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東日本大震災

福島第一原発、20キロ圏内の世界

東日本大震災

2011/07/30

福島第一原発、20キロ圏内の世界

2番目 防護服に身を包み。
防護服に身を包む。

6月20日、早朝、私は高邑勉議員(民主党・衆院議員)と福島原発20キロ圏内(警戒区域)に向かった。高邑議員とは以前から遺骨収集活動でご縁があり、エベレストから帰国後に再会した際に「野口さん、20キロ圏内に取り残されている家畜が政府の方針により殺処分されている。私は何度も現場に通っていますが、あの動物達の鳴き声が耳から離れないんです。何とか助けたい。殺さずに生かしていく方法があるはずです」と訴えていた。

震災後、何度か被災地入りしたものの、私が訪れたのは三陸地域(陸前高田市、気仙沼市、山田町など)であり、福島ではない。同じ被災地でも三陸地域と福島とでは被害の内容が大きく異なる。震災後(4月10日から)、エベレスト登山のためにしばらく日本を離れたが、エベレストにいながらも気持ちは日本にあった。

私が訪れた被災地は今どうなっているのだろうか?そして原発事故が起きた福島県は?エベレストに挑戦中の欧米人登山家からも「ケン、フクシマはどうなった?」と質問攻め。しかし、日本を離れ分からない事だらけ。聞かれても答えられる筈もなく、しかし気がつけば「日本は大丈夫」とそれだけを答えていた。しかし、日が経つにつれ日本から「実はメルトダウンしていた」との衝撃的な知らせがエベレストに届いた。高校時代、欧州で生活していた時に起きたチェルノブイリ原発事故。まさか自分の国で・・・。一体全体、フクシマでは何が起きているのだろうかと、エベレストの空を仰いでいた。

1番目 左から高邑勉議員、桜井勝延・南相馬市長
左から高邑勉議員、桜井勝延・南相馬市長

そして帰国後に再会した高邑氏から知らされた20キロ圏内の世界。高邑氏は原発事故後から今日までほぼ毎週、福島県の被災地に通い続けている。高邑氏の故郷である山口県上関町に建設が予定されている上関原発について考えてみたいと思ったのがきっかけとのこと。しかし、気が付いてみたら既に48日、福島に通い続けていた。その高邑氏が「野口さんの言う、見る事は知ること。そして知る事は背負うこと。その言葉の通り、私は20キロ圏内で見てしまった。そして背負ってしまったのです。だから何が出来るのだろうかと現場に通い続けているのです」と私にお話しくださった次の瞬間、「高邑さん、私も同行させてください」とお願いしていた。

20キロ圏内は警戒区域内。勝手には入れない。南相馬市から許可を頂き6月20日、現場へと向かったのである。防護服に身を包み、警察官の検問を受け20キロ圏内へ。まず向かったのが豚舎。豚舎の入口に車を止め、降車したその瞬間にツーンとした臭い。豚舎から数十メートル離れているにも関わらずこの異臭。豚舎のドアを開けようとしたがしばらく誰も開けていなかったのか、簡単には開かなかった。ギギギと音を立てながら開いたドア。中は薄暗くそして目が沁みるような強烈な腐敗臭。中を歩くとプチプチと音がする。足元を見ると地面は一面がウジ。そのウジを踏みつぶしながら歩いていたのだ。

3番目 豚の死骸だらけの豚舎の中

豚の死骸だらけの豚舎の中

4番目 ウジだらけの豚の死骸

ウジだらけの豚の死骸

6番目 驚いたのは豚舎の檻の中に生きている豚がいた事だ。

驚いたのは豚舎の檻の中に生きている豚がいた事だ。

そして檻の中へと目線を移すとそこは豚の死骸の山。顔面がウジだらけの豚や肉の間から肋骨などの骨が露出している豚の遺体が。多くの豚は餓死していたが、それでも生き延びている豚たちもいた。3カ月間、水も食糧も与えられずにそれでも生存してきたのは、豚が豚の死骸を食べていたからだ。糞尿にまみれ、また腐敗しドロドロになったウジだらけの死骸を食べている豚の姿に、吐き気に襲われ豚舎から出て胃液を吐きだしていた。腐敗臭が身体に染みつき臭いが離れようとしない。ここはまるで戦場だ。生き延びている豚たちがジッと我々を見つめてくる。言葉は発しないが、しかし彼らの寂しげな眼差しが「助けてほしい」と私たちに訴えかけているようだった。檻から放すわけでもなく、かといって殺処分するわけでもない。彼らが餓死するまで放置される。死を迎えるその瞬間までまさに生き地獄。なんとかならないものかと、ただただ呆然とし、言葉を失っていた。

5番目 まるで虐殺現場のようだった

まるで虐殺現場のようだった

7番目 餓死していた牛たち(牛舎の中にて)
餓死していた牛たち(牛舎の中にて)

そして次に向かったのが牛舎。やはり豚舎と同じで何頭もの牛が首を固定されたまま餓死し横たわっていた。乳牛は餌を与えられる時には首を固定されるのだそうだ。そのままの状態で人は避難し身動きとれないまま死んでいった牛たち。彼らの亡骸があまりに無残でありその表情から無念さが伝わってきた。あの状況の中、人が緊急的に避難しなければならなかったのは当たり前の事。家族同然に育ててきた牧場主の気持ちを思うとあまりにも切なかった。

8番目 首を固定されたまま餓死死していた乳牛
首を固定されたまま餓死死していた乳牛

9番目
10番目
 痩せこけた牛が一頭、ポツンと牛舎の中で・・・何を待っているのだろうか?

牛舎を後にし、再び車移動中、豚舎や牛舎から脱走、または放されていた牛や豚を発見。車を降りたら何頭もの豚や牛達が集まってくるではないか。彼らは人間に飼われてきた動物だ。ひょっとすると人間が恋しかったのかもしれない。また餌が欲しかったのかもしれない。豚たちはシッポをプルプルと振りながら、また牛たちは我々一行を囲み頭を擦りつけてきた。まるで虐殺現場のような豚舎、牛舎から出てきた直後とあって、彼らの生きている姿に「生きていてくれた!よく生きていたな」と声を上げた。

11番目 牛に囲まれて
牛に囲まれて


しかし、政府は5月12日に殺処分の方針を決定。農林水産省によれば「原発が収束しても出荷できない」が理由とのこと。

それが目の前で現実の事になるとは・・・。再び次の現場へと車に乗り込み複数の牧場を視察した後、先程、豚たちと出会った広場の横を車で移動していたら防護服に身を包んだ何十人もの人たちが豚を囲み用意された囲いの中に入れていた。話を聞きにいったらこれから殺処分が始まるとのこと。つい先ほど、彼らと出会い、生きている彼らに感謝していたにも関わらず今まさに殺処分が始まろうとしていたのだ。豚を囲むのを手伝いながらも心の中で「逃げてほしい」と叫んでいた。

12番目 
豚舎から逃げ出し生き延びていた豚たち。しかしこの数時間後には・・・。

最近ではこの「殺処分」という表現を「安楽死」に変えているとのこと。しかし、いくら表現を変えようとも同じ事だ。殺処分される豚を眺めながら人間とはつくづく勝手な生き物だと、本当に申し訳ない気持ちで胸が押しつぶされそうになった。

震災前、この警戒地域内には牛は約3500頭、豚は約3万頭いたが、しかし5月の調査では牛が1300頭、豚が200頭と餓死によって減少していた。そして生き残った動物達を今度は殺処分。

確かに家畜の多くはそもそも論として食用として殺されていく運命だ。しかし、その死と殺処分の死とでは意味が違う。命のために命を頂いている。それが食べるという行為だ。しかし、あまりにも安易な殺処分は命を命として扱っていないような気がしてならない。家畜の命を物としか扱えなくなってしまったら、その考え方はいずれ同じ人間に向かっていくことになるだろうと、そんな事を感じながら現場を後にした。

今まで様々な現場に訪れてきたが、この現場は特に辛かった。正直、気持ちが折れかけた。しかし、気持が折れてもそこに意味はない。嘆いている時間とエネルギーがあるのならば、何かをしたほうがいい。

高邑氏は20キロ圏内の世界を最も知っている政治家だろう。脱原発解散が噂され多くの議員は週末になれば選挙対策の為に地元に戻っている。そんな中、高邑氏はほとんど地元に帰る事もなくこの20キロ圏内へと向かう。このような政治家がいる事を一人でも多くの人に知ってほしい。

つい先日、高邑勉氏と「ファーム・サンクチュアリ~希望の牧場~プロジェクト」について語り合った。警戒区域内の中で生き残った牛たちをどのようにして飼育していくのか。既に学者や研究者からも「被爆した家畜の成長過程などを調査したい」と声が上がっている。未だ政府は殺処分の方針を変えていないが、ならば民間の力でどこまでやれるのか、高邑氏や地元の酪農家の方々、そして学者、研究者の方々と意見交換を行いながらアクションを起こしていきたい。

2011年7月29日 野口健

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