繋がりを訴えている。

 その畠山さんは無事だったのか、震災後ネットで情報を探している内に無事を確認。そしてテレビニュースで畠山さんが「もう一回やりますよ!」と宣言している姿に「会いたい」と気仙沼市役所を後にしてから畠山さん宅を目指した。畠山さんが住んでいる集落の住宅地の大半が津波に流され場所によっては瓦礫すら残されず砂浜のようになっていた。確か4件しか残らなかったとか。その内の一軒が畠山さん宅。海から20メートルほどの崖の上にあり、しかし、津波が襲ってきた時には玄関の1メートル手前まで波が迫ってきたそうだ。

 その畠山さんと再会したら「お久しぶりです。牡蠣は100パーセントやられてね。全滅ですよ。でもね、海は生き生きしているんですよ。多くの方が犠牲になった津波だけれどね、海の状態はいいんです。津波によって海底に溜まっていたものが流された。津波とはそういうものです。2年あれば復活できます。私たちには海しかないんですから。海があれば大丈夫なんですよ。野口さん、2年待ってください。必ず美味しい牡蠣を東京に届けますから」と畠山さんは確信に満ちた表情で私にそう語った。この津波で母親を失った畠山さん。しかし畠山さんはどこまでも前向きであった。

牡蠣の養殖を行っている畠山重篤さんと再会_800
 牡蠣の養殖をしている畠山重篤さんと再会

 畠山さん同様に多くの漁師の方々が船や養殖所を失った。廃業を考えている漁師さんも多いのだそうだ。漁業の復活抜きに三陸地域の復活はない。再建を宣言する畠山さんの表情を眺めながら、畠山さんの復活は三陸地域の漁業全体の復活に繋がると感じていた。

 全ての漁師を一気に救済することは現実的に不可能だ。そこで復興のシンボル的な存在が必要となってくる。私はその方が畠山さんだと思う。長年による幅広い活動、メッセージ性、リーダシップ、発信力に影響力のどれをとっても。

 2度目の被災地訪問はこうして無事に終了し東京に戻ってきましたが、車中では運転しながらも次のテーマを考えていた。私に出来る事とはなにか。着実に意味のあることとはなにか。支援物資を届ける事もあれば、その次のステップとして子ども達の心のケア、または漁師さん達の復活に向けての何か、その「何か」は「何だろう」とずっと考えていました。そして私なりのアイディアも浮かんだ。そのアイディアをどのようにして形にしていくのか、更に考えを深めていきたい。もう間もなく私はエベレストへ向かいます。ヒマラヤでの生活は考える時間がたっぷりとある。

 2度目の被災地入りでは希望の芽を確かに感じた。人々の表情からは、時に笑顔、そして時に闘志が見えた。東北の方々の強さ、そして優しさ。被災地の方々は過酷な状況の中で必死に生きている。

 それなのに私たちが下を向いて落ち込んでいる場合じゃない。自粛の連鎖が続いているが、過剰な自粛モードは社会を暗く停滞させる。我々が元気やエネルギーを失ったらどうして被災地へサポートが出来るのか。正直、私自身「エベレスト清掃活動どころじゃない」と気持ちが切れかけたけれど、私には私にしか出来ない事もある。人にはそれぞれ与えられた役割がある。その役割の中で生きていくもの。その上で被災地、被災者の方々と向き合っていきたい。

 この度の「野口健・寝袋支援プロジェクト」では本当に多くの方々からご協力、ご寄付を頂きました。大阪の鼓動館さんも嗜好品を集めてくださった、富士山クラブは富士山の天然水を、そして小諸市はトラックの手配だけでなく芹澤市長自らも現地入り、中国など海外の企業からも寝袋の提供、そしてその救援物資を中国から無償で運んでくださったANAさん、皆さん、本当に有難うございました。深く深くお礼申しあげます。

 6月、無事にエベレストから帰国し、再び三陸の地で新たな活動を開始したい。

2011年4月7日 野口健

 PS 野口健・寝袋支援プロジェクトで届けられた支援物資の一覧など近々に報告書を作成しブログ・ホームページにてご紹介させて頂きます

東日本大震災に関して1 「私に出来ること~被災地に寝袋を届ける!~」
東日本大震災に関して2 「陸前高田市へ~寝袋を届けて~」

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